夢のようなアルバイト 作:倉羅
「せっちゃんは何種類くらいケーキを作れるの?」
葉瑠が目を輝かせて問いかけると、潤は少し照れたように微笑んだ。
「そうですね……レシピさえあれば、基本的には何でも作れますよ」
「すごーい!」
無邪気に喜ぶ葉瑠の傍らで、玲唖がホッと胸をなでおろす。
「良かった、心配したよ」
「玲唖お嬢様! ご心配をおかけして申し訳ありません」
深く頭を下げる潤に、玲唖は優しく言葉を添えた。
「大丈夫。でも、あまり無理はしないでね」
そこへ、静かに沙矢が姿を現した。
「夕食の準備が整いました」
「ありがとうございます、沙矢さん。綾芽にも伝えていただけますか?」
「かしこまりました」
玲唖の号令で、一行は食堂へと移動する。広々とした食卓に葉瑠と玲唖が腰を下ろすと、玲唖が当然のように潤へ視線を向けた。
「潤くんも座って一緒に食べようよ」
「いえ、私は……」
「食べないのー?」
葉瑠の純粋な疑問に、潤は少しだけ茶目っ気を含んだ笑みを浮かべて答える。
「お嬢様方の美味しそうに召し上がる姿を見ていたいので」
「……っ///」
予想外の言葉に、二人は顔を赤らめて沈黙してしまった。
和やかな空気が流れる中、報告に戻ってきた沙矢の言葉がその場を冷やす。
「綾芽お嬢様は、召し上がらないとのことです」
「……やっぱり、さっきのことを気にしてるのかな」
玲唖の呟きを聞くや否や、潤の表情が引き締まった。
「ちょっと、綾芽お嬢様のところへ行ってきます!」
背後で止める声も聞かず、潤は廊下を駆け抜けた。胸中にあるのは、自分への不甲斐なさだ。
(俺のせいで食事が喉を通らないんだとしたら……放っておけるわけがない)
綾芽の部屋の前で息を整え、ノックを刻む。
「さっきから騒がしいな。……入れ」
許可を得てドアを開けると、そこにはひどく疲れ切った様子の綾芽がいた。
「またお前か」
「何度もすみません。夕食、召し上がらないのですか?」
「あぁ、私は寝る。お前のせいで疲れた」
突き放すような言葉に、潤は深々と頭を下げたまま動かなくなった。
綾芽は溜息をつき、背を向けてベッドに潜り込む。
(……静かになった。さすがに出ていったか)
ようやく一人になれたと安堵し、寝返りを打った瞬間。綾芽の視界に、まだその場に立ち尽くしている潤の姿が飛び込んできた。
「わぁっ!? お前、まだいたのか!」
「本当に……申し訳ございませんでした……」
視界の隅で、新入りの執事はこれ以上ないほど肩を落とし、目に見えて落ち込んでいる。そのあまりの凹みぶりに、毒気を抜かれたのは綾芽の方だった。これではどちらが被害者かわからない。
(……チッ、何だかこっちが悪者みたいじゃないか)
妙な罪悪感に絆された綾芽は、ぶっきらぼうに枕元から声をかけた。
「……来い、新入り」
「あ、はいっ!」
現金なほど明るい返事が返ってくる。二人の奇妙な距離感は、ここから少しずつ形を変えようとしていた。
綾芽お嬢様の後を静かに追う。背筋を伸ばして歩く彼女の背中は、どこか近寄りがたい気品に満ちていた。
「なぁ」
「はい、何でしょう?」
「お前はいつまでここでバイトするんだ?」
ふとした問いかけに、俺は少し考えてから答えた。
「そうですねぇ……、お嬢様方が私を『使えない』と判断されたら、そこまででしょうね」
「ふっ、今もどうかな」
「えっ!」
意地悪く目を細める彼女に、心臓が跳ねる。だが、彼女はすぐに口角を上げた。
「まぁ、今後に期待するさ。だから頑張れ」
「が、頑張ります……っ!」
思わぬ激励に顔が熱くなる。一人で舞い上がっている間に、お嬢様は目の前のドアを開けて中へと入っていった。
「あ、お待ちください」
室内では、すでに他の姉妹たちが寛いでいた。
「綾姉だぁ!」
「綾芽、大丈夫?」
「あぁ。沙矢、いつもの頼む」
「かしこまりました」
葉月お嬢様と玲唖お嬢様が迎える中、綾芽お嬢様は迷わず沙矢さんに指示を出す。……『いつもの』って、何だろう。
「それにしても、沙矢さんに呼ばれても来ないで潤くんに呼ばれてくるなんて。もしかして綾芽……フフッ♪」
「寝言は寝て言え」
「潤く~ん! 綾芽がお姉ちゃんに向かって酷い事言ったぁー!」
「ダメですよ~、綾芽お嬢様~」
玲唖お嬢様の甘えた声に、つい口を挟んでしまう。すると、綾芽お嬢様の鋭い視線が俺を射抜いた。
「へー、私に刃向かうか……」
「綾芽お嬢様、玲唖お嬢様、本当にすみませんでした!」
慌てて頭を下げる俺の横で、玲唖お嬢様が「潤くん悪くないよ!?」と笑っている。
「こら、食べる前に寝るな」
「ほぇ?」
居眠りしかけた葉瑠お嬢様を綾芽お嬢様が嗜めていると、沙矢さんがトレイを持って戻ってきた。
「お待たせしました」
「ご苦労」
「何ですか、それは……?」
差し出されたのは、不気味なほど鮮やかな「赤」に染まったグラスだった。
「飲んでみれば」
促されるまま、俺は真っ赤な液体にストローを沈めた。恐る恐る口に含む。
「あ、トマトジュースですか?」
「そうだ覚えとけ。私はトマトジュースが大好物なんだ」
その意外すぎる好みに、俺は目を丸くした。
「黄泉(よみ)お嬢様もトマトジュースがお好きでしたよね」
沙矢さんの言葉に、聞き慣れない名前が混じる。
「黄泉……お嬢様?」
「そうだ! 潤くんに黄泉さんのこと言ってなかったね!」
「黄泉お嬢様は月島家の親戚の方で、家庭の事情によりこの屋敷にお住まいになられています」
「そうなのですか。それで今は……?」
「黄泉姉は今旅行中だよーっ!」
葉瑠お嬢様が元気よく教えてくれる。さらには、秋彦という名の執事もいるのだという。新しい出会いに思いを馳せていると、ふと視界の端で綾芽お嬢様が手を伸ばした。
彼女がストローに口を付けようとするのを見て、俺は思わず叫んでいた。
「あ、ダメですよ! 私の口が付いたストローですよ!?」
「お前、そんなことも気にしてるのか?」
顔が焼けるように熱い。
「だ、だって! お嬢様方に比べて私はバイ菌ですよ!」
口走ってから、自分のあまりの情けなさに消えたくなった。玲唖お嬢様が楽しげに「ふふっ♪」と微笑む。
――チュッ。
「あっ!!」
「あまり飲むなよー」
「潤くんと間接キスしちゃったー♪」
悪戯っぽく微笑む玲唖お嬢様に翻弄され、俺の思考は真っ白に弾け飛んだ。
「お待たせしました」
そこへ、シェフたちが銀のプレートを運んでくる。賑やかで少し毒のある、晩餐の幕が上がった。