夢のようなアルバイト 作:倉羅
時計の針は、午後8時57分を刻んでいた。
賑やかな晩餐を終え、会話に花を咲かせているうちに、時刻はもうすぐ9時になろうとしている。
「もう9時か、上がってもいいぞ」
「はい、失礼します!」
「もう時間かぁ」
葉瑠お嬢様の寂しげな呟きに、不覚にも胸が熱くなる。
「また明日来ますよ」
「よし、送ってってあげる!」
「あたしも送ってあげるー♪」
二人が立ち上がろうとするのを、俺は慌てて制した。
「だめですよ、こんな時間に外に出たら危険です」
「そうです。万が一お嬢様方に何かあったら大変なので、私が送ります」
沙矢さんの静かな、しかし有無を言わせぬ言葉に、お嬢様たちはしぶしぶといった様子で頷いた。
「じゃあ沙矢さんお願いします!」
「お任せください」
「送りたかったなぁ~」
葉瑠お嬢様と玲唖お嬢様の残念そうな姿に、俺は少し照れくさくなりながら微笑んだ。
「お気持ちだけでも凄く嬉しいですよ。……では、失礼しました!」
夜の静寂に包まれた屋敷の外へと、俺と沙矢さんは歩みを進めた。
月明かりが照らす夜道を、二人並んで歩いていく。規則正しい靴音だけが響く中、沙矢さんがふと口を開いた。
「ちょっと質問いいですか?」
「あ、はい?」
「その頬……どうしたのです?」
鋭い指摘に、俺はこれまでの経緯を正直に打ち明けた。
「え、綾芽お嬢様は許してくれたのですか?」
「一応……許してもらえたかと」
「そうですか、良かったです。失礼ですが、よく綾芽お嬢様からクビにされませんでしたね」
「た、確かに……」
「もしかしたら、お気に召されているのかもしれませんね」
沙矢さんは、いたずらっぽく、それでいて優しく微笑んだ。
「まさかぁ」
「猪瀬くんは、女の子に好かれそうなタイプって感じがしますからね」
「そんなことないですよ!……あ、ここが私の家です」
「意外と近いんですね」
「はい。でも、わざわざ送っていただいて本当にありがとうございます」
「いえいえ。私も猪瀬くんとお話をしたかったので」
「え……っ」
動揺する俺を置き去りにして、彼女はふわりと微笑んだ。
「ふふっ、また明日」
遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、俺は拳を握りしめた。
「……よっしゃ、これからもどんどん頑張ろう」
家に入り、風呂で一日の疲れを流した俺は、明日への期待を抱きながら深い眠りへと落ちていった。
月島家での執事アルバイトを始めて、早くも一週間が過ぎた。
屋敷の広さや作法にも大分慣れてきた気がする。
特に変わった事件はないけれど、次女の綾芽お嬢様が俺を信頼してくれるようになったのか、過去に起きた出来事などを少しずつ話してくれるようになったのは嬉しい変化だ。
大学の講義を終え、いつものように屋敷のインターホンを押す。出迎えてくれたのは、メイドの沙矢さんだ。
「お疲れ様でした、疲れてませんか?」
「大丈夫ですよー!」
「そうですか、では今日も頑張りましょう。今日は特にする事無いので、猪瀬くんの好きにお掃除やお嬢様のお相手をしてあげて下さい。では、私は用があるので失礼します」
「わかりました!」
さて、今日は何をしようか。
玄関を見渡し、まずは靴でも磨いておくことに決めた。
道具を揃えて没頭すること、約十分。
「ガチャ!!」
突然、勢いよくドアが開いた。
「うぉ! びっくりした……」
熱気と共に飛び込んできたのは、夏服の制服に身を包んだ末っ子、葉瑠お嬢様だった。
「あちちぃ……」
首筋を仰ぐ彼女を見て、へぇ、とお嬢様の学校の制服を観察する。ワイシャツが涼しげな水色なのが特徴的だ。
「せっちゃんん~♪」
「こんにちは、葉瑠お嬢様」
「こんにちはー! あ、汗かいたからお風呂入ってくる! 待っててね!」
「かしこまりました」
葉瑠お嬢様は風のように階段を駆け上がり、自分の部屋へと消えていった。
ふと見送った背中、汗で薄く透けた生地の向こうに下着のラインが見えてしまい、俺は慌てて顔を伏せる。
「どこ見てるんだ俺は……」
邪念を振り払うように、彼女が今脱いだばかりのローファーを丁寧に磨き始める。
ふと、素朴な疑問が頭をよぎった。
これほど天真爛漫で危なっかしいお嬢様に、なぜボディガードが付いていないのだろうか。
「よっし、靴磨き完了」
道具を片付け、次は何をしようかと考えた、その時だった。
「だーれだっ♪」
背後から伸びてきた柔らかな両手に、視界を塞がれた。
鼻腔をくすぐる、瑞々しいシャンプーの香り。そしてこのほんわかとした声。
当てるまでもない。
「葉瑠お嬢様ですか?」
「ばれちゃった~」
ふふ、と楽しげに手が離れる。
振り返った僕は、言葉を失った。
「可愛らし……ッ!!?///」
そこにいたのは、お風呂上がり、バスタオルを体に巻いただけの葉瑠お嬢様だったのだ。
湯気を含んだ白い肌が、目に眩しすぎる。
「だ、ダメですよ! 風邪引いてしまいますよ!///」
「だって暑いんだもんー、部屋まで連れて行ってくれたら服着るよー」
潤んだ瞳で見つめられ、僕は観念して頷いた。
「……わかりました!///」
ヒョイッ!!
「わっ///」
「申し訳ありません、多少我慢してくださいね!///」
意を決して、その華奢な体を横抱きにする。
まさか、自分がお嬢様をお姫様抱っこすることになるなんて。
腕の中に伝わる柔らかな体温と重みに、心臓の音がうるさいほど高鳴る。
これは、執事として……いや、男として、重罪に違いない。