夢のようなアルバイト 作:倉羅
「……月島家のご両親についてですが」
沙矢さんの声のトーンが、ふっと一段低くなった。窓から差し込む夕闇が、彼女の横顔に深い影を落とす。
「はい」
「……昨年、殺害されました」
さらりと告げられたその言葉は、あまりに重く、非現実的だった。
「去年……ですか」
「はい。ですから、お嬢様方の前では、お父様とお母様のお話は絶対に振らないでください。……いいですね?」
彼女の瞳に宿る切実な光に、俺はただ圧倒されながら「……わかりました」と頷くことしかできなかった。
――バタン!!
「っ!?」
静寂を切り裂く派手な音に、俺と沙矢さんの肩が同時に跳ね上がる。勢いよく扉を押し開けて現れたのは、綾芽お嬢様だった。
「沙矢、風呂に入るぞ……」
言いかけて、彼女は俺の存在に気づくと、不機嫌そうに眉を寄せた。
「……綾芽お嬢様」
「何」
冷ややかな視線が突き刺さる。その威圧感に、俺は慌てて頭を下げた。
「いえ、申し訳ありません。お邪魔いたしました」
「……ふん。行くぞ、沙矢」
綾芽お嬢様は釈然としない様子で鼻を鳴らすと、さっさと踵を返した。沙矢さんは困ったように、けれどどこか申し訳なさそうに俺を見つめる。
「はい……。では、そういうことですので。残りの雑談のようなお話は、また明日伺いますね」
「わかりました」
「では、お気をつけてお帰りください」
沙矢さんは丁寧にお辞儀をすると、急かすように待つ綾芽お嬢様の後を追って、奥の扉へと消えていった。
一人残されたロビーで、俺は先ほど聞いた「欠落」の事実を噛みしめていた。この屋敷の華やかさの裏側に潜む深い闇。執事として足を踏み入れる覚悟が、改めて問われている気がした。
「明日から頑張ろっと!」
潤は自分に喝を入れるように呟くと、軽やかな足取りで玄関へ向かった。
しかし、彼が勢いよくドアノブを回した、その瞬間だった。
——サーッ……。
「あ!」
空気の揺らぎか、あるいは物理的な衝撃か。ドアの開放と同時に、傍らに置かれていた花瓶が吸い込まれるように滑り出した。潤が慌てて手を伸ばしたものの、指先は虚しく空を切る。
パリン!!
無慈悲な破砕音が、静かなエントランスに鋭く響き渡った。
「やべっ……」
潤が真っ青になったのとほぼ同時に、背後のドアが乱暴に跳ね上がった。
「猪瀬! 何をやっている!」
現れたのは、厳しい表情を浮かべた哲也だった。その威圧感に、潤の背中に冷たい汗が伝わる。
「すみません! つい……」
「ついではない! この花瓶にどれほどの価値があると思っているんだ!」
逃げ場のない怒声が潤を射抜く。縮こまって謝ることしかできない彼のもとへ、新たな足音が近づいてきた。
バタン、と重厚な扉が開く。
「何の騒ぎ?」
凛とした声の主は、この屋敷の令嬢、玲唖だった。
「はっ……猪瀬がこの花瓶を割りまして」
哲也が恭しく状況を説明すると、潤は消え入りそうな声で「すみません……」と繰り返した。
玲唖は無言のまま、ゆっくりと潤の元へ歩み寄る。彼女の視線が、床に散らばった破片へと注がれた。
「……この花瓶かな?」
「はい」
哲也の答えを聞くと、玲唖は静かに、だが拒絶を許さないトーンで告げた。
「後は私から注意しておきます。哲也さんは下がってください」
「……かしこまりました」
哲也は一礼すると、複雑な表情を残したまま奥へと消えていった。
静まり返った空間に、潤と玲唖、二人だけの時間が流れ始める。