夢のようなアルバイト 作:倉羅
「……っ」
潤は、自分の不甲斐なさに耐えかねるように深く俯いていた。視線の先には、かつての形を失い、無残な破片へと成り果てた芸術品。床に落ちたその欠片は、冷たく、そして鋭く光っている。
そんな彼の絶望を払拭するように、玲唖は屈み込み、下から覗き込むようにして花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「潤く~ん?」
「本当に……すみませんでした……」
消え入るような声で、潤は絞り出す。しかし、玲唖の声に険しさはない。
「気にしなくても大丈夫よ。花瓶を一つ割ったくらいで、あんなに怒鳴る哲也さんの方がおかしいよ」
「ですが……これ、相当高価なものだと伺いました」
「大丈夫よ、心配しないで」
潤は拳を握りしめ、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……すみません。働いて、必ずお返しします。いつか、絶対に」
「これからは気を付けてくれればそれで良いのよ」
慈愛に満ちた玲唖の言葉が、潤の荒んだ心に染み渡っていく。なんて優しい人なのだろう。自分のような至らぬ使用人に、これほどまでの慈悲をかけてくれるなんて。
「玲唖お嬢様……っ」
潤の瞳が、じわりと熱いものに潤み始めた。
「潤くん、泣きそうよ?」
そう言って楽しげに笑う玲唖だが、その頬は微かに赤らんでいた。潤の純粋な反応に、彼女もまた密かな愛おしさを感じずにはいられない。
「本当に、ありがとうございます……! 玲唖お嬢様たちにご迷惑をかけないよう、精一杯頑張ります!」
潤が潤んだ瞳を輝かせながら決意を伝えると、玲唖は優しく、それでいてどこか甘く頷いた。
「ええ、期待しているわ。わからないことがあったら、何でも私に聞いてくださいね?」
「はいっ!」
主従の絆が、割れた花瓶の代償以上に、より深く、より危うく結ばれた瞬間だった。
「では、失礼します。今日は本当に……ありがとうございました!」
深く一礼し、潤は辞去の挨拶を告げた。割った花瓶のショックを抱えつつも、玲唖の慈悲深さに救われた思いで、足取りはどこか落ち着かない。
「潤くんのお家、ここから近いの?」
背後からかけられた玲唖の弾んだ声に、潤は足を止めた。
「はい。歩いて五分ほどの場所です」
「じゃあ、送っていってあげる♪」
「……えっ?」
潤の思考が一瞬、停止する。名家・月島家の令嬢が、一介の使用人を自宅まで送り届ける? あまりに常識外れな提案に、潤の背中に冷や汗が流れた。
「いやいやいや! 滅相もありません! 外はもう真っ暗ですよ。まだ八時とはいえ、不用心すぎます!」
「大丈夫よ、そんなの。気にしすぎ!」
玲唖は事もなげに笑うが、潤は必死に食い下がる。
「ダメですよ! 玲唖お嬢様は月島家の大切な身の上なんです。いつ、どこで不逞な輩に攫われるか分からないんですよ!?」
潤の必死の形相。それを見た玲唖は、ふい、と拗ねたように頬を膨らませた。そして、悪戯っぽく、しかし抗えない響きを込めて、あの一言を口にする。
「……花瓶~……」
「ギクッ」
潤の心臓が跳ねた。弱みを握られた、という明確な自覚が彼を硬直させる。
「ふふっ。決まりね。さあ、潤くんのお家に向けて、レッツゴー!」
勝利を確信した玲唖は、上機嫌に歩き出そうとする。慌てて潤がその後を追った。
「ま、待ってください! せめて沙矢さんか哲也さんに一言伝えておきましょう? 騒ぎになりますって!」
「いいのいいの。あとでメッセージ送っておくから」
「は、はぁ……」
潤の肩がガックリと落ちる。
夜風に当たりながら、彼は心の中で自分を呪った。
(うぅ……あの花瓶さえ割らなければ、こんなことには……!)
街灯の下、意気揚々と歩く玲唖の影と、その後ろを申し訳なさそうについていく潤の影が、夜の道に長く伸びていた。