夢のようなアルバイト 作:倉羅
鼻歌まじりに、夜道を軽やかに進む令嬢――玲唖お嬢様。
その無防備で愛らしい後ろ姿に、尾行(といっても護衛のつもりだが)していた俺、潤は思わず心の声が漏れた。
「可愛いなぁ……っ」
その瞬間、玲唖が「!!?」と鋭く反応し、こちらを振り返る。
やべっ! 俺は心臓をバクバクさせながら、反射的に電柱の影へと身を隠した。
「気のせい……かしら」
彼女が再び前を向いたとき、最悪のタイミングで「それ」は現れた。
「おうおう~、お姉ちゃん!」
「あ……」
街灯の少ない暗がりに、酒の臭いをプンプンさせた酔っ払いの男が立ちふさがる。玲唖は引きつった笑顔で、なんとかその場をやり過ごそうと試みた。
「こ、こんばんは……失礼します」
「こんな人気のねえ所を一人で歩いてるってこたぁ……そういうことだろぉ? んん~?」
「い、嫌です!」
男の卑俗な言葉に、玲唖の声が震える。距離があるせいで会話の細部までは聞こえないが、不穏な空気だけは痛いほど伝わってきた。玲唖が男の脇をすり抜けようとした、その時だ。
「ガシッ!」と、男の汚い手が彼女の腕を力任せに掴んだ。
「少しくらい、させてくれてもいいじゃねぇか……ハァハァ……」
「やっ! 離してください!」
悲鳴に近い拒絶の声。それを聞いた瞬間、俺の頭の中で何かがブチ切れた。
「あんにゃろう……っ!」
隠れていた電柱を蹴り飛ばすような勢いで、俺はアスファルトを蹴った。
全力疾走。思考よりも先に体が動く。
「おらあああぁぁ!」
加速を乗せた渾身のドロップキックが、男の脇腹に深々と突き刺さった。
「ぐはっ!!」
男は無様に地面を転がっていく。突然の乱入者に、玲唖は呆然と立ち尽くしていた。
「ぐぅ……お、お前……誰だ……」
地面を這いながら男が呻く。
誰だ、と言われても困る。正式な執事として認められているわけでもない、ただのしがない使用人見習いだ。だが、ここで引くわけにはいかない。
焦りと高揚感で、俺の口から飛び出したのは最低で最悪な「言い訳」だった。
「この姉ちゃんは……今から俺が食うんだよ! さっさと消えな!」
(……何言ってんだ俺はー!?)
内心で猛烈なセルフツッコミを入れるが、もう遅い。
あまりの剣幕と支離滅裂な台詞に恐怖を感じたのか、酔っ払いは千鳥足で夜の闇へと逃げ去っていった。
静まり返った夜道に、俺の荒い息遣いだけが響いている。
隣には、顔を真っ赤に(あるいは真っ青に?)して固まっている玲唖お嬢様。
……俺の執事人生、始まったばかりで終わったかもしれない。
「潤……くん?」
不意に名を呼ばれ、潤は弾かれたように我に返った。
「あ、すみません!」
呆然と立ち尽くしていた自分を恥じ、慌てて取り繕おうとしたその瞬間。潤の視界から景色が消え、柔らかな温もりがその胸に飛び込んできた。
「へはっ……!?///」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。潤の腕の中にいたのは、あろうことか玲唖お嬢様だったのだ。彼を抱きしめるその細い腕に力がこもる。
「れ、玲唖お嬢様……?」
戸惑いながらも問いかけると、潤の胸元から震える声と、小さな啜り泣きが聞こえてきた。
「グスッ……グスッ、ヒック……」
「お嬢様……」
潤はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、彼女の心が落ち着くまで、その場に立ち尽くしたまま。震える背中を、壊れ物に触れるような手つきで、優しく、トントンと叩き続けた。
十分ほど経っただろうか。ようやく顔を上げた玲唖の瞳は、涙で少し赤くなっていた。
「潤くん、ごめんね……」
「何で謝るんですか? 汗」
「迷惑、かけちゃったから」
玲唖が伏せ目がちに呟くと、潤は困ったように笑って首を振った。
「一応、今日からお嬢様方の執事なんですから。迷惑なんて、いくらでもかけてください! それに、俺の方がよっぽど迷惑をかけてますし……」
「そんなことないよ。私を守ってくれたんだから」
真っ直ぐに自分を見つめる玲唖の言葉に、潤は気恥ずかしさと喜びを隠しきれず、顔を赤らめた。
「あ、ありがとうございます!!」
その後、一人にするのが心配だった潤は、玲唖を屋敷まで送り届けた。夜の道を二人で歩く時間は、先ほどまでの緊迫感が嘘のように穏やかに流れていく。
「ありがとうね♪」
「いえいえ」
屋敷の門前に着くと、玲唖は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「潤くんを送った意味、なくなっちゃったね。汗」
「でも、楽しかったですよ!」
潤が本心を伝えると、玲唖はパッと表情を明るくした。
「そっかぁ! あ、そうだ!」
「はい?」
「連絡先頂戴っ」
思いがけない申し出に、潤の心臓が大きく跳ね上がる。
「い、良いのですか!?///」
「もちろん!」
潤の頭の中は、一瞬で歓喜の渦に包まれた。執事として仕える初日に、お嬢様との直接の連絡先を交換できるなんて、夢にも思わなかった。
夜の静寂の中、二つの端末が静かに情報を交わす。
玲唖と連絡先を交換し終えた潤は、足取りも軽く、心地よい余韻に浸りながら家路へと就くのだった。