「誰にでもミスはある、気にしなさんな」
澪はいつの間にか、見慣れた元の姿へと戻っていた。先ほどまでの緊迫した空気はどこへやら、彼女の周りにはいつも通りの穏やかな時間が流れている。
「いやー……あれ外すかなぁ……」
対照的に、陽は自分の失態を悔やむように項垂れた。絶対の自信があったはずの狙いが、あえなく空を切った。その感触がまだ右手に重く残っている。
「風が強かったり、たまたま何かの拍子で狙いがズレただけよ」
慰めるような澪の声も、今の陽には届かない。
「……」
沈黙を破ったのは、陽のポケットで震えるスマートフォンの着信音だった。
「……おう」
『ハァ……ハァ……お前んちで少し休んでも良いか? 走りすぎて死にそう』
電話の向こうからは、今にも事切れそうな義宗の荒い息遣いが聞こえてくる。
「良いよー」
『今から向か……ゲホッ……』
『大丈夫ですか?』
背後から里奈の心配そうな声が混じり、通話は途切れた。
「義宗、死にそうだった」
「やられたの?」
陽の報告に、澪が不思議そうに小首をかしげる。
「いや、走りすぎて」
「ほんと体力無いわねー」
「ははは……」
それから間もなくして、玄関のチャイムが鳴った。澪がドアを開けると、そこには案の定、精根尽き果てた様子の義宗が立っていた。
「大丈夫か?」
「あぁぁ疲れたぁあぁ」
「里奈は息一つも上がってないじゃない、情け無いわねー」
涼しい顔をしている里奈と、幽霊のように青白い義宗。その対照的な姿に、澪は容赦ない言葉を投げかける。
「本当だな。澪、今度ジム行こうぜ」
「私がルームランナーになってあげるわよ」
「なるほどそりゃあ良い」
軽口を叩く義宗を、陽が冷ややかな目で見つめた。
「死ぬぞ」
「?」
義宗が首を傾げる横で、澪は心外そうに唇を尖らせる。
「何よ失礼ねー、そういう悪戯するのは陽だけよー」
「悪戯というか、殺しに来てたろ……」
「ふっふー」
楽しげに笑う澪の様子を見て、義宗が興味深そうに尋ねた。
「何されたんだ?」
「陽が運動にハマってた時期があったのよ。それに私も一肌脱ごうと思って、ルームランナーに変身してあげたの」
「ほう」
「まぁ最初は良かったんだ、だけどある日にいつも通りルームランナーで走ってたら、澪が退屈って言い出したんだ。そしたらスピードを急に上げやがって……」
陽は、今も消えずに残っている唇の傷痕を、そっと指でなぞった。
「うわーこえー……」
義宗が心底恐縮したように声を漏らした。語られた凄絶な記憶に、背筋を凍らせているようだ。
「それで出来た傷痕だったのですね」
里奈が納得したように頷き、慈しむような視線を送る。向けられた陽は、当時の感覚を思い出したのか、少しだけ目を細めた。
「痛かったなぁ……」
「……悪かったわよ」
ぼそりと、バツが悪そうに澪が口を開く。その横顔には珍しく殊勝な色が浮かんでいた。
「ふふ、何だかんだでその時は澪も焦ってたよな。焦ってる澪、初めて見たよ」
茶化すように笑いながら、陽はその手を伸ばして澪の頭を優しく撫でる。
「……チッ」
澪は忌々しそうに舌打ちをしたが、その手を振り払うことはしなかった。
「仲良いな。よし、そろそろ帰るか」
二人の様子を微笑ましく眺めていた義宗が、区切りをつけるように腰を上げた。
「はい♪」
「もう帰るのか?」
「おう、お前らのイチャイチャタイムを邪魔しちゃ悪いからな」
「いやいやいや……」
慌てて否定する言葉を、義宗は快活な笑い声で遮る。
「ははは、まぁそれは冗談として、これからちょっと用事があるのさ」
「明日は宜しくお願い致します」
里奈が丁寧にお辞儀をすると、澪は頼もしげに胸を張った。
「任せなさい」
夜の冷気が入り込む玄関先まで、二人を見送るために外へ出る。義宗と里奈の背中は、やがて深い暗闇の中へと消えていった。
「明日はどこに行くのかしらね」
隣に立つ澪が、夜空を見上げながらポツリと呟く。
「んー……、食べ歩きとか?」
「へー、良いわね」
弾んだその声を聞いて、陽はふと思いついた提案を口にする。
「俺等も今度、箱根とかそこら辺で食べ歩きするか」
「さんせー」
二人の意見が一致したところで、夜風の冷たさが肌に刺した。
「寒いな……」
どちらからともなく足早になり、二人は温もりの残る家の中へと、そそくさと戻っていった。