午後九時十四分。
「……」
湯船に浸かりながら、陽は先ほど起きた出来事を反芻していた。立ち上る湯気の向こうに、納得のいかない光景が何度も浮かんでくる。
「……はぁー」
重い溜息が、密閉された浴室に響いた。
風もなかった。それにあんな至近距離だったというのに。
なぜ、外れたのか。
「ねぇ、大丈夫?」
考え込んでいた意識を、脱衣所から響く澪の声が引き戻した。
「何がー?」
「一時間以上経っても出てこないから、死んでるのかと思ったわ」
「あ、あぁごめん。もう出る」
壁の時計を見れば、いつの間にかそれほどの時間が過ぎていた。陽は思考を切り上げ、風呂から上がることにした。
午後九時三十二分。
「寝てたの?」
髪を乾かしている陽に、澪が怪訝そうな視線を向ける。
「んや、起きてたよ?」
「ふぅん」
どこか上の空な様子を訝しんでいるのだろう。陽は少し調子を戻して問いかけた。
「心配だった?」
「心配すると思う?」
素っ気なく、けれど拒絶ではない言葉が返ってくる。
「……いや、何でもない」
「私もお風呂入ってくるわね」
「おう」
タオルを手に、澪は入れ替わりで浴室へと向かう。陽はその後ろ姿を見送りながら、再び静寂の中に思考を沈ませていった。
午後九時四十二分。
湿り気を帯びた空気の中に、規則正しい水音だけが響いていた。湯気の中に佇む澪は、手際よくその白い肌を洗い流していく。
「澪、ボディーソープ足りる?」
脱衣所から陽が声をかけた。その日常的な響きに、澪は短く応じる。
「えぇ、丁度切れたから明日入れてくれる?」
「わかった」
短い会話の後、泡を綺麗に流し終えた彼女が湯船に足をかけようとした、その時だった。澪の動きが止まる。視線は向けないまま、低く、冷徹な声が空間を射抜いた。
「……いつまで見てるつもり、変態」
「あら、気付かれていましたか」
応じる声と共に、風呂場の照明がふっと命を失った。闇が支配する空間に、場違いなコートを纏った男が音もなく姿を現す。
「いやぁー素晴らしいボディなので見惚れてしまいました」
下卑た視線を隠そうともしない男に対し、澪は眉一つ動かさない。ただ静かに右手を胸元に添え、守るようにして湯船へと身を沈めた。
「……それで、お前は誰だ?」
「覚えてないのですか?さっき射って来たので仕返しに来たんですよー」
男の口角が不気味に吊り上がる。獲物を追い詰めた肉食獣のような笑みを浮かべ、一歩、また一歩と彼女へ距離を詰めていく。
「動けない程度に痺れさせて一発やらせてもらいましょうかねー」
その露骨な欲望をぶつけられてもなお、澪の瞳に宿るのは嘲笑だった。
「ふっ、貴様程度の分際で私を犯せるとでも?」
鼻で笑うようなその一言に、男の空気が一変した。
……。
「……った」
「?」
「気が変わった」
男の低い呟きと共に、周囲の温度が急上昇したような錯覚に陥る。
「消し炭にしてやるよ……」
放たれた殺意が、物理的な圧力となって室内に満ちた。
刹那、男の全身を激しい電光が駆け巡る。バチバチと空気を焼く衝撃音が轟き、消えていたはずの照明が過負荷に耐えかねるように狂ったように点滅を始めた。