「なるほどね」
俺の意図を汲み取るまでもなく、澪は自らの体を淡い光へと変えた。彼女が選んだのは、鍵穴をこじ開ける道具ではなく、入り口そのもの。澪は壁に寄り添うようにして、精巧な「ドア」へと変化したのだ。
ガチャリ、と手応えのないノブを回して中へ足を踏み入れる。
「……ただい――」
「あれま。お前ら、帰ってくるのが早くねぇか?」
俺の言葉に重なるようにして、背後から聞き慣れた声が響いた。振り返れば、階段を上がってくる二人の影。
「……あ」
俺と澪は顔を見合わせた。
「何やってたんだよ。こっちは腹減って死にそうなんだぞ」
「里奈がな、鍋を作って待っていようって言うからさ。具材を買い出しに行ってたんだよ」
レジ袋を提げて笑うのは、島崎(しまざき)義宗(よしむね)。頭が切れ、昔から俺の相談役を引き受けてくれている男だ。基本的には冷静沈着でクールな奴だが、たまにこうして妙に家庭的な、予測不能の行動に出る。
「いいな、鍋! ……でもお前、一応仕事中だろ?」
「嫌なら別に、お前の分がなくてもいいんだぞ」
「冗談ですよ! ぜひ、ご相伴に与らせてください……」
俺が慌てて食い下がると、義宗の隣に立つ女性がふわりと微笑んだ。
「陽さん、澪さん、お疲れ様でした。すぐに温かいコーヒーを用意しますね」
彼女は、義宗の護り人である鏡音(かがみね)里奈(りな)ちゃん。優しくて冷静、その上、大人の気品を湛えた美人という、まさに完璧を絵に描いたような女性だ。
殺伐とした夜の屋上から一転、事務所には出汁の香りと賑やかな空気があふれ始める。どうやら今夜は、残ったカレーではなく、賑やかな鍋囲みになりそうだ。
「里奈、手伝うわ」
「ありがとうございますー♪」
澪がキッチンに入ると、里奈の弾んだ声が返ってきた。二人は並んで立ち、手際よく料理の準備を始める。包丁がまな板を叩く規則正しい音が、リビングまで流れてきた。
一方、リビングのソファでは、陽が「よいしょ」と重い腰を下ろしたところだった。その様子を眺めていた義宗が、ふと思い出したように尋ねる。
「勇也と大地は?」
「ん、知らんよ。俺と澪が現場に着いた時には既に警察に捕まってたし。だから、俺たちは先に帰ってきたんだ」
陽は他人事のように淡々と言ってのけた。義宗は一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに視線を戻す。
「ふーん。まぁ、そろそろ帰ってくるか……」
そこへ、キッチンから里奈がひょいと顔を出した。
「義宗さん、コーヒーは冷たいのにしますか?」
「うん、冷たいのにする」
「わかりました」
里奈が再びキッチンへ引っ込むのを見送ってから、陽がニヤリと笑って義宗に話を振った。
「そういえば里奈ちゃん、お前の名前を呼ぶ時も必ず『さん』付けだよな」
「俺は呼び捨てで良いって言ったんだが……里奈はそれが出来ないらしい」
義宗が困ったように笑うと、陽は「へぇ」と頷き、今度はキッチンの背中に向かって声をかけた。
「……澪」
「んー?」
「俺のことも『さん』付けで呼んでみて?」
一秒の迷いもなかった。
「無理っ」
「ぐすん……」
即答で切り捨てられ、芝居がかって落ち込む陽。それを見た義宗は、苦笑しながらフォローを入れた。
「別に良いだろ、呼ばれなくたって。汗」
そんな男たちの軽口を遮るように。
――ガチャ。
玄関の鍵が回る音が、静かな部屋に響いた。