和尚の低く湿った読経が、静まり返った堂内に波紋のように広がっていく。やがて最後の言葉が紡ぎ終わり、静寂が訪れたその刹那だった。
「さぁ、護り人がおいでに……ッッ!?」
和尚の期待に満ちた声が、一転して驚愕に引きつった。その視線の先に現れた「何か」を見た瞬間、老僧の顔から血の気が引いていく。
「初めまし——」
「なぜ貴様が出てきた!!」
陽の父が挨拶を交わそうとした言葉を、和尚の怒号が叩き潰した。突然の変貌に、父は困惑し、ただ呆然と立ち尽くす。
「……え?」
その傍らで、澪が低く、愉悦を孕んだ声で笑った。
「フフフ……」
「さっさと消え失せい!!」
和尚の必死の叱咤。しかし、澪は微動だにせず、ただ冷徹な瞳を和尚に据えている。その視線に射抜かれた和尚が、苦しげに呻いた。
「ぐっ……」
その時、張り詰めた空気を切り裂くように、か細くも切実な産声が響き渡る。
「……ャー……ギャー……オギャー」
「はっ! 旦那さん逃げなさい!! 赤ちゃんを連れて!!」
我に返った和尚が、陽の父に向かって叫ぶ。その形相は鬼気迫るものだった。
「えっ? ……え?」
「殺されるぞ! こいつは護り人なんかじゃない! 殺戮を楽しむ最悪の化け物だ!!」
その警告を背中で聞きながら、私は産声のする方へと、吸い寄せられるように歩き出す。
「っ!」
背後から陽の父が、私を追い抜いて必死の形相で走り去った。我が子を、そして妻を守るという本能だけが彼を突き動かしている。
「……」
澪は追うこともせず、ただ静かに、冷たい無言を貫いていた。
赤子の元へ辿り着くと、そこには痛ましいほどの緊迫感に満ちた光景があった。横たわる母親と、その腕の中で泣きじゃくる赤子。彼らを盾にするように構える二人の護り人、そして今しがた駆けつけた父親。
平穏であるはずの誕生の場は、一瞬にして地獄の淵へと変貌していた。
「お願いします……俺はどうなってもいい、だから……彼女たちだけは助けてくれ……!」
大輔は地に膝をつき、なりふり構わず懇願した。一家の主としての矜持も、男としてのプライドも、目の前の圧倒的な「死」を前にしては無価値だった。
澪は、塵を見るような冷ややかな視線を彼に投げかける。
「お前など、最初からどうでもいい」
その時、静寂を切り裂くように、生まれたばかりの赤子の泣き声が響き渡った。
「オギャー! オギャー!」
「……邪魔」
澪の眉間に不快げな皺が寄る。
情けなくも、大輔と女の護り人は、澪の放つ威圧感に圧されるように後ずさり、道を開けた。赤子を抱く母親の護り人だけが、恐怖に膝を震わせながらも、必死にその場に踏みとどまっている。
「オギャー! オギャー!」
「煩い。……今、黙らせてあげる」
澪がゆっくりと歩を進める。母親の真理子は絶望に顔を歪め、我が子を庇うように身を縮めた。
「止めてください……お願いします……!」
澪は耳を貸さず、長く鋭利な、獣のような爪を赤子の柔らかな首筋へと押し当てた。一突きで、この小さな命など容易く散るだろう。
「止めてくれっ!!!」
「止めて、お願い!!!」
両親の悲痛な叫びが響く。しかし、死の淵に立たされた赤子が上げたのは、泣き声ではなかった。
「……キャッキャッ♪」
無邪気な、鈴の鳴るような笑い声。
「…………」
澪は無言で赤子を見下ろした。命を奪おうとする「死」の気配を、この幼子は理解していない。気に食わなかった。恐怖に歪まないその反応が、澪の苛立ちを煽る。
彼女は、さらに強く、鋭い爪をその首へと食い込ませた。
「えへー♪」
キュ……。
赤子はさらに喜びの声を上げ、あろうことか、自分を殺そうとする澪の指を、その小さな両手でぎゅっと握りしめてきた。
驚くほど柔らかく、そして温かい、小さな手の感触。
冷徹な殺意が支配する空間に、場違いなほどの純粋な「生」の温もりが灯った。