「……名は?」
澪が静かに問いかけると、絶望の淵にいた陽の父母は、呆然と顔を見合わせた。
「子の名は、決まっているの?」
「……陽(はる)です」
父・大輔が震える声で答える。澪はその名を一度、心の中で反芻するように繰り返した。
「陽か。……気が変わった。私がこの赤子の護り人になろう」
「なっ……!」
驚愕に目を見開く大輔。だが、その場にいた和尚が激昂し、声を荒げた。
「ふざけるな! 貴様のような妖怪が、人の世で暮らすなど断じて許さん!」
「そう。なら、まずは貴方から殺してあげる」
澪の瞳に冷徹な殺意が宿る。不穏な空気が膨れ上がろうとしたその時、赤子の陽が「えへー」と無邪気に笑った。その屈託のない声に毒気を抜かれたのか、和尚は苦渋に満ちた表情で拳を握りしめる。
「……いいだろう。だがこの子に何かしてみろ。その瞬間、貴様を地獄へ叩き落としてやる」
「はっ、お前ごときに何ができるというの」
鼻で笑い飛ばし、澪は陽の小さな手を握り返した。それが、長く奇妙な「暇潰し」の始まりだった。
【二歳:小さなしっぺ返し】
「みょんー!」
よちよち歩きの陽が、一輪のたんぽぽを差し出してきた。「ぽぽ、はいっ!」という愛らしい献上。澪は無表情のまま、その黄色い花を見つめ……。
パクッ。
迷わず口に放り込み、咀嚼した。
「ハッ……!」
陽は絶望に顔を白くさせ、数秒の沈黙の後、大粒の涙をこぼした。
「た……たべたったぁぁ……!」
泣きじゃくる幼子を横目に、澪は平然とモグモグと咀嚼を続けていた。
【七歳:お菓子の乱】
「それ俺のお菓子だろー! 返せよ!」
成長した陽が、澪の手元にある袋を奪おうと必死に手を伸ばす。しかし、澪はひらりと身をかわし、涼しい顔で中身を口に運んだ。
「早い者勝ちよ。文句があるなら私より早く動くことね」
「ばか澪! 意地悪!」
涙目になって怒る陽に対し、澪はツーンとよそ見を決め込む。そんな子供じみた喧嘩が、彼らの日常になっていた。
【十四歳:歩み寄る夜】
「澪、コンビニ行ってくる」
声変わりが始まった陽が上着を羽織る。
「私も行く」
当然のように立ち上がる澪に、陽は少しだけ照れくさそうに笑った。
「じゃあ、澪の好きなおでん買おっか」
「……ええ、そうね」
かつて赤子の首を絞めようとした爪は、今では温かいカップを支えるためにあった。
【十七歳:冬空の下で】
「陽ー」
澪が、部屋でくつろぐ陽を呼ぶ。
「んー? 何?」
「近くに、屋台のおでん屋が来てるんですって。行きましょう?」
「えー、外寒いよ。せっかくコタツ入ってんのに」
陽は面倒そうに顔を伏せるが、澪は引かなかった。
「いいじゃない、今日くらい。……ね?」
珍しく少しだけ甘えるような、あるいは懐かしむような彼女の声に、陽は溜息をつきながら立ち上がった。
「……ま、おでん食うくらいならいいか。」
「ふふ、決まりね」
寒空の下、肩を並べて歩く二人の影。
かつて花を食べられて泣いていた少年と、それを冷たく見下ろしていた化物は、今や冬の匂いの中に同じ温もりを探していた。
「ざっと言うと、こんな感じで丸め込まれたのよ」
澪がいたずらっぽく話を締めくくると、聞き入っていた義宗が感心したように頷いた。
「なるほどな……そんな歴史があったのか」
「陽って、本当に誰とでも仲良くなれるよな」
勇也が笑うと、里奈も「そうですね」と優しく同意する。仲間たちの談笑が心地よい子守唄になったのか、陽はこたつの中で小さく身をよじらせた。
「陽、そんなところで寝たら風邪を引くわよ」
「……ん、あぁ。ごめん」
澪に揺り動かされ、陽は眠い目をこすりながら起き上がる。
「帰る?」
「そうするか」
「よし、じゃあ片付けて解散にするか!」
義宗の号令で、賑やかだった鍋の跡を片付け、一行はそれぞれ帰路についた。
午後十一時二分。
自宅の玄関を開けると、使い慣れた家の匂いが二人を迎えた。
「澪、先にお風呂入っちゃいなよ」
「えぇ」
澪が浴室へ向かった後、陽も一息ついてから湯を浴びる。お互いにさっぱりした後は、自然とこたつに並んで座り、深夜のテレビをぼーっと眺める時間が流れた。
「なぁ」
「んー?」
陽がふと思い出したように、隣の澪へ視線を向ける。
「俺が事務所で寝てたとき、みんなと何の話をしてたんだ?」
「小さい頃の、あんたの話をしていたの」
「俺の?」
「ええ、そうよ」
「ほー……」
自分の知らないところで語られていた幼少期に、陽は少し照れくさそうな、それでいて不思議な感覚を覚える。
「ん~っ! さて、そろそろ寝るわ」
「俺も寝る」
澪が大きく伸びをして立ち上がると、陽もそれに続いた。テレビの明かりを消し、静まり返った部屋で歯を磨く。二人の一日を締めくくる儀式を終え、並んで寝室へと向かった。