───眠い…。
綾小路はいつもと変わらない無表情。
しかし、彼を良く知っている人間が見れば、目の下にほんの薄っすらだがクマが出来ているのが分かる。
それでも6時に起き、朝のルーティンを終わらせると、ホテルの1階のロビーで待ち人を待つ。
しばらくすると一人の女性が現れた。
「清隆、お待たせ!ごめんね。間に合った!」
「体調は大丈夫なのか?」
「うん!全然大丈夫だよ。なんか…逆にスッキリしたかも。昨日はありがとうね」
「お互い、相当羽目を外したからな。初めてあんなに酒を飲んだんじゃないか?酒の力を借りたからなのか分からないが、スッキリしたようで良かった。でももう少し寝ていても良かったんだぞ?」
綾小路の言う通り、今9時を回ったところだ。約束の10時にはまだ少し時間がある。
「うん、そう思ったんだけど、清隆がいると思ったし、それに…」
そう言って一之瀬はバッグからPCを取り出した。
「今日は私の晴れ舞台だからね!!」
一之瀬は昨夜、綾小路が貸与したノートPCを取り出し、開く。ホテルの自室でバッテリーを満タンまでしたため少し使う分には問題ない。新型のノートPCはバッテリー効率が良く、通常利用でも20時間は持つ。
「…気合入っているな。だが、気負いすぎなくて良い。普段の一之瀬で対応してもらえればお釣りが来るぐらいだ」
「うん、ありがとう。今日は私の良い所を清隆に見てもらいたいから…」
そうか。
と綾小路が言って、一之瀬の邪魔をしないように携帯に向かう。
携帯を眺めていると、軽井沢から個別チャットで写真が送られてきた。
坂柳と神室が写っている。
坂柳…来たのか。
そんな事を考えていると、『パシャ』と音がする。
ふと音の方を見ると、一之瀬が綾小路の写真を撮っていた…。
「何に使うんだ??」
「…内緒だよッ!!」
一之瀬がへへへ、と微笑み、携帯で操作をし、テーブルに画面を下にして置くと、ノートパソコンに再度向き合った。
綾小路は会社のチャットツールと向き合い、渡航中に返せなかった櫛田と軽井沢から来ていたメッセージに目を通す。
ほとんどが報告、連絡、相談のどれかだった。
各々大量のメッセージだったが、綾小路からの返答がなくともプロジェクトを進めているのが、ログから分かる事だった。
綾小路は一通り見ると軽井沢に二つのメッセージを送る。
[昨日は楽しんだみたいだな。貰ったメッセージは全て目を通している。俺が個別に返信しない文章は恵が判断して進めてもらって構わない]
すぐに既読が着く。
しかし、返信がないという事は、その後の綾小路の返信を待っているからだろう。
そして綾小路は50以上ある内の一つのメッセージに返信を飛ばす。
内容はアパレル会社の買収の契約の条件についてだった。
[引用返信:M&A後は合併を行う。櫛田が買収した芸能事務所へ月曜日に二人で訪問するように]
それが終わると次は櫛田に別のメッセージを飛ばす。
[月曜日の16時に芸能事務所の社長とアポイントを入れた。場所は分かるだろうから軽井沢と向かってくれ]
軽井沢からはすぐに返信が来なかったが、櫛田からすぐに返信が来る。
[り。それにしても、何を話せば良いの?]
[行けば分かる。対面での商談は初めてだろう。ウチが実際に顧客先に出るときのルールを決めた。報連相グループに投稿する]
そう返信すると、報連相のグループを開く。
このグループは言わば綾小路が投稿するだけのグループだ。
綾小路が投稿した文章に、他の2名がチェックしているのが分かる。
分からない時は個別で聞いてくるスタイルだった。
【社外の人間と社外で商談する時の服装のルール】
・オーダーメイドの紺色のパンツスーツと白のシャツ。小物は黒で統一する事。ノートPCもしくはタブレットの持参はマスト。
・持っていくものはブランド物でも良いが過度に原価率の低いものと、ブランドロゴが着いているものは禁止。
・商談中は会社用の機械を開き、商談相手の仕事の詳細を細く把握することに終始する事。最終的な結論をその場で出さない事。
*上記の全ての支出については限度額なしとする。
投稿すると、目の前の一之瀬の携帯のバイブレーションがなる。
ノートパソコンとにらめっこしていた一之瀬がスマホを取り、文章を読んだ。
「オッケー。事前に準備しておいてもらってありがとう」
「あぁ、皆の参考にしたいから、ちょっと立ってくれるか??」
はーいと言って一之瀬が立ち上がる。
綾小路は立ち上がった一之瀬を撮影する。
そして顔にモザイクを施し、[参考]と文字を入力してグループに投稿した。
ちなみにメンズも同じ。
今日の綾小路は白のワイシャツではなくポロシャツだったが、南国のためスーツは夏使用になっている。
「わッ!わたしだ…!」
スマホの画面を見ながら一之瀬が口にした。
投稿してすぐに文章と写真にイイネマークが付けられる。
それを真似して一之瀬も文章と写真を長押しし、イイネマークを付けた。
「ウチの会社は今後もこのチャットグループが中核となる。どれだけ会社が続くかは分からないが、社員が増えようと俺は投稿した内容を変えたりしない。制限を加えることはあるかもしれないが、それも些細なものだろう。そのためウチの会社の社員はこの一之瀬の服装を参考に、社外へ地味な会社としてアピールして行く事になる」
「お…おぉ~~!」
「ま、この写真くらいスタイルの良い女子は入らないだろうが…」
「ん?…なにかな?」
「いや、何でもない」
「言ってよ~!!」
「聞こえていたか?それならば繰り返し言う必要はないだろ」
「言ってよ!ねぇ、お願い、きよたかくん」
「今度な」
綾小路ははぐらかした。
10時になり、JICAと日本大使館の職員が到着する。
二人は綾小路の運転で、電力会社PPLへ訪問することになった。
*
PPLの訪問と会食を終わらせてパプアニューギニアにいる渡辺くんの大学へ向かう途中の車内。
私はほっと胸を撫でおろす。
既にJICAと大使館の職員さんとは解散した。
今日一日綾小路くんと一緒にいて思ったのは、彼は一貫して『あまりビジネスを知らない若輩者』を貫き通していた事だった。
その代わり、聞く人が聞けば常識的な疑問もすぐに質問し、相手の言葉を繰り返して双方の理解をする。
私はとにかく元気に挨拶をして相手に好印象を持ってもらう事に終始する。
相手方から見れば、いろいろとお節介をしてあげたくなるオーナーに映ったのではないだろうか。
待望だった綾小路くんの英語も存分に聞けたし、満足のいく一日だった。
車を市街地へ走らせていくと、古くて大きな建物が見えて来て、綾小路くんが駐車場に入れる。
ナビも到着を知らせてくれたが、大学とは思えないみすぼらしい建物の敷地だった。
「…ここ…??」
「ここだ、パプアニューギニア大学の分校。本校は市内にあるが、帆波が教えてくれた場所はここだし、俺が調べたのもここだ」
到着して渡辺くんに『着いたよ!』と送る。すぐに『駐車場?今向かいます』と返信が来て、一人の日本人が走ってくるのが見えた。
「一之瀬!綾小路!」
「渡辺、久しぶりだな」
「渡辺くん!久しぶり!!」
「急に連絡来てびびった…。っていうか、綾小路、戻ってきていたんだな…?」
「心配かけたか?2年間アメリカにいて、つい最近日本に戻って来たんだ。たまたま俺の就職先に一之瀬のご家族がいてな。今日は仕事の付き添いだ」
「仕事…?」
「あぁ、医者をやっている」
「い?いしゃ??」
「綾小路くん、私のお母さんが入院している病院に来たんだ!会社の海外研修でね、綾小路くん英語が不安だって言うから、病院の理事さんに言われて、私もアルバイト代が出るんだよ。それにしても久しぶりだね渡辺君!!」
「…一之瀬とは1年振りぐらいか?綾小路はまぁ突っ込みどころは多いが、後で話を聞こう。二人の姿を見るに、仕事なのは間違いなさそうだからな…」
「あぁ、隠してもしょうがないことだ。ところで渡辺、パプアニューギニアはどうだ?」
「おう、交換留学が決まった時はマジかと思ったが、まぁ何か月かいるからな、慣れたもんだ。ウチの寮でどうだ?食堂ではこの時間帯は皆で飲み会なんだ。同級生を紹介しよう」
そうして、私と綾小路君は渡辺くんに着いて行った。