───翌日。
結局堀北は泊まっていったらしい。
大学の講義が次の日はないからとかなんとか言って、更にクライアントの契約書作成に付き添うだなんだと弁護士に言って無理矢理家に留まっている。
代表弁護士も大型の案件だからか良く分からないが二つ返事でオーケーしたようだ。
そんなもんで良いのか。
社会は思った通りお金があればある程度の事は出来るのだろう。
特に仕事はそうなのかもしれない。
佐藤や松下も会社から俺だけじゃなく、営業をかけろと大層うるさく言われているようだ。
彼女らは自主的に止めてくれているようだが、遠慮のない営業マンも多いのだろう。
俺は営業されるのは嫌だとは思わない。
積極的なのは良いことだ。
だがせっかくなら知り合いのところでお金を回したいものだ。
そんなことを思いつつ堀北の入れるコーヒーを飲みながら携帯をいじる。
堀北は櫛田を監視の元、自社のM&A案件の資料作成を急かしている。
逆に医療法人のカルテの対応がおろそかになっているようだ。
やはり人を増やすことは急務なのだろうが、1か月であらかたやりたいことは終わりそうだ。
その後はM&A先に社員を勤めさせるくらいしかやる事がない。
どうしようか迷っていたが、2週間目に入って、そろそろ重い腰を起こす。
日本に戻ってきて会いに行かなければと思っていた二人を思い浮かべた。
「堀北、櫛田を呼んでもらえるか?」
「櫛田さんを?分かったわ。少し待っていて頂戴」
しばらく待って、目がガチガチの櫛田が姿を現す。
「なに?綾小路くん」
「櫛田、お前少し寝た方が良いんじゃないか?昨日は何をやっていたんだ」
「堀北に言ってよ…。この女が私に書類作成を急かすから…全然眠れなかったのよ…」
「でも私も仕事なのだからしょうがないでしょう?」
「…ッ!!いや!そもそも事前に人員を増やさなかった綾小路くんが悪いんじゃない?」
矛先がこちらにやってきてしまう。
「二人の仕事に口出しはしない。堀北の仕事もあるだろうからな。逆に櫛田も櫛田で俺の会社を一部任せているんだ。仕方ないから堀北が手伝ってやれないか?」
「え、別に良いけど…。良いの?」
「問題ない。時給が発生するかもしれないが、重複して時給を支払うことが出来ない。そのため一部を法律事務所のアルバイトとやりくりしてもらうことになるが支払いについては問題ないだろう?扶養控除の範囲内ならばその辺りは堀北が自分で管理しているだろうからな。大学との兼ね合いも含めて、扶養控除の範囲ならばウチの時給であれば2か月くらいで越してしまう。上手いことやりくりしてくれ」
ちなみに櫛田については扶養控除の範囲等なく社会保険に入れてしまっている。
櫛田は正式に正社員として登用した。
実は学生だろうと問題はない。
夜間大学に通いながら日中は正社員で働く学生もいる。
学業を優先しているが、給与については高い方だろう。
「それなら良いけど…。アルバイト先にも言わないと…。ねぇ櫛田さんは月いくらもらっているの?」
「その辺りは後で櫛田と調整してくれ。櫛田、医療法人のカルテの資料を持ってきてくれるか?」
「そう言われるだろうと思って、さっきタブレットに送って置いたよ」
流石だな。
そう思いながら携帯を見ると、会社のチャットに櫛田から資料が送られているのを目にする。
「流石だな。じゃあ俺は出かけてくるから後は頼むぞ。堀北も、情報ありがとう」
「行ってら~」
「ええ!緩くないかしら?会社経営ってそんな感じなの?」
そんな事を言う堀北を無視し、俺は目的地に歩き出した。
*
今日は二人の人間と会うと決めていた。
まずは一人目。
車で1時間ほどかけ、東京都小平市のある病院に到着する。
事前にアポイントは済ませている。
この医療法人はアメリカ在学中にM&Aをしたものの、足を運べておらず、正式に理事長就任は医師免許を取得してからと決めていたものだ。
理事長がオーナーだというのも慣習らしい。
その辺りが詳しくない俺は、医師免許を持っていて正解だなと思ったものだ。
この病院は100床と数は少ないものの、献身的な医師・看護師を中心に呼吸困難な患者の治療を行っていた。
医療法人で他に老人ホームも運営しているが、赤字なのは病院経営だけだったため、病院のみを一部格安で譲渡された。
手っ取り早く病床使用率を増やす取り組みをすれば良いのだろうが一筋縄ではいかないのが病院経営の難しい所だろう。
別に赤字でも良いのだがせっかく買ったのだから黒字化には成功したい。
しかしそれもどうでも良かった。
そもそも購入した理由は金儲けではないからだ。
マスクをして、受付にアポイントの内容を伝える。
事務局長が走って出てくるが、アポイントの時間まで30分以上あるため、少し院内を歩かせてほしい事と、事前に話しておいた件の結論のみを口にする。
院内を回るが建物は古く、利益もあがっていないため、改修工事に着手することは出来ない。
周囲の人口的に改修工事をしても集金出来る目処はつきそうなものだが、病院という業態上、利回りが悪いため現在は軽い改修をする程度だろう。
バリアフリーにはなっているようだ。こちらに興味関心を向ける看護師達をよそに院内を散歩しながら、目的の人物へどう近づこうか考えることにする。
俺には面と向かって母と会ったことがない。
だから母の愛という概念を知らない。
物心ついたのは生まれて間もないときだったから、母親の顔は知っているが、すぐにホワイトルームに来てしまった。
そもそも俺は男だから母親になることは出来ない。
だから、真の意味で母が子をどう思っているか知る由もないが、子が母をどう思っているのかは知人を介して知っている。
個室に入院することは出来ないだろう。
大部屋の6つあるベッドの内の一つに、彼女は座っていた。
母親は寝たきりになっている。二人の母娘の間に会話らしい会話はない。
寝ている母を気遣って、彼女は持ってきた本を読んでい。
顔は窓側に向けていた。
決して裕福な家庭ではなかったかもしれない。
シングルマザーとして娘二人を育てている母は、今はベッドに眠っていた。
この病院は消化器内科だ。既に買収を決めたときに知っていたことだったが、ストレス性の胃炎によって母親は働けないでいる。
何があったのかは聞くまでもないだろう。
上の娘を高校に行かせてからも、上の娘と下の娘が大学を卒業出来るまでのお金を工面するために働いていたのだ。
年齢もあるため正社員で働くことなど出来ない。
だからアルバイトを複数行うもたかが知れている。
生活するのに精いっぱいの世の中で、寝る間も惜しんで副業をした。
身体を壊すのは当然だと言える。
社会が間違っているとは思わない。
だが、そんな社会を少しでも良い方向へ向かわせたいと思う。
しかし俺にそんな力、今はない。
だから、身近な人間から出来る限り手を差し伸べるだけだ。
「お母さん…。死なないで」
彼女のそんな言葉が、病床に響く、俺は入り口からその言葉をなんとか心に刻み込んだ。
*
ストレスが原因で体調を崩す人はどれだけいるだろうか?
なんと日本においては9割だと言われている。
ならばストレスの原因を排除すれば問題は解決するのだろうか。
金銭不安や住環境の問題、人間関係など、ありとあらゆるストレスが生活に付きまとう。
全て無くすことは難しいだろう。
不毛な話し合い、不毛な対話。
ルールを設けることなど意味のないことなのかもしれないと思わされるほど、ストレスに侵される人は、無力だ。
午前中の夜勤が日勤に代わる時間帯に、俺はスーツの上に白衣を着て職員の前にいる。
俺が新理事長だと知っているのは事務局長と医長を始めとした役員の者で、職員には新入りの医者として挨拶を終える。
その後に回診をすると言い渡して各フロアを回っていく。
医長と事務局長を両脇に抱えながら新米の医者が患者に挨拶をするなんて異常事態なのだが、看護師に怪訝な顔をされつつも素知らぬ顔でフロアを回っていく。
100床あるベッドだが、60床程度しか埋まっていない。
個室ベッドに人が入ることもないようで、一人3分と時間をかけても午前中の内に回れてしまう。
それが狙い目だった。
病院経営において、月に一度患者との面談を入れようと思っていたからだ。
若い新米医として回る中で、高齢の患者に可愛がられる。
やがてフロアの看護師長に連れられて大部屋に通される。
看護師長からすでにお達しが出ているのだろう厳かな雰囲気で親族が立ち振る舞う。
目的の人物が深く礼をしてこちらを向いているのが見えた。
俺は看護師長に言われるがまま彼女の母親のそばに座る。
「よ、よろしくお願いいたします」
伏し目がちな彼女の目の前に母親を介して座るも未だにこちらに気付かない。
俺の横に立つ看護師長がカルテを持ってきてくれる。
「一之瀬さん、調子はいかがですか?」
「は、はい、いつもお世話になっております」
「病院食はお口に合いますか」
「はい、いつも美味しく頂いております」
「ストレス性胃炎。私も良くストレスを感じて生きていますが、ストレスは目に見えないものなので、原因がはっきりしないですよね。一之瀬さんにとって、例えばどんなものがストレスの原因なのでしょうか」
「は、はい。…ウチは母子家庭なもので、娘二人には良い生活をして欲しくて、仕事を詰め込みすぎたのかもしれません」
「詰め込みすぎはあまり良くないですね。仕事を詰め込みすぎると、どういう状態になるかお分かりですか?」
「なかなか寝付けない日が多くなって、睡眠不足になります…」
「そうですね。他にも寝付けない理由はなんでしょうか」
「娘が…。欲しいものも買ってもらえないと、大事な年齢なのに。無理して借金してしまって…更に、上の娘が高校卒業してからアルバイトばかりしているのを見て、辛くて…」
「お母さん…!!」
そうやって、下を向いていた一之瀬帆波は、目の端に映っていたであろう俺、そして、声で何となく気付いていたらしい疑問を解消した。
「え???…あ、あ、あ、あ、あやの…」
彼女が目を見開き俺を見るが、彼女の言葉を遮って母親に声をかける。
「娘さんですか?」
「はい、娘です」
母は狼狽える娘と俺を交互に見る。
「あの、帆波、先生とお知り合いなの?」
「え?う、うん」
母娘の会話を繰り広げるが、そろそろ次の時間が迫ってきた。なので俺はやり残したことをやり、席を立つとする。
そして、ちょっと失礼しますと事務局長と看護師長が、封筒を持って頭を下げた。
「娘さんとは高校の同級生です。仲良くさせていただきました。そして、お礼の前に一つ謝罪をしなければならないことがあります」
「謝罪…?」
そういうと事務局長が話し始める。
「先ほどカルテを調べましたら、治療費を貰いすぎていたようでした。こちら返金額に色を付けてお返し致します。大変申し訳ございませんでした」
「…治療費を…返金?」
母娘が目を見開くのが見える。
「ど、どうかご内密にして頂きたいのですが、お願いできませんでしょうか。いえ、別に他の人に言ってはいけないという事ではありません。病院の不祥事件になってしまいましたら私どももしょうがないと思っておりますので」
慌てて頭を下げる医長を横目に、分厚い封筒を渡した。
そして、看護師長に急かされるように4人はその場を後にする。
残されたのはあっけにとられた母娘だった。
*
午前中で回診を終えて、病院を出る。
入口ではやはり一之瀬帆波が立って待っていた。
俺に気付いて足早に寄ってくる。
「綾小路くん!!」
「一之瀬、久しぶりだな」
「ホント、1年ぶりだね」
「1年も経つな。俺が来るまで待っていたのか?」
「そんなに待ってないよ」
一之瀬の回診を終えてからすべてが終わるまで1時間ほどかかった。
もしかしたらそれまで待っていたのかもしれない。
今日、母親のお見舞いに来たのもアルバイトと学校の合間を縫ってきたため、すぐに帰る予定だったんじゃないだろうか。
「学校やバイトは良いのか?」
「うん、今日はバイトも学校もないから、さっきコンビニのATMでもろもろ終わらせて、後はもう大丈夫」
「悪かったな。病院のM&Aを完了させたは良いが、カルテを見ていたら不祥事件が発覚してしまってな。しかもそれが一之瀬の母だったとは」
俺はそういうが一之瀬が何も言ってこない。
目を伏せて何かを考えている様だった。
「それにしても、俺はお前に嫌われているかと思っていたからな、ここで待っていたのが意外だった」
「それはないよ。綾小路君の事、この1年間で忘れたことないよ」
「そうか、1年間も忘れないでいてくれるとは、ありがたい限りだ」
「もう帰るの?お話したいな。今日、この後どこに行くの?」
「今日は一之瀬ともう一人と会おうと思ってな。午前中に病院の予定を終わらせたんだ」
「そうなんだ。今から向かうのかな?一緒に着いて行っても良い?」
「別に良いが。仕事だぞ?」
「全然良いよ!…私が一緒にいたいんだ」
「そうか。じゃあ先方と会う前に時間があるから、昼飯でも食べていくか」
「うんッ!!」
そして俺は一之瀬と車に乗り、次の目的地に向けて出発した。