1
4年前のあの時と変わらずに彼女は立っていた。
当時と異なるのは中学生を想起させるスカートではなく、ホワイトルームを思い出させるワンピースを着ていることだ。
しかし、当時のデザインとは異なり、ブランド物だという事が分かる。
その場から動かない雪を見て、俺は行かないのか?と、目の先にある病室を見た。
椿がコトッと花瓶を置き、コポコポとウォーターサーバーからお湯を汲んで、飲み物をセットする音が聞こえる。
富裕層御用達のこの場所ではお見舞いに来る面会者も少ないと思われた。
ふと、雪の病室を見ると、様々な果物が置いてあるのが見えた。
異質な空間、状態。
桜子が手を引いて病室に連れていき、ドアを閉めるのが良いのだろうが、それもしない。
俺たちに背を向けて淡々と面会の準備をする。
雪を見る。
精神病患者特有の無表情ながらも、引きつった笑みを浮かべていた。
しかしそれは、ホワイトルーム生特有のものなのかもしれない。
俺はふぅと一息つくと、雪に声をかけた。
「このまま行っても良いんだが、女子には準備があると聞いた。少し、付き合ってもらっても良いか」
雪は答えず、目を少しだけこちらに向けた。
動かないでいる雪の、肩にそっと手をやる。
ビクッと一瞬震えるが、手を振り払う様子はない。
筋肉が硬い。
が、手を添えていると徐々に柔らかくなってきた。
そして、俺は肩から背中に手を這わせて、少し押した。
俺の手に沿うように、雪は前に進んだ。
2
コーヒーか紅茶の選択権を手に入れ、俺はコーヒーをもらうことに成功する。
1時間ほど、ぽつりぽつりと会話をする雪に合わせて返答した。
1時間後に理事長との話し合いがあるため、切り上げなければならなかった。
椎名がうまく動いてくれているなら、それと、昨日の理事長の様子なら時間は守られるだろうと確信していた。
雪がベッドに腰かけ、俺が隣のパイプ椅子に座る。
この病室は広いが、ソファには数がある。
桜子は少し離れたソファで、ぼーっと一点を見つめていた。
徐々に元気を取り戻し、ホワイトルームでも見たことのある笑顔を向ける雪を見た。
彼女は、何かを欲しがった。
俺は、お見舞いを持ってこなかったことを謝罪した。
しかし、彼女はなんでもいいと言った。
だから俺はポケットの中身を探した。
出てきたのは携帯と、カード、それに鍵だけだった。
ワイシャツのボタンでもあげるか?
そこまで考えていた、その時。
「それ……」
と、雪が俺の腕の何かを見て、飛びついた。
「トリダトゥじゃない?好きなの、清隆、誰に貰ったの?」
そう聞いてきた。
「とりだとぅ?ではない。一応貰い物と言えるのか分からないが、くれた同級生は、拳銃に詰める弾丸だと言っていたな」
雪の笑い声が病室に響いた。
「良く分からないのだが、そいつは俺がケツ穴丸出しで戦場に出ていて、ケツ穴に銃口を突き付けられていると言っていた」
「えぇ……ケツ穴って……」
笑い声から一転、ドン引きされてしまった。
悪いのは森下であって、俺ではない。
やはり、平田や司城のように上手くいかない。
「俺も引いた。そいつはお前と同じ女だ。女が、ケツ穴なんていうもんじゃないと、そう思った」
「……女?」
「あ、あぁ。だが、話には続きがある」
続き?
そういって首をかしげて、見入ってくる雪。
「あぁ、なんでも、[ヨハネの黙示録]に書いてあるらしい。[ケツ穴を捧げよ、されば汝願いを叶えられん]だったか」
正確には違うかもしれない。
森下の話は話半分に聞いており、ちゃんと覚えていない。
ニュアンスは合っていると思うのだが。
「えぇ、でもケツ穴はちょっと違うんじゃない?」
と、恥ずかしそうにもじもじする雪がいた。
コンコン
話していると、病室がノックされる。
そろそろ時間か、と思い、後にしようと立ち上がった。
「ね!それ頂戴よ」
雪が話しかけてきた。
何を言っているのか分からなかった俺は、あげられるものなどないと結論が付いたと思った。
しかし、雪は輪ゴムを欲しがった。
「こんなもので良いなら、いくらでもやる」
と言って、渡した。
雪はそれをくるくると巻きながら、嬉しそうに笑った。
そして、自分の左腕に着けて、ニヤけた。
「ありがと!大事にするね、清隆からの初めての_____!」
瞬間、頭の中で何かが繋がった気がした。
しかし、俺はその答えが正しいものなのか、どうなのか判断が付かず。
でも堀北学も、椎名ひよりも、更には堀北鈴音だって、同じ答えを持っている。
そして、目の前の、雪も。
これで、正しかったのだろうか。
俺の選択肢、分岐点は。
小さな小さな、誰もが持っていて、あまりにも小さくて気付かない何かを、手に入れたのだろうか。
3
病室の前に立っていた椎名に声をかけ、エレベーターで上に上がる。
向かう先は病室ではない、応接室。
坂柳理事長と、対面する。
「こんにちは」
入り口に控えていたのは、母親だろうか。
白衣を着た、華奢な女性。
目元が娘に似ている。
会釈をして中に入ると、理事長が立ち上がった。
母親と思しき女性は、椎名に会釈をしたかと思うと、扉を閉めた。
「母親は娘ほど重症ではないようですね」
明確に母だと判明したわけではないが、座った理事長が頷く。
「綾小路先生、お飲み物は何を?」
と、コーヒーのポットを持った母が聞いてきた。
「朝からもう、3杯も飲んでるんです」
「あら、じゃあ、いらない?」
「なんかミルクとかないですか?」
「ないわ」
買ってくるとか、キッチンとかから取ってくるとか、ないのだろうか。
そう言い切る。
「それに、先生はコーヒーが好きなのでしょう?有栖がケーキを手配してくれましたので、もうお昼時ですが、一緒にいかがですか?」
見透かすような、というよりも少々の圧を感じる母からの言葉。
言いようのない力を感じて俺はとりあえず頷いた。
4
しょっぱいものも食べたいという母のリクエストで、チキンサラダが手配された。
ドレッシングは青[[rb:紫蘇 > じそ]]。
青じそドレッシングは美味い。
正直、胡麻ドレやフレンチも良いが、変にごまかさずに、全てのサラダは青じそで良いのではないか。
新玉ねぎを使ったドレッシングも良いが、好き嫌いが分かれる。
味噌汁で麦みそ、赤みそ、白みそもあるが、それよりも味噌汁は出汁が重要だ。
今朝飲んだ、椎名の味噌汁は美味しかった。
家にある和食関係は堀北が手配したものだったか。
しかし、薄味で俺好み。
鬼島総理がノーパンしゃぶしゃぶをしていたと聞いた。
調べる気もなかったが、そのお店は出汁とかとっているのだろうか。
しゃぶしゃぶするなら、誰のパンツが良いのか。
目の前の理事長も、妻のパンツをしゃぶしゃぶしたいと思うのだろうか──。
「変な事考えてません?」
「いえ、考えておりません。ドレッシングが美味しいなと」
「妻はね、学者なんだ」
利発そうな顔、娘に似た、少し吊り上がった目じり。
既に応接室に来てから1時間経った。
俺たち3人はケーキを食べ、サラダにドレッシングをかけて取り分けられた。
コーヒーと水を出された。
綾小路先生。と、医師として尊重してくれるのはいいのだが、すこし対応がぞんざいではないか?
旦那を前に乗り換えるだの乗り換えないだのと話す母親。
本気で焦る理事長。
こんな一面もあるのかと。
確かに、優しそうな人だが。
夫婦仲は睦まじいようで、隙あらば楽しそうにする。
理事長の口の端についたクリームを、母がハンカチで取った。
家か。
危なく突っ込みそうになった。
◇
「ホワイトルームの事は、いつ分かったのかね?」
「日本に戻ってから、割とすぐに」
ホワイトルームは無くなっていた。
八神拓也を始め、後輩たちは、似たような施設に入って後人を育てているらしい。
しかし、それもこれもあの凄惨なプログラムではない。
「そうなっていると、薄々思ってましたが、昨日、父に会って直接聞きました」
呆気ないものだったそうだ。
直江が死に、求心力を失った父の派閥。
それもなんとなく分かっていた父は既に方向転換を図っていたことにも薄々気付いていた。
八神の事は分からないが、天沢が決めることだ。
つまり、俺はもう、やり残したことはない。
登ってみたかった金融業の世界的ランカー。
登ってみたが結局得られたものは、幸福ではなかった。
コトと、上品な動作でコーヒーを飲んでいた理事長が、決心したように話す。
「綾小路先生。手術をしなさい」
強い口調の理事長がいた。
俺は、いつか返答したことをなぞる。
「……それは命令ですか?」
「命令ではない」
少し感情を乗せた理事長。
そんならしくない理事長を見て、母も姿勢を正す。
「お願いだ」
頭は下げなかった。
母も、目を伏せていた。
分からなかったことがある。
どれだけ勉強しても、分からなかったことが。
「理由は?」
「理由を話す必要はないかと」
と、理事長は言った。
しかし、聞きたかった。そして、教えてほしかった。
一緒に、考えてほしかった。
緊迫した空気の中。
ふぅと、息を付き、母が話し始めた。
どこかで聞いた、文言だった。
──いじわるな、目つきだった。
「……ケーキ、食べましたよね。センセ?」