※この作品はR-18です。

ようこそ実力至上主義の社会へ   作:〇彪

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 清鈴です。

 〇あらすじ
 高育卒業後に一年姿を消した綾小路が、日本に帰ってきました。
 後半部分がその続きとなっています。

 もし本作が気になる方はどうぞお読みください。


その後
【ボーナスステージ】あなたは、誰も救わない


 

 高校二年生の三月末。

 

 一つ上の先輩たちの卒業式。

 

 私は、校舎裏の桜が舞う場所で、寮で活けた花を手に待っていた。

 

 去年はネットで注文したブリザードフラワーだったか。

 

 ──来てくれるだろうか。

 

 来ない。

 

 その結末は、十分にあり得る。

 

 一昨日送った文章を、私は何度も読み返した。

 

 [卒業式の後、懇親会終わりで良いので校舎裏に来て頂けますか?]

 

 送った直後、顔から火が噴きそうになった。

 

 削除できるならしたかった。

 

 間違いでした、と送ることも出来た。

 

 でも、出来なかった。

 

 これは、自分自身で散々悩んで、ようやく決めたことだったから。

 

 私は、綾小路清隆という人間に会わなければならない。

 

 そして。

 

 また、花を渡さなければならない。

 

 ◇

 

 そもそもの始まりは、二年前。

 

 高度育成高等学校に入学した直後だった。

 

 私は兄を追って、この学校に来た。

 

 堀北学。

 

 三年Aクラス。

 

 生徒会長。

 

 私にとって、兄はずっと目標だった。

 

 けれど入学早々、私は現実を突きつけられる。

 

 Dクラス。

 

 四月に支給された大量のプライベートポイントに浮かれたクラスメイトたちは、授業態度や遅刻、私語で評価を下げ、クラスポイントは一気にゼロになった。

 

 毎月10万円あった小遣いが、翌月にはゼロ。

 

 当然、クラスは混乱した。

 

「ね、堀北さん。ちょっと良いかなぁ?」

 

 声をかけてきたのは、櫛田桔梗さんだった。

 

 クラスの中心。

 

 誰にでも優しく、誰からも好かれる女子。

 

 私とは正反対の人間。

 

「何かしら、櫛田さん」

 

「あのさぁ、三年生にお兄さんがいるよね?」

 

 嫌な予感がした。

 

「生徒会長の堀北先輩。堀北さん、結構話す?もし仲良いなら繋いでもらえないかな?」

 

「おあいにく様ね。私は兄さんに見捨てられているから無理よ」

 

「でも兄妹でしょ?クラスの状況、分かってるよね。蜘蛛の糸でも掴みたいって状況なんだけど……」

 

 その気持ちは分かる。

 

 でも、無理なものは無理だ。

 

「僕からも頼むよ、堀北さん」

 

 平田君もやって来た。

 

 Dクラスでは、彼と櫛田さんがリーダーのような役割を担っている。

 

「二人同時に言ってくるということは、クラスの総意なのかしら?」

 

 私はなるべく冷静に言った。

 

 ここで彼らを敵に回すのは得策ではない。

 

「他に中学の同級生で仲の良い先輩とか、協力してくれそうな他クラスはいないの?」

 

「残念ながらいないんだ。部活の先輩だった人で、生徒会役員がいるんだけど……」

 

「それって南雲先輩のことかな?」

 

 櫛田さんが口を挟む。

 

「うん。でも、その南雲先輩もちょっと頼れそうになくてね」

 

 生徒会。

 

 この学校で強い権限を持つ組織。

 

 頼るなら、確かにそこだ。

 

「一之瀬さんはどうだった?生徒会に入ったんだよね?」

 

 櫛田さんが言う。

 

「なんとかBクラスと同盟を組むことは出来ないかな」

 

「うん。一之瀬さんは生徒会長と、書記の人がいる時に希望したら通してもらえたって。同盟をお願いしてみようかなぁ」

 

 話は私のいないところで収束しかけていた。

 

「なら、私は不要ということでいいかしら?」

 

「ううん。もしダメだったらお願いするかもしれないから、考えておいてもらっても良いかな?」

 

 櫛田さんはそう言った。

 

 私は曖昧に頷いた。

 

 そしてその日。

 

 帰り道のケヤキモールで、私はとある二人組を見た。

 

 一之瀬帆波。

 

 一年生の人気者。

 

 その隣に、一人の男子生徒がいた。

 

 無表情なイケメン。

 

 眠そうな目。

 

 ゆったりと、落ち着いた雰囲気。

 

 恐らく二年生。

 

 恋愛に詳しくない私でも、一之瀬さんが彼を意識していることは何となく分かった。

 

 けれど彼は、彼女をまるで相手にしていないように見えた。

 

 身体を寄せる一之瀬さんに、何かを言う。

 

 彼女は申し訳なさそうに笑い、少し距離を取った。

 

 その表情は、親しい相手にだけ見せるものだった。

 

 私は思わず見ていた。

 

 すると、その男子生徒がこちらを見た。

 

 そして、一之瀬さんに何かを告げ、私の方へ歩いてくる。

 

「お前は学の妹だな」

 

 第一声がそれだった。

 

「……なんでしょうか、先輩」

 

「急に悪い。オレは綾小路清隆という。もし今、急ぐ予定がないなら、少し時間を貰えないか。聞きたいことがある」

 

 綾小路清隆。

 

 その名前を、私はまだ知らなかった。

 

「少しだけなら」

 

「助かる。オレの仕事を一部手伝って欲しくてな。一之瀬と一年の協力者を探していたんだが、CとDだけ条件に合う生徒がいなかった。お前なら合致している」

 

「綾小路先輩の仕事……ですか?」

 

 彼は頷かない。

 

 ただ、私を見る。

 

「無条件で協力しろとは言わない。協力してくれるなら、クラスポイントがゼロのお前のクラスに少し助言をする。それと、お前の安全を保障する。働きに応じてプライベートポイントも払う」

 

「協力の内容は?」

 

「契約するまで答えられない」

 

 不気味だった。

 

 あまりにも淡々としている。

 

 けれど、同時に悪くない提案だった。

 

「毎月1万ポイントを送る」

 

「1万……」

 

 今のDクラスには、千ポイントでも価値がある。

 

「ただし秘密を守れる人間でなければならない。オレとここで会ったことも、契約内容も、他言しないこと」

 

「もし破ったら?」

 

「オレが困る」

 

「私が、ではなく?」

 

「オレが」

 

 一瞬、会話の調子が崩れた。

 

「一年の女子に定期的にポイントを渡していると知られたら、鬼龍院あたりに怒られそうだからな」

 

「鬼龍院先輩というのは、お付き合いしている人ですか?」

 

「そんな事実はない。あいつが何と言っているかは知らないが」

 

 少しだけ、空気が緩んだ。

 

 この人は不気味だ。

 

 でも、完全に冷たいわけではない。

 

「私の安全の保障というのは?」

 

「退学の目がお前に向かないようにする」

 

「どういう意味ですか?」

 

「その質問は、オレに同じ答えを言えということか?」

 

 二度目の突き放し。

 

 私は思わず息を詰めた。

 

 すると彼は、少しだけ黙った後、言った。

 

「悪い。言葉を強く感じさせたなら謝る。鬼龍院にもよく言われるが、オレはコミュニケーションが下手らしい。お前を怖がらせるつもりはない」

 

「……いえ、私もしつこく聞きすぎました」

 

「なら、お互い様だな」

 

 変な人。

 

 不気味で、論理的で、少しだけ不器用。

 

 そしてなぜか、目が離せない。

 

 私は一日考えた末、契約を結ぶことにした。

 

 それが。

 

 私と綾小路清隆の始まりだった。

 

 

 契約を結んだ。

 

 けれど、最初の二ヶ月、彼からの接触はほとんどなかった。

 

 毎月1万ポイントだけが、一方的に振り込まれる。

 

 こちらから連絡するのも不自然で、私は甘んじて受け取った。

 

 そんなある日の昼食時。

 

 食堂で、私は兄と綾小路先輩が同じテーブルで食事をしているところを見た。

 

 兄。

 

 綾小路先輩。

 

 南雲雅。

 

 そして、鬼龍院楓花。

 

 鬼龍院先輩は利発そうで、私よりずっと大人びた女性だった。

 

 彼女はトレーを持ち、恭しく綾小路先輩の前にどんぶりと味噌汁、水を並べる。

 

「女の子をメイドみたいに使うなんて……」

 

 思わずそんな感想が浮かんだ。

 

 けれど、鬼龍院先輩は嫌がっているどころか、楽しそうだった。

 

 食堂全体が不自然に静かだった。

 

 三年と二年の中心にいるような四人。

 

 まるで、あのテーブルだけが学校の裏側を管理しているように見える。

 

 鬼龍院先輩の高らかな笑い声が、ときおり食堂に響いた。

 

 私は視線を逸らし、一年生の席に向かう。

 

 その直後、見慣れないメールアドレスから連絡が来た。

 

 [Dクラスの須藤に目を向けておけ]

 

 綾小路先輩だ。

 

 [須藤くんが、何か?]

 

 すぐに返信する。

 

 [こちらで対処することもある。フォローはお前に任せる]

 

 [何があったのでしょうか]

 

 返信はなかった。

 

 私は契約時に言われた通り、メールを消した。

 

 一週間後。

 

 須藤君がCクラスと揉めた。

 

 だが、たまたま居合わせた生徒会の二年生とその取り巻きが仲裁に入り、大事にはならなかったらしい。

 

 須藤君は「不思議なこともあるもんだ」と笑っていた。

 

 須藤君は、生徒会の人を、金髪の人。

 

 と言っていた。

 

 私は笑えなかった。

 

 偶然ではない。

 

 表向きでは南雲先輩かと思うが、その実裏では綾小路先輩が動いた。

 

 私にはそう分かった。

 

 ◇

 

 数ヶ月が経つ頃には、兄がただの生徒会長ではないことを知った。

 

 三年Aクラスのリーダー。

 

 さらに、二年生からも一年生からも慕われる存在。

 

 兄は高校に入って、さらに遠くなっていた。

 

 そんな兄を目指すために、私はDクラスの中で少しずつ動き始めた。

 

 孤立していた私が、クラスのために発言するようになった。

 

 それが正しいのかは分からない。

 

 けれど、変わらなければ上には行けない。

 

 そう思うようになった。

 

 ある日、兄に呼び止められた。

 

「鈴音、久しぶりだな」

 

「兄さん。まさか高校で声をかけていただけるなんて」

 

「あるやつから、お前のことを聞いた」

 

 心臓が跳ねた。

 

「上を目指しているそうだな」

 

「はい。Dクラスからのスタートですが、兄さんのようなAクラスのリーダーを目指します」

 

 兄はじっと私を見た。

 

「顔が変わったな」

 

「はい?」

 

「角が取れた、と言えばいいのか。何が作用したのかは分からないが、良い顔をしている」

 

 初めて、兄にそんなことを言われた。

 

 嬉しかった。

 

 けれど同時に、胸の奥がざわついた。

 

 私を変えたもの。

 

 それはきっと、兄ではない。

 

「今日話しかけたのには理由がある」

 

 兄は続けた。

 

「オレと同じ生徒会にいる二年生、綾小路という男を知っているか」

 

 息が詰まる。

 

「……いえ、知りません」

 

 嘘をついた。

 

 兄は「そうか」とだけ言った。

 

 私は思わず聞く。

 

「その方が、何なのでしょう」

 

 兄の表情がわずかに険しくなる。

 

「綾小路には気を付けろ」

 

「……どういう意味ですか?」

 

「あいつはオレ以上の……いや、力は計り知れない。何を考えているのか分からない」

 

 あの兄が。

 

 警戒していた。

 

 綾小路清隆という人間を。

 

 ──あなたは一体、何者なの?

 

 その日から、私は綾小路先輩を観察するようになった。

 

 分かったことは少ない。

 

 誰にも執着しない。

 

 勝利にも興味がない。

 

 人を時折助けるが、それは生徒会長の指示で動いているように見える。

 

 影が薄く、何を考えているのか分からない。

 

 だけど。

 

 誰かの危機には、必ず見えないところで手が入る。

 

 それも、必要最低限だけ。

 

 救うのではない。

 

 崩れないように調整する。

 

 それが彼のやり方だった。

 

 私はそのことに、まだ気づいていなかった。

 

 そして、もう一人。

 

 綾小路先輩を語るうえで、避けられない人物がいた。

 

 南雲雅。

 

 二年生でありながら、すでに次期生徒会長と目されている男。

 

 整った顔立ち、明るい態度、誰にでも分け隔てなく声をかける社交性。

 

 一見すれば、理想的なリーダーだった。

 

 けれど、私は彼を見るたびに少しだけ息が詰まった。

 

 彼の笑顔は、人を安心させるためのものではない。

 

 人を従わせるためのものだ。

 

 ある日の放課後。

 

 生徒会棟の廊下で、私は偶然その二人を見た。

 

 南雲先輩と、綾小路先輩。

 

 二人は窓際に立っていた。

 

「綾小路」

 

 南雲先輩は笑っていた。

 

「お前、最近一年に手を出してるらしいな」

 

「南雲、その言い方だと誤解を招く」

 

「事実だろ?一之瀬、椎名、堀北妹。坂柳までお前を見てる」

 

「たまたまだろ」

 

「便利な言葉だな、たまたまって」

 

 南雲先輩は愉快そうに笑う。

 

 けれど、その目は笑っていなかった。

 

「お前は本当に厄介だよ。何もしない顔をして、気づけば場を変えている」

 

「買いかぶりすぎなんじゃないのか?」

 

「そういうところが気に食わない」

 

 空気が少し冷えた。

 

 私は廊下の角で足を止める。

 

 本来なら、盗み聞きなどするべきではない。

 

 けれど、動けなかった。

 

「お前、オレの下につく気はないか?」

 

 南雲先輩の声は軽い。

 

 けれど、それは勧誘ではなかった。

 

 確認。

 

 あるいは、宣戦布告。

 

「何度言われようとも答えは同じだ」

 

 綾小路先輩は即答した。

 

「理由を聞いても?」

 

「強いて言うなら、お前の下につく意味がないからだ」

 

 南雲先輩の笑みが、わずかに固まった。

 

「言ってくれるな」

 

「事実だからな」

 

「オレを敵に回しても?」

 

「もう敵対しているつもりだったが」

 

 その瞬間。

 

 私は背筋が冷えた。

 

 二人は、既に戦っていた。

 

 私たち一年生が知らないところで。

 

 南雲先輩はしばらく黙り、それから小さく笑った。

 

「やっぱりお前は面白い」

 

「よく言われる」

 

「嘘つけ」

 

「言われない…かもしれないな」

 

「望みを残すな。お前を面白いと思う人間などこの学校にいない」

 

 会話だけを聞けば、冗談に近い。

 

 けれど私には分かった。

 

 南雲先輩は、綾小路先輩を警戒している。

 

 そして綾小路先輩は、南雲先輩を恐れていない。

 

 それどころか。

 

 まるで、最初から南雲先輩の行動を読み切っているようだった。

 

「一つ聞く」

 

 南雲先輩が言った。

 

「オレの周りにいる連中。最近、妙にオレへ報告する前に確認を取るようになった」

 

「良いことじゃないか」

 

「オレはまだ何も言ってない」

 

「組織の透明性が上がったということだろ?」

 

「白々しいな」

 

 南雲先輩は笑う。

 

 けれど、声に苛立ちが混ざっていた。

 

「桐山も、朝比奈も。お前の名前を出すと、少し反応が変わる」

 

「お前は人望がないのか?」

 

「本当に殴りたくなるな、お前」

 

「暴力沙汰は退学だ。生徒会役員がするなんて、よほどの理由があったということか」

 

「分かって言ってるだろ」

 

「まあな」

 

 南雲先輩が、初めて笑みを消した。

 

「お前、どこまで入ってる?」

 

 私は息を呑んだ。

 

 どこまで。

 

 その言葉の意味が、すぐには分からなかった。

 

 けれど、綾小路先輩は分かっているようだった。

 

「必要な範囲までだ」

 

「オレの派閥に?」

 

「派閥というほど強固なものなのか?」

 

「……」

 

「お前の周囲は、お前に従っているようで、実際には利益に従っている。その利益の向きが少し変われば、簡単に向きを変えることが出来る」

 

「お前が変えたのか」

 

「誰が、というより自然に変わっただけだな」

 

「自然に、ね」

 

 南雲先輩の目が細くなる。

 

 綾小路先輩は変わらない。

 

 本当に、少しも。

 

「南雲」

 

「何だ」

 

「お前は人を掌握するのが上手い」

 

「褒めてるのか?」

 

「事実だ」

 

 綾小路先輩は淡々と続けた。

 

「ただ、人を掌握する人間は、自分が掌握される可能性を軽視している」

 

 沈黙。

 

 廊下の空気が止まった。

 

 私は、指先が冷たくなるのを感じた。

 

 南雲先輩が。

 

 あの南雲雅が。

 

 初めて言葉を失っていた。

 

「お前」

 

 低い声。

 

「いつからだ」

 

 綾小路先輩は答えなかった。

 

 ただ、窓の外を見た。

 

「最初から、という答えが嫌なら」

 

 少しだけ間を置いて。

 

「気づいた時には、もう遅かったということなんじゃないか」

 

 その言葉に、南雲先輩は笑った。

 

 乾いた笑いだった。

 

「最悪だな、お前」

 

「よく言われる」

 

「いや、言われてないだろ」

 

「さすが南雲だ」

 

「殴りたい顔をしてやがる」

 

 南雲先輩は髪をかき上げ、深く息を吐いた。

 

「オレの負けってことか?」

 

「勝負をしていたつもりはない」

 

「そういうところだよ」

 

 南雲先輩は苦笑した。

 

「オレは人を動かす。お前は、人が勝手に動いたように見せる」

 

 綾小路先輩は否定しなかった。

 

「気持ち悪いな」

 

「すまないな」

 

「謝る気ないだろ」

 

「ああ」

 

「ないのかよ」

 

「ないな」

 

 そのやり取りに、私は奇妙な寒気を覚えた。

 

 南雲先輩は僅差ではあったが、Aクラスのリーダーで、2年生のリーダーだった。

 

 DクラスからAクラスまでで、ポイントが200程度の差しか、ないのは事実。

 

 しかし、少なくとも、私にはそう見えていた。

 

 人を集め、人を従え、学校全体を自分の盤面にしようとする人間。

 

 けれど。

 

 その南雲先輩でさえ、すでに綾小路先輩の掌の上にいた。

 

 支配する人間が、支配されている。

 

 それに気づいた瞬間、私は初めて理解した。

 

 綾小路清隆という人間は、勝ちに行っているのではない。

 

 彼の周囲では、勝敗がいつの間にか決まっている。

 

 誰も気づかないうちに。

 

 本人さえ、勝負が始まったことに気づかないうちに。

 

「綾小路」

 

 南雲先輩が言った。

 

「堀北妹には手を出すなよ」

 

 心臓が跳ねた。

 

 なぜ、私の名前が出るのか。

 

 綾小路先輩は少しだけ沈黙した。

 

「なぜだ」

 

「オレが気に入ってるから」

 

「嘘をつけ」

 

「即答かよ」

 

「お前は堀北鈴音を気に入っていない。堀北会長の妹という駒として見ているだけだ」

 

「お前は違うのか?」

 

 その問いに。

 

 綾小路先輩はすぐには答えなかった。

 

 私は息を止める。

 

 彼の横顔は、相変わらず読めない。

 

 けれど、沈黙だけが少し長かった。

 

「壊れると困るヤツがいる」

 

 やがて、彼は言った。

 

「それだけだ」

 

 胸が、痛んだ。

 

 分かっていたはずなのに。

 

 それでも、聞きたくなかった。

 

 南雲先輩はしばらく綾小路先輩を見ていた。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「それだけ、ね」

 

 その笑い方は、どこか含みがあった。

 

 まるで、綾小路先輩本人よりも先に、何かに気づいたような笑み。

 

「お前さ」

 

「何だ?」

 

「案外、自分のこと分かってないよな」

 

「そうかもしれないな」

 

「ああ」

 

 南雲先輩は背を向ける。

 

「だから面白いんだよ、お前は」

 

 彼はそのまま歩き去った。

 

 残された綾小路先輩は、しばらく窓の外を見ていた。

 

 私は動けなかった。

 

 見てはいけないものを見た。

 

 そう思った。

 

 南雲雅すら掌握する人間。

 

 その人が、私を見ていた。

 

 壊れると困る。

 

 ただそれだけの理由で。

 

 なのに。

 

 その言葉が、なぜか完全な嘘には聞こえなかった。

 

 だから余計に、苦しかった。

 

 

 二学期に入り、綾小路先輩からの連絡は少し増えた。

 

 [一之瀬に借りを作るな]

 

 [坂柳有栖には近づきすぎるな]

 

 [椎名ひよりは信用していい。ただし、全部は話すな]

 

 どれも短い。

 

 説明はない。

 

 けれど、不思議とその通りにすると最悪の事態を避けられた。

 

 一之瀬帆波。

 

 坂柳有栖。

 

 椎名ひより。

 

 同学年の中でも、彼女たちは明らかに異質だった。

 

 そして三人とも、綾小路先輩を知っていた。

 

 一之瀬さんは、彼と話す時だけ少し表情が柔らかくなる。

 

 椎名さんは、図書館に本を返す時に見かけたが、彼と本の話をしていた。

 

 坂柳さんは、彼を見る時だけまるで玩具を見つけた子どものように目を細める。

 

 そして鬼龍院先輩。

 

 あの人は隠す気すらなかった。

 

「綾小路、お前は本当につまらない顔をしているな」

 

「またその話題か」

 

「でも、そこが私は好きなんだ」

 

「趣味が悪いな」

 

「ああ、知ってる」

 

 二人の会話を見た時、胸の奥が少しだけざわついた。

 

 鬼龍院先輩は楽しそうだった。

 

 綾小路先輩も、突き放しているようで突き放していない。

 

 彼は可愛い女子に好かれていた。

 

 一之瀬さんにも。

 

 椎名さんにも。

 

 坂柳さんにも。

 

 鬼龍院先輩にも。

 

 そして彼自身は、その誰にも興味がないように見えた。

 

 それがなぜか、ひどく腹立たしかった。

 

 ◇

 

 冬の特別試験で、私は大きなミスをした。

 

 情報の真偽を見誤り、Dクラスを窮地に陥れた。

 

 このままでは私の責任になる。

 

 信頼も失う。

 

 退学者が出る可能性すらある。

 

 そう覚悟した。

 

 だが、状況は突然変わった。

 

 相手側の不正が発覚した。

 

 私が見落とした証拠が、匿名で提出されていた。

 

 偶然。

 

 そう考えるには、あまりにも出来すぎていた。

 

 私は誰が動いたのかを知りたくなった。

 

 そして、聞いてしまった。

 

 旧校舎近くの階段。

 

 南雲先輩の声。

 

「お前、堀北妹を気に入ってるのか?」

 

「南雲、前も言ったと思うが、オレにそんな概念はない」

 

 綾小路先輩の声だった。

 

「じゃあ、なんで助ける?オレにはお前が堀北妹に執着しているように見える」

 

 私の心臓が跳ねた。

 

 綾小路先輩は、少しの沈黙の後、言った。

 

「壊れると困るからだ」

 

 その言葉に、身体が冷えた。

 

 壊れると困る。

 

 それは、人に向ける言葉ではなかった。

 

 道具。

 

 駒。

 

 備品。

 

 そういうものへの言葉だった。

 

 南雲先輩が笑う。

 

「物みたいに言うなよ」

 

 綾小路先輩は言った。

 

「人として扱う方が、難しいんだ」

 

 私はその場を離れた。

 

 泣きそうだった。

 

 怒っているのか、傷ついたのか、自分でも分からなかった。

 

「学の妹か」

 

 背後から声がした。

 

 振り返ると、綾小路先輩がいた。

 

「聞かれていたか」

 

「はい」

 

 私は睨んだ。

 

「あなたは最低ですね」

 

「そうかもしれないな」

 

「否定しないんですか?」

 

「否定した方がいいのか?」

 

 その返答に、胸が痛くなった。

 

「私は、あなたに感謝していたわ」

 

「感謝されることはしていない」

 

「そうね。あなたは私を助けたんじゃない。壊れると困るから、衝撃から守っただけ」

 

 綾小路先輩は何も言わなかった。

 

 沈黙が肯定に聞こえる。

 

「あなたは、どうしてそんなに平気なの?」

 

「お前にはオレが平気に見えるのか」

 

「見えるわ」

 

「なら、そうなんだろうな」

 

「ふざけないで」

 

 私は一歩近づいた。

 

「あなたは何なの?人を見て、測って、必要なら手を出して、終わったら何もなかった顔をする。そんな風に生きていて、苦しくないの?」

 

 彼は私を見ていた。

 

 怒りもない。

 

 苛立ちもない。

 

 ただ静かだった。

 

「オレを理解しようとするのは、やめた方がいい」

 

「またそれ?」

 

「忠告だ」

 

「兄さんと同じことを言うのね」

 

「学は正しい人間だ」

 

「私は、そう言われるのが一番嫌い」

 

 彼はわずかに目を伏せた。

 

「そうだろうな」

 

 その一言が、なぜか私を傷つけた。

 

 理解されている。

 

 けれど、受け入れられてはいない。

 

 私は気づけば尋ねていた。

 

「あなたは、誰も好きにならないの?」

 

 綾小路先輩は、少し黙った。

 

 そして言った。

 

「必要なら、そう見せることはできる」

 

 私の中で、何かが折れた。

 

 この人は、誰も愛せない。

 

 いや。

 

 それより残酷なことに。

 

 愛するふりなら、できるのだ。

 

「もういいわ」

 

 私は背を向けた。

 

「あなたのことなんて、理解したくもない」

 

 彼は追ってこなかった。

 

 それが当然なのに。

 

 胸が痛かった。

 

 

 私は綾小路先輩を避けた。

 

 廊下で見かけても視線を外す。

 

 図書館には行かない。

 

 生徒会棟にも近づかない。

 

 けれど、一度意識したものは勝手に目へ入ってくる。

 

 一之瀬さんが彼と話している。

 

 椎名さんが彼に本を勧めている。

 

 坂柳さんが彼を見て笑っている。

 

 鬼龍院先輩が、彼の隣で楽しそうに歩いている。

 

 誰もが、彼に惹かれているように見えた。

 

 なのに彼は、誰にも手を伸ばさない。

 

 ある雪の日、私は校舎裏で鬼龍院先輩と出会った。

 

「やあ、妹ちゃん」

 

「その呼び方、やめてもらえますか」

 

「じゃあ鈴音ちゃん?」

 

「堀北で結構です」

 

 鬼龍院先輩は笑った。

 

「清隆と喧嘩でもしたか?」

 

 綾小路清隆だ。

 

「していません」

 

「そうか。最近、アイツを見ていないみたいだが」

 

「あなたには関係ないでしょう」

 

「そうだな」

 

 鬼龍院先輩は空を見上げ、笑った。

 

「でも清隆は、案外寂しがりだからな」

 

「……は?」

 

「意外に思うか?」

 

「あり得ません」

 

「本当に人に興味がない人間は、あんなに人を見ないよ」

 

 私は黙った。

 

「ヤツは見すぎてる。見て、測って、諦める。それを繰り返してる」

 

 鬼龍院先輩の声は、いつもの軽さを失っていた。

 

「だから寂しがりなんだと思う。本人は絶対認めないだろうけどな」

 

「あなたは、綾小路先輩が好きなの?」

 

 言ってから、後悔した。

 

 けれど鬼龍院先輩はあっさり答えた。

 

「好きだ。愛していると言ってもいい」

 

 胸が痛んだ。

 

「でも、恋人にしたいとか、独占したいとか、そういうのとは少し違うかな」

 

「なら、何ですか」

 

「見ていたい」

 

 鬼龍院先輩は言った。

 

「彼がいつか、誰かに負けるところを」

 

 その答えは、理解できなかった。

 

 けれど。

 

 私は違うと思った。

 

 負けるところを見たいわけじゃない。

 

 壊れるところを見たいわけじゃない。

 

 ただ。

 

 あの人が本当に一人なら。

 

 それが嫌だった。

 

 ◇

 

 一年生の三月末。

 

 兄さんの卒業式。

 

 兄が卒業すれば、すべてが少し変わる。

 

 綾小路先輩と兄を繋いでいたものも。

 

 私が彼に頼る言い訳も。

 

 全部、なくなる気がした。

 

 だから私は、花を買った。

 

 ネットで注文した、小さなブリザーブドフラワー。

 

 派手すぎないもの。

 

 でも、ちゃんと残るもの。

 

 私はメッセージを送った。

 

 [卒業式の後、懇親会終わりで良いので校舎裏に来て頂けますか?]

 

 送った後、何度も後悔した。

 

 それでも消せなかった。

 

 私は、自分の気持ちに決着をつけたかった。

 

 校舎裏。

 

 桜が舞う。

 

 私は花を握りしめて、彼を待った。

 

 来ないかもしれない。

 

 その結末もある。

 

 けれど。

 

 足音がした。

 

 振り返ると、綾小路先輩がいた。

 

「待たせたか」

 

「……少しだけ」

 

「なら悪かった」

 

「本当に思ってますか?」

 

「多少は」

 

 相変わらずだ。

 

 それが、どうしようもなく嬉しい。

 

 私は花を差し出した。

 

「これを」

 

「オレに?」

 

「他に誰がいるんですか」

 

「学かと。オレはまだ一年あるしな」

 

「兄さんには別で渡しました」

 

「そうか」

 

 彼は花を受け取った。

 

 その手つきが、ひどく丁寧だった。

 

 胸が苦しくなる。

 

「あの」

 

 声が震えた。

 

「私は、あなたが嫌いでした」

 

「そうだろうな」

 

「何を考えているか分からないし、急に突き放すし、説明もしてくれない。メールも必要最低限しか返さない」

 

「耳が痛いな」

 

「でも」

 

 私は息を吸った。

 

「あなたが私を守ってくれていたことも、知っています」

 

 綾小路先輩は黙っていた。

 

「善意じゃないのかもしれない。兄さんのためだったのかもしれない。あなたの目的のために、私が必要だっただけかもしれない」

 

 桜が散る。

 

 視界が滲む。

 

「それでも、私は嬉しかった」

 

 彼の目が、ほんの少しだけ揺れた気がした。

 

「綾小路先輩」

 

「何だ」

 

「私は、あなたが好きです」

 

 言った。

 

 言ってしまった。

 

 長い沈黙。

 

 心臓がうるさい。

 

 綾小路先輩は花を見て、それから私を見た。

 

「堀北鈴音」

 

 初めて、名前だけで呼ばれた。

 

「オレは、お前が思っているような人間じゃない」

 

「知っています」

 

「優しくもない」

 

「知っています」

 

「誰かを幸せにする方法も、分からない」

 

「それも、知っています」

 

「それでもか」

 

 私は頷いた。

 

「それでもです」

 

 綾小路先輩は、困ったように息を吐いた。

 

 その顔が、少しだけ人間らしく見えた。

 

「参ったな」

 

 そう呟いた瞬間。

 

 世界が白く滲んだ。

 

 桜が遠ざかる。

 

 綾小路先輩の顔がぼやける。

 

 声だけが残った。

 

「お前は、本当に面倒だな」

 

 ◇

 

 目が覚めると、薄暗い天井が見えた。

 

 知らない天井。

 

 いや、知らない場所ではない。

 

 高層ホテルの一室。

 

 窓の外には夜景が広がっている。

 

 私はテーブルの上で、座ったまま寝ていた。

 

 テーブルの上にあるブリザードフラワーから、かすかに蜜の匂いがした。

 

 こんな状態だから汗で気持ち悪いかと思ったが、そんなことはなかった。

 

 澄み切った空気、何かが変わった感覚。

 

 景色がはっきりと見えた。

 

 私が私を見下ろして、微笑んでいた。

 

 煙草の匂い。

 

「起きたか」

 

 低い声。

 

 私はゆっくり顔を向けた。

 

 窓際に、綾小路清隆がいた。

 

 高校生ではない。

 

 スーツ姿の、少し大人になった綾小路くん。

 

 指先には煙草。

 

 夜景を背に、彼は静かに煙を吐いていた。

 

「……夢?」

 

「何が」

 

「あなたが高校生だった」

 

「昔は高校生だったな」

 

「そういう意味じゃないわ」

 

 私は額に手を当てた。

 

 夢を見ていた。

 

 兄さんの卒業式。

 

 校舎裏。

 

 桜。

 

 プリザーブドフラワー。

 

 告白。

 

 全部、夢だった。

 

 いや。

 

 半分は、夢ではないのかもしれない。

 

 変な体制で寝てしまったせいか、身体をほぐしたくなる。

 

 身体を起こし、ベッドの横に腰を掛け、背伸びをした。

 

「少しの時間で随分うなされていた」

 

「変な夢だったの」

 

「オレが出てきたのか」

 

「ええ」

 

「それは悪夢だな」

 

 私は少し笑った。

 

「そうね。あなたがとても残酷だった」

 

「現実と変わらないな」

 

「そこは否定しなさい」

 

 綾小路くんは灰皿に煙草を押し付けた。

 

 そして、ベッドの横に腰を下ろす。

 

「水はいるか」

 

「……お願い」

 

 渡されたペットボトルを受け取る。

 

 指先が触れた。

 

 その温度で、ようやく現実に戻った。

 

 私はもう高校生ではない。

 

 兄の影を追っていた少女でもない。

 

 そして綾小路くんも、もう先輩ではない。

 

 それでも。

 

 胸の奥にある感情だけは、あの頃から変わっていなかった。

 

「ねえ」

 

「何だ」

 

「私、夢の中でもあなたに告白していたわ」

 

 綾小路くんは少し黙った。

 

「結果は?」

 

「途中で目が覚めた」

 

「それは残念だな」

 

「なら、今続きをしてもいい?」

 

 彼がこちらを見る。

 

 静かな目。

 

 昔と変わらない。

 

 でも、昔より少しだけ柔らかい。

 

 私は息を吸った。

 

「私は、あなたが好き」

 

 綾小路くんはしばらく黙っていた。

 

 そして、小さく息を吐く。

 

「知ってる」

 

「……最低ね」

 

「何度か聞いたからな」

 

「でも、ちゃんと返事を聞いてない」

 

「そうだったか」

 

「そうよ」

 

 彼は少し困った顔をした。

 

 それが可笑しくて、愛おしかった。

 

「オレは、あまり上手く言葉を表現できないんだ」

 

「知ってるわ」

 

「お前といると、予定が狂う」

 

「それは良かった」

 

「面倒も増える」

 

「我慢しなさい」

 

「だが」

 

 彼は私の手に触れた。

 

 高校生の頃より少し大きく、煙草の匂いがする手。

 

「お前が隣にいるのは、悪くない」

 

 私は笑った。

 

「それが返事?」

 

「精一杯だ」

 

「本当に不器用ね」

 

「よく言われる」

 

 私は彼の肩に頭を預けた。

 

 綾小路くんは少しだけ固まったけれど、逃げなかった。

 

 窓の外では、夜景が静かに輝いている。

 

 夢の中の桜はもうない。

 

 けれど、あの時言えなかった言葉は、ちゃんとここに届いた。

 

「煙草、減らしなさい」

 

「努力する」

 

「嘘ね」

 

「バレたか」

 

 私は笑った。

 

 その時。

 

 綾小路くんも、笑った。

 

 ほんの少しではなかった。

 

 困ったような、諦めたような、それでも確かに優しい笑み。

 

 私は不覚にも息を止めた。

 

「……何よ」

 

「いや」

 

「笑うところじゃないでしょう」

 

「そうだな」

 

 そう言って、彼は私の顎に指を添えた。

 

 近い。

 

 煙草の匂い。

 

 夜の匂い。

 

 そして、昔から変わらない彼の温度。

 

「堀北」

 

「……何」

 

「嫌なら止める」

 

 その言葉だけで、胸がいっぱいになった。

 

 だから私は、目を逸らさなかった。

 

「嫌じゃないわ」

 

 綾小路くんは、静かに唇を重ねた。

 

 優しいキスだった。

 

 残酷な人のくせに。

 

 誰も救わない人のくせに。

 

 どうしてこんな時だけ、こんなに丁寧なのだろう。

 

 唇が離れる。

 

 私は何も言えなかった。

 

 綾小路くんの手が、私の肩からゆっくり下りる。

 

 そして胸元に触れかけた瞬間、私は反射的にその手を掴んだ。

 

「ちょっと」

 

 彼が止まる。

 

「嫌か」

 

「……嫌じゃないけど」

 

 私は顔を背けた。

 

 熱い。

 

 頬が、信じられないくらい熱い。

 

「順番というものがあるでしょう」

 

 綾小路くんは少し黙った後、また笑った。

 

「それは難しいな」

 

「何がよ」

 

「オレは、そういう順番に詳しくない」

 

「でしょうね」

 

 私は彼の手を離さなかった。

 

 離さないまま、少しだけ握る。

 

「だから、私が教えてあげる」

 

「それは助かる」

 

「調子に乗らないで」

 

「分かった」

 

「絶対分かってないわ」

 

 そう言いながら、私はまた彼の肩に額を預けた。

 

 残酷で。

 

 不器用で。

 

 面倒で。

 

 どうしようもなく分かりにくい人。

 

 それでも。

 

 この人の隣なら、悪くない。

 

 夢の中の桜は消えた。

 

 けれど、あの頃から続いていた私の恋は、ようやくここで目を覚ました。

 

 




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