〇あらすじ
高育卒業後に一年姿を消した綾小路が、日本に帰ってきました。
後半部分がその続きとなっています。
もし本作が気になる方はどうぞお読みください。
【ボーナスステージ】あなたは、誰も救わない
1
高校二年生の三月末。
一つ上の先輩たちの卒業式。
私は、校舎裏の桜が舞う場所で、寮で活けた花を手に待っていた。
去年はネットで注文したブリザードフラワーだったか。
──来てくれるだろうか。
来ない。
その結末は、十分にあり得る。
一昨日送った文章を、私は何度も読み返した。
[卒業式の後、懇親会終わりで良いので校舎裏に来て頂けますか?]
送った直後、顔から火が噴きそうになった。
削除できるならしたかった。
間違いでした、と送ることも出来た。
でも、出来なかった。
これは、自分自身で散々悩んで、ようやく決めたことだったから。
私は、綾小路清隆という人間に会わなければならない。
そして。
また、花を渡さなければならない。
◇
そもそもの始まりは、二年前。
高度育成高等学校に入学した直後だった。
私は兄を追って、この学校に来た。
堀北学。
三年Aクラス。
生徒会長。
私にとって、兄はずっと目標だった。
けれど入学早々、私は現実を突きつけられる。
Dクラス。
四月に支給された大量のプライベートポイントに浮かれたクラスメイトたちは、授業態度や遅刻、私語で評価を下げ、クラスポイントは一気にゼロになった。
毎月10万円あった小遣いが、翌月にはゼロ。
当然、クラスは混乱した。
「ね、堀北さん。ちょっと良いかなぁ?」
声をかけてきたのは、櫛田桔梗さんだった。
クラスの中心。
誰にでも優しく、誰からも好かれる女子。
私とは正反対の人間。
「何かしら、櫛田さん」
「あのさぁ、三年生にお兄さんがいるよね?」
嫌な予感がした。
「生徒会長の堀北先輩。堀北さん、結構話す?もし仲良いなら繋いでもらえないかな?」
「おあいにく様ね。私は兄さんに見捨てられているから無理よ」
「でも兄妹でしょ?クラスの状況、分かってるよね。蜘蛛の糸でも掴みたいって状況なんだけど……」
その気持ちは分かる。
でも、無理なものは無理だ。
「僕からも頼むよ、堀北さん」
平田君もやって来た。
Dクラスでは、彼と櫛田さんがリーダーのような役割を担っている。
「二人同時に言ってくるということは、クラスの総意なのかしら?」
私はなるべく冷静に言った。
ここで彼らを敵に回すのは得策ではない。
「他に中学の同級生で仲の良い先輩とか、協力してくれそうな他クラスはいないの?」
「残念ながらいないんだ。部活の先輩だった人で、生徒会役員がいるんだけど……」
「それって南雲先輩のことかな?」
櫛田さんが口を挟む。
「うん。でも、その南雲先輩もちょっと頼れそうになくてね」
生徒会。
この学校で強い権限を持つ組織。
頼るなら、確かにそこだ。
「一之瀬さんはどうだった?生徒会に入ったんだよね?」
櫛田さんが言う。
「なんとかBクラスと同盟を組むことは出来ないかな」
「うん。一之瀬さんは生徒会長と、書記の人がいる時に希望したら通してもらえたって。同盟をお願いしてみようかなぁ」
話は私のいないところで収束しかけていた。
「なら、私は不要ということでいいかしら?」
「ううん。もしダメだったらお願いするかもしれないから、考えておいてもらっても良いかな?」
櫛田さんはそう言った。
私は曖昧に頷いた。
そしてその日。
帰り道のケヤキモールで、私はとある二人組を見た。
一之瀬帆波。
一年生の人気者。
その隣に、一人の男子生徒がいた。
無表情なイケメン。
眠そうな目。
ゆったりと、落ち着いた雰囲気。
恐らく二年生。
恋愛に詳しくない私でも、一之瀬さんが彼を意識していることは何となく分かった。
けれど彼は、彼女をまるで相手にしていないように見えた。
身体を寄せる一之瀬さんに、何かを言う。
彼女は申し訳なさそうに笑い、少し距離を取った。
その表情は、親しい相手にだけ見せるものだった。
私は思わず見ていた。
すると、その男子生徒がこちらを見た。
そして、一之瀬さんに何かを告げ、私の方へ歩いてくる。
「お前は学の妹だな」
第一声がそれだった。
「……なんでしょうか、先輩」
「急に悪い。オレは綾小路清隆という。もし今、急ぐ予定がないなら、少し時間を貰えないか。聞きたいことがある」
綾小路清隆。
その名前を、私はまだ知らなかった。
「少しだけなら」
「助かる。オレの仕事を一部手伝って欲しくてな。一之瀬と一年の協力者を探していたんだが、CとDだけ条件に合う生徒がいなかった。お前なら合致している」
「綾小路先輩の仕事……ですか?」
彼は頷かない。
ただ、私を見る。
「無条件で協力しろとは言わない。協力してくれるなら、クラスポイントがゼロのお前のクラスに少し助言をする。それと、お前の安全を保障する。働きに応じてプライベートポイントも払う」
「協力の内容は?」
「契約するまで答えられない」
不気味だった。
あまりにも淡々としている。
けれど、同時に悪くない提案だった。
「毎月1万ポイントを送る」
「1万……」
今のDクラスには、千ポイントでも価値がある。
「ただし秘密を守れる人間でなければならない。オレとここで会ったことも、契約内容も、他言しないこと」
「もし破ったら?」
「オレが困る」
「私が、ではなく?」
「オレが」
一瞬、会話の調子が崩れた。
「一年の女子に定期的にポイントを渡していると知られたら、鬼龍院あたりに怒られそうだからな」
「鬼龍院先輩というのは、お付き合いしている人ですか?」
「そんな事実はない。あいつが何と言っているかは知らないが」
少しだけ、空気が緩んだ。
この人は不気味だ。
でも、完全に冷たいわけではない。
「私の安全の保障というのは?」
「退学の目がお前に向かないようにする」
「どういう意味ですか?」
「その質問は、オレに同じ答えを言えということか?」
二度目の突き放し。
私は思わず息を詰めた。
すると彼は、少しだけ黙った後、言った。
「悪い。言葉を強く感じさせたなら謝る。鬼龍院にもよく言われるが、オレはコミュニケーションが下手らしい。お前を怖がらせるつもりはない」
「……いえ、私もしつこく聞きすぎました」
「なら、お互い様だな」
変な人。
不気味で、論理的で、少しだけ不器用。
そしてなぜか、目が離せない。
私は一日考えた末、契約を結ぶことにした。
それが。
私と綾小路清隆の始まりだった。
2
契約を結んだ。
けれど、最初の二ヶ月、彼からの接触はほとんどなかった。
毎月1万ポイントだけが、一方的に振り込まれる。
こちらから連絡するのも不自然で、私は甘んじて受け取った。
そんなある日の昼食時。
食堂で、私は兄と綾小路先輩が同じテーブルで食事をしているところを見た。
兄。
綾小路先輩。
南雲雅。
そして、鬼龍院楓花。
鬼龍院先輩は利発そうで、私よりずっと大人びた女性だった。
彼女はトレーを持ち、恭しく綾小路先輩の前にどんぶりと味噌汁、水を並べる。
「女の子をメイドみたいに使うなんて……」
思わずそんな感想が浮かんだ。
けれど、鬼龍院先輩は嫌がっているどころか、楽しそうだった。
食堂全体が不自然に静かだった。
三年と二年の中心にいるような四人。
まるで、あのテーブルだけが学校の裏側を管理しているように見える。
鬼龍院先輩の高らかな笑い声が、ときおり食堂に響いた。
私は視線を逸らし、一年生の席に向かう。
その直後、見慣れないメールアドレスから連絡が来た。
[Dクラスの須藤に目を向けておけ]
綾小路先輩だ。
[須藤くんが、何か?]
すぐに返信する。
[こちらで対処することもある。フォローはお前に任せる]
[何があったのでしょうか]
返信はなかった。
私は契約時に言われた通り、メールを消した。
一週間後。
須藤君がCクラスと揉めた。
だが、たまたま居合わせた生徒会の二年生とその取り巻きが仲裁に入り、大事にはならなかったらしい。
須藤君は「不思議なこともあるもんだ」と笑っていた。
須藤君は、生徒会の人を、金髪の人。
と言っていた。
私は笑えなかった。
偶然ではない。
表向きでは南雲先輩かと思うが、その実裏では綾小路先輩が動いた。
私にはそう分かった。
◇
数ヶ月が経つ頃には、兄がただの生徒会長ではないことを知った。
三年Aクラスのリーダー。
さらに、二年生からも一年生からも慕われる存在。
兄は高校に入って、さらに遠くなっていた。
そんな兄を目指すために、私はDクラスの中で少しずつ動き始めた。
孤立していた私が、クラスのために発言するようになった。
それが正しいのかは分からない。
けれど、変わらなければ上には行けない。
そう思うようになった。
ある日、兄に呼び止められた。
「鈴音、久しぶりだな」
「兄さん。まさか高校で声をかけていただけるなんて」
「あるやつから、お前のことを聞いた」
心臓が跳ねた。
「上を目指しているそうだな」
「はい。Dクラスからのスタートですが、兄さんのようなAクラスのリーダーを目指します」
兄はじっと私を見た。
「顔が変わったな」
「はい?」
「角が取れた、と言えばいいのか。何が作用したのかは分からないが、良い顔をしている」
初めて、兄にそんなことを言われた。
嬉しかった。
けれど同時に、胸の奥がざわついた。
私を変えたもの。
それはきっと、兄ではない。
「今日話しかけたのには理由がある」
兄は続けた。
「オレと同じ生徒会にいる二年生、綾小路という男を知っているか」
息が詰まる。
「……いえ、知りません」
嘘をついた。
兄は「そうか」とだけ言った。
私は思わず聞く。
「その方が、何なのでしょう」
兄の表情がわずかに険しくなる。
「綾小路には気を付けろ」
「……どういう意味ですか?」
「あいつはオレ以上の……いや、力は計り知れない。何を考えているのか分からない」
あの兄が。
警戒していた。
綾小路清隆という人間を。
──あなたは一体、何者なの?
その日から、私は綾小路先輩を観察するようになった。
分かったことは少ない。
誰にも執着しない。
勝利にも興味がない。
人を時折助けるが、それは生徒会長の指示で動いているように見える。
影が薄く、何を考えているのか分からない。
だけど。
誰かの危機には、必ず見えないところで手が入る。
それも、必要最低限だけ。
救うのではない。
崩れないように調整する。
それが彼のやり方だった。
私はそのことに、まだ気づいていなかった。
そして、もう一人。
綾小路先輩を語るうえで、避けられない人物がいた。
南雲雅。
二年生でありながら、すでに次期生徒会長と目されている男。
整った顔立ち、明るい態度、誰にでも分け隔てなく声をかける社交性。
一見すれば、理想的なリーダーだった。
けれど、私は彼を見るたびに少しだけ息が詰まった。
彼の笑顔は、人を安心させるためのものではない。
人を従わせるためのものだ。
ある日の放課後。
生徒会棟の廊下で、私は偶然その二人を見た。
南雲先輩と、綾小路先輩。
二人は窓際に立っていた。
「綾小路」
南雲先輩は笑っていた。
「お前、最近一年に手を出してるらしいな」
「南雲、その言い方だと誤解を招く」
「事実だろ?一之瀬、椎名、堀北妹。坂柳までお前を見てる」
「たまたまだろ」
「便利な言葉だな、たまたまって」
南雲先輩は愉快そうに笑う。
けれど、その目は笑っていなかった。
「お前は本当に厄介だよ。何もしない顔をして、気づけば場を変えている」
「買いかぶりすぎなんじゃないのか?」
「そういうところが気に食わない」
空気が少し冷えた。
私は廊下の角で足を止める。
本来なら、盗み聞きなどするべきではない。
けれど、動けなかった。
「お前、オレの下につく気はないか?」
南雲先輩の声は軽い。
けれど、それは勧誘ではなかった。
確認。
あるいは、宣戦布告。
「何度言われようとも答えは同じだ」
綾小路先輩は即答した。
「理由を聞いても?」
「強いて言うなら、お前の下につく意味がないからだ」
南雲先輩の笑みが、わずかに固まった。
「言ってくれるな」
「事実だからな」
「オレを敵に回しても?」
「もう敵対しているつもりだったが」
その瞬間。
私は背筋が冷えた。
二人は、既に戦っていた。
私たち一年生が知らないところで。
南雲先輩はしばらく黙り、それから小さく笑った。
「やっぱりお前は面白い」
「よく言われる」
「嘘つけ」
「言われない…かもしれないな」
「望みを残すな。お前を面白いと思う人間などこの学校にいない」
会話だけを聞けば、冗談に近い。
けれど私には分かった。
南雲先輩は、綾小路先輩を警戒している。
そして綾小路先輩は、南雲先輩を恐れていない。
それどころか。
まるで、最初から南雲先輩の行動を読み切っているようだった。
「一つ聞く」
南雲先輩が言った。
「オレの周りにいる連中。最近、妙にオレへ報告する前に確認を取るようになった」
「良いことじゃないか」
「オレはまだ何も言ってない」
「組織の透明性が上がったということだろ?」
「白々しいな」
南雲先輩は笑う。
けれど、声に苛立ちが混ざっていた。
「桐山も、朝比奈も。お前の名前を出すと、少し反応が変わる」
「お前は人望がないのか?」
「本当に殴りたくなるな、お前」
「暴力沙汰は退学だ。生徒会役員がするなんて、よほどの理由があったということか」
「分かって言ってるだろ」
「まあな」
南雲先輩が、初めて笑みを消した。
「お前、どこまで入ってる?」
私は息を呑んだ。
どこまで。
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
けれど、綾小路先輩は分かっているようだった。
「必要な範囲までだ」
「オレの派閥に?」
「派閥というほど強固なものなのか?」
「……」
「お前の周囲は、お前に従っているようで、実際には利益に従っている。その利益の向きが少し変われば、簡単に向きを変えることが出来る」
「お前が変えたのか」
「誰が、というより自然に変わっただけだな」
「自然に、ね」
南雲先輩の目が細くなる。
綾小路先輩は変わらない。
本当に、少しも。
「南雲」
「何だ」
「お前は人を掌握するのが上手い」
「褒めてるのか?」
「事実だ」
綾小路先輩は淡々と続けた。
「ただ、人を掌握する人間は、自分が掌握される可能性を軽視している」
沈黙。
廊下の空気が止まった。
私は、指先が冷たくなるのを感じた。
南雲先輩が。
あの南雲雅が。
初めて言葉を失っていた。
「お前」
低い声。
「いつからだ」
綾小路先輩は答えなかった。
ただ、窓の外を見た。
「最初から、という答えが嫌なら」
少しだけ間を置いて。
「気づいた時には、もう遅かったということなんじゃないか」
その言葉に、南雲先輩は笑った。
乾いた笑いだった。
「最悪だな、お前」
「よく言われる」
「いや、言われてないだろ」
「さすが南雲だ」
「殴りたい顔をしてやがる」
南雲先輩は髪をかき上げ、深く息を吐いた。
「オレの負けってことか?」
「勝負をしていたつもりはない」
「そういうところだよ」
南雲先輩は苦笑した。
「オレは人を動かす。お前は、人が勝手に動いたように見せる」
綾小路先輩は否定しなかった。
「気持ち悪いな」
「すまないな」
「謝る気ないだろ」
「ああ」
「ないのかよ」
「ないな」
そのやり取りに、私は奇妙な寒気を覚えた。
南雲先輩は僅差ではあったが、Aクラスのリーダーで、2年生のリーダーだった。
DクラスからAクラスまでで、ポイントが200程度の差しか、ないのは事実。
しかし、少なくとも、私にはそう見えていた。
人を集め、人を従え、学校全体を自分の盤面にしようとする人間。
けれど。
その南雲先輩でさえ、すでに綾小路先輩の掌の上にいた。
支配する人間が、支配されている。
それに気づいた瞬間、私は初めて理解した。
綾小路清隆という人間は、勝ちに行っているのではない。
彼の周囲では、勝敗がいつの間にか決まっている。
誰も気づかないうちに。
本人さえ、勝負が始まったことに気づかないうちに。
「綾小路」
南雲先輩が言った。
「堀北妹には手を出すなよ」
心臓が跳ねた。
なぜ、私の名前が出るのか。
綾小路先輩は少しだけ沈黙した。
「なぜだ」
「オレが気に入ってるから」
「嘘をつけ」
「即答かよ」
「お前は堀北鈴音を気に入っていない。堀北会長の妹という駒として見ているだけだ」
「お前は違うのか?」
その問いに。
綾小路先輩はすぐには答えなかった。
私は息を止める。
彼の横顔は、相変わらず読めない。
けれど、沈黙だけが少し長かった。
「壊れると困るヤツがいる」
やがて、彼は言った。
「それだけだ」
胸が、痛んだ。
分かっていたはずなのに。
それでも、聞きたくなかった。
南雲先輩はしばらく綾小路先輩を見ていた。
そして、少しだけ笑った。
「それだけ、ね」
その笑い方は、どこか含みがあった。
まるで、綾小路先輩本人よりも先に、何かに気づいたような笑み。
「お前さ」
「何だ?」
「案外、自分のこと分かってないよな」
「そうかもしれないな」
「ああ」
南雲先輩は背を向ける。
「だから面白いんだよ、お前は」
彼はそのまま歩き去った。
残された綾小路先輩は、しばらく窓の外を見ていた。
私は動けなかった。
見てはいけないものを見た。
そう思った。
南雲雅すら掌握する人間。
その人が、私を見ていた。
壊れると困る。
ただそれだけの理由で。
なのに。
その言葉が、なぜか完全な嘘には聞こえなかった。
だから余計に、苦しかった。
3
二学期に入り、綾小路先輩からの連絡は少し増えた。
[一之瀬に借りを作るな]
[坂柳有栖には近づきすぎるな]
[椎名ひよりは信用していい。ただし、全部は話すな]
どれも短い。
説明はない。
けれど、不思議とその通りにすると最悪の事態を避けられた。
一之瀬帆波。
坂柳有栖。
椎名ひより。
同学年の中でも、彼女たちは明らかに異質だった。
そして三人とも、綾小路先輩を知っていた。
一之瀬さんは、彼と話す時だけ少し表情が柔らかくなる。
椎名さんは、図書館に本を返す時に見かけたが、彼と本の話をしていた。
坂柳さんは、彼を見る時だけまるで玩具を見つけた子どものように目を細める。
そして鬼龍院先輩。
あの人は隠す気すらなかった。
「綾小路、お前は本当につまらない顔をしているな」
「またその話題か」
「でも、そこが私は好きなんだ」
「趣味が悪いな」
「ああ、知ってる」
二人の会話を見た時、胸の奥が少しだけざわついた。
鬼龍院先輩は楽しそうだった。
綾小路先輩も、突き放しているようで突き放していない。
彼は可愛い女子に好かれていた。
一之瀬さんにも。
椎名さんにも。
坂柳さんにも。
鬼龍院先輩にも。
そして彼自身は、その誰にも興味がないように見えた。
それがなぜか、ひどく腹立たしかった。
◇
冬の特別試験で、私は大きなミスをした。
情報の真偽を見誤り、Dクラスを窮地に陥れた。
このままでは私の責任になる。
信頼も失う。
退学者が出る可能性すらある。
そう覚悟した。
だが、状況は突然変わった。
相手側の不正が発覚した。
私が見落とした証拠が、匿名で提出されていた。
偶然。
そう考えるには、あまりにも出来すぎていた。
私は誰が動いたのかを知りたくなった。
そして、聞いてしまった。
旧校舎近くの階段。
南雲先輩の声。
「お前、堀北妹を気に入ってるのか?」
「南雲、前も言ったと思うが、オレにそんな概念はない」
綾小路先輩の声だった。
「じゃあ、なんで助ける?オレにはお前が堀北妹に執着しているように見える」
私の心臓が跳ねた。
綾小路先輩は、少しの沈黙の後、言った。
「壊れると困るからだ」
その言葉に、身体が冷えた。
壊れると困る。
それは、人に向ける言葉ではなかった。
道具。
駒。
備品。
そういうものへの言葉だった。
南雲先輩が笑う。
「物みたいに言うなよ」
綾小路先輩は言った。
「人として扱う方が、難しいんだ」
私はその場を離れた。
泣きそうだった。
怒っているのか、傷ついたのか、自分でも分からなかった。
「学の妹か」
背後から声がした。
振り返ると、綾小路先輩がいた。
「聞かれていたか」
「はい」
私は睨んだ。
「あなたは最低ですね」
「そうかもしれないな」
「否定しないんですか?」
「否定した方がいいのか?」
その返答に、胸が痛くなった。
「私は、あなたに感謝していたわ」
「感謝されることはしていない」
「そうね。あなたは私を助けたんじゃない。壊れると困るから、衝撃から守っただけ」
綾小路先輩は何も言わなかった。
沈黙が肯定に聞こえる。
「あなたは、どうしてそんなに平気なの?」
「お前にはオレが平気に見えるのか」
「見えるわ」
「なら、そうなんだろうな」
「ふざけないで」
私は一歩近づいた。
「あなたは何なの?人を見て、測って、必要なら手を出して、終わったら何もなかった顔をする。そんな風に生きていて、苦しくないの?」
彼は私を見ていた。
怒りもない。
苛立ちもない。
ただ静かだった。
「オレを理解しようとするのは、やめた方がいい」
「またそれ?」
「忠告だ」
「兄さんと同じことを言うのね」
「学は正しい人間だ」
「私は、そう言われるのが一番嫌い」
彼はわずかに目を伏せた。
「そうだろうな」
その一言が、なぜか私を傷つけた。
理解されている。
けれど、受け入れられてはいない。
私は気づけば尋ねていた。
「あなたは、誰も好きにならないの?」
綾小路先輩は、少し黙った。
そして言った。
「必要なら、そう見せることはできる」
私の中で、何かが折れた。
この人は、誰も愛せない。
いや。
それより残酷なことに。
愛するふりなら、できるのだ。
「もういいわ」
私は背を向けた。
「あなたのことなんて、理解したくもない」
彼は追ってこなかった。
それが当然なのに。
胸が痛かった。
4
私は綾小路先輩を避けた。
廊下で見かけても視線を外す。
図書館には行かない。
生徒会棟にも近づかない。
けれど、一度意識したものは勝手に目へ入ってくる。
一之瀬さんが彼と話している。
椎名さんが彼に本を勧めている。
坂柳さんが彼を見て笑っている。
鬼龍院先輩が、彼の隣で楽しそうに歩いている。
誰もが、彼に惹かれているように見えた。
なのに彼は、誰にも手を伸ばさない。
ある雪の日、私は校舎裏で鬼龍院先輩と出会った。
「やあ、妹ちゃん」
「その呼び方、やめてもらえますか」
「じゃあ鈴音ちゃん?」
「堀北で結構です」
鬼龍院先輩は笑った。
「清隆と喧嘩でもしたか?」
綾小路清隆だ。
「していません」
「そうか。最近、アイツを見ていないみたいだが」
「あなたには関係ないでしょう」
「そうだな」
鬼龍院先輩は空を見上げ、笑った。
「でも清隆は、案外寂しがりだからな」
「……は?」
「意外に思うか?」
「あり得ません」
「本当に人に興味がない人間は、あんなに人を見ないよ」
私は黙った。
「ヤツは見すぎてる。見て、測って、諦める。それを繰り返してる」
鬼龍院先輩の声は、いつもの軽さを失っていた。
「だから寂しがりなんだと思う。本人は絶対認めないだろうけどな」
「あなたは、綾小路先輩が好きなの?」
言ってから、後悔した。
けれど鬼龍院先輩はあっさり答えた。
「好きだ。愛していると言ってもいい」
胸が痛んだ。
「でも、恋人にしたいとか、独占したいとか、そういうのとは少し違うかな」
「なら、何ですか」
「見ていたい」
鬼龍院先輩は言った。
「彼がいつか、誰かに負けるところを」
その答えは、理解できなかった。
けれど。
私は違うと思った。
負けるところを見たいわけじゃない。
壊れるところを見たいわけじゃない。
ただ。
あの人が本当に一人なら。
それが嫌だった。
◇
一年生の三月末。
兄さんの卒業式。
兄が卒業すれば、すべてが少し変わる。
綾小路先輩と兄を繋いでいたものも。
私が彼に頼る言い訳も。
全部、なくなる気がした。
だから私は、花を買った。
ネットで注文した、小さなブリザーブドフラワー。
派手すぎないもの。
でも、ちゃんと残るもの。
私はメッセージを送った。
[卒業式の後、懇親会終わりで良いので校舎裏に来て頂けますか?]
送った後、何度も後悔した。
それでも消せなかった。
私は、自分の気持ちに決着をつけたかった。
校舎裏。
桜が舞う。
私は花を握りしめて、彼を待った。
来ないかもしれない。
その結末もある。
けれど。
足音がした。
振り返ると、綾小路先輩がいた。
「待たせたか」
「……少しだけ」
「なら悪かった」
「本当に思ってますか?」
「多少は」
相変わらずだ。
それが、どうしようもなく嬉しい。
私は花を差し出した。
「これを」
「オレに?」
「他に誰がいるんですか」
「学かと。オレはまだ一年あるしな」
「兄さんには別で渡しました」
「そうか」
彼は花を受け取った。
その手つきが、ひどく丁寧だった。
胸が苦しくなる。
「あの」
声が震えた。
「私は、あなたが嫌いでした」
「そうだろうな」
「何を考えているか分からないし、急に突き放すし、説明もしてくれない。メールも必要最低限しか返さない」
「耳が痛いな」
「でも」
私は息を吸った。
「あなたが私を守ってくれていたことも、知っています」
綾小路先輩は黙っていた。
「善意じゃないのかもしれない。兄さんのためだったのかもしれない。あなたの目的のために、私が必要だっただけかもしれない」
桜が散る。
視界が滲む。
「それでも、私は嬉しかった」
彼の目が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「綾小路先輩」
「何だ」
「私は、あなたが好きです」
言った。
言ってしまった。
長い沈黙。
心臓がうるさい。
綾小路先輩は花を見て、それから私を見た。
「堀北鈴音」
初めて、名前だけで呼ばれた。
「オレは、お前が思っているような人間じゃない」
「知っています」
「優しくもない」
「知っています」
「誰かを幸せにする方法も、分からない」
「それも、知っています」
「それでもか」
私は頷いた。
「それでもです」
綾小路先輩は、困ったように息を吐いた。
その顔が、少しだけ人間らしく見えた。
「参ったな」
そう呟いた瞬間。
世界が白く滲んだ。
桜が遠ざかる。
綾小路先輩の顔がぼやける。
声だけが残った。
「お前は、本当に面倒だな」
◇
目が覚めると、薄暗い天井が見えた。
知らない天井。
いや、知らない場所ではない。
高層ホテルの一室。
窓の外には夜景が広がっている。
私はテーブルの上で、座ったまま寝ていた。
テーブルの上にあるブリザードフラワーから、かすかに蜜の匂いがした。
こんな状態だから汗で気持ち悪いかと思ったが、そんなことはなかった。
澄み切った空気、何かが変わった感覚。
景色がはっきりと見えた。
私が私を見下ろして、微笑んでいた。
煙草の匂い。
「起きたか」
低い声。
私はゆっくり顔を向けた。
窓際に、綾小路清隆がいた。
高校生ではない。
スーツ姿の、少し大人になった綾小路くん。
指先には煙草。
夜景を背に、彼は静かに煙を吐いていた。
「……夢?」
「何が」
「あなたが高校生だった」
「昔は高校生だったな」
「そういう意味じゃないわ」
私は額に手を当てた。
夢を見ていた。
兄さんの卒業式。
校舎裏。
桜。
プリザーブドフラワー。
告白。
全部、夢だった。
いや。
半分は、夢ではないのかもしれない。
変な体制で寝てしまったせいか、身体をほぐしたくなる。
身体を起こし、ベッドの横に腰を掛け、背伸びをした。
「少しの時間で随分うなされていた」
「変な夢だったの」
「オレが出てきたのか」
「ええ」
「それは悪夢だな」
私は少し笑った。
「そうね。あなたがとても残酷だった」
「現実と変わらないな」
「そこは否定しなさい」
綾小路くんは灰皿に煙草を押し付けた。
そして、ベッドの横に腰を下ろす。
「水はいるか」
「……お願い」
渡されたペットボトルを受け取る。
指先が触れた。
その温度で、ようやく現実に戻った。
私はもう高校生ではない。
兄の影を追っていた少女でもない。
そして綾小路くんも、もう先輩ではない。
それでも。
胸の奥にある感情だけは、あの頃から変わっていなかった。
「ねえ」
「何だ」
「私、夢の中でもあなたに告白していたわ」
綾小路くんは少し黙った。
「結果は?」
「途中で目が覚めた」
「それは残念だな」
「なら、今続きをしてもいい?」
彼がこちらを見る。
静かな目。
昔と変わらない。
でも、昔より少しだけ柔らかい。
私は息を吸った。
「私は、あなたが好き」
綾小路くんはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「知ってる」
「……最低ね」
「何度か聞いたからな」
「でも、ちゃんと返事を聞いてない」
「そうだったか」
「そうよ」
彼は少し困った顔をした。
それが可笑しくて、愛おしかった。
「オレは、あまり上手く言葉を表現できないんだ」
「知ってるわ」
「お前といると、予定が狂う」
「それは良かった」
「面倒も増える」
「我慢しなさい」
「だが」
彼は私の手に触れた。
高校生の頃より少し大きく、煙草の匂いがする手。
「お前が隣にいるのは、悪くない」
私は笑った。
「それが返事?」
「精一杯だ」
「本当に不器用ね」
「よく言われる」
私は彼の肩に頭を預けた。
綾小路くんは少しだけ固まったけれど、逃げなかった。
窓の外では、夜景が静かに輝いている。
夢の中の桜はもうない。
けれど、あの時言えなかった言葉は、ちゃんとここに届いた。
「煙草、減らしなさい」
「努力する」
「嘘ね」
「バレたか」
私は笑った。
その時。
綾小路くんも、笑った。
ほんの少しではなかった。
困ったような、諦めたような、それでも確かに優しい笑み。
私は不覚にも息を止めた。
「……何よ」
「いや」
「笑うところじゃないでしょう」
「そうだな」
そう言って、彼は私の顎に指を添えた。
近い。
煙草の匂い。
夜の匂い。
そして、昔から変わらない彼の温度。
「堀北」
「……何」
「嫌なら止める」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
だから私は、目を逸らさなかった。
「嫌じゃないわ」
綾小路くんは、静かに唇を重ねた。
優しいキスだった。
残酷な人のくせに。
誰も救わない人のくせに。
どうしてこんな時だけ、こんなに丁寧なのだろう。
唇が離れる。
私は何も言えなかった。
綾小路くんの手が、私の肩からゆっくり下りる。
そして胸元に触れかけた瞬間、私は反射的にその手を掴んだ。
「ちょっと」
彼が止まる。
「嫌か」
「……嫌じゃないけど」
私は顔を背けた。
熱い。
頬が、信じられないくらい熱い。
「順番というものがあるでしょう」
綾小路くんは少し黙った後、また笑った。
「それは難しいな」
「何がよ」
「オレは、そういう順番に詳しくない」
「でしょうね」
私は彼の手を離さなかった。
離さないまま、少しだけ握る。
「だから、私が教えてあげる」
「それは助かる」
「調子に乗らないで」
「分かった」
「絶対分かってないわ」
そう言いながら、私はまた彼の肩に額を預けた。
残酷で。
不器用で。
面倒で。
どうしようもなく分かりにくい人。
それでも。
この人の隣なら、悪くない。
夢の中の桜は消えた。
けれど、あの頃から続いていた私の恋は、ようやくここで目を覚ました。
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