高育卒業後、1年連絡が取れなかった綾小路は日本へ戻りヒロインズたちと合流を果たす。
一之瀬の発案で、櫛田と綾小路、そして神崎の4人が南国への長期出張へ向かう。
社会人になった一之瀬、櫛田との関係は高校時代よりも曖昧で、大人びていて、どこか歪だった。
そして旅行が進むにつれ、一之瀬帆波の“愛情”は静かに狂気へ変わっていく。
もし本作が気になる方はどうぞお読みください。
1
南国の空は、東京よりも近かった。
空港を出た瞬間、肌にまとわりつく湿気と、潮の匂いが同時に押し寄せてくる。
8月の日本ではまだ感じない種類の熱。
東京はジメっとしているが、南国はカラっとしている。
熱い時期に熱い場所に行くのはどうかと思ったが、正直日本にいるよりずっと心地が良い。
日本の夏は暑すぎる。
気持ち悪い暑さだ。
櫛田桔梗はサングラスを少し下げて、眩しそうに空を見上げた。
「うわ、ほんとに南国って感じ」
「仕事で来ていることを忘れるなよ」
「分かってるって。しゃちょー」
櫛田はわざとらしくそう言って、俺を見る。
高校時代なら、その呼び方には違和感しかなかっただろう。
だが今の俺は、一応は会社を持つ身だった。アメリカで作った資金を元手に日本で事業を開始し、いくつかの関連会社を組み替え、国内外の案件を扱っている。
今回の出張も、その一つ。
南国リゾート地に建設予定の複合施設。ホテル、商業区画、会員制ラウンジ、そして独自決済システムを組み合わせたプロジェクト。
表向きは観光事業。
実態は、資本と情報と人脈が複雑に絡み合う、面倒な案件だった。
「綾小路くん、今度の出張は私に任せてね」
少し離れた場所で、スマホを耳に当てていた一之瀬帆波が振り返る。
白いブラウスに、淡い色のロングスカート。
涼しげな格好なのに、周囲の視線を自然に集めている。
高校時代から、人目を惹く人間ではあった。
だが社会に出た一之瀬は、それを隠すよりも使うことを覚えたように見える。
「神崎くん、ホテルに着いたらすぐ会議室の確認お願いできる?」
電話口ではなく、隣にいた神崎隆二に向けた言葉だった。
「ああ。資料も一式持ってきている」
「ありがとう。あと、午後の打ち合わせ用に、現地スタッフ向けの説明資料を少しだけ短くしておいてくれる?」
「少しだけ、というのは?」
「28ページを8ページくらい」
「……それは少しとは言わない」
「神崎くんならできるよね?」
一之瀬が笑う。
神崎は一秒だけ黙り、ため息をついた。
「分かった。移動中にやる」
「助かる」
そのやり取りを見て、櫛田が小さく笑った。
「一之瀬さん、神崎くんの使い方うまくなったね」
「え?そうかな」
「うん。顎で使ってる」
「そんなことないよ。ね、神崎くん?」
神崎は答えなかった。
代わりにキャリーケースを引きながら、先に歩き出す。
一之瀬は悪びれもせず、その背中に声をかけた。
「神崎くん、タクシー2台お願い」
「……分かっている」
「あと領収書も」
「分かっている」
「宛名は──」
「それも分かっている」
櫛田が俺の横に来て、小声で囁く。
「神崎くん、ちょっと可哀想じゃない?」
「本人が断らないからだろう」
「綾小路くんって、そういうところ冷たいよね」
「事実を言っただけだ」
「そういうところ」
櫛田はそう言って、俺の腕に軽く肘を当てた。
何気ない接触。
だがそれが本当に何気ないものではないことを、俺は知っている。
櫛田とは、定期的に個室で会っている。
仕事の相談という名目で食事をし、飲みに行き、時にはそのまま朝を迎える。
恋人ではない。
少なくとも、俺たちはそう定義している。
定義付けしてしまうと責任が生まれてしまうからだ。
しかし、東京ではなかなか見ない櫛田の肌が露出されるノースリーブ。
そこから覗く膨らみから、先日の件が思い出される。
「何見てるの?」
「いや、見ていない、見えたんだ」
「うそ」
櫛田は笑う。
笑顔だけなら、高校時代と変わらない。
だが今の櫛田は、昔よりずっと近い距離でズカズカと俺の内面に入り込んでくる。
「南国だからって、変な気起こさないでよ?」
「お前が言うのか」
「なにそれ」
「いや…別に」
「ふーん」
櫛田は不満そうに唇を尖らせた。
その表情を見て、一之瀬がこちらに気づく。
「二人とも仲いいね」
声は明るかった。
いつもの一之瀬だった。
「会社の立ち上げメンバーだからね」
櫛田が即答する。
「そっか」
一之瀬は笑う。
「いいことだと思うよ」
何でもない言葉。
それなのに、櫛田の指先が一瞬だけ止まった。
神崎の呼んだタクシーが、ちょうど到着する。
一之瀬に今回の手配を全部任せたが、前のように車を使う選択はしなかったようだ。
確かにそっちの方が合理的か。
俺たちは二台に分かれてホテルへ向かうことになった。
一台目に神崎と一之瀬。
二台目に俺と櫛田。
自然な流れだった。
少なくとも、表面上は。
「綾小路くん」
乗り込む直前、一之瀬が俺を呼び止めた。
「なんだ」
「夜、少し時間ある?」
「仕事の話か?」
「ううん」
一之瀬は微笑んだ。
「旅行の話」
櫛田が、俺の隣で小さく息を吐く。
「考えておく」
「うん。待ってるね」
その言い方が、妙に引っかかった。
待っている。
まるで、それが当然の未来であるかのように。
タクシーのドアが閉まる。
車が走り出してから、櫛田が窓の外を見たまま言った。
「……一之瀬、変わったよね」
「社会に出れば誰でも変わる」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味だ」
「分かってるくせに」
櫛田は俺を見ない。
海沿いの道を車は走る。
青い海。
白い砂。
観光客。
明るい世界。
その中で、櫛田の横顔だけが少し暗く見えた。
「綾小路くんってさ」
「なんだ」
「一之瀬とは、どういう関係なの?」
「社員だ」
「それだけ?」
「それ以外に何がある」
櫛田はそこでようやくこちらを見た。
笑っていた。
だが目は笑っていない。
「じゃあ、私とは?」
「社員だ」
「最低」
「間違ってはいない」
「間違ってるよ」
櫛田は小さく笑い、背もたれに体を預けた。
「ほんと、そういうところ嫌い」
「そうか」
「でも」
車がカーブを曲がる。
櫛田の肩が、俺の肩に触れた。
「そういうところも、知ってるから困るんだよね」
その声は、運転手には聞こえないほど小さかった。
俺は何も答えなかった。
答える必要がないと判断したからだ。
あるいは。
答え方を知らなかったからかもしれない。
だが、俺にも予想を超えた動きをした存在がいた。
一之瀬帆波が、まさか櫛田にあんな影響を与えるとは。
──その時俺は、この出張で起こる、とある結末を想像していなかった。
2
ホテルは海沿いの高台に建っていた。
白い外壁に広いロビー。
ガラス張りの向こうには、夕方に近づく海が広がっている。
部屋は全員1人部屋だった。
一週間の長期滞在。
仕事道具も多く、各自でパプアニューギニアの仕事だけでなく、オンライン会議や資料作成を行う必要もある。
自宅兼事務所に近い状態で予約された、合理的な判断だ。
少なくとも、表面上は。
「じゃあ、午後の7時から1階の会議室で軽く打ち合わせをして。20時から夕食でいいかな?」
一之瀬が手帳を見ながら言う。
「俺は問題ない」
「私も大丈夫」
櫛田が答える。
神崎はノートPCを開きながら言った。
「資料の修正は7時までには間に合わせる」
「さすが神崎くん」
「褒めるくらいなら作業量を減らしてくれ」
「それは無理かな」
にこりと笑う一之瀬。
神崎は再びため息をつく。
高校時代の一之瀬を知っている人間が見れば、彼女を「人を使う女」とは言わないだろう。
だが今の一之瀬は違う。
優しさを失ったわけではない。
むしろ、優しいままだ。
優しいまま、人を動かす。
断られない頼み方を知っている。
相手がどこまでなら引き受けるかを分かっている。
そして神崎は、一之瀬に対して特に断れない。
「神崎」
俺は声をかける。
「なんだ」
「きついなら人を回す」
「いや、問題ない」
「そうか」
「……問題はないが」
神崎は一之瀬の方を見る。
一之瀬はフロントスタッフと笑顔で話していた。
その笑顔を見て、神崎は少しだけ眉を寄せる。
「お前の会社は、人の使い方が似ているな」
「誰と誰がだ」
「お前と一之瀬だ」
「俺はあそこまで愛想よく使わない」
「だから余計に悪い」
神崎はそう言って、ため息をしてPCを閉じた。
その言葉の意味を、俺はあえて考えなかった。
◇
初日の会議は、想定より早く終わった。
現地スタッフとの顔合わせも問題ない。
神崎の資料は8ページに収まり、一之瀬はそれを当然のように使いこなした。
櫛田は場を和ませ、細かい調整を拾った。
俺は全体を見ていた。
この4人で動くのは、思ったより効率がいいかもしれない。
言語とコミュニケーション能力に優れた一之瀬が前に出て、櫛田が柔らかく繋ぎ、神崎が裏側を支え、俺が判断する。
高校時代とは別の形で、役割が噛み合っていた。
夕食後、神崎は資料作成の続きを理由に部屋へ戻った。
櫛田はバーに行きたいと言ったが、一之瀬が明日の朝が早いと笑って止めた。
結果、全員その日は早めに解散した。
はずだった。
──深夜0時前。
俺の部屋のインターホンが鳴る。
モニターを見る。
櫛田だった。
「……何の用だ」
扉を開けると、櫛田は薄手のカーディガンを羽織って立っていた。
髪は乾かした後なのだろう、サラサラで、香水が振りかけられていた。
風呂上がりなのだろうが、スッピンでも綺麗なまま。
もしかしたらスッピンに見せかけ、軽く化粧をしているのかもしれないが、それを言うと長くなるため言わない。
「社長に相談」
「明日じゃダメか?」
「今じゃないとダメ」
「仕事か?」
「仕事じゃないよ」
櫛田は俺を見上げる。
普段の笑顔ではなかった。
不安と、苛立ちと、少しの期待が混ざった顔。
「一之瀬のこと」
俺は扉を少しだけ開けたまま、櫛田を中へ入れた。
部屋には海へ向いたバルコニーがある。
カーテンは開けたままだった。
月明かりと、遠くのホテル照明が床に落ちている。
櫛田はソファに腰を下ろし、膝を抱えた。
「一之瀬、変じゃない?」
「抽象的な言葉だな、具体的には」
「全部」
「それでは分からない」
「分かるでしょ」
櫛田は苛立ったように言った。
「綾小路くんの予定、全部知ってる。神崎さんの動かし方も怖いくらい上手い。私が何か言う前に、先に笑って潰してくる」
「元から優秀だったのと、仕事に慣れて来たんだろ。今回の手配は全て一之瀬に任せているし、前来た時もあいつに現地のキーマンを紹介したんだ」
「本気で言ってる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「分からない」
そう答えると、櫛田は少しだけ目を見開いた。
「綾小路くんでも、分からないんだ」
「人間の変化を完全に読むことはできない」
「ふーん」
櫛田は立ち上がり、俺に近づいた。
「じゃあ私のことは?」
「何がだ」
「今、何考えてるか」
距離が近い。
家で時々嗅ぐ、櫛田好みのコンディショナーの匂いがした。
櫛田は俺のシャツの袖を掴む。
高校時代の彼女なら、こんな掴み方はしなかった。
もっと演技が上手かった。
もっと周囲を見ていた。
今は違う。
二人きりの時だけ、櫛田は少し雑になる。
「不安なんだろう」
「正解」
「一之瀬に対してか」
「それも正解」
「俺に対してもか」
櫛田の指が止まる。
それから、小さく笑った。
「ほんと、嫌な人」
「よく言われる」
「言われてないでしょ」
「似たようなことは」
櫛田は俺の胸に額を軽く当てた。
強くはない。
けれど離れもしない。
「……今日は?」
「明日も早い」
「それ、断る理由?」
「合理的な理由だ」
「じゃあ、合理的じゃない理由で残ってよ」
無音の中、部屋の空調音だけが響く。
俺は何も言わなかった。
櫛田は顔を上げる。
近い。
視線が合う。
「綾小路くんってさ」
「なんだ」
「私のこと、便利だと思ってる?」
「思っていないと言えば嘘になる」
「最低」
「だが、それだけではない」
櫛田は黙った。
その一言で十分だったのかもしれない。
あるいは、足りなかったのかもしれない。
どちらにせよ、櫛田はそれ以上聞かなかった。
代わりに、俺の第一ボタンに指をかける。
「じゃあ、今日はそれで許してあげる」
その夜、仕事の話はそれ以上しなかった。
なぜなら俺たちの視界は暗くなり、男女の卑猥な声が部屋を満たしたからだ。
櫛田は俺に甘え、決して離そうとしなかった。
何度も求めて来た。
それはまるで、世界に二人しか存在しないかのように。
明日や将来よりも今を楽しむように。
明日死ぬと思って今日を生きるように。
情熱的に、お互いを求めあった。
櫛田は言葉で愛を囁く。
こんなに切なそうな櫛田は初めて見たかもしれない。
俺も櫛田を大切な女だと思い、抱いた。
3
翌朝。
彼女は俺より先に部屋を出た。
廊下で誰かに会うことを避けるためだ。
そういうところは、今でも抜かりない。
十分ほど置いてから、俺も部屋を出る。
エレベーター前には誰もいない。
そう思った。
「あ、綾小路くん。おはよ」
一之瀬帆波が立っていた。
白いワンピース。
手にはテイクアウト用のコーヒーが二つ。
まるで、最初からそこで待っていたように。
「早いな」
「うん。朝の海、見たくて」
「そうか」
「綾小路くんも早起きだね」
「習慣だが、仕事もある。夜は頭が動かないから、朝に回すようにしているんだ」
「櫛田さんも?」
俺は一瞬、返答を遅らせた。
一之瀬は笑っている。
いつもの顔だ。
「どういう意味だ」
「さっき見かけたから」
「偶然だろう」
「うん。偶然」
一之瀬は片方のコーヒーを俺に差し出した。
「はい。綾小路くんの分」
「俺が来ると分かっていたのか」
「分かってたわけじゃないよ?」
一之瀬は少しだけ首を傾げる。
「でも、会える気がしたから」
スリーブ付きのコーヒーカップを受け取る。
温かく、砂糖やミルクは入っていない。
俺が普段飲むものと同じだった。
「……よく覚えているな」
「清隆くんのことなら、だいたい覚えてるよ」
軽い言い方。
けれど、どこまでが軽いのか分からない。
エレベーターが到着する。
扉が開く。
中には神崎がいた。
眠そうな顔をしている。
「おはよう、神崎くん」
「……おはよう」
神崎は俺と一之瀬を見て、次に俺の手のコーヒーを見た。
「朝から仲がいいな」
「そう見える?」
一之瀬が笑う。
神崎は何か言いかけて、やめた。
エレベーターが一階へ降りていく。
狭い箱の中で、一之瀬は俺の隣に立っていた。
近すぎるわけではない。
ただ、距離を測っているような立ち位置だった。
神崎は正面のドアを見たまま、低い声で言う。
「一之瀬」
「なに?」
「今日の現地視察、俺も同行する必要はあるか」
「あるよ」
「技術面の話は午後からだろう」
「でも神崎くんがいた方が安心だから」
「……それは仕事上の理由か?」
「もちろん」
一之瀬は即答する。
神崎は黙った。
俺はその横顔を見る。
神崎は気付いている。
何かがおかしいことに。
だが、それを言葉にするほどの材料がない。
俺も同じだった。
◇
午前の視察は順調に進んだ。
現地スタッフとの打ち合わせ。
設備確認。
決済端末の導入フロー。
観光客導線の確認。
一之瀬は誰に対しても笑顔で接し、必要な情報を引き出していく。
櫛田はその隣で空気を整え、相手に警戒心を抱かせない。
神崎は黙々とメモを取り、技術的な問題を拾う。
見事なチームだった。
だからこそ、余計に気持ち悪い。
昼食の時、一之瀬は神崎に向かって言った。
「神崎くん、午後の会議までにAPI連携のリスク表まとめられる?」
「今からか?」
「うん」
「昼食は」
「食べながらで大丈夫?」
「大丈夫ではない」
「でも、できるよね?」
神崎は俺を見た。
助けを求める目ではない。
むしろ、確認する目だった。
お前はこれをどう見る、と。
「一之瀬」
俺は声をかける。
「少し負荷が高いんじゃないか」
「そうかなぁ」
「午後でも間に合うだろう」
「でも、早い方が綾小路くんが楽でしょ?」
それは正論だった。
俺にとっては。
でも、神崎にとっては違う。
「神崎にも休憩は必要だ」
「……そっか」
一之瀬は少しだけ黙った。
それから笑う。
「ごめんね、神崎くん。じゃあ30分休んでからでいいよ」
「30分なのか」
「1時間がいい?」
「いや、30分でいい」
「ありがとう」
神崎は何とも言えない顔をした。
櫛田はその様子を見て、俺の隣で小さく呟いた。
「やっぱり顎で使ってるじゃん」
「そうだな」
「認めるんだ」
「事実だからな」
「……でもさ」
櫛田は一之瀬を見る。
一之瀬はスタッフと楽しそうに話している。
明るくて、柔らかくて、誰からも好かれる一之瀬帆波。
「悪い人には見えないんだよね」
「実際、悪人ではないだろう」
「そこが怖いんだけど」
櫛田の言葉は、奇妙に耳に残った。
◇
その日の夜。
俺たちはホテル併設のバーラウンジに集まった。
海に面した半屋外席。
ランタンの灯り。
夜風。
南国のマングローブに、風。
写真に撮れば、ただの華やかな出張の一場面に見えるだろう。
神崎はノンアルコール。
櫛田はカクテル。
一之瀬はワイン。
俺はウイスキー。
最初は穏やかだった。
仕事の話。
現地スタッフの話。
高校時代の思い出。
神崎が珍しく、昔のBクラスの話をした。
「一之瀬は、昔からこうだった」
「こうって?」
一之瀬が笑う。
「頼み方が上手い」
「褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「言わない」
「ひどい」
櫛田が笑う。
「神崎くん、昔から一之瀬に弱そうだもんね」
「弱いわけではない」
「でも断れないでしょ?」
「……内容による」
「ほら~~!」
一之瀬が楽しそうにグラスを傾ける。
「神崎くんは優しいから」
「それを利用している自覚はあるのか」
「利用じゃないよ」
一之瀬は即答する。
「信頼」
神崎は何も言えなくなった。
俺はそのやり取りを見ていた。
櫛田も見ていた。
たぶん、同じことを考えている。
一之瀬帆波は、昔より強くなった。
ただし、その強さの方向が、以前とは少し違う。
「清隆くん」
一之瀬が俺を見る。
「明日の夜、時間ある?」
櫛田のグラスが、ほんの少しだけ音を立てた。
「予定は未定だ」
「じゃあ、空けておいて」
「仕事か?」
「違うよ」
一之瀬は笑った。
「旅行だから」
神崎がわずかに目を伏せる。
櫛田は笑顔のまま黙っている。
空気が変わった。
それをごまかすように、櫛田が明るい声を出す。
「じゃあ今日は解散しよっか!明日も早いし」
「そうだね」
一之瀬は素直に頷いた。
あっさりしすぎているほどだった。
だからこそ、櫛田は一瞬だけ警戒を解いた。
俺たちはそれぞれ部屋へ戻る。
その途中。
エレベーターの中で、神崎が俺にだけ聞こえる声で言った。
「綾小路」
「どうした?仕事が大変だという事なら、一之瀬を通した方が…」
「違う、仕事は遣り甲斐を感じている。実際オレもまだまだ経験が少ないから、一之瀬の管理に甘えているほどだ」
そうだったのか。
神崎は対人関係の勘所を理解している一之瀬が防波堤だと考えている。
その防波堤の中で、クライアントでもある彼女に甘んじている部分があると言った。
確かにITのコンサルティングやSEに委託するのであれば、イレギュラーな対応が含まれることはない。
その場その場で神崎が対応することが自然と盛り込まれているのだろう。
では、それ以外の事の注意であり警告。
「お前、気をつけた方がいい」
「何にだ?」
神崎は答えに迷った。
そして、短く言った。
「一之瀬にだ」
エレベーターが止まる。
扉が開く。
神崎はそれ以上何も言わず、自分の階で降りた。
俺は閉じていく扉の向こうで、神崎の背中を見送った。
気をつける。
その言葉は簡単だ。
だが、何をどう警戒すべきなのか。
──その時の俺には、まだ分かっていなかった。
4
3日目の夜。
それは偶然だった。
少なくとも、櫛田はそう思っていたはずだ。
俺は仕事を終え、最上階のバーで一人飲んでいた。
神崎は部屋で資料作成。
一之瀬は現地担当者との会食。
櫛田は早めに部屋へ戻った。
そう聞いていた。
だが23時を少し過ぎた頃。
「……いた」
櫛田が最上階のバーに現れた。
髪の色ににた、金色の装飾があるワンピース。
普段より少しだけ大人びた化粧。
俺を見るなり、呆れたように笑う。
「一人で飲んでたんだ」
「悪いか」
「悪くないけど、誘ってくれてもいいんじゃない?」
「お前は寝たと思っていた」
「寝ようとしたけど、寝れなかったんだよね」
櫛田は俺の隣に座る。
距離が近い。
グラスを持つ指が、わずかに俺の手に触れた。
「昨日、途中で帰ったでしょ」
「仕事があった」
「嘘」
「嘘ではない」
「じゃあ半分嘘」
「……そうかもしれないな」
櫛田は少しだけ驚いた顔をした。
「珍しい。認めるんだ」
「否定する材料がない」
「そういうところ、本当にずるい」
櫛田は笑う。
少し酔っているのか、頬が赤い。
その時だった。
「あれ?」
背後から声がした。
一之瀬帆波だった。
淡い紫のドレス。
肩にかかった髪。
会食帰りなのか、いつもより華やかに見えた。
「2人とも、ここにいたんだ」
櫛田の表情が止まる。
一之瀬はそれに気づいていないように、自然に反対側へ座った。
「清隆くんを誘おうと思って来たんだけど」
「……へぇ」
櫛田が笑う。
「一之瀬さんも?」
「うん」
一之瀬は悪びれない。
「じゃあ、3人で飲もっか」
空気が一瞬だけ固まった。
櫛田が瞬きをする。
「……3人で?」
「うん。だめ?」
「いや、だめっていうか」
「櫛田さん、恥ずかしいかな?」
「は?」
一之瀬は楽しそうに笑う。
「顔、赤いよ」
「お酒のせい」
「そっか」
「そう」
「でも可愛い」
そういう一之瀬に訝し気な目を向ける。
「一之瀬さん、結構酔ってる?」
「ちょっとだけ」
そうして俺たち3人は軽い話題で会話を楽しんだ。
一之瀬がパプアニューギニアで雇っている女ボディガードの話。
渡辺は既に帰国しており会えないが、別の日本人が来ており共通の話題が出来た話。
櫛田も櫛田で南国を気に入っており、堀北や軽井沢への愚痴をぶちまけていた。
しかし決して本気で嫌っている訳ではない、上司なりの愛というヤツが見え隠れしていた。
今回は割と大型なプロジェクトだ。
俺も俺で、メインのサウジアラムコ関連の展開をしなければならない。
ちなみに現在もビリオネアのランクは1位である。
女子が2人いると話題も尽きない。
バーの空気も穏やかだし、音楽も心地よい。
先日使った店と比べて高い位置にあるが、窓から流れてくる海風が気持ちいい。
だが、俺はそこで気づいた。
一之瀬の櫛田を見る視線に。
彼女は櫛田を観察している。
「ねぇ櫛田さん」
「なに?」
「清隆くんと2人きりの時とは、違う顔をするんだね」
櫛田の笑顔が消えかけた。
「違う顔って?」
「女の子の顔」
「……何言ってんの」
「違った?」
一之瀬はグラスを傾ける。
その仕草は優雅だった。
だが言葉だけが、ゆっくりと櫛田の逃げ場を塞いでいく。
「清隆くん」
「なんだ」
「櫛田さんって、照れると可愛いね」
「俺に言うな」
「だって、清隆くんは知ってるでしょ?」
櫛田の肩がわずかに動く。
俺は一之瀬を見る。
「一之瀬」
「なに?」
「酔いすぎだ」
「そうかな」
一之瀬は笑う。
そして、何でもないように言った。
「でも清隆くん、左耳弱いよね」
沈黙。
波の音が遠くなる。
櫛田の顔から、色が消えた。
「……なんで」
その声は、ほとんど息だった。
一之瀬は小さく首を傾げる。
「あれ?」
優しく。
無邪気に。
そして、少しだけ楽しそうに。
「知らなかった?」
櫛田は何も言えない。
俺もすぐには言葉を返せなかった。
情報としては、些細なものだ。
だが、その些細なものを一之瀬が知っているという事実が、空気を変えた。
一之瀬は俺の腕にそっと触れる。
軽い接触。
だが逃がさない触れ方だった。
「大丈夫だよ、櫛田さん」
「……何が」
「私、怒ってないから」
その言葉で、櫛田の目に動揺が走った。
「怒るって、何に?」
「うん。そうだよね」
一之瀬は笑う。
「怒ることなんて、何もないよね」
櫛田は口を閉じた。
俺はようやく理解し始める。
一之瀬帆波は、気づいている。
少なくとも、櫛田と俺の関係に。
そしておそらく。
それ以上に、何かを知っている。
「清隆くん」
「……なんだ」
「今日、私の部屋来る?」
櫛田の呼吸が止まる。
一之瀬は続ける。
「それとも、櫛田さんの部屋?」
「一之瀬」
「私はどっちでもいいよ」
声は優しい。
本当に優しい。
「でもね」
一之瀬は俺の肩にそっと寄りかかった。
反対側で、櫛田が無意識に、何かにすがるように俺の袖を掴む。
左右から、2人分の体温が近づく。
バーの灯りが、グラスの中で揺れていた。
「最後は、私のところに帰ってきてね」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
一之瀬は微笑む。
「今日だけじゃなくて」
夜風が止まったような気がした。
「明日も」
櫛田の指に力が入る。
「来年も」
波の音が聞こえない。
「その先も」
一之瀬帆波は、いつもの顔で笑っていた。
明るくて、優しくて、誰からも好かれる女の顔で。
「ずっと」
そして、ほとんど囁くように言った。
「一生、ね」
重くなりかけた空気を壊したのは、誰でもなく、俺だった。
俺は彼女たちと会話をして、ホワイトルームの時とは比べ物にならないくらい空気を読むことが上手くなったと思う。
櫛田の強張った身体を解くように、自分自身も背もたれに腰かけリラックスする。
すると櫛田も緊張を解いた。
「……せっかくの旅行だ、お前たち少し、険悪なんじゃないか?」
二人の視線が同時に向く。
「険悪な時は腹を割って話すのが良い。誤解をしたまま仕事をするのは効率が悪い。違うか?」
「効率って」
櫛田が呆れたように笑う。
一之瀬もくすっと肩を揺らした。
「清隆くんらしいね」
「だから、今日は普通に飲め」
「社長命令?」
「そう受け取ってもいい」
櫛田は小さく息を吐く。
さっきまでの緊張が少しだけ緩んでいた。
一之瀬もそれ以上は追い詰めない。
空気を読む。
あるいは、壊しすぎない程度を理解している。
「じゃあ、飲み直そっか」
一之瀬がグラスを持ち上げる。
「乾杯?」
「散々乾杯してきただろ、何にだ?」
「K・Aを支える柱の3人がここに揃っていることに?」
「いつでも出来ることだな」
「いいじゃん。まぁ、南国なんだしさ」
櫛田も笑いながらグラスを合わせた。
3人のグラスが軽く触れ合う。
夜風が吹き抜ける。
さっきまで感じていた妙な圧迫感は、少しだけ薄れていた。
それからしばらくは、本当に普通だった。
高校時代の話。
卒業後の話。
神崎が昔より苦労人になった話。
櫛田が営業先で男を勘違いさせた話。
一之瀬が海外支社の重役に気に入られた話。
「一之瀬ってさ」
櫛田がグラスを揺らしながら言う。
「絶対出世するよね」
「そうかな?」
「するする。人たらしだもん」
「桔梗ちゃんに言われたくないなぁ」
「私はタイプ違うでしょ、坂柳にも越されちゃったしさ。この会社はどんな大手よりも凄い会社だと、今更実感しているけど、その代わり下を増やしているでしょ?私は下からの突き上げや、下剋上が怖いよ」
目を伏せながら櫛田は弱々しくそんな事を言った。
「同じだよ?」
「話聞いてた?どこがよ。あなたは特別なポジションに立っているし、海外マーケットと日本を繋げる、結構オイシーことをしてるよ」
「…んー、人を動かすの上手い?」
櫛田が笑う。
確かに、一之瀬と櫛田の動かし方は異なるが、共通して言えることだ。
お互い気を使いながらだが、人の限界を見出し限界を決して超えないように動かす一之瀬。
相手の事情を考えて、一つ一つコンセンサスを取ってプロジェクトを進める櫛田。
「綾小路くん、どっちが怖い?」
「答えない方が良い質問だな。それに……どっちも怖いところはある」
「あっ、逃げた~」
「ま、賢明な判断だと思うよ?」
一之瀬が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、さっきの空気が嘘みたいだった。
だが櫛田だけは、完全には戻っていなかった。
時々、一之瀬を見る。
時々、俺を見る。
何かを確かめるみたいに。
「そういえばさ」
一之瀬が不意に言った。
「高校卒業してから、こうやって3人で飲むの初めてだよね」
「まぁな」
「なんか不思議」
「どこが?」
「だって、昔はもっとギスギスしてたし」
「それは否定しない」
櫛田が苦笑する。
「でも今は、ちょっと楽しいかも」
「そうだな」
俺がそう返すと、櫛田が少しだけ目を丸くした。
「珍しい。綾小路くんがそんなこと言うんだ」
「事実を言っただけだ」
「ふぅーーん」
櫛田は視線を逸らす。
その横顔が、少しだけ柔らかかった。
一之瀬はその様子を見ながら、どこか安心したように微笑んだ。
「じゃあさ」
「なんだ」
「今日だけは、昔みたいなのやめよ?」
「昔みたいなの?」
「探り合いとか、牽制とか」
一之瀬はそう言って、テーブルに頬杖をつく。
「普通に楽しいだけじゃ、だめ?」
櫛田は少し黙った。
それから、小さく笑う。
「……反則だよね、一之瀬って」
「え?」
「そういう言い方」
「だめだった?」
「だめじゃないから困るの」
一之瀬はきょとんとしたあと、ふっと笑った。
その笑顔を見た瞬間。
櫛田の警戒が、ほんの少しだけ緩む。
俺にはそれが分かった。
そしてたぶん。
一之瀬も分かっていた。
だからだろう。
一之瀬は自然な動作で、俺の肩へ身体を預けた。
「ちょ…一之瀬」
「ん?」
「近い」
「酔ってるから?」
「絶対わざとでしょ」
一之瀬は笑うだけだった。
距離感がおかしい。
だが嫌悪感はない。
むしろ、一之瀬は“許される距離”を正確に把握している。
「清隆くん」
「なんだ」
「今日、楽しい?」
「……そうだな。美少女2人と飲めるなんて、夢のような気分だ。明日が命日かもしれない」
「ふふふ……そっか」
一之瀬は嬉しそうに目を細めた。
その顔を見ていると、不思議と拒絶する気が失せる。
それが一之瀬の強さだった。
人を責めない。
空気を壊さない。
なのに、いつの間にか中心へ入り込んでいる。
そして。
一之瀬はとろんとした表情になり、目を細めながらゆっくりと俺の顔へ唇を近付ける。
瞬間、櫛田の指先が止まる。
一之瀬の髪が俺の肩に触れる。
柔らかいシトラスの匂い。
彼女はごく自然に俺へキスをした。
短く。
触れるだけの。
まるで恋人同士の様な口づけ。
櫛田の呼吸が止まる。
だが一之瀬は離れたあとも、ただ笑っていた。
「……お酒の勢い?」
櫛田が無理やり軽い声を出す。
「そうかも」
「うわぁ~~!!ズルッ!」
「桔梗ちゃんもする?」
「は!?しないし!」
一之瀬が楽しそうに笑う。
だが櫛田は笑えなかった。
視線だけが、俺と一之瀬の間を揺れる。
嫉妬。
苛立ち。
不安。
呆れ。
そして。
どこか諦めたみたいな感情。
その全部が混ざっていた。
櫛田はグラスを持ち上げる。
氷が小さく音を立てる。
「……ほんっっとサイアク!」
「なにがぁ?」
「一之瀬も」
櫛田は俺を見る。
「綾小路くんも」
最悪だと思った。
一之瀬帆波は、昔からずるい。
人を責めない。
怒鳴らない。
奪い取ろうとしない。
なのに気づけば、全部持っていく。
高校時代からそうだった。
クラスの中心にいて、誰からも好かれて、自然に人が集まる。
どす黒い裏の顔を持ち、どす黒い過去を持つ櫛田桔梗とは真逆の善性属性100%の女。
だから嫌いだった。
──いや。
本当は、少し羨ましかったのかもしれない。
バーの灯りが、一之瀬の横顔を柔らかく照らしている。
有名なJAZZの生演奏が流れ、開放感を刺激してくる。
綾小路へキスしたあとも、一之瀬は何も変わらない。
恥ずかしそうにするわけでもない。
勝ち誇るわけでもない。
ただ自然だった。
まるで。
それが当然みたいに。
「……ずるいんだよね」
櫛田は小さく呟く。
「ン?」
一之瀬が首を傾げる。
「一之瀬って、そういうところ」
「どういうところ?」
「そうやって、悪気なく人の心ぐちゃぐちゃにするとこ」
一之瀬は少しだけ困ったように笑った。
「そんなつもりないよ?」
「だから厄介なの」
櫛田はグラスを置く。
酔っている。
でも頭は妙に冷えていた。
さっきのキス。
あれを見た瞬間、
胸の奥が嫌な感じに締め付けられた。
嫉妬だった。
認めたくないくらい、分かりやすい感情。
でも同時に。
櫛田は知っている。
自分に、それを責める資格がないことも。
綾小路と自分の関係は、最初から曖昧だった。
恋人ではない。
束縛もしない。
お互い自由。
そういう形を選んだ。
だから本来なら、
一之瀬に腹を立てるのは筋違いだ。
なのに。
綾小路へ寄りかかる一之瀬を見るたび、心がざわつく。
「櫛田さん?」
「……なに」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘だね」
「嘘じゃない」
一之瀬はじっと櫛田を見る。
その視線が優しすぎて、余計に腹が立った。
責めてくれた方が楽なのに。
敵になってたままの方が、楽だったのに。
「私さ」
櫛田は小さく息を吐く。
「昔、一之瀬みたいなの一番嫌いだった」
「えぇ?」
「キラキラしてて、優しくて、皆に好かれてるタイプ」
「そんなことないよ?」
「あるって」
櫛田は笑った。
少し自嘲気味に。
「でも、今は、もっと嫌い」
「ひどいなぁ、桔梗ちゃん」
「だってさ」
櫛田は一之瀬を見る。
それから綾小路を見る。
「一之瀬、超本気なんだもん」
空気が静かになる。
一之瀬は否定しなかった。
ただ少しだけ目を細める。
その顔を見た瞬間。
櫛田は、負けたと思った。
自分はずっと、綾小路との関係を“軽いもの”として扱ってきた。
肉体関係は求めるけど、彼の内面には深入りしないように。
深入りできない内面に、唯一入り込めたのは、性行為だった。
だから、恥ずかしいけれど普段の私からは想像できないくらい激しくて、情熱的だったかもしれない。
でも、きっと深入りしてしまったら傷ついてしまうから、私自身を傷つけないようにしてた。
でも一之瀬は違う。
最初から全部で来ている。
怖いくらい真っ直ぐに。
だから、ずるい。
「……ほんとバカ」
櫛田はそう呟いて、ソファへ深くもたれた。
「なんで許しちゃうかなぁ、私」
「許してくれるの?」
一之瀬が少し嬉しそうに言う。
「別に、許してないケド」
「じゃあ?」
「……今日ダケ……」
一之瀬は笑った。
本当に嬉しそうに。
綾小路はその2人を黙って見ている。
櫛田は、その視線に気づいて小さく肩をすくめた。
「なによ、その顔」
「いや」
「綾小路くんが悪いんだからね」
「自覚はある」
「ならいいけどさぁ~」
櫛田は立ち上がる。
少し酔って、足元が揺れた。
一之瀬が自然に腕を支える。
「大丈夫?」
「……そこは敵でいてよ」
「えー?」
櫛田は苦笑した。
敵になれないから、余計に厄介なのだ。
「まだ夜は長いから、飲みなおさない?良いお酒貰ったんだよね。この後テラスで演奏するオケも、とっても素敵なんだよ」
「むー……どこで?」
櫛田は少しだけ振り返る。
夜風が髪を揺らした。
「私の部屋」
一之瀬が綾小路を見る。
綾小路は短く息を吐き、立ち上がった。
3人の影が、バーの灯りからゆっくり離れていく。
南国の夜は、まだ終わりそうになかった。