フレンチを食べて3階のオープンテラス。
バーは賑わっていた。中庭と呼んでいいのだろうか。
今はナイトプールになっており、ギター弾きが音楽を奏でている。
バーはバーで別の雰囲気を漂わせていた。
流石に日付が変わる時間帯に子供の影はない。
「楽しいね!清隆くん」
一之瀬帆波に手を引かれ、綾小路清隆がバーの中心へ行くものの、場違いだと思い近場のテーブルに背中を押し付ける。
バーの片隅にはピアノを始めとした楽器が置いてあり、宿泊客が好き勝手演奏する。
マイクも二つあり、小気味よい英語の曲が聞こえてくる。
演奏が下手でも問題ないらしい。
アカペラで歌えば音楽としての体をなすのだろう。
イスやテーブルが敢えて取り除かれている楽器周りのスペースには、これまた好き勝手踊る男女がいた。
綾小路は席を離れてバーカウンターへ行く。
そして英語でカクテルを二つ頼み、一之瀬を見ていた。
彼女は曲に合わせ、楽しそうにしていた。
彼女には聞きなれない気がする、ボブディランのライク・ア・ローリングストーンズに合わせて、身体を揺らしながらこちらをチラチラ見てくる。
本当に連れてきて良かった。彼はそう思った。
そんなノリノリの彼女が周囲のパリピと打ち解けない訳はない。
ブロンドの女性に声をかけられ、二言三言交わすと、グラスがないとジェスチャーで言われているのが分かる。
先ほど飛び入り参加をしただけなのでまだ手元にグラスがない。
しかし、綾小路が頼んだカクテルはすぐには出来ないだろう。
ウォッカをメインに、ピーチリキュールとオレンジジュースを混ぜてシェイクするお酒だ。
シェイカーを振る音が聞こえてくる。
どうせ聞こえないだろうと思い、一之瀬の慌てぶりには駆け寄らずにカウンターから一之瀬周辺の状況を見ていた。
私はそんな清隆くんに、なんでフォローしてくれないのかなんて気持ちはおきない。
今、この時間の全てが人生で一番楽しくって。
どうしようもないからだ。
彼から特別な存在だと久しぶりに言われ、気分は最高潮に達している。
英語を使う事で頭のスイッチが切り替わってしまった気がする。
目の前のちょっと背の高い可愛い女の子と、どこから来たのかを交換した。
彼女はイギリスから観光で来た子で、私より二つも年上だった。
私たちは興奮して、些細な自己開示一つ一つに共通点など見つからないはずなのに、盛り上がっていく。
今、ロックを奏でているのは彼女のハズバントということを知って、あぁ、良いなぁ!!という思いを最大に表現する。
彼女に名前を聞かれ、ホナミと答える。
ホナミ、じゃあ次は君の番だよと言われ、勝手にマイクを渡された。
慌てて清隆くんの方を見る。彼はカクテルを二つ持ってこちらへ向かって来る。
私は手渡されたマイクを受け取る。
「最高!!もう楽しい!私!!今、人生で一番楽しい!!」
「見れば分かる。何を歌うつもりだ?」
「えぇ??恥ずかしいよ…」
清隆くんの前で恥ずかしがって見せる。彼は黙ってカクテルを渡してくる。
ブロンドの女の子が、『え!?誰?彼氏?旦那?』と聞いてくる。
私はそっと、『新婚なんだ』とウソをついた。
火をつけてしまったため、慌てて『冗談、冗談!』と口にするも後の祭りだ。
そして、目の前の彼女とグラスをぶつけ合う。
それを皮切りに順々にグラスをぶつけ合う周囲にいる国籍の異なる友達。
やがて現地の乾杯の合図を持って、清隆くんから貰ったカクテルが喉を通り、身体に入っているワインと合流する。
そして、そのタイミングで耳に小気味の良い音楽が流れてくる。
──知っている。
──誰がピアノを弾いているのだろうか。
それは分かり切っていた。
グランドピアノの脇に、半分空いているグラスが目に映る。
日本の曲を皆が知っているとは決して思わないが、音楽が流れてしまったら歌わざるを得ない。
3年間、カラオケに通った弊害だろうか。
歌い慣れている曲。
麻子ちゃんと二人でしか決して歌わなかった刺激の強い曲。
たまに頭を空っぽにしたかったので、こっそりとカラオケのアルバイト中に個室で歌ってしまったのは内緒だ。
私の元アルバイト先は、監視カメラがないし、深夜の時間にぽっかりと空いてしまう時間と、私の心が同期するタイミングが何回かあったのだ。
ゆったりと始まるジャズ目の、アレンジが加わった長めの[[rb:禅僧 > ぜんそう]]が、私の耳に響いてくる。
ノリの良い曲調に、観客もノリノリだ。
3階だけでなく、1階からの注目も集めていた。
私はさりげなく喉の調子を整える。
考えが及ばないのは、英語で歌うか、日本語で歌うかだったが、自然に任せようと思う。
既に相当酔っている。周囲も酔っているのが分かる。
何を歌っても、最高に楽しい。
そして私たちは、即興だったのだが、歌を歌った。
全部をジャズにしたのは清隆くんが私に気を遣ったのだ。
そのすべてが愛おしい。
私は彼の全てが好きだ。
勝手に入ってくるギターやトランペットが頭をよぎるが、すぐに楽しさに変換されてしまう。
チラと彼を見る。彼は、淡々と私に合わせて、演奏する。
外野が合わせて様々な音楽を重ねてくるが、彼の演奏は変わらない。
私だけを見て、私だけのスピードで、私だけのトーンで、演奏してくれる。
ホテルの客室の窓が、次々と開いてゆく。プールのギタリストも、私に呼応するかの様に演奏を始めた。
私の中の最高が、どんどん更新されて行く。
終盤に近付く。
彼を見る。
彼の演奏は、アレンジがきいているものだった。
彼の隣で一人の老人が、ジントニックを二つ持ち、彼の近くに腰かけているのが見えた。
彼は右手をはなしてジントニックを手に取る。
そして私の演奏が終わったかと思いきや、次の曲が流れてきた。
これはさすがに私でも聞いたことのある。
ビリー・ジョエルという歌手が、初めて出したシングルの曲。
一緒に歌えると良いなと思っていた私は、彼の完璧な歌声にあっけに取られ、マイクのボタンを下に右手の人差し指で操作をする。
マイクなしで歌おうとしていた彼に、勝手に助手を名乗り出る人がいた。
そしてマイクを彼の口元へ近づけ、リゾートホテルを彼の声で埋め尽くす。
私はそんな今、この時間を全身全霊で味わった。
何名の宿泊客がいるのだろう。客室の窓から子供が覗いているのが目についた。
しかし、その後ろで恐らく保護者が、タバコに火をつけていた。
──そして、私はどうしても我慢が出来なかった。
だから、演奏の終わった彼に、思いっきり抱き着くことにする。
彼の手を強引に引き、何も言わずにブロンドの女の子の前を横切ると、片手を振り上げ、ゴーゴー!!と言われているのが分かる。
ノープロブレム!!!と叫ぶ野太い声が私の背中を押した。
道中のエレベータをもどかしく思う。
鍵は、ちゃんと取り出せるだろうか。
もう一杯、やった方が良いのではないか。
そう思っていると、彼の片手には緑色の鹿のマークの空いていない瓶があった。
見ると水滴がついており、冷凍庫から取り出した物だと分かる。
あっけに取られながらも微笑ましい彼の行動に、それでも私はしっかりとした足取りで彼の片手を掴んで離すことはなく、エレベータに乗り、20階を押して二人きりの時間を楽しむ。
打ち解けると意外と喋る彼は、その間は何も言わなかった。
私はフレンチレストランに行くためにパンプスを履いていた。
彼も革靴を履いていたためお互いの足跡がコツコツと木霊する。
手を離さなくても着いてきてくれるだろうか。
一瞬よぎった期待をすぐに打ち消す。
そして彼の手を引き、たどたどしい動作でカードキーをポケットから取り出し、扉を開く。私の部屋へ入る。
扉の前で黙って立っている私に対して、彼はツカツカと歩きロックグラスを取り出す。
事前にフロントに言って用意した氷を入れて、持っていた瓶の中身を注ぎ、これまた私が事前に用意したバー・スプーンを当然の様に使い、既に水滴のついているイエーガーマイスターを冷やしていく。
そして彼は中身を右手で持ち上げ、口元に注ぐ。
そんな彼に合わせるように、私は歩みを進める。
沈黙しながらも寄り添ってくれている彼との距離が、急に遠くに感じられる。
一歩歩き出せば、1時間前の関係が変わってしまう錯覚を味わう。
綺麗な肌。
凛々しい唇。
整った顔立ち。
全てが愛おしい。
私は意を決して一歩を踏み出し、用意されていたロックグラスを手に取り、自然と口に運んだ。
そして、彼から離れるように、窓のそばに行き、景色を楽しむ。
私たちが離れた後でも音楽が奏でられていた。
ゆっくりと始まるオー・シャンゼリゼ。
周囲が盛り上がり、片手を上げて周囲に何かをいうブロンドの友達が見える。
もしかしたら新婚旅行なのかもしれない。
幸せそうな顔が、私を幸せな気持ちにさせてくれる。
そんな私の背後に寄り添うように、彼が、グラスを持ってやってくる。
おそるおそる。
それでもじわりじわりと私のお腹に手を回してくれる。
私は食べた後だからとお腹の盛り上がりが気になってしまう。
私の右耳に、彼の顔が近づく。
彼の呼吸が、彼の心臓の鼓動が、私を煽って行く。
オー・シャンゼリゼに合わせて緩やかに揺れていた私たち。
そして彼が、右耳ではなく、右頬に近い距離に顔を出した。
私は我慢の限界に達していた。
そもそも限界をとっくに突破していた。
どれだけ我慢したのだろう。
3年以上、待たされた。
考えないようにしていた想い。
捨てたいと思っていた想いが、それでも絶対に捨てられない想いだとその度に思い出される。
涙が溢れて止まらない。
「あぁ…」
自然と声に出てしまった。
こんなに、泣いたのは初めてだ。
呼吸困難に陥りそうな私の慟哭を、必死で我慢する。
私は、自分の唇を唾液で湿らせる。
3年間の距離を縮めるような数十秒間、私たちは見つめあった。
お互いの心臓の鼓動を合わせて行く。
94,698,000秒を、10秒に短縮する儀式を終えた。
私は、愛にむしゃぶりついた。