1.
災厄が始まったあの日、手始めと言わんばかりに、トリニティ地区が崩壊した。もう五日も前のことだったような気がする。
私は、いつも通り補習授業部のみんなのところへ向かっている最中だった。だけど突然、空から轟音が鳴り響いたかと思えば、たちまち周囲の建物は吹き飛び、あたり一帯はあっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わった。あたり一面に広がる炎と瓦礫の山。人々が叫び、助けを求めている。それでも、一瞬の出来事に、私は戸惑う隙も与えられ無かったおかげで、幸いなことに冷静に周囲の状況を把握することができた。
それから私は、一部の無事な生徒たち数名を牽き連れて、急いで燃え盛るトリニティ校舎から離れ、できるだけ遠くへ走った。途中、来た道を振り返ると、遠くの空には巨大な瞳孔のような謎の黒い巨大な球体と、その足元で全てを飲み込みながら広がり続ける、巨大な真っ黒の壁ををこの目で直接目撃した私は、つい、漫画の中で見るような、唐突で残酷な世界の終わりというものを想像せずにはいられなかった。
道中、助けを求める人たちを救助しながら進んでいると、さまざまな自治区や企業から応援に駆けつけてきた救援組織に私たちは保護された。その後、私たちはカイザーコーポレーションの武装車両に乗せられて、既存のホールを使った簡易的な避難所に送られた。中へ入ると、すでに避難所内はごった返しており、何より、フィクションの中ですら見たことないような大怪我をした生徒たちが幾人も運ばれていくせいで、医務室のキャパシティはすでに飽和していた。
私たちヘイローを持つ生徒は、秒速五百メートル毎秒程度の銃弾ならかすり傷にすらならないほど頑丈な体をしている。そのはずなのに、ヘイローを失い、救護騎士団のワッペンをつけた生徒の手により淡々と不透明の袋のジッパーを挙げられていく人々の光景や、目を背けたくなるような大怪我をしても、医務室の冷たい床にひいた一枚のシーツの上でしか休むことのできない生徒たちの惨状を目撃しても、そんな鋼鉄すら通さない体を粘土のように容易く切り裂く化け物がいるのだというノンフィクションに私の現実が追いついておらず、その時はまだ、事の重大さを自分ごととして捉えることができずに、どこか楽観視していた節があったのだと思う。
避難所の隅に縮こまり、先ほどの爆発によってできた小さな切り傷に、昔ヒフミからもらったモモフレンズ柄の絆創膏を貼り、急いで補習授業部のメンバーやミカ様、ハスミ先輩や先生など、できるだけ多くの知り合いへと安否を知らせるメッセージを送る。しかし、回線が混み合っている影響でメッセージどころか電話すらも通じない。正義実現委員専用の緊急回線すらも、不具合のせいで届かなくなっていた。
居ても立ってもいられなくなり、私は愛銃を片手に立ち上がり、同じ正義実現委員の子がいないか探しに避難所の出口へと向かった。
「…コハルちゃん?」
突然、背後で私を呼ぶ声がした。
毎日のように聞いている透き通った上品な声色に、私は思わず振り向く。
反応するよりも早く、体を覆ってしまうのではないかと思うほどの身長差での力強い抱擁を、私は勢いよく受け止めた。実感のある体温と心地よい花の香りが、無意識に昂る心の焦りを一気に落ち着かせた。
「よかった、本当によかった」
震えた声で何度もそう繰り返すハナコからは、いつものような、底知れない頼もしさを感じる事が無かった。
「わっ、は、ハナコ!」
びっくりして私は声を上げる。
「コハルちゃん、怪我とかはありませんか」
そう言うと私の両肩をがっしりと掴んで、舐め回すように観察する。
「大きな怪我はないよ。ハナコも、無事そうで良かった」
「えぇ、本当に…」
今はまるで、ただの少女のように震えるハナコをようやく落ち着かせると、私は他二人の安否についての情報を聞くことにした。
「ねぇハナコ、ヒフミとアズサと連絡ついた?」
「い、いえ。私もまだ連絡がついてなくて焦っているところです」
真っ赤に晴らした眼で、深刻そうに地面を見つめている。
「私も先生とかミカ様とかにも連絡したんだけど、回線悪いせいで全然連絡つかなくてさ」
私の言葉にハナコがぴくりと反応し、ちらりと見たあと、後ろめたそうに口を開いた。
「コハルちゃん、ミカ様はもう____」
そこまで言い、ハナコが口をつぐむ。
その台詞に否応なく私の全身へと嫌な予感がよぎる。だがしかし、確かめなければいけない、と思い、覚悟を決めてハナコに問いただす。
「…ミカ様に何かあったの?」
私の気持ち察したのか、ハナコは口を開かない。賢いハナコのことだから、私のために、知らない方がいいこともあるとでも思って、黙ることを選択したのだろう。
「ねぇ、ハナコ、私は大丈夫だから」落ち着かせるように語る。
「私、どんなに嫌な事実でも知らない方がイヤなの。だからお願い、私に話して」
「コハルちゃん…」
泣きそうな表情でハナコは私を見つめる。すぐに、泣き顔を見せまいと言うかのように、自身の体育座りした膝に顔を埋めて、腕で覆い隠した。それからしばらくの沈黙の後、覚悟を決めた様子で、顔を上げたハナコは静かに事情を話し始めた。
「結論から言うと、ミカさんは既に死亡したと考えられています」
なんだか煮え切らないハナコの言葉に、私はあるわけのない一筋の希望を見出してしまいそうになったけど、息を深く吸い込み、下らない幻想を振り払うようにかぶりを振る。
「…てことは今、ミカ様は行方不明ってこと?」
「厳密にはそうとも言えます。コハルちゃんは先ほど、連邦生徒会の指示のもと、先生が選抜した生徒たちを率いてこの災害の中心地へ向かったことをご存知ですか?」
「ううん」私は衝撃の初耳情報に首を振る。
「そもそも私、今どういう状況なのか知らなくて…」
ハナコは頷き、ポケットから取り出したスマホを操作し、カメラロールに保存された一枚の写真を見せた。
「コハルちゃんはこれを見ましたか?」
そう言ってハナコは、画像にある真っ黒な皆既日食を指差した。
先ほどここへ逃避する最中、遠くに見えた真っ黒な球体。画像の、まるでシュールリアリズム的世界観から飛び出したような実体は、普段当たり前のように存在する月や太陽と成り替わるようにして上手に馴染んでいて、それがまた一層不気味さを醸し出していた。私が頷くと、ハナコがそれを見て説明を続ける。
「コハルちゃんの見たこの黒い球体は、今から二時間ほど前に突如、トリニティ上空に出現したと観測されています。…それからおよそ数分後、この球体内部から、同じように真っ黒な粘性の低い液状の物質が流れ出し、トリニティ地区の中央へ墜落しました。墜落の衝撃により、直ちにトリニティ地区中央は壊滅的な被害を受けたようです__」
私は先ほどの心当たりのせいで、比較的すんなりとハナコの話を理解することができた。私のいたトリニティ学園は被害の中心地からさほど離れていなかったみたいなので、私もハナコも奇跡的に直接的な被害を免れることができたということなんだろう。
「墜落した__便宜上「雫」と呼びますが…それは、すぐさま周囲の建造物や人々を飲み込んで拡大を開始しました。私たちが先ほどまでいた学校もすでに飲み込まれてしまっているはずです。
幸い、雫の領域はまだここまで拡大してはいませんが、おそらくそれも時間の問題でしょう」
ハナコがため息を吐く。その横で私は唖然として、先ほどまで自らが不気味な未知の存在に追い詰められていた事実に、得意な想像力を働かせては身震いしていた。あと少し遅ければ、などというもしもの考えに囚われていた私は、再び語り始めたハナコの声によって現実へと引き戻される。
「…小一時間ほど前、先ほど伝えたように、シャーレの先生が生徒たち数名を引き連れて、拡大し続ける雫の元へと調査へ訪れたそうです。しかし、この先の情報は大変不明確なのですが、おそらく、先生たち率いる部隊は全滅したと思われます」
「え…?」
理解を拒むように思わず口から声が漏れて、無意識にハナコを凝視してしまう。
「皮肉にも非常に早い対応だったことが災いしたのでしょう。現場に到着した生徒たちは、未知の異常現象下で一体何が起こるのかもわからなかったはずです。ですが、確かなのは、突如彼女たちの前に”ミカさん”が現れたということです」
「現れたミカさんは、先生の制止も聞かず、その驚異的な力によって生徒たちを蹂躙しました。彼女の攻撃によりものの数十分間で部隊は壊滅、その中にはあのホシノさんや現地で合流したとされるツルギさんなども含まれているそうです」
「!? 、つ、ツルギ先輩が___」
衝撃的な情報のせいで、喉が掠れて声が出なかった。ありえない。あのツルギ先輩が死ぬなんてことは、万一にもありえない。彼女は客観的に見ても、キヴォトス中の最強候補の一人であるはずだ。ミカ様の戦闘能力が非常に高いことも考慮したとしても、ツルギ先輩なら一人で押さえ込むことなど造作でもないだろう。しかしそれ以上に、かの有名な、アビドスの対策委員長もいたというのに。
「でも、どうして___ 」
ハナコはまたもやため息をついて、俯き目を逸らした。
「私も、ミカさんの攻撃を見ました。ここの建物の屋上からです。あれは人の成せる業ではありませんし、分かっていてもきっと対策しようがないと思います」
雫が落ちたと思われる場所からここまで、最低でも十キロメートル弱はある。先生たちが事態発生から一時間前後で現場に到着したとしても、私でも逃げ切れたほどの速度なのだということを推定すれば、それほどの速さで雫の壁は領域を押し広げているわけではないだろう。だとすれば尚更、ハナコの目撃した、先生と生徒たちを壊滅させたミカ様の攻撃の脅威と異常さが際立つばかりだった。
「先生は…無事なの?」
「…先生の遺体は見つかっていないようです。
__ただ、つい先ほど、右腕と腹部から下半身、先生のものと思われるタブレット端末が見つかったと。戦闘地点からおおよそ四百メートル先の瓦礫の中です」
言葉の羅列がさらなる妄想を膨らませ、親しい人の陥ったとされる、その酷い情景に思わず息を呑む。
「ミカ様が、なんでそんなことを…」
「おそらく、ミカさんは正気を失っていたのか、あるいは、あれはミカさんなどではないのかもしれません。
…知った話によれば、ミカさんは壊滅した生徒たちの遺体を貪っていたそうで、平らげた生徒たちが雫の表面から再出現したことも確認されています。その見た目はどうもミカさんと同じように黒い粘性の塊のような見た目らしく、単純に考えれば、彼女たちはあの雫に取り込まれたと解釈することもできてしまいます」
全て話し終えたのか、ハナコは押し黙った。少しして、沈黙をを破るかのように、我に返ったハナコは消え入りそうな声で「ごめんなさい」と呟いて、再び顔を覆った。珍しく、今日の私は泣きそうになっていないことに気がついた。おそらく、まだ私が現実に追いついていない。すでに大好きな人を3人も、あるいはそれ以上、失ったかもしれないというのに。
「ハナコ」
私はハナコに向き直る。
「私、正義実現委員の人と合流しようと思うの」
ハナコはばっ、と顔をあげて、正気を疑うような表情で私を見つめる。しかし、覚悟に満ちた私の顔を見てすぐに目を逸らした。
「聞いていましたか、死ぬかもしれないんですよ」
ぼそぼそとハナコが呟く。
「大丈夫、死にはしないよ。ただ、こうして何もしてないのが辛いだけなの」
そう言って私は再び立ち上がる。まるでこのままどこかへ行ってしまうのではないかと誤解しているかの如く、すがるようにハナコは手をつき、懇願するように上目遣いで私を見た。
「違うんです、私はもう___」
会話を遮るように、外から悲鳴と銃声が鳴り響いた。
私は咄嗟に音の出所へ振り向く。ガシャン、と巨大な何かが破壊される音と共に、テンポ良く放たれる悲鳴と銃声が次々と折り重なっていく。
まずい。
脳が危険信号を発しているのに、まるで金縛りにあったかのように体が言うことを聞かない。周囲の人々も静まり返って音の方を凝視して誰も動かない。果たしてそれは、恐怖故か、正常性に対する認知の歪みか。
しかしその場にいるただ一人を除いて。
ハナコは私の手を掴むと、非常扉を開けて外へと飛び出した。外気によって崩れた沈黙は、一気に悲鳴や怒号へと変わり、人々の生存本能を刺激する。ハナコは持ち前の賢さを生かし、最短の窓から私の手を引いて飛び降りた。高度三階からの飛翔でも、強烈な痛みと衝撃に目を瞑ればキヴォトス人にとっては朝飯前だ。アドレナリンが痛みを制し、私の脚を前へ前へと送り出す。
背後では、逃げ遅れた人々の悲鳴と銃声が鳴り響いていた。グロテスクな聴覚刺激を尻目に、私とハナコ含んだ生徒、民間人は、非情な選択を飲み込んで、郊外へと駆けていった。
だが、往々にして、不安定の道半ばというのは誰かつまづくことまでが想定されているかのような気がしてくるほど不親切なものだと思わされることがある。
「きゃっ___ 」
走る私の背後で、誰かが小さく悲鳴を上げる。振り向くと、トリニティの生徒が一人段差に躓いたようだった。彼女の左右を、後続の人々が見向きもせずに通り過ぎていく。私はハナコの手を離し、その子の手を取って上体を起こした。
「あ、ありがとう」
「いいの、ほら」
そう言って、先ほどのハナコがしてくれたように今度は私が手を引く。躓いた少女と共に再び走り出すと、流れに逆らい、ハナコがこちらに駆けてくる。
「コハルちゃん、どうしたんですか!」
「この子転けちゃったみたいで…」
弁解するように事実をさらりと伝える。その言葉に、さすがのハナコでもため息をついて再び駆け出した。
「仕方ないですね、急ぎましょう」振り返り叫ぶハナコに、先ほどの弱気な表情はもう見えない。
私たちもハナコと共に周囲の逃亡者たちの流れに乗って駆け出した。
突然、前方上空で車が宙を舞う。
続いて、悲鳴と銃声が鳴り響いた。
今の状況では、銃などほとんど気休めでしかなかった。自分には抵抗する力がある、そう思い込むためのただのお守りのようなものだ。シャンパンのコルクが飛ぶように、銃声にデコレーションされた悲鳴たちが私たちのもとへと近づいてくる。ハナコはすばやく「こちらへ」と私たちを手招くとビル間の裏路地へと駆け出した。
ところが今度は、私はバランスを崩し、地面へ勢いよく倒れ込んだ。右手に感じていた少女の重みがすんなりと失せていたからだ。それはまるで重いと偽って渡された空箱を持ち上げる感覚のようだった。地面との摩擦を受けたあらゆる部位が鈍い悲鳴を上げている。一瞬、何が起こったかさえわからず、半ばハナコに説明を求めるかのように顔を上げた。
ハナコは立ち尽くし、先ほどとは打って変わって恐怖に染まった顔で私の背後を見つめていた。耳を澄ませると、確かに背後から湿った、何かをすりつぶす音が絶えず響いている。馬鹿な私はその時、なんの躊躇もなく振り向いてしまった。
数メートル背後で、腕から先が千切れた少女が、一瞬生徒と見紛うほど酷似したシルエットを持った、真っ黒な人型の怪物に腸を貪り食われていた。
目の前の少女と同様に、怪物の頭にはヘイローが無い。こちらに気づいた怪物は、ゆっくりと私を見据えた。生物の教科書のイラストでしか見たことない形状をしたホース状の肉塊が、怪物の口からスパゲッティよろしく、だらりと垂れ下がっている。
目の前の光景を否定するために、私は手に残る温もりを強く握り締めていた。私はあまりにも衝撃的な光景に目を奪われて動けなくなっていた。一気に周囲の音が遠退いて、急激に視野が狭まるのを感じる。
突然、私の背後から、何か重たいものが覆い被さった。そのまま地面に伏すような形に倒れ込むけど、それは私の抵抗を意に介さないようにしっかりと私を抱き抱え続けた。上に乗っているのがハナコの体だと理解するのには数秒ほどかかったけれど、いずれにせよ、私の膂力ではハナコとの身長差に叶うわけもなく、為されるがままに私は、車道の脇でハナコに抱き抱えられたまま、ぱたりと意識を失ってしまった。
気がついた時には、すでに辺りは暗くなり、また静寂に満ちていた。あれから何時間経ったのだろうか、と思った途端、私の心臓が意識を失う直前の状態をセーブしていたかのように再び高鳴り出す。私はハナコの体をどかして、意識を失った体を強く揺すった。
「ハナコ、ハナコ…」
いくら呼びかけてもハナコは起きない。私は乱れた前髪を耳元にかけようとして、ふいに顔にべっとりと未だ生ぬるいものがくっつくのを感じた。嫌な予感がして、恐る恐るスマホのライトを点灯する。
ハナコの顔は、まるで眠るように綺麗だった。
しかしよく見ると、背中からは肋が露出していて、内臓が脱落している。よく見ると、腹から下は血の跡を作って数メートル先に放置されている。
私は腰が抜け、顔面の表情筋どころか、身体中全ての筋肉が動かない。肺から空気が抜け続ける感覚を感じ、目から次々とこぼれ落ちる涙が止まらない。恐ろしさと喪失感、無力感、そしてたちまちに襲いかかる現実からの衝撃に、私はしばらくその場から動くことができなかった。
ハナコをそのままにしておくことはできず、私はいくらか時間をかけて土のある場所を探し埋葬した。今にも目を覚まして、いつものようにくだらない卑猥な言葉を発しては私が突っ込む日常があるのかもしれないと錯覚してしまうほど、ハナコの姿はとても綺麗なように見えて、背中がぽっかりと開いていようとも、腹から下がいくら乖離していようとも、私にはまるで生きているように思えて仕方が無かった。
しばらくハナコの寝顔を見つめた後、秒針に背中を押されるがままに、誰にも眠りを邪魔されないように、と彼女の上に土のカーテンを引き、折れてしまった愛銃を墓標代わりに突き刺した。
それから私はひたすら走った。
雑木林を抜け、人払いの済んだ廃墟同然の都市を駆けた。途中、いくつかの化け物たちが徘徊しているのを見かけたが、その度にできるだけ遠くを迂回し、その場で用を足す暇もなく、走り続けた。
幸い、皮肉なことにあの憎き黒い北極星は、常に空の上から、私が進むべきでない方向を教え続けていた。
泥と血と汚物に塗れた私をゲヘナの風紀委員会の小隊が見つけたのは、陽が上り登り始めた頃のことだった。保護された私は、すぐさまトラックに乗せられてゲヘナの医療施設へと送られたらしい。
清潔なベットで目覚めた私はすぐに、誰かが顔を覗き込んで私の名前を呼んでいるのを感じ取った。
「__ハル、コハル」
目を開けると、アズサがくしゃくしゃな顔で私を見つめている。誰かが私の胸に顔を埋めて啜り泣いている感覚がするが、声からしてヒフミだろうとわかった。
私の目が開くと、アズサは驚きと興奮で、病室に響き渡るほどの声量でも構わずに、私の名前を呼んだ。
「!!コハル!聞こえるか、コハル!?」
アズサの声色の変化に気づいたヒフミも、急いで私の顔を覗き込む。
「コハルちゃん!!」
「聞こえてるよ…」
疲労体には少々きつい大声に顔をしかめ、そのいつもの日常の片鱗に安堵の息を吐く。
これは普通喜ぶべき再会なのだろうけれど、今の私には到底難しい話だった。ハナコが居なくなった世界にまだ私は慣れていない。これからこの喪失感がマシになることはあれど、きっと完全に無くなることはないだろう。それでも、目の前の二人は私が目覚めたことに喜びを感じている。それはきっとこの先の確定的に絶望的な世界では、とても幸せなことなんだと思った。
「アズサ、ヒフミ。ハナコ…」想像よりもあっさりと、喉から言葉が飛び出す。
「どうしたの、コハルちゃん。ハナコちゃんがどうかしたの?」
まだ何も知らないのであろうヒフミは、いつも通りの楽観的かつ希望に満ちた表情で、私の顔を覗き込み、次の言葉を待っている。
「ハナコは、私を庇って__ 」
その先は言えなかった。光景が鮮明に脳裏に焼き付いていて、唐突なフラッシュバックによって意識とは無関係に、急激に酷い吐き気を催す。咄嗟に、ベット脇に置かれていたゴミ箱を掴み、顔をベット下へと突き出すような形で吐瀉物を然るべき場所へと収めることには成功したものの、ぐわんぐわんと回る頭ではどうにも情緒の制御が間に合わず、今まで鳴りを潜めていたはずの枯れかけた涙が、理性とは意識とは相反し、再びボロボロと目から落ちていった。
「…何も言うな」
アズサは気を使いそう言って、静かに私を抱きしめた。ヒフミも、同じように私を強く抱きしめる。その暖かさに心地よさを覚えつつ、ハナコに抱かれた時のことを思い出して、ついには耐えきれず、私も声を上げて泣いた。
点滴が外され、自由に歩くことを許可されるまでには半日もかからなかった。スマホはどこかに落としてきてしまったため、今は正義実現委員の現在の情報を知る術が無い。仕方ないのでせわしなく病室を歩き回るミネ先輩をわざわざ引き止め、この場所に他の正義実現委員のメンバーがいるのかどうかを教えてもらうことにした。
私のことを覚えていてくれたミネ先輩はすぐに、ハスミ先輩がこの病院に入院していることや、入院している病室を教えてくれた。すぐさま、私はアズサとヒフミに事情を書いた置き手紙をし、ハスミ先輩のいる病室へと訪れることにした。
「…どうぞ」
ドア越しに、ハスミ先輩の声に促され、病室の扉を開け、すぐさま私は絶句した。
ハスミ先輩の左腕は、肘から先が見当たらない。
先輩は車椅子に乗り、いろんなチューブに繋がれた痛々しい姿で、憂うように外の景色を眺めていた。少し痩せて血色の悪い顔色の先輩は、私に気づくと、驚きの声をあげた。
「コハル…!?無事だったのですか!!」
今にも車椅子から飛び降りそうな勢いだったので、急いで先輩の方へ駆け寄り体を支える。
「せ、先輩!安静にしててください!」
「無事でよかった…本当に、本当によかった」
先輩は、私をありったけの力でギュッと抱きしめた。私もそれに応え、まるで年老いた母を抱き抱えるようにして丁寧に抱きしめ返す。
私よりはまだまだ筋肉質だが、以前に比べ痩せこけている先輩の体を見て、ここ二日で一体何があったのだろうか、と不穏な想像をしてしまう。
「実は、すでにミネからはコハルが運び込まれて来たと言うことを聞いていたんです」
そういうと先輩は俯き、小さく息を吐く。
「血と泥に塗れて、靴も履いていなければ銃も持っていない状態で、保護された途端に気絶したと言うのだから、それはもう驚きました」
「…心配かけてごめんなさい、ハスミ先輩」
「いえ、別に謝ることではありません。あなたが無事ならそれで良いのです」
そう言うと優しげな笑みで私の下ろした髪を撫でながら顔を覗き込んだ。
「そうだ」
私は本来聞こうとしていたことを思い出す。
「他の正義実現委員のメンバーは無事なんですか」
私の言葉に、ハスミ先輩は虚を突かれたように、みるみるうちに表情が固くなる。
「連絡が取れたのは、コハル、あなたで最後です」
そう言うと先輩は俯いた。
「昨日、災害が発生した時、私は正義実現委員会をすぐさま招集し、救助した生徒たちを率いて、大聖堂へと避難していました」
先輩はそういうと、どこか遠い目をする。
「コハル、きっとあなたも見たことでしょう____しかし、あろうことかあの化け物たちは、あの堅牢な大聖堂の外装を蹴破って、中に避難していた生徒たちを、み、皆殺しにしました。
…その際の戦闘によって、約過半数以上の正義実現委員が帰らぬ人となりました」
私は呆気に取られ、先輩の顔を呆然と見つめている。
「こうなってしまった以上正義実現委員会を維持することは不可能です。
だから私は、明日をもって、正義実現委員会を解散しようと考えています」
私がしっかりと補修しないほど勉強ができていれば、あの場にいたハスミ先輩たちと合流して、化け物たちと応戦することができたかもしれないのに、と思う一方で、私一人がいたところで、ハスミ先輩やツルギ先輩をはじめとする人々が次々と簡単にやられるほどの強さを持った化け物に勝てるわけでもないという考えが頭の中をよぎって追い打ちをかけるように私を苦しめた。
守りたい人の体を持ち上げることも出来ずに、救いたかった人に手を引かれていて、自分の目指すべき居場所も失い、そんな奴が正義を語るというのだから笑える。
悲しくて、悔しくて、私は、いつの間にか握りしめた拳から気付かぬ間に血を流していた。
「コハル、自分を責めるのは違います」
「でも__」
ハスミ先輩はひんやりとした手を私の両頬に添え、正面から私の顔を見据える。
「あなたはもう、十分よくやりました。
ゆっくり休んで、残りの時間は友人と過ごしなさい」
そのセリフに脳が理解を拒んだ。それはまるである種の死刑宣告のようで、私の追い求めた正義の姿が、今は羽を捥がれ、重力に抗うことを諦めた鳥のように見えた。
そして、まさにその瞬間、私は突然、冷水を浴びせられたかのような、あるいは、肺からすべての空気が抜け出てしまったかのような感覚に陥った。
これが、失望というものなのだろうか。
私は、一度も振り返りもせずにそのまま病室を後にした。
「コハルさん、そろそろ消灯しますよ」
ミネ先輩が口を開く。ただ広い病室のベット達からは、すでに怪我を治す必要の無くなった人々が退去し、清潔なシーツに置き換えられて次の患者を待っている。ただ、今この病室には私以外誰もいないので、ミネ先輩は私に付きっきりで「救護」してくれていた。
「ミネ先輩」
ぼうっと考えごとをしていた私の口から、不意に言葉が飛び出す。
「どうしましたか、どこか具合が悪いのですか」
伺うようにミネ先輩が顔を覗き込む。私は先輩も顔を見ずに言った。
「私はこれから、どうなるんですか」
ミネ先輩は黙り込む。それから静かに私のそばに腰を掛けた。
「私には、あなたがこれからどうなるのかは分かりません」
優しく慰めるように、先輩は自分の手を私の手に重ねる。
「ハスミ副委員長に何か吹き込まれたのでしょう。あの人は昔からああいう方です。強く見えて、意外と脆く、燃え尽きやすいのです」深い溜め息をついて話を続ける。
「…未来が分からないからこそ、私は決めています。最期のその日まで、誰かを救護し続けると」
「あの壁がここを破壊しても、また別の場所へ移動し、直ちに救護を再開するでしょう。
たとえ世界が終わることが確定したとしても、救護を必要としている人が一人でもいる限り、それは辞める理由にはなりません。そして何より、それこそが私の使命と感じているのです」
ミネ団長はまっすぐ私を見据えて言った。
「コハルさん、今あなたはきっと、生に、世界に絶望し、生きる目的や意味を見失っているのでしょう。しかし、生きる目的や意味などは、本来それほど確かなものではありません。他者や世界に与えられるそういったものたちは、簡単に崩れ去ってしまう。
だからこそ、人は己の中に信念と使命を持たなければならないのです。
どれほど世界が不確かであろうとも、最後まで手放さずにいられるもの。私は、使命や信念とは人が人として在るための支えであると思います」
日付を跨ぐ前に、と病室を飛び出した私は、再びハスミ先輩のいる病室の扉を叩いた。
一拍置いて、誰かが病室から出てくる。
腰まで伸びた白い長髪と黒い角が特徴的な、ゲヘナの風紀委員の徽章を付けた少女が部屋から顔を覗かせた。彼女のことをエデン条約の時に放送で見た気もするが、あの時と違い、彼女の目の下には見るからに酷い隈が陣取っている。
「…お待たせ」
そう言い残すと、彼女は私と入れ違いで颯爽と病室から出ていった。私は会釈して扉を閉め、先輩に向き合う。
「夜遅くにすみません、ハスミ先輩」
「…コハル、どうかしましたか」
先輩は意外にも先ほどの無礼を意に介さず、また驚きもせずにさらりと私に問いかけた。
「先輩私__」
そう言って息が詰まる。あのような惨状に生存本能が目を背けたいと嘆いている。でも今、覚悟を決めて言えないようでは、この先私は信念を貫くことなんて到底できやしないだろう。そう思い、私は意を決して口を開いた。
「私、正義実現委員を辞めます」
ハスミ先輩は当然のように目を丸くして、呆然と私を見つめている。
委員会が消滅すること決まっている。だが、自らの意思で委員会を辞めることには、私なりのけじめとして重要な意味があった。
「ハナコが…私を庇って死んだ時、私は何もできませんでした」
一度話し始めてしまうと、堰を切ったように、止めどなく言葉が溢れ出し始める。
「私が逃げ続けている間、正義実現委員会のみんなは、誰かを守るために、死ぬかもしれないとわかっているのに戦ってた。
だから私は、この世界が終わるその時まで、今まで私が守れなかった人たちのために、戦い続けることに決めました」
「それじゃあまるで、貴女も____」
ハスミ先輩は首を振って、必死に懇願するような目で私を見つめる。
「私にとっての正義は、自らを犠牲にして、隣の誰かを、あらゆる人々を守ることだと思うんです。
だから私は、誰かの役に立つために、私の正義を貫ける場所に行こうと思います」
そう言い放った心の中で、ふと、一つの突飛なアイデアが浮かび上がる。
どうせ死ぬのなら。
私は、私の全てを使って、この終末に復讐しよう。
あわよくば、差し違えてでも殺してやる。
「お世話になりました、ハスミ先輩」
そう言って私は深くお辞儀する。喉から予想外の嗚咽が漏れる。
大切な人に自分から別れを告げるのが、こんなにも苦しいだなんて知らなかった。スカートの裾を握る手に力が入る。
「コハル」
ハスミ先輩が私の名前を呼んだ。私は顔を上げる。涙を堪えようとして歪んだ顔が、きっと酷いことになっている。でも今は、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。
「こちらに来なさい」
ベッドの上の先輩は優しい笑みで静かに手を広げた。
私は導かれるままに先輩の前へ進む。そのまま、先輩は私を抱きしめた。
張り詰めていたものが一気に決壊し、声をあげて泣いた。先輩の右手が無いことに気づいて、さらに泣いた。これから私の身に降りかかる恐怖を想像して、今だけはと先輩の胸を濡らした。
先輩は黙って私を抱きしめ続けてくれた。私が泣き疲れ眠ってしまうまで、ずっと。
明朝、ハスミ先輩のベットの上で寝落ちていたらしい私は、周囲のせわしない音で覚醒する。周囲に先輩の影はない。
ぼやけた意識の中耳を澄ますと、不穏にも臓器云々と言う会話が聞こえてくる。
嫌な予感がして、目を開けると、ミネ先輩をはじめとする数人の看護師が誰かを運んでいた。
私は飛び起き、事態を把握しようと靴も履かずに駆け出す。途中でアズサとヒフミの呼ぶ声がした気がしたが、気にする余裕はなかった。
だが、突然救護騎士団のセリナ先輩が現れて、私の前に立ち塞がった。
「コハルさん___」
悲しげな表情で私を見るセリナ先輩を見た瞬間、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
続くよ〜