3.
先生が、私の前に立っていた。
私はハナコから、先生が死んだと聞かされている。
だからこそ、その姿が信じられなかった。
確かめようと反射的に駆け出す。けれど、近づけば近づくほど胸が締めつけられるように苦しくなっていき、あと数歩というところで、私は限界を迎えて足を止めた。
息を切らしながら、先生の名前を呼ぼうとする。
けれど喉は引き攣り、声にならない。
先生はただ黙って、じっとこちらを見つめていた。
「コハル」
唐突に、先生が口を開く。
「__また死に損なったのかい?」
私は耳を疑った。
あり得ない。
先生が、私に対してそんな酷いことを言うはずがない。
「君はハナコを盾にして生き延びた。
……カズサが、身を挺して君を守ろうとしていたことも知らないだろう?」
瞬間、あの光景が脳裏によみがえる。
呼吸が乱れ、肺がうまく動かなくなる。
「君は本当に愚かだ。
周りが君を庇って死んでいくのを知りながら、自分の弱さから目を逸らしている。
そのくせ、まだ犠牲者を増やすつもりなんだろう?」
頭が真っ白になる。
「カズサに至っては、最後は君がとどめを刺した」
先生の口元が、ぐにゃりと歪む。
「あぁ__まるで死神みたいだ」
やめて。と言って耳を塞ごうと腕を上げる。けれど、体が動かない。
目も逸らせず、瞬き一つできない。視線が、恐怖ごと先生へ縫い付けられていた。
「この世界を救う? そんな馬鹿げた妄想は捨てろ。
今すぐ首を括った方が、まだ周りの人間のためになるさ」
「もう、やめて…」
必死に声を出そうとしても、息が漏れるだけだった。
大好きだった先生は、今や悪意そのもののような笑みを浮かべている。
理解が追いつかない。恐怖と絶望だけが膨れ上がっていく。
耐えきれなくなった瞬間、私の意識は唐突に途切れた。
弾かれるように飛び起きる。荒い呼吸の中、私は自分が泣いていることに気づいた。
全身が汗で濡れている。シーツにはじっとりと汗の染みが広がっていた。
外はまだ暗い。周囲では、皆が静かに寝息を立てている。私はヒフミを起こさないよう、そっとベッドを降りた。
最悪の夢だった。先日の戦いから立ち直れたと思っていたのに、夢の中で先生に言われた言葉が、まだ頭から離れない。
シャワーを浴びている間も、その声は何度も脳裏に蘇った。
戻った私はシーツを取り替え、手早くベッドを整えた。髪を後ろで結び、ジャージへ着替え、軍靴を履く。準備を終えると、私は誰も起こさないよう注意しながら、広い休眠室を抜けていった。
静かに扉を閉め、校舎を出る。向かう先は、すぐそばの演習場だ。
旧SRT特殊学園の演習場は広かった。山中なのだろうか、周囲を高い針葉樹に囲まれていて、夏だというのに朝の風は涼しい。私は深く息を吸い込み、両手を広げ、心地よい空気を堪能する。
「……よし」
一気に気を引き締め、地面へ両手をつく。
とりあえず、目標は腕立て百回だ。
「八……ゔっ」
情けない声を漏らし、私は地面へ倒れ込んだ。
たった八回。腕は焼けるように痛み、まともに力も入らない。
息を切らしながらごろんと仰向けになり、私は眩しい陽の光を遮るように、腕で目元を覆った。
三日前、私は、増援に駆けつけたミレニアムのC&Cと、旧SRT特殊学園のFOX小隊、RABBIT小隊によって救助された。私たちが助けた生存者は全員無事に送り届けられたらしい。
その代わり、救助部隊は私を除いて全滅した。
ゲヘナの半分以上がすでに雫の壁へ呑み込まれていたため、私たちは連邦生徒会本部のあるD.U.地区郊外__旧SRT特殊学園の廃校舎へ移送された。
一日意識を失っていた私は後から知ったのだが、連邦生徒会は今回の被害を受け、救助活動の打ち切りを決定したらしい。
避難民は、キヴォトス最端に建設された仮のシェルターへ、戦う意思のあるものは、比較的安全な地域へ配置され、化け物たちの侵攻を食い止める壁として取り残された。
もちろん、私に逃げるという選択肢はなかった。肉壁にでもなれるなら本望だ。
それに私は、自分の手でとどめを刺したカズサちゃんの意思を継ぎたかった。もう二度と、誰かの足を引っ張らないと誓った。
だから私は、こうして三日前から自主訓練を始めたのだった。
不意に、あの日の光景が脳裏によみがえる。
途端、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。
私は慌てて近くの木へ駆け寄り、空っぽの胃をえずかせる。比較的立ち直れたと思っていた。けれど、この吐き気だけは、後遺症みたいに私の中にずっと遺っていた。
「おはよう、コハルちゃん」
食堂で大量の白米をかき込んでいると、ピンク髪の狐耳の生徒が盆を持って隣へ座った。たしか、FOX小隊の先輩だったはずだ。
「お、おはようございます!」
私が慌てて白米を飲み込みながら挨拶すると、先輩は楽しそうに笑った。
「あらら、そんな焦らなくていいのに」
そう言って先輩は私が朝食を頬張る姿を眺めている。じっと見られているのが気恥ずかしくなって、私は少しずつ食べることにした。
「ニコ、おはよー」
後ろから声がして、金髪の狐耳の生徒が勢いよく席へ座る。
衝撃で体が浮き、おかずを喉に詰まらせた私は思い切り咽せ返った。
「クルミ、おはよ。今日も訓練?」
「うん。今は技術よりフィジカル鍛えないとだからね」
クルミ先輩は自前のおにぎりを頬張りながら答えた。
「あ、そうだ。コハルちゃんもクルミと一緒に訓練してきたら?」
「い、いいんですか?」
私が驚くと、ニコ先輩はクルミ先輩へ視線を向ける。
「いいでしょ?」
「んー……まあ、いいか」
最後のおにぎりを水で流し込みながら、クルミ先輩は頷いた。
「じゃあマルハチサンマルに、君がいつも腕立てしてる場所来て」
そう言い残し、クルミ先輩は指先で器用にお盆をくるくる回しながら去っていく。
「八時半ってことね」
ニコ先輩が補足してくれた。
私は、自分の努力を見てくれていたことが少し嬉しくて、少し気分が良くなった。
「律儀だね。十五分前からいるなんて」
約束の少し前に現れたクルミ先輩が、けらけら笑いながら私の背中を叩く。
軽く叩かれただけなのに、思わずよろめいた。
「じゃあ、始めよっか」
そう言うと、クルミ先輩は突然ジャージを脱ぎ捨て、その場で片手腕立ての姿勢を取った。
しかも、支えているのは親指と人差し指だけだ。
「コハルちゃんも、ほら」
言われるまま姿勢を真似し、恐る恐る片手を背中へ回す。
「ゔぇっ」
私は一瞬でバランスを崩し、私は頭から地面へ突っ込んだ。クルミ先輩は明らかに笑いを堪えていて、思わず私は頬を膨らませてしまう。
「両手でいいよ」
ニヤニヤしながらそう言うと、先輩は腕立てを始めた。私も隣へ並び、必死についていく。
「もう腕上がんない……」
泣き言を漏らす私へ、クルミ先輩はいたずらっぽく笑った。
「何言ってんの。これから射撃訓練だよ」
私は耳を疑う。
「正気ですか?」
「大丈夫だって」
そう言って連れてこられたのは、校舎内の射撃場だった。さすがSRTの施設というべきか、設備はかなり充実している。すでに何人もの生徒が、ミレニアム製の最新式銃を使って訓練していた。
「今回は特別に、私が射撃を教えてあげる」
クルミ先輩は腰へ手を当て、自信満々に胸を張る。
「じゃ、とりあえず撃ってみよっか」
「……コハルちゃん、大丈夫?」
ヒフミが心配そうに顔を覗き込んでくる。
すでに、筋トレと、最新式銃の凶悪なリコイルで、私の体は完全にボロボロだった。
「ゔぅ……」
私はゾンビみたいな唸り声を漏らしながら、機械的に白米を口へ運ぶ。隣では、アズサが今朝の私みたいに、大量の食材を頬いっぱいにご飯を詰め込んでいた。
「コハル、強くなりたいならもっと食え。これを全部食べ終えた後が虚しいが」
「アズサちゃん、食べてから喋ろうよ……」
ヒフミが苦笑する。
「コハルちゃん、今日は何をしたの?」
「クルミ先輩と筋トレ……」
口を開くだけで息が切れた。思わずため息を漏らす。
「そ、そっか……お疲れ様」
「そういやコハル、お前のベッドに荷物置いてあったぞ。病院に忘れ物でもあったんじゃないか?」
私は記憶を探ったが、特に心当たりはない。一体中身は何だろう、とつい様々な妄想を膨らませる。そうして食事を終えた私は、眠気を抑え、荷物を確認するためにそのまま休眠室へと向かった。
最悪だ。
私は今、トイレへ引きこもっている。激しい吐き気に襲われ、さっき食べたものを全部吐いてしまった。
原因は明白だ。ベッドへ置かれていた包みを開けてしまって、その中に入っていた今の私が一番も見たくないものを見てしまった。結果、ご自慢のPTSDが発症したというわけだ。
もちろん、荷物を置いた相手は悪くない。完全に私の不注意だった。ただ、できることならば、もう少し整理する時間が欲しかったというだけだった。
吐き気でふらつく頭を押さえながら、私は個室を出る。食事の時間帯だったおかげか、休眠室近くのトイレには誰もいなかった。
口をすすぎ、胃を押さえながら外へ出る。どうすればいいんだろう。
ミネ先輩は言っていた。PTSDは理性とは関係なく出てくるものだ、と。しかし、まさかここまで簡単に引きずり戻されるなんて思いもしなかった。
いずれにせよ、このままじゃ駄目だ。私は深呼吸し、誰もいない休眠室へ戻る。
ベッドの上には、相変わらず長い包みが置かれていた。
息を吸う。おもむろに、十キログラム近い鉄塊を抱え上げ、私はそれを一気にベッドの下へ押し込んだ。その重みが、またあの光景と反動を呼び起こす。
吐き気がぶり返し、私は戻ってきた生徒たちの間を抜け、再びトイレへ駆け込んだ。
既に消灯から二時間以上経っている。体は疲れ切っているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。それはきっと、意識がずっと、ベッドの下へ向いているからだろう。
全てを忘れて眠りに身を任せようと目を閉じても、今朝の鮮烈な悪夢が蘇る。だから怖くて眠れなかった。隣では、ヒフミがすやすやと、静かな寝息を立てていた。
どうしようもなくなった私は、外の空気を吸おうと、休眠室を出ることにした。
人気のない廊下は薄暗く、どこか不気味だった。まるで深夜の校舎で肝試しをしているみたいで落ち着かない。けれど、そのひりつくような恐怖が、今だけは少し心を紛らわせてくれていたみたいだった。
しばらく歩いていると、前方から微かな光が見えた。今朝訪れた射撃場だった。
私はそっと扉を開け、中を覗くと、そこには、小柄な赤毛の生徒が立っていた。三日前、あの時、私を助けてくれた命の恩人だと一眼見て分かった。
一発。また一発。単発射撃なのにも関わらず、凄まじい速度で的を撃ち抜いていく。マガジンを捨て、地面へ落ちる前にリロードを終える。その工程を、機械みたいにただひたすらに、延々と繰り返していた。小柄な見た目に似合わないその動きはどこまでも正確だった。私は思わず、光景に見入ってしまう。
「おい」
いつの間にか先輩がこちらを向いていた。先輩は銃を下ろし、鋭い目でこちらを見る。
「ご、ごめんなさい!」
私は驚きのあまり反射的に謝罪し、その場から走り去ろうと踵を返した。
「おい、待てって」
先輩の素早い動きで一瞬で距離を詰められ、後ろ襟を掴まれる。私は子猫みたいに宙吊りになった。
「あ、あぁ……」
「そんな怯えんなよ。食ったりしねえから」
先輩は私を下ろすと、ニヤリと笑って元の位置へ戻って行った。私はその場へへたり込み呆然としていた。
「あ、あの!」
「あ?」
威圧的な返事に肩が跳ねる。それでも私は勇気を振り絞って会話を試みた。
「先輩、いつからここで訓練してるんですか?」
「あー……」
先輩はぽかんと口を開け、少し考える。
「わかんねぇや。でも、まだ飯食ってねえな」
後頭部を掻きながら呟く。
「……お前、今何時?」
私は慌ててスマホを確認した。
「二時半です」
「まじかよ……腹減ったんだけど」
先輩は残念そうに天井を見上げる。
「てかお前、こんな時間に何してんだよ」
「あ、その……」
「用ないならガキは寝ろ。身長伸びなくなるぞ」
にやりと冗談っぽく笑いながら、先輩は再び銃を構えた。
次々と的が撃ち抜かれていく。その光景を見ていると、不思議と心が落ち着いた。先輩の冷静な姿勢は、あの日、私を助けてくれた時と何も変わっていなかった。
気づけば私は、暗い廊下を全力で走っていた。休眠室へ戻り、皆を起こさないよう静かに自分のベッドへ向かう。
そして一気に、ベッド下の包みを引っ張り出した。
カズサちゃんの軽機関銃だ。
瞬間、校舎の景色があの日と重なる。動悸が激しくなり、私は力無く膝から崩れ落ちた。銃が大きな音を立てて床へ落ちる。気持ち悪さが込み上げて、振り回されているかのように視界が揺れる。
私は必死に呼吸を整え、子供をあやすみたいに自分自身を落ち着かせた。それから軽機関銃を拾い上げ、再び射撃場へ駆け出した。
再び射撃場へ入ってきた私に気づいた先輩が、呆れたようにため息を吐いた。
「あ?お前、まだ寝てなかったの____」
先輩は私の持つ銃へ視線を止め、そのまま言葉を失った。
「……お前、その銃」
驚きとも困惑ともつかない表情で、先輩が固まったように私を見ていた。
「先輩」
動悸と耳鳴りが煩い。体中が危険信号を叫んでいる。
だけど、それでも、今しかないと私は思った。ここで逃げたら、私はもう二度と前へ進めない気がしたからだ。
私は覚悟を込めて、先輩を見つめる。
「――私に、戦い方を教えてください」
つづくよー