――穿界迷宮『YGGDRASILL』、接続枝界『黄泉比良坂』
――第陸階層、『既知外』領域
階段を抜けた先は、広めの石造玄室だった。
薄青い燐光苔が壁面を照らし、空気は不気味なほど静かだ。
この手の階層移動直後の玄室は、基本的にセーフティーエリア扱いされている。
魔物が出現しないため、探索者たちの休憩地点として利用されることも多い。
……本来なら。
「…………」
俺たちの視線の先。そこに、一匹の豚がいた。
丸々と肥えた胴体。短い四肢。桃色の皮膚。
見た目だけなら、ただの豚だ。
だが――顔だけが、人間だった。しかも妙に整っている。
長い睫毛。通った鼻筋。中性的な顔立ち。無駄に美少年である。
(イケメンの豚ってなんだよ……普通にキモいわ……)
生理的嫌悪感と困惑が同時に押し寄せてくる。
「……マスター、豚がいるんだよ……」
サクラが指を指しながら若干引き気味に呟く。
「ああ、そうだな」
「……幹隆様。あの豚、人の顔をしていますね」
カヌは真面目な顔で観察していた。いや、そんな冷静に分析するな。
「……ぶたバンバラ?」
マリィさん、その豚は違うっす。
サクラの
その名称を見た瞬間、学園で習った知識を思い出した。
出現条件は完全不明。階層も場所も法則性がなく、遭遇報告そのものが少ない。
名前しか記載されていなかったのでどんなモンスターかは知らなかった。
だが、唯一共通している特徴がある。“予言を残す”。そして、その神託は高確率で現実になる。
平安時代。
百鬼夜行災害が発生する直前に現れた個体は、「夜が百鬼に呑まれる」という言葉を残した。
結果、日本各地で大規模ダンジョン災害が発生した。
さらに近年では、「星条旗の地に深淵が穿たれる」と予言した直後、アメリカ内部に新規ダンジョンが発生している。
つまり。こいつの言葉は、“当たる”。……冗談抜きで。
だが、奇妙なことに
攻撃性もない。ただ現れ。神託を告げ。消える。それだけ。
だからこそ、不気味だった。俺は警戒しながら、一歩前へ出る。
すると。ブヒィ。
人間の瞳。その黒い目が、真っ直ぐ俺を見つめてくる。
ゾワリ、と背筋に寒気が走った。
豚の口が、あり得ないほど大きく裂けた。
「――転生者よ」
低い。男とも女ともつかない声。
まるで洞窟全体から響いているような、不気味な声だった。
「――厄災を止め、第六天の魔王を討伐せよ」
空気が震える。瘴気が揺らぐ。そしてもう一度。
「――転生者よ。第六天の魔王を討伐せよ」
その瞬間。玄室の温度が一気に下がった。
ブツン――燐光苔の灯りが一斉に明滅する。
空気が重い。
まるで、世界そのものがその言葉を拒絶しているみたいだった。
そして。スゥ……と。
桃色の肉体が黒い粒子へ変わり、風もないのに宙へ溶けていく。
最初に脚が消え。 次に胴体が崩れ。
最後まで残った人面が、じっとこちらを見つめ――ニタリ。
そう笑ったように見えた瞬間、完全に消滅した。
数秒後。そこには何も残っていなかった。静寂。
しん、と。洞窟全体が死んだように静まり返る。
「…………」
誰もすぐには口を開かなかった。いや、開けなかった。
妙な圧迫感が胸の奥に残っている。
人面の口から告げられた言葉は、“神託”というより――もはや命令だった。
(転生者って、俺のことだよな……)
そこはまあいい。問題は。
(第六天の魔王って何だよ……おそらく織田信長のことだろうけど)
聞いた瞬間から、妙に引っかかっていた。
「……第六天魔王?」
サクラが小さく呟いた。
「……幹隆様。嫌な予感がします」
カヌが珍しく警戒を露わにする。
普段冷静な彼女がそう言う時は、大抵ろくでもない。
俺も同感だった。だって普通。
ダンジョンのレアモンスターから最初に言われる言葉が、「魔王を討伐せよ」って、どう考えてもイベント開始フラグじゃねぇか。
しかも。嫌なことに。こういう“神託”って、大体逃げられないんだよな……。
(これも神様が用意したシナリオなんですかね)
「はぁ……」
今後起こるイベントに思わず息をついた。
「……魔王。ヒラミレモンが必要になるね」
マリィさんそろそろアリスソフトから離れてもらっていいですか。
――――
俺は帰還石を砕き、ダンジョンから一足先に帰還していた。
砕けた結晶から淡い光が溢れ、視界が白く染まる。
次の瞬間には、『羅城門』の転移広場へ立っていた。
帰還石。ダンジョンから強制脱出するための使い切りアイテムだ。
一つ十万銭。普通の学生探索者なら気軽に連発できる額ではない。
だが、現在の俺にとっては既にはした金だった。
……いや、金銭感覚がだいぶ狂ってきている気がする。
今回、探索を早めに切り上げたのには理由があった。
もちろん、さっき遭遇した
(まあ、ほとんど見当はついてるんだが……)
だが、もし神託が本当に“ダンジョンに関わる未来”を示すものなら、単なる歴史知識では済まない可能性が高い。
俺は歩きながら、小さく息を吐いた。
「……カヌ、出てきてくれ」
影が揺れる。黒い渦が集束し、その中からカヌが姿を現した。
さらり、と黒髪が揺れる。豊葦原学園の紺色ブレザー。
白いシャツ。細い脚を包む紺のスカート。
元々整いすぎている容姿も相まって、普通に学園でも上位クラスの美少女にしか見えない。
「……お待たせしてすみません、幹隆様」
静かに頭を下げるカヌ。
「いや、大丈夫だ」
相変わらず律儀である。というか、未だに一々丁寧すぎる。
もっと気楽にしていいんだが。そんなことを考えていると。
カヌが自分のブレザーの袖を軽く摘まみながら、こちらを見た。
「……お気に召したのなら、今度、この服を着てご奉仕させていただきますね」
「…………」
一瞬、思考が止まる。さらっと何を言ってるんだ、この奴隷騎士。
しかも表情が真顔だから余計に破壊力が高い。
「……ああ、頼む」
結果。反射的に肯定してしまった。いや、仕方ないだろ。
こんなの男なら頷く。
「はい♪」
……今、ちょっと嬉しそうだったな。俺は咳払いしながら気持ちを切り替える。
今回の調べ物には図書館を利用するつもりだった。
サクラは異空間に残してきた。
最近はダンジョンダイブ続きで、まともに休めていなかったからな。
「今日はお庭でひなたぼっこするんだよ」
と言いながら、異空間の庭園へ消えていった。
最近、サクラはあの庭をかなり気に入っている。
なぜか、大きな桜の木が庭に咲いたときは驚いたが……
一方。マリィは、エロゲの続きをするらしい。
最近は、
変な影響が出ないといいが……いや。
(……もう手遅れかもしれないな)
時々、会話の端々に怪しいゲーム知識が混ざるようになった。
そんなことを考えながら、俺は昼過ぎの学園通路を歩いていく。
向かう先は庭園の先にある中央図書館。
神話、宗教、ダンジョン史。
この辺りを調べれば、“第六天の魔王”について何かわかるはずだった。
たどり着くと、そこは校舎群から少し離れた場所に建てられた独立施設だった。
外観は近代的な学園建築とは違い、落ち着いた木造造りになっている。
暖色の照明が窓から漏れ、まるで高級旅館か古い洋館のような雰囲気を醸し出していた。
ダンジョン解放後、俺は戦闘や探索ばかりに追われていたため、一度も訪れたことはなかった。
入口の受付で司書さんから軽く説明を受けた後、二人で手分けして文献を探した。
基本的に本の持ち出しは禁止なので、帰ってから閲覧する場合は、コピー機を利用するしかない。
図書館の外観では分からなかったが、上下に繋がる階段が存在し、地下も二階もぎっしりと本棚が並んでいた。
見上げても見下ろしても、本棚、本棚、本棚。
紙とインクの匂いが空気に溶け込み、静寂の中にだけページを捲る音が響いていた。
俺は先にダンジョン関連で調べている。カヌは歴史の方面から探してもらっている。
この世界に来てからゆっくりと本を読むことなんてなかったから新鮮だ。
ここにいる生徒達は、基本的に特級科の生徒なのだろう。
図書館の中は、静謐そのものだった。
紙を捲る音。ペン先が走る音。時折、小さく響く足音。
それ以外の雑音はほとんど存在しない。
当然ながら、館内で騒ぐ者もいなければ、ふざける者もいない。
ましてや、図書館でセックスをしているような奴など誰もいなかった。
……いや、当たり前だ。もちろん館内は禁止である。
まあ、この学園なら“そういうこと”をする学生がゼロとは言い切れないのが怖いところなのだが……。
ダンジョン関連書籍の区画には、古びた文献から最新論文まで大量に並んでいた。
『界層構造学概論』、『現代ダンジョン災害事例集』、『既知外領域生態報告書』、『神話体系と迷宮発生因果論』……
どれもタイトルからして重い。
俺はその中から、神託や高位存在に関係しそうな本を数冊抜き取っていく。
革張りの古書はずしりと重く、ページには独特の古紙の匂いが染み付いていた。
中には閲覧履歴がほとんど残っていない本もある。
俺は木製椅子へ腰掛け、本を開く。
ページを捲るたび、古紙の乾いた音が静かな図書館に小さく響いた。
そして。数冊目の文献を開いた瞬間。俺の手が止まる。
「……あ」
そこに記されていた情報は、俺の知識と完全に一致していた。
――――――
名称:『
強度:
様式:
核になっているのは『安土城』そのものだと推測されている。
髑髏武者『織田信長』率いる髑髏軍団が守護する城には、強力なマジックアイテムが眠っている。
なお、現在もレイド領域が拡大し続けている。門を食らう可能性あり。
――――――
思わずそんな声が漏れた。いや。これ、多分“それ”だ。
第六天の魔王。織田信長。髑髏軍団。どう考えても繋がっている。
しかも最悪なのが、“極級認定されつつある”という部分だった。
なぜ、俺が最悪だと思ったのは、これがレイドクエストのものであり攻略難易度が高いからだ。
レイドクエストとは、ダンジョン内で発生した“別位相のダンジョン”――そう認識されている。
入口は通常の階層移動路とは異なり、階層内に突如として『門』の形で出現する。
一般的に、レイドの規模が大きいほどレイドゲートも巨大化するとされていた。
レイドは、ダンジョンにおける特異点。
既存の法則から逸脱した、いわば“異常領域”だ。
故に、ダイレクトでレイドゲートへ侵入する行為は推奨されない。
羅城門システムの第伍門『極界門』を媒介にして潜るのが一般的とされている。
「……『
ページを眺めながら、思わずため息が漏れた。
「確か、五月の中間テストで補習組になったやつが、強制参加させられる候補レイドの一つだったよな……もうこの時点で、赤点確定みたいなもんじゃねぇか」
もちろん、参加しないという選択肢もある。
だが――この世界に来てからの流れを考える限り、“無視して済むイベント”には思えなかった。
むしろ、強制力すら感じる。それに。
「……俺を転生させた神について、何か情報が手に入る可能性もある、か」
原作知識でも、『
攻略描写もなければ、内部構造の記録すら存在しない。
つまり――どういうレイドなのか、一切不明。
だが、レイドそのものに関する基礎知識なら存在する。
レイド内部には、ダンジョンとは別系統の独立世界が形成されている。
内部時空は本体ダンジョンと同期しておらず、空間法則そのものが切り離されているのだ。
特に厄介なのが、『時間圧差』。
レイド規模によって外界との時間速度が変動し、大規模レイドになるほど時差が激化する傾向がある。
極端な例では、外界で数時間しか経過していないにもかかわらず、内部では数日経過していた――なんて記録も残っていた。
しかも、内部でモンスターを討伐しても通常ダンジョンのように経験値吸収は発生しない。
魔石やクリスタルへの結晶化も行われないため、純粋な戦利品効率だけで言えば極めて悪い。
にもかかわらず、レイドへ挑む探索者は後を絶たない。
理由は単純。
レイド内部でしか入手できない遺物、固有装備、特殊権能があるからだ。
さらに厄介なのは、レイドゲートそのものが固定されていない点にある。
通常ゲートのように座標維持されず、ダンジョン内部を漂流するように移動していると推測されていた。
そのため、レイドへ潜る際には事前準備が必須となる。
『
そうした工程を経て、初めて、第伍門『極界門』を媒介にしてレイドダイブが可能になる。
「……幹隆様、参考になりそうな蔵書を集めてきました」
静かな声と共に、スゥ……と椅子が引かれる。
カヌは乱れ一つない優雅な所作で俺の隣へ腰掛けた。
その両手には、古びた蔵書が何冊も抱えられている。
紙束から漂う微かな香木の匂い。
どうやら保存庫の奥から直接持ってきたらしい。
「ああ、ありがとう、カヌ」
「……何か見つかりましたか?」
俺は小さく息を吐く。
「……一応な」
開いていたページをそのまま彼女へ向けた。
「レイドクエストですか……それに極級の可能性もある……」
カヌの声音が僅かに沈む。
レイドクエストにも難易度区分は存在する。
上から順に――
超級ですら、ハイランク俱楽部が複数合同で長期間攻略する災害級コンテンツだ。
それなのに。今回記録されていた『
事実上、“攻略不可能”と同義だった。
カヌには、一通りこの学園の教材を渡して自主的に勉強させている。
元々の地頭が良いのだろう。知識の吸収速度が異常に速かった。
正直、分野によっては既に俺より詳しい。
しかも厄介なことに、本人にその自覚が薄い。
「……
などと、さらっと専門書レベルの考察を口にしてくる。
「いや、なんでそこまで理解できるんだよ……」
「? 本に書いてありましたので」
カヌは不思議そうに小首を傾げた。
いや、“書いてある”だけで理解できるなら誰も苦労しない。
普通はそこから咀嚼して、関連知識と照合して、ようやく仮説として組み立てるものだ。
だが彼女は、それを呼吸するみたいに自然にやってのける。
しかも恐ろしいのは、ただの暗記ではないことだ。
知識と知識を繋げ。構造を理解し。未知の事象へ応用している。
「……もし本当に“門を喰らう”性質があるなら、通常のレイド理論は通用しないかもしれません」
カヌは静かにページをなぞる。
「極界門を経由しても帰還路が侵食される可能性があります。最悪の場合、内部で接続先そのものを書き換えられるかと」
「……つまり?」
「放置していれば、いつか、地上に『
「…………」
さらっと、とんでもないことを言った。だが。
あり得ない話ではない。レイドは元々、“法則逸脱領域”だ。
極級ともなれば、空間接続を書き換える程度の異常性があっても不思議ではない。
……いや。むしろ、“門を喰らう”という記述自体が、その性質を示しているのかもしれなかった。
地上にダンジョンが『
この世界の法則、概念、変質が書き換えられてしまう。
「でも、このダンジョンの様式は、
「えぇ。ですので――」
カヌは静かに本を閉じる。
「私はこのレイドが、“
「……まじかよ」
思わず顔が引きつった。
レイドクエストには、それぞれ攻略法則が存在する。
探索者たちはそれを“クエスト様式”と呼んでいた。
通常確認されている様式は五つ。
ボーダーラインを越えた超常モンスターを核として発生する特異点。
攻略条件は、コアとなる個体の討伐。
特殊な遺物、呪物、神器などが核となる異世界型レイド。
攻略条件は、対象レガリアの回収、もしくは封印。
攻略条件は、エレメントアイテム群の回収による均衡修復。
過去の神話、伝説、英雄譚が世界へ投影される物語再現型。
攻略法は投影元によって変化する。
そして――
唯一、“外側から来る”レイド。侵略者、尖兵群、異界文明。
レイド内部に留まらず、本体ダンジョンそのものを侵食する危険領域。
攻略条件は存在しない。というより、確立できていない。
セオリーが通じず。観測された法則すら途中で変質する。
そして、カヌの考察では――
今回の『
つまり、
「……いや、笑えねぇって」
ただでさえ、
攻略条件の変質。内部法則の混在。位相侵食。帰還経路の不安定化。
下手をすれば、“攻略”という概念自体が成立しない。
そして何より厄介なのは――原作知識が通用しないことだ。
では、なぜそんなレイドに補習組を送り込むのかというとレイドの鎮静化が目的である。
完全攻略が不可能なら、せめて定期的に内部へ干渉し、活動を鈍らせるしかない。
それが、学園側の言う“補習”の実態だった。
つまりこれは――。補習ではなく、“生贄”に近い。
「……一刻も早く戦力を揃えるしかないか」
自然と、そんな言葉が漏れる。もう、残された時間は少ない。
原作知識と照らし合わせる限り、猶予はそこまで長くないはずだ。