――穿界迷宮『YGGDRASILL』、接続枝界『黄泉比良坂』
――第玖階層、『既知外』領域
世界を歪めるほどの濃密な瘴気が、どろりとした不定形の霧となって足元を這い回っている。
遂に、豊葦原学園も待望の大型連休へと突入した。
普段であれば、ダンジョン攻略や課題に追われている生徒たちも、この期間ばかりは張り詰めた糸を緩めて羽を伸ばしている。
学園全体が、どこか浮ついた空気に包まれていた。
だが、俺は違った。連休に入ってもなお、狂ったようにこの羅城門ダンジョンへとダイブし続けていた。
ただ、今までと少しだけ変えようと思ったのは、週に一日だけ、「休息日」を作ろうと決めたことだ。
その方針を、サクラ、マリィ、カヌの三人へ伝えた瞬間、彼女たちの喜びようは凄まじかった。
特にサクラには、「マスターは、もう少し自分の身体を労わるべきなんだよ! 倒れたら元も子もないんだよ!」と、本気の剣幕で怒られてしまった。
しかも珍しいことに、両頬をぷくーっと林檎のように膨らませながら。
いや、内心めちゃくちゃ可愛かったのだが、彼女たちの必死な表情を見て、自分の無自覚な狂気に気づかされた。
どうやら最近の俺は、本人が思っている以上に、限界を超えた無茶を平然と繰り返していたらしい。
学校の授業が終わると、毎日ダンジョンダイブ。帰還してからは異空間の時間を引き延ばしての修業。
深夜は今度挑む補習レイド対策の練り込みと、あらゆる勢力の情報収集。
確かに、脳のスイッチを完全にオフにして眠っている時間など、ここ最近はほぼ皆無に等しかった。
「……というわけで、いつも苦労をかけてる埋め合わせだ。今度の休日は、三人でピクニックへ行こう」
そう告げた時の彼女たちの笑顔が、今の俺の最大の原動力になっている。
とはいえ、この豊葦原学園の生徒は、たとえ長期休暇中であっても敷地外への外出が厳しく制限されている。
郊外に行く場合は、正式に申請を出してからじゃないと、出ることができない。
だからピクニックをする場所は、学園中央庭園の予定だ。
中央庭園と侮るなかれ、そこには広大な人工湖と、原生林をそのまま残した広大な自然保護区域が存在するため、普通に景色は一級品だ。
この企画を聞いて、一番張り切ったのは意外にもカヌだった。
「当日のお弁当は私がご用意いたします」と、静かに宣言した彼女は、その日の夜から異空間の厨房に籠もり、妙な気合を入れ始めていた。
途中、ちらりと様子を覗きに行ったら、彼女は“王へ捧げる行楽料理大全”という、どこで手に入れたのかも分からない古い本まで読み始めていた。
……たぶん当日、とんでもない量と質の宮廷料理が出てくるに違いない。今から胃袋の容量を空けておくのが楽しみである。
さて、羅城門ダンジョンは、この大型連休期間中に限り、午前・午後ともに全面解放される。
俺はピクニックに行く日を除き、この連休中のほぼ全日程をダンジョンダイブに費やす予定だった。
レイドまで時間がない。
次の補習レイドまで、もう残された時間はない。
少しでも多くの経験値、少しでも圧倒的な戦力、少しでも多くの不測の事態に対応できる手札。
積み上げられるものは、この期間中にすべて狂ったように積み上げておきたい。
……まあ、身も蓋もない言い方をすれば、
(ハハッ! 連休中に遊んでるライバルどもに、圧倒的な差をつける大チャンスだな!)
というやつである。我ながら、完全に戦闘ジャンキーの発想であり、現実逃避の極みだった。
そんな思考を巡らせながら、俺は脳内に現時点でのステータスを展開し、現状のパラメータを確認していた。
=====≪STATUS≫=====
名:影山幹隆
レベル60
職業:
(
スキル:ヒロイン召喚 レベル3
ステータス レベル4
異空間生成 レベル5
エイヴィヒカイト 形成
(
スキルポイント:9
パーティ:(リーダー)幹隆 レベル60、サクラ レベル60、マリィ レベル60、カヌ レベル60
=================
現時点での俺たちの純粋な強さの指標で言えば、全員が“第二段階職業を最大まで育成しきった状態”に極めて近かった。
この時期の中間考査前の一年生としては、控えめに言っても異常極まるハイペースだ。
いや、一年生どころか、この学園の全生徒の成長曲線を並べても、トップクラスの異常な速度だと思う。
エリートコースを歩んでいる特待生の連中でさえ、今はまだ安全な『既知内』領域の第二~第三階層をメインに、慎重に泥臭く探索している段階なのだから。
ただ、一つ懸念すべき問題があった。
どうやらこの羅城門ダンジョンの階層には、明確な「レベルキャップ」が存在するらしく、俺、サクラ、マリィの三人はレベル60に達した瞬間、そこからピタリと経験値のゲージが微動だにしなくなってしまったのだ。
しかし、俺のステータススキルの特性である『パーティ編成』による常時経験値共有が発生していたため、後から加入したカヌも、恐ろしい速度でレベル60へと到達した。
興味深いのは、俺たち三人がレベルキャップに到達した瞬間から、カヌ一人だけのレベル上昇速度が、ダンジョンの法則を無視したかのように露骨に加速した点だ。
つまり、俺たち三人が本来獲得するはずだった「余剰経験値」が、キャップに達していないカヌの元へと集中して流れ込んでいたのだ。
……この経験値共有システム、便利を通り越して、ちょっとバグというか、仕様が壊れてないか?
俺の予想では、この鬱陶しいレベルキャップは、次の関門である『第拾階層』に到達した瞬間、解放されるはずだ。
したがって、今日のダンジョンダイブの明確な目的は、この第九階層の突破、それ一点に絞られていた。
「よし、そろそろ、さらに奥へ進むか」
俺は、先ほどの戦闘で転がったドロップ品を手際よく回収していたサクラとカヌへ声を掛けた。
既にこれで、この階層の三つ目の大玄室を突破したところだった。
この第玖階層に出現するメインモンスターは、主に『
羅城門ダンジョンに生息する、最もポピュラーで、かつ最も厄介な亜人系モンスターの一種だ。
人間に酷似した、太く短い二足歩行型の体躯。だが、その肉体は肥満という言葉を生ぬるく感じるほどに肥大化している。
通常個体であっても平均身長は二メートル前後。ぶよぶよとした極厚の脂肪の下には、鍛え上げられた鋼のような筋肉の繊維が限界まで蓄えられており、その鈍重そうな見た目からは想像もつかないほどに俊敏で速い。
しかも、その生命力が異常なまでに高いのだ。腕を根元から叩き斬られても、そのまま肉弾突進を仕掛けてくる。
腹を剣で貫通されても、内臓を撒き散らしながら数分間は平然と棍棒を振り回して暴れ続ける。
体内に充満する瘴気によって、肉体の痛覚そのものが完全に麻痺しているため、生半可な火力や精神的打撃ではその突進を止めることができない。
その戦闘スタイルのあまりの生々しさと凶暴さゆえに、学園の生徒が最初に“知性を持った人型の怪物の恐怖”を骨の髄まで理解させられる、新人の壁とも言われている。
……もっとも、ここは学園の管理の外――『既知外』領域。
当然ながら、そんな教科書に載っているような「普通のオーク」など、この領域には一体として存在しない。
現れるのは、すべてが悍ましい変異を遂げた上位個体のみ。
漆黒の金属で全身を覆った『
しかも彼らの最も厄介な性質は、ゴブリンのような烏合の衆ではなく、明確な“群れ(軍隊)”を形成して組織的な戦術を組み立ててくる点にあった。
前衛が盾を並べてこちらの前進を阻み、後衛のシャーマンが呪詛でデバフを撒き散らし、遊撃のオークロードが死角から一撃を叩き込んでくる。
下手な俱楽部の探索者パーティよりも、よほど高度な統率が取れている場合すらあるのだ。
ここがもし『既知内』領域なら、一回の遭遇につき出現数はせいぜい二~三体程度だろう。
だが、この『既知外』領域では容赦という概念がない。
玄室一つにつき三十体前後の上位変異種が、最初から完璧な陣形を組んで待ち構えているのだ。
普通の学生パーティなら、遭遇したコンマ一秒後に絶望し、一瞬で圧殺されて全滅していてもおかしくない地獄絵図だ。
さらに付け加えるなら、女子生徒からの嫌われ具合も全モンスター中トップを独走している。
理由は極めて単純で、オーク系統の魔物は、戦場において女性の探索者を執拗に認識し、優先的に生け捕りにしようとする最悪の習性を持っているからだ。
だが、リスクが高い分、そのリターンであるドロップ品は狂ったように美味しかった。
昨日、変異種の個体が落とした魔力クリスタル数結晶だけで、市場に流せば一瞬で300万銭もの大金が稼げてしまったのだ。
……もっとも、今の圧倒的な暴力を手にした俺たちにとっては、それらの軍勢も「全くの敵」ではなかった。
「マスター! こっちの素材も、全部回収終わったんだよ!」
サクラが衣服を一切汚すことなく、元気よく右手を振る。
その隣では、カヌが刀身に血の一滴すら付着していない白銀の剣を、チャキリと静かな音を立てて鞘へと納めているところだった。
三十体近くいた、あの重武装したオークの精鋭部隊を相手に、戦闘に要した時間はわずか数分程度。
正直、戦闘自体が作業に近い。
俺は次のルートを見定めるため、
視界が瞬時にカッと冴え渡り、淡いコバルトブルーの光と共に、現実の景色の壁を透過するようにして半透明の情報層が網膜に展開される。
《
さらに、その境界線の織り成す網の目から、《
「……あと、少しだな」
その光の線の先にあるのは、おそらく第九階層突破用ゲート、第十階層へ繋がる界門だろう。
俺たちは、そのまま静まり返った玄室を抜け、さらに奥へと続く長い石造りの通路を進み始めた。
俺の右腕の袖からは、皮膚を突き破るようにして、黒い光を放つ一本の異形の刃が生え出ている。
それはエイヴィヒカイトの第二段階である【形成位階】へと完全に到達した、漆黒の処刑刃。
骨とも、鋼とも、あるいは未知の魔導金属とも違う。
それは、まるで“世界から『死』という概念そのものを切り出して固定した”かのような、光を一切反射しない絶対的な闇の黒だった。
通路の先、どうやら奥の玄室から迷い出て徘徊していたらしい、数体の重装オークがこちらの気配に気づき、咆哮を上げようと巨大な顎を開く――その、まさに瞬間だった。
「――
次のコンマ数秒の世界では、俺は既にオークたちの背後、完全な死角へと回り込んでいた。
物理の法則を完全に無視した超加速。彼らの鈍い神経がこちらの移動を認識し、反応できるわけがない。
俺は無造作に、右腕のギロチンの刃を水平に一閃させた。
――キィン!
空間が爆ぜるような硬質な音が響く。
次の瞬間、重装オークたちの巨大な首と、分厚い鎧に包まれた胴体が、綺麗に分断された。
その切断面からは、驚くべきことに血の一滴すら噴き出さない。
彼らの肉体は、あたかも“最初からこの世に存在していなかった”かのように、切られた端から黒いボロ切れのような霧となって崩壊し、消滅していく。
数秒の後には、彼らの生命の残滓である、美しく輝く魔力クリスタルだけが、冷たい床へとカラカラと転がっていた。
これこそが、マリィの内に眠る絶対的な聖遺物――『
この圧倒的な力を真に行使するためには、『エイヴィヒカイト』と呼ばれる特殊魔術体系を扱う必要がある。
これは、ただ魔力を練って身体能力を強化するような、底の浅い強化魔術などではない。
“無数の魂を吸い上げて概念化した『聖遺物』という凶悪な異物を、自身の魂そのものへと降ろし、同化させる儀式体系”なのだ。
この魔術体系には、その熟練度と魂の格に応じて、明確に四つの『位階』が存在している。
エイヴィヒカイトの第一位階は、『活動位階』で初期位階とされている。
超人になるための登竜門とされており、この位階に達する時点で、高い才能が必要だ。
活動位階へ到達した者は、契約聖遺物の特性を“生身のまま”限定的に行使可能となる。
例えば、刃物なら斬撃、毒なら侵食、火器ならば炎などを念じただけで発生させる。
『
あの時の俺は、活動位階によって不可視の斬撃を発生させていた。
ただ“斬る”という意思だけで、空間へ結果を刻み込める。
ただ、威力という面では、そこまで強くはない。
……とはいえ、地上ではスキル使用が制限される学園環境において、この力は十分すぎる脅威だった。
この位階の時点で使用者の身体能力は既に常人を遥かに凌駕している。
しかし、生身の身体に聖遺物の属性が宿っているだけの状態なので聖遺物の衝動に振り回され暴走・自滅の危険が高い。
また聖遺物の影響下で発生する好戦性の発露によって軽率な行動を取りかねない。
俺の場合は、他にも『
常人であれば、良くて発狂、普通は死、最悪の場合は乗っ取られる。
次の位階、エイヴィヒカイトの第二位階は、『形成位階』である。現時点での俺が扱える領域だった。
この位階は、術者の魂と融合した聖遺物の武器具現化、及びそれを可能にする状態である。
人と魔術武装の霊的融合が成されることにより、この位階に入ったものは人の範疇から外れた超人となる。
高度な破壊と戦闘行為が可能になるのはこの位階からで、魂を消費して超常現象を成すことができるようになる。
常人ではもはや対処することはできない。
常人には対抗不可能とされるその脅威は、大きく分けて以下の三つ、怪力と肉体的頑強さ、第六感の鋭さが上げられる。
この位階へ至ることで、出来ることは爆発的に増える。
ビルをまるごと一刀両断したり、海面を蹴って走ったりすることも可能だ。
この位階に達することで意識するのは、自分には
意志の強さと自負の固さ。それが何よりも強大な力を生む起爆剤になる。
音速を超えて動けて当たり前、壁を蹴って走ることも当たり前、目の前にいるどんな生物でさえ斬れて当たり前など思い込むことは何より大切なのだ。
原作『Dies irae』では、主人公が5日かけて到達していたが、俺はスキルの力で最初からこの位階に到達していた。
そして、三つ目の位階、『創造位階』。そこには、未だ到達できていない。
形成位階が、“超人化”の完成形だとするなら、創造位階は、“世界そのものへ、自分だけの法則を刻み込む領域”である。
この位階へ至った術者は、自らの魂から“
例えば、「自分の刃は必ず対象へ到達する」、「自分の炎は絶対に消えない」そういった“都合のいいルール”そのものを、現実へ強制する。
創造位階に達するためには、既存の常識を己が理想で粉砕することができるようになるらしいが、イマイチ俺にはわかっていなかった。
次の補習レイドまでに至れれば正直、攻略難易度は一気に下がると思う。が、今のところ、その兆しはない。
そもそも俺の場合、本来なら命懸けで到達するはずの形成位階へ、最初から立っていた。
スキルによってエイヴィヒカイトの手順を大幅に踏み越えている。
だから逆に、“創造へ至るための本質的な過程”を、どこか飛ばしてしまっている可能性がある。
本来必要だった何かが、俺には欠けているのかもしれない。
最後の四つ目の位階は、最終位階の『流出位階』。
そこへ至った存在を、もはや“術者”とは呼ばない。神だ。
形成位階が“個人の超人化”。創造位階が“自分だけの法則の顕現”。
だとするなら、流出位階は、“世界そのものを、自分の理へ塗り潰す段階”である。
創造位階では、まだ世界の上へ“自分のルールを重ねている”に過ぎない。
だが流出は違う。世界そのものが、術者の魂へ侵食される。
宇宙法則の全てが、“その者の渇望”によって上書きされ始める。
おそらく、この『ハイスクールハックアンドスラッシュ』という世界においても、流出位階へ至れば、
それほどの領域へ到達することになる。
文字通り、その力は神になることと同義である。
つまり、エイヴィヒカイトとは、人が神になるための魔術ということになる。
――――
俺たちは第九階層の
中へと足を踏み入れた瞬間、鼻腔を強烈に刺すような、生々しい獣臭と、鉄錆の混ざった濃密な血臭が、視界を遮るほどのドス黒い瘴気と共に一気に流れ込んできた。
空気が鉛のように重い。まるで、巨大な肉食獣の「胃袋の内部」へと自ら進んで踏み込んでしまったかのような、圧倒的なプレッシャーが肌を刺す。
天井は遥か高くに見上げるほど広大だが、空間の先は嫌な紫色の霧で薄暗い。
周囲の壁面には、これまでにここへ立ち入り、無残に貪り食われたであろう、人間や様々な魔物の骨が、おぞましいディスプレイのように大量に突き刺さっていた。
そして、その広大な玄室内には、ざっと見積もっても五十体を超える、オークの亜種たちがびっちりと軍陣を組んで群れていた。
だが、本当の問題は、その軍勢のさらに奥――玄室の最深部にあった。
大量の白骨と、赤黒く錆びついた巨大な鉄塊を雑に組み合わせて作られた、歪で巨大な玉座。
その血塗られた王座の上に、“ソレ”は傲然と腰を下ろしていた。
ただそこに座っているだけだというのに、周囲の空間そのものが、その圧倒的な質量と魔力に耐えかねてギチギチと悲鳴を上げて軋んでいる。
その身長は、優に五メートルを越えていた。
丸太のように太い筋肉の繊維が、まるで重厚な鎧のプレートのように全身で異常に膨れ上がり、黒く変色したその皮膚の表面には、明滅する禍々しい「呪紋」が、血管のようにびっしりと刻み込まれている。
そいつが低く呼吸をするたびに、その巨大な鼻孔から、濃密な瘴気が白煙となって勢いよく噴き出していた。
そして、何よりも他の魔物と一線を画して異常なのは――その『目』だった。
ただ本能のままに暴れ狂う、そこらの獣の目ではない。
こちらの戦力を冷静に見極め、陣形を微調整するような、極めて狡猾な『知性』が、その小さな瞳の奥に確かに宿っていたのだ。
俺たちが完全に中へと入った瞬間、玄室の空気が一変した。
空間に満ちていた瘴気の濃度が、それまでの数倍の圧力へと一段階跳ね上がる。
「――グォォォォォォォォォオオオアアアアッッ!!」
鼓膜を破らんばかりの、地響きのような低い咆哮。
それは音として耳に届くのではなく、内臓を直接素手で掴んで揺さぶられるかのような、凄まじい重低音の衝撃波となって俺たちの身体を叩いた。
目の前に君臨するこの巨躯の怪物こそが、この狂える軍勢の絶対的な頂点。
第九階層の
俺はフゥ、と小さく深く、熱い息を吐き出した。
呼応するように、俺の右腕と完全に一体化している、漆黒の処刑刃――『黒刃』が、まるで生き物のようにドクン、ドクンと低く脈動を開始する。
すぐ隣を見れば、サクラが不敵で無邪気な笑みを浮かべていた。
背後に控えるカヌも、一切の動揺を見せず、ただ静かに白銀の長剣の柄へとその細い手を添えている。
誰一人として、この絶望的な光景を前にして、足一つ竦ませていない。
むしろ――「この程度なら、問題ない」と、全員が冷徹に状況を判断していた。
「それじゃあ、サクッと片付けるか」
「了解なんだよ! 派手に暴れてやるんだよ!」
「……幹隆様、周囲の有象無象の雑兵は、私にお任せください」
その瞬間、俺のことを傲慢な侵入者だと、思ったのだろう。
玄室を埋め尽くす五十体以上のオークたちが、一斉に血走った目を剥き、狂気的な殺気を膨れ上がらせた。
鼓膜を裂く怒号、地面を激しく叩く足踏み、武器同士を打ち鳴らす金属音が混ざり合い、巨大な津波となって押し寄せる。
普通の生徒であれば、この圧倒的なプレッシャーだけで精神をへ し折られ、その場にへたり込んでしまうような絶望的な光景。
「――
ドク、と心臓が跳ね、莫大な魔力が全身の経絡を一瞬で駆け巡る。
次の瞬間、俺の視界から「世界の色」が消え去り、すべての時間が完全に停止したかのように置き去りにされた。
床の石畳が粉々に砕け散る。空気が音速を超えて爆ぜる。周囲の景色が、一本の細い光の線へと変わる。
元より人間の限界を遥かに超越した【形成位階】の頑強な肉体へと、さらに俺自身の
その結果として生み出される移動速度は、もはや突進やダッシュなどという次元を完全に超えていた。
それは、空間の座標そのものを書き換えたかのような――“完全なる瞬間移動じみた超高速神速機動”。
――ズドンッッ!!
一瞬遅れて、空間を置き去りにした強烈な衝撃波の轟音だけをその場に残し、俺の姿は文字通り、世界から完全に掻き消えた。
そして次のコンマ一秒の後、俺は既に、玉座に座る
「………………ブ、ブヒィ?」
ひどく間抜けな、間の抜けた鼻鳴らしの声だった。
つい先ほどまで、白骨の王座にどっかりと腰掛け、圧倒的な弱者を見下ろすように余裕をぶっこいていた迷宮の王。
その顔面に埋め込まれた小さな凶暴な瞳が、目の前で起きた「理解不能な現実」を前にして、これ以上ないほどに丸く見開かれている。
無理もない。こいつの認識では、俺という人間は、まだ遥か遠くの入口付近で立ち止まっていたはずなのだから。
俺の右腕。
魂の深淵から引きずり出し、具現化させたマリィの聖遺物――
その漆黒の刃から、周囲の空間へとじわりと染み出していくのは、“断罪”の概念。
これは、ただ敵の肉を効率よく「斬る」ために作られたナイフなどではない。
対象の存在、生命そのものを強制的に「終わらせる」ためだけに存在する、呪われたギロチン。
「――終わりだ、王様」
一閃。
音すらも遥か置いてけぼりにして、後から遅れてやってくる。
光すら吸い込むような絶対の黒い軌跡が、空間そのものを切り裂くようにして横一線に走った。
その瞬間、
王が身に纏っていた強固な鎧も、肉体の耐久値も、ダンジョンシステムが保証する強力なSPバリアも――そんなものは、この刃の前には一切の意味も成さない。
ギロチンという概念の具現であるこの刃は、首を切断した相手を“ただ処刑する”という結果を押し付ける。
だから、斬れる。どれほど硬かろうが、どれだけ巨大だろうが、そんなことは何の関係もないのだ。
――ズウゥゥゥゥンッッ!!
首を失った五メートルを超える巨体が、盛大に血の霧を吹き散らしながら、糸の切れた人形のように王座から崩れ落ち、玄室の床を激しく揺らした。
だが、その王は、もう二度と立ち上がることも、再生することもない。
あまりにも一方的。あまりにも理不尽。圧倒的なまでの『死』の執行。
王の完全な死をその目でありありと理解した瞬間、玄室を埋め尽くしていた五十体以上のオークたちの空気が、一瞬で完全に凍りついた。
そこに残っていたのは、先ほどまでの獰猛な戦意などでは断じてない。
怯えや恐怖だ。自分たちの天敵を見る目だった。
「血、血、血、血が欲しい――。……もっと私に注いで、幹隆……」
脳内の奥底へと、頭痛を伴うほどに甘く、蕩けるような少女の声が響き渡る。マリィだ。
「ギロチンに注ごう、飲み物を。ギロチンの渇きを癒すために……」
歌うような軽快な声色からは、彼女が今、機嫌が良いことが手に取るように伝わってくる。
この『既知外』領域の超越個体である
俺は右腕の刃を構えたまま、ゆっくりと背後の軍勢へと振り返った。
そこにいたのは、先ほどまで学園の精鋭部隊のような顔をして勇ましく咆哮を上げていた、オークの精鋭軍。
だが、今の彼らはまるで違っていた。誰一人として、武器を構えて前へ出ようとする個体は存在しない。
ただ巨大な巨躯を惨めに震わせ、情けなく後ずさりし、喉の奥で小さく「ブヒィ、ブヒィ」と怯えた悲鳴を漏らすだけ。
玄室全体が、一瞬にして完全な恐慌状態に陥っていた。
彼らの絶対的な王が、わずか一瞬、認識すらできない速度で屠られたのだ。
しかも、自分たちには何が起きたのか、その現象すら一切理解できていないのだから、当然の反応と言えた。
俺は右腕の漆黒の刃を軽く一振りし、刃の表面に付着していた赤黒い瘴気の残滓を鋭く払い落とした。
シュウ、と黒い霧が空中へ霧散していく。
「安心しろ。すぐに、お前たちも同じ場所へ送ってやる」
その冷徹な言葉を、待ちに待った合図にしたかのように、俺の背後でサクラが嬉しそうに、実になめらかに笑った。
「わーい! いっぱい、いっぱい倒して経験値にするんだよ!」
言葉の終わりと同時に、今度はカヌの姿が視界から完全に掻き消えた。
キィン、と一筋の美しい銀閃が空間を横切る。
次の瞬間には、前衛にいた重装オークの首が、三つ同時に綺麗に宙を舞っていた。
――そこから始まったのは、戦闘などではない。ただの一方的な虐殺だった。
――数分後。
広大な玄室内にひしめき合っていた五十体以上のオークの亜種たちは、一体残らず黒い霧となって霧散していた。
先ほどまで鼓膜を震わせていた凶暴な咆哮も、鉄と肉が激しくぶつかり合う凄まじい轟音も、今はもう影も形もない。
静寂が戻った空間に残されているのは、部屋を満たす濃密な瘴気の名残と、床一面を埋め尽くすようにして転がっている、大量のドロップ品の山だけだった。
「……ふぅ。終わってみれば、ずいぶんとあっけない幕切れでしたね」
カヌが、戦闘の直後だというのに、返り血はおろか埃一つすら衣服に付着させていない美しい所作で、白銀の長剣を静かに鞘へと収めた。
その一連の動作は、およそ凄惨な虐殺の直後とは思えないほどに、凛としていて優雅そのものだった。
「――やはり、戦いの最中にあれほど明確な『殺意』がある時点で、戦士としては二流以下だと思います。動きが読みやすすぎますね」
「いや、魔物相手にそんな無茶言うなよ……」
俺は思わず、呆れたように苦笑しながらツッコミを入れてしまった。
いや、まあ、12000年以上の時を生き抜いてきた、カヌの視点からすれば、確かにそうなのかもしれないけれど。
殺意を隠して接近しろって、本能のままに動くダンジョンの魔物相手に要求するレベルの技術じゃない。
そもそもオークなんて生物は、“視界に入った獲物へ、本能のままに突撃する”ことだけにステータスを全振りしたような、欲望の塊のような生物なのだ。
特に人間の女を見た瞬間なんて、理性よりも本能のギアが最優先でトップに入る。
知能よりも圧倒的な暴力。統率よりも目の前の快楽。
だからこそ一般の学生にとっては手の付けられない脅威であり、同時に――カヌのような達人からすれば、あまりにも行動パターンが「読みやすすぎる」ただの的でしかないのだ。
12000年基準の戦術論で語られても、オークの側も困惑するに違いない。
そんなくだらないことを脳内で考えながら、俺は床に文字通り散らばっている、大量の上質なドロップ品を手際よく回収し始めた。
高純度の魔石、巨大な魔力クリスタル、オークの最上級の素材。変異種由来の特殊な固有部位、そして彼らがドロップした強力な固有武器の数々。
特に、この誰も立ち入らない『既知外』領域産の素材は市場価値が高い。
普通の学生パーティであれば、この玄室一つをクリアした報酬だけで、数ヶ月は一切ダンジョンに入らずに贅沢に遊んで暮らせるレベルの、莫大な収益だ。
ドロップ品を、俺のスキルで次々と『異空間生成』の倉庫エリアへと収納していく。
度重なるレベルアップによって広大化を遂げた俺の異空間倉庫は、小規模な大手ギルドが丸ごと一つ所有する備蓄倉庫に匹敵するほどの、凄まじい量の物資が格納されていた。
そこには、周囲の空間を捻じ曲げるかのようにして、黒紫色の不気味な瘴気をモウモウと纏った、巨大な石造りのゲートが、立っていた。
俺は再び、『
淡い導きの光が、俺の両瞳の奥へと静かに宿る。
《
空間に隠された複雑な境界接続を瞬時に読み取り、術者にとっての“正しい唯一の道”を指し示す、神格の導きの権能。
視界の端に浮かび上がる膨大な情報を一つずつ精査し、確認していく……。
よし、間違いない。罠の兆候も、空間のねじれもない。
「どうやら、本物だな」
この目の前にある巨大なゲートは、探索者をハメるための偽装通路でも、最悪なエリアへ飛ばす転移罠の類でもない。
正真正銘、第九階層の先――まだ見ぬ未開の第十階層へと、続く境界門だった。