時は夕刻。
太陽の光が傾き、窓から差し込む橙色の光が床を長く照らしている。
俺とサクラは、そんな時間帯の学園の食堂に足を運んでいた。
重厚な扉をくぐった瞬間、無数の生徒たちのざわめきと、香ばしく食欲をそそる油や出汁の香りが一気に押し寄せてくる。
夕方ということもあってか、食堂は学生たちでそこそこ賑わっており、あちこちで談笑する声や食器の触れ合う 音が重なり合っていた。
ダンジョン帰りらしい生徒たちが空腹を満たそうと列を作り、テーブルでは一日の出来事を語り合う姿が見える。
俺たちはトレイを手に取り、カウンターに沿ってゆっくりと進む。温かい湯気を立てる料理が整然と並び、肉料理や揚げ物、彩り豊かな副菜が視界に広がった。
「マスター、これなに? なんだよ?」
「それは……コロッケだな。ジャガイモと挽き肉を丸めて揚げたやつだ」
「ころっけ……!」
サクラは興味深そうにそれを見つめたあと、嬉しそうにトレイに乗せた。
「それと、これと……あ、あっちの、赤いタコさんみたいなのも気になるんだよ!」
「……おい、ちょっと取りすぎじゃないか? 食べきれるのか?」
「だって全部気になるんだよ!」
桜色の髪を揺らし、純粋無垢な熱を宿した瞳で見つめられると、それ以上止める言葉が見つからなくなる。
俺は苦笑しながらも、彼女が選ぶままに任せることにした。
皿が積み重なるたびに、トレイがずっしりと重みを増していく。
やがて会計を済ませると、俺たちはにぎやかな喧騒の中を縫うように歩き、空いている窓際の席へと向かい合って腰を下ろした。
周囲の視線が一瞬だけこちらに向いた気がしたが、すぐに逸れていった。
周囲の視線が一瞬だけ、鋭くこちらに向いた気がしたが、すぐに何事もなかったかのように逸れていった。
(まあ、嫌でも目立つよな……)
サクラは制服こそ着ているものの、あの桜色の髪と人間離れした桜光の双眸、そして一切の穢れを知らない整った容姿は、どうしたって有象無象の中で異彩を放ってしまう。
本人はそんな周囲の品定めするような視線など微塵も気にしていない様子で、目の前に並んだ料理の山に夢中になっているのが、俺にとっては唯一の救いだった。
「――いただきます、なんだよ!」
元気よく両手を合わせると、サクラは早速、揚げたてのコロッケを小さなお口で豪快にかぶりついた。サクッ、と小気味よい音が響く。
「……っ、おいしい! 美味しいんだよ、マスター!」
ぱっと世界が明るくなったかのように、彼女の表情が至福に染まる。
「外がサクサクで、中がほくほくしてるんだよ!」
「まあ、揚げたての惣菜はそういうもんだからな」
「すごいんだよ……これが人間の食事……」
やけに感動している様子に、思わず苦笑が漏れる。
「そんな大げさな」
「だって、私……ちゃんとこうやって食べるの、初めてかもしれないんだよ」
大袈裟なほどに感動している彼女の姿に、胸の奥がくすぐられるような感覚と同時に、箸を持つ手がほんの少しぎこちないことに気づく。
その様子が、俺の心の柔らかい部分にチクリとした痛みを残した。
「……そっか。そんなに気に入ってくれたなら良かったよ」
それ以上、軽口は出てこなかった。
サクラは次々と未知の味覚へと手を伸ばし、そのたびに子供のように小さく歓声を上げている。
その無邪気な姿を見ているだけで、前世の荒んだ社畜生活では決して得られなかった、不思議な充足感が俺の心を満たしていく。
(……なんだこれ)
神様のせいでこの世界に来たとはいえ、俺は自分の都合で彼女を呼び出して、あの血生臭いダンジョンで命がけの戦いを強いている。
その圧倒的な身勝手さと、彼女の純粋さに甘えている自分の無力さに、急に嫌気がさしたのだ。
「マスターも食べないと、せっかくのご飯が冷めちゃうんだよ?」
「あ、ああ……そうだな。悪りぃ」
サクラに促され、ようやく自分のトレイに視線を落として箸を動かす。
しばらくの間、小気味よい食事の音だけが二人の間に流れた。
けれど、その沈黙は決して不快なものではなく、どこか暖炉の前にいるような心地よさがあった。
俺は口の中のものを飲み込み、意を決して、ずっと胸に引っかかっていた言葉を絞り出した。
「――サクラ、すまなかった」
ぽつりと呟くように言う。
「え?」
唐突な謝罪に、サクラが不思議そうに箸を止め、小首を傾げてこちらを見つめる。
「今日のダンジョンのことだ。……それと、これからのことも。多分、俺と一緒にいる限り、お前を何度もあんな危険な目に巻き込むことになると思う」
言葉を一度切り、トレイの上で拳を握りしめる。
「俺の勝手な都合でこの世界に呼び出して、まともな説明もないまま、いきなり命がけの攻略に付き合わせた。……冷静に考えて、まともな主人のやることじゃない。かなり無茶を言ってる自覚はあるんだ」
自嘲気味に、歪んだ笑みが漏れる。
「それでも、お前がいてくれたから俺は生き残れた。本当に助かったんだ。……ありがとな」
けれど、と俺は視線を落とした。
「……今日、戦闘の最中にお前が動けなくなった時、正直、心臓が止まるかと思うくらい焦った」
少しだけ視線を落とす。
「俺のせいで危ない目に遭わせたって思ったら……なんか、自分が嫌になってな」
一気にまくし立てるように言い終えると、急に気まずさが押し寄せてきた。
何を情けない愚痴をヒロインに零しているんだ、と。
すると――。
「マスター」
サクラが、いつになく優しく、そして凛とした声で俺の名を呼んだ。
顔を上げると、彼女は夕陽の光を背に浴びながら、聖母のような柔らかな微笑みを浮かべていた。
「私はね、マスターに呼ばれてここに来たこと――後悔してないんだよ。」
まっすぐな目だった。
「確かに危なかったけど、それ以上に……マスターのために戦えたことが、私は堪らなく嬉しかったんだよ」
少しだけ照れたように笑う。
「それに、私はマスターの『
少しだけ頬を桜色に染め、照れたように笑う。
「それにね、私はマスターの『
そう断言し、続けさまに言葉を紡ぐ。
「だから……迷わないで。これからも私は、ずっと、ずーっとマスターの隣にいるんだよ」
その言葉が、俺の胸の奥底で凝り固まっていた不安の重石を、嘘のように溶かしていく。
「……そっか。お前にそう言われちまったら、俺の弱音なんて形無しだな」
自然と、今度は自嘲ではなく、心からの小さな笑みが溢れた。
「ありがとな、サクラ」
「うん!」
食事を終えた俺たちは、完全に日が落ちた食堂を後にした。
そして、人気のない場所で”異空間生成”を使用し、サクラに戻ってもらう。
このスキルで生成された空間は、内部に滞在している間だけ「外の世界の時間」が完全に停止する。
逆に言えば、俺がこうして現実世界に出ている間、異空間の内部時間は現実と同じ速度で普通に流れる仕様だ。
(ダンジョンでは便利だったけど、日常だと使いどころが難しいな……)
夜もこのままサクラと過ごしたかったが、そうもいかないらしい。
サクラを異空間へと見送り、俺は一人で男子寮の自室へと戻った。
――――
パタン、と静かに扉を閉める。
「お、お帰り。それでどうだったよ? 初めてのダンジョンダイブは」
ベッドの上に寝転がっていた浩一が、待ってましたと言わんばかりにニヤニヤとした顔で身を起こした。
この学園で唯一、俺が気兼ねなく話せる悪友だ。
「それが何も覚えてないんだよな。門に入ったと思ったところまでしか記憶がねえんだよ。気づいたらゲートの前に戻ってきてた。記憶がすっぽり抜けてるんだ」
俺は自身の生存やチートスキル、そしてサクラの存在を隠匿するため、事前に用意していた嘘を淀みなく吐き出した。
「うわ、やっぱそんな感じなのか……。俺、ダイブの割り当てまだ先だからさ、正直ちょっと怖えわ」
おどけた口調の中にも、ほんの少しだけリアルな恐怖が混じっている。
それがこの学園の『普通』の生徒の反応だ。
「まあな。何が起きたか分からんうちに終わってるってのは、逆に気味が悪いよな」
適当に相槌を打ちながら荷物を棚に置く。
すると、浩一がさらに声を潜め、ベッドから身を乗り出してきた。
「それよりさぁ、お前知ってるか? ダンジョンに潜ると、性欲が異常に跳ね上がって、男女ペアだと速攻でやり放題になるらしいぜ?」
「……おい、誰の受け売りだよそれ」
「寮の先輩。めっちゃドヤ顔で語ってた」
アホくさ……と内心で呆れ果てながらも、俺は否定しきれない複雑な気分になる。
「俺も早く潜って、可愛い女子とやりまくりてぇ~!」と一人で盛り上がっている浩一だが、実際問題として、ダンジョン内での性交渉が常態化しているのは事実だ。
ダンジョンに潜ると、レベルアップに伴って妙に身体が熱くなる。
あの状態を我慢し続けるのは正直きつい。
だから、ダンジョン内で発散する――そういう連中がいるのも事実だ。
もちろん、安全な場所なんて保証はない。モンスターに襲われるリスクもある。
「男女で潜る」のが主流になっているのは、そういう理由もある。
男は女とやりまくって自身の性欲を発散できる。では、女側はどうだろうか。
もちろん、メリットがある。それは、レベル上げとダンジョンダイブの手助けだ。
この学園には定期的にノルマが設定されており、ボーダーを超えられなければ過酷な追試が待っている。
ボーダー越えるにはどのみちレベル上げが必須になってくるのだ。
そして、追試の
ちなみに、俺たち一年生に課された最初のボーダーは「第二階層への到達」。
だからこそ、この学園のシステムを理解した女子生徒たちは、生き残るために強い男の派閥に群がり、その庇護を求め、対価として自身の身体を提供する。
装備、支援、そして安全。それらを天秤にかけた結果として、歪な関係が自然と構築されていく。
この学園はとことん、強者だけがすべてを貪る弱肉強食の世界なのだ。
「悪い、今日はマジで疲れた。そろそろ寝るわ」
「お、おう、お疲れ。初ダイブだし、ゆっくり休めよ」
浩一に声をかけ、俺はそのまま制服を脱ぎ捨ててベッドへと潜り込んだ。
――――
異世界に転生して、三日目の朝――。
パチリと目を覚ました瞬間、自分でも驚くほど身体のコンディションが良いことに気づいた。
羽毛のように身体が軽い。呼吸は深く、肺に流れ込む空気がやけに澄んで感じられる。
視界の解像度までもが、ひと皮剥けたように鮮明だった。
(これが……ダンジョンでのレベルアップがもたらす肉体強化の恩恵か)
ゆっくりと上体を起こし、隣のベッドへ目を向ける。
浩一はまだ毛布にくるまり、規則正しい寝息を立てて爆睡していた。
彼を起こさないよう静かに制服へと着替え、音を立てずに部屋を抜け出す。
寮の外に出ると、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でた。
朝日はまだ低く、古い石畳の上に長い影を落としている。
行き交う生徒の姿はまばらで、豊葦原学園はまだ目覚めきっていない静寂に包まれていた。
学園の校舎へと続く並木道の途中、俺は周囲の死角となる大きな木陰に身を滑り込ませた。
あたりに人の気配が完全にないことを確認し、小さく息を吐く。
「……”異空間生成”」
低く呟くと、空間がわずかに波打ち、黒い世界の裂け目が口を開ける。
俺は迷いなく、その中へと足を踏み入れた。
「サクラ、起きてるか?」
薄暗く静謐な空間の中、声をかけると、部屋の隅に敷いた布団がもぞもぞと不器用に動いた。
「……ううん? なんだよぉ……」
サクラが眠たそうに小さな手で目をこすりながら、のそりと身を起こす。
あちこちに跳ねた桜色の髪に、完全に焦点の合っていないぼんやりとした表情。
絵に描いたような寝起きの顔だ。
「ふぁ~あ……おはようなんだよ、マスター……」
間延びした声とともに、小さな可愛いあくびがこぼれる。
「ああ、おはよう。ほら、シャキッと起きろ。朝飯食いに行くぞ」
「朝ごはん……! 食堂のご飯なんだよ!?」
その一言で、彼女の目がぱちりと見開かれた。
さっきまでの重々しい眠気が嘘のように霧散し、表情が一気に輝き出す。
(本当に分かりやすいな、こいつ……)
思わず口元が緩むのを隠しながら、急いで身支度を整えたサクラを伴い、再び現実世界へと躍り出た。
外の光に包まれた瞬間――。
「わあ……っ」
サクラがピタリと足を止め、感嘆の声を漏らしながら空を見上げた。
「お日様がポカポカなんだよ……今日は絶好のひなたぼっこ日和だよ~」
両手を軽く広げ、陽の光を全身に浴びるようにして愛らしく目を細める。
その幻想的な姿は、彼女が本当に光を糧として生きる高位の存在であることを思い出させた。
「そんなに好きなのか?ひなたぼっこ」
「うん! 私はね、日光を司る桜光の精霊なんだよ?」
ふんす、と大きな胸を張って、少し誇らしげに主張する。
「陽の光を浴びることでエネルギーを補充できるの。だから、こういうお天気の日は、一日中ずーっとひなたぼっこしていたいんだよ!」
「へえ、そりゃ好都合だな。じゃあ、俺が日中に授業を受けてる間、学園の敷地内で好きにしてていいぞ」
「本当!?」
ぱっと顔を輝かせ、ぐいっとパーソナルスペースを無視して距離を詰めてくる。
期待に満ち満ちた、子犬のような瞳だ。
「ただし条件がある」
「条件?」
「できるだけ人目の少ない場所を選ぶこと。絶対に目立つな。いいな?」
「うん、約束なんだよ! 隠れて、ひなたぼっこするんだよ!」
元気よく頷くサクラを見て、少しだけ肩の荷が降りる。
まあ、あいつの身体能力と直感なら、下手にトラブルに巻き込まれることもないだろう。
そんなことを考えながら歩を進めるうちに、目的地の食堂が見えてきた。
早朝ということもあってまだ席は十分に空いており、清々しい静けさの中、俺たちは落ち着いて朝食を済ませることができた。
――――
朝食を終えてサクラと一度別れた俺は、自身の教室。――『
予鈴が鳴るまでの僅かな時間を利用し、俺は周囲に悟られないよう、机の下で自身のステータス画面を再度展開した。
=====≪STATUS≫=====
名:影山幹隆
レベル20
職業:
スキル:ヒロイン召喚 レベル2
ステータス レベル3
異空間生成 レベル3
スキルポイント:3
パーティ:(リーダー)幹隆 レベル20、サクラ レベル20
=================
「……ふぅ」
机に肘をつき、小さく息を吐き出す。
昨日の検証で分かったことだが、現在の『
そして、手持ちのスキルポイントはわずか『3』。
これでは現状、どのスキルもレベルを上げることはできない。
(『ヒロイン召喚』か……。そろそろ二人目の召喚も視野に入れないとな)
もしこの世界に送り込んだ神様に何らかの意図があるなら、次に召喚されるヒロインもまた、この世界の理を無視した
スタートダッシュとしてはこれ以上ない成功を収めた。
この調子でダンジョンを最速攻略していけば、自ずと俺をここに転生させた意図も見えてくるはずだ。
――そもそも、最初の前提からして不自然極まりない。
仮にも“世界を管理する神”を名乗る超常の存在が、処罰対象の人間を間違えて、ただの一般人だった俺の命を誤って奪うなんてマヌケな真似をするだろうか?
あの時は転生の興奮と混乱で思考が完全に停止していた。
だが、今は違う。冷静に思い返せば思い返すほど、あの白い空間でのやり取りには、作為的な“妙な違和感”が残っている。
この世界のダンジョンには神に関するモンスターだっているはずだ。
知っている可能性は低いかもしれないが聞く価値はありそうだ。
そして当面の目標は第20階層『
あそこをクリアできるか否かが、この学園における『強者』と『弱者』を分ける明確な境界線になる。
頭の中で目標立てたところで、クラスメイトたちが騒がしく登校し始めてきた。
ふと、肌を刺すような強い視線を感じて顔を上げる。
そこには、この世界の本来のシナリオにおける主人公――叶馬が、教室の入り口からこちらをじっと凝視していた。
だが、目が合った瞬間、彼はほんのわずかに不自然に視線を逸らし、自分の席へと歩き去っていく。
……気のせいか? いや、あいつのあの目は……)
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムが鳴る。翠先生の声も、周囲のざわめきも、どこか上の空で聞いていた。
気づけば、一日の授業はすべて終わっていた。
意識が現実へと浮上した時には、すでに放課後の解放感に満ちたざわめきが教室を支配している。
俺は半ば機械的に席を立ち、帰宅する生徒の流れに乗るようにして、そそくさと寮へと戻った。
そして
誰もいない空間で、俺は静かに右手をかざし、魔力を解放する。
「……”
空間がわずかに歪み、光の粒子が収束していく。
二十四時間以内に出会った存在を呼び戻すスキル。
本来――ダンジョン外でのスキル使用は禁止されている。
そう教えられてきた。外でスキルを使うには、専用の施設か、瘴気の濃い特定区域に限られる、と。
――だが、それはあくまで“表向き”の話だ。
実際には、ダンジョンで“死に戻り”を経験した者が例外的に制限されているだけで、生きて帰還した者は問題なく外でもスキルを行使できる。
特級科の生徒の大半は、死なずに帰還している。
つまり――最初から使える側の人間というわけだ。
もっとも、叶馬のような
「……ふぇぇ?」
お馴染みの間の抜けた声とともに、サクラがひょっこりと姿を現した。
「授業が終わって帰ってきたから呼び出した、取り込み中だったか?」
「――マスター。いきなり呼び出されると、びっくりするんだよ」
少しだけぷくーっと頬を膨らませながら、可愛らしく抗議してくる。
「悪い。連絡手段がなかったからさ」
「……まあ、許してあげるんだよ。それよりもお腹が空いたんだよ!」
「はいはい、じゃあまた食堂に飯でも食いに行くか」
学園の食堂で、少し早めの夕食を軽く取る。
向かいに座ったサクラは、相変わらず幸せそうに箸を動かしている。
そんな様子を眺めながら、朝から考えていたことを切り出した。
「……マスターは、あのダンジョンを、本気で攻略するつもりなんだね」
俺が口を開くより先に、サクラが食事の手を止め、静かにそう言った。
「ああ。色々考えたが、当面の目標は二十階層の攻略だ。……だが、そのためには今の俺たちの戦力だけじゃ圧倒的に足りない。数を増やす必要がある」
少しだけ言葉を切り、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
「つまり、俺が持っているこの能力……『ヒロイン召喚』を、近いうちにまた使うことになると思う」
「――新しい、私以外の女の子を呼ぶんだね」
サクラは寂しそうに割り切るわけでもなく、すべてを理解したように静かに頷いた。
「ああ。サクラには、最初に呼んだお前に対して、なんか不義理を働くみたいで悪いと思ってる」
居心地が悪くなり、俺は視線を斜め下へと逸らした。けれど、サクラは小さく、愛おしそうに首を振った。
「こんな過酷な世界なんだし、マスターが生き残るためには仕方のないことだよ」
そう言ってから、彼女はほんの少しだけ間を置いて――「……でもね」と、俺の顔を覗き込んできた。
「これからたくさん新しい子が来ても……私が、マスターの中で『一番』だったら嬉しいなって、そう思うんだよ」
「――ああ、約束する」
そこへ飾るような安っぽい取り繕いの言葉は必要なかった。
ただ、男として、真っ直ぐに彼女の目を見て頷く。
「ありがとう、サクラ。その代わり……俺にできることがあれば、何でも言ってくれ。可能な限り叶えるから」
「じゃあ、じゃあね――!」
現金なもので、サクラの表情が一瞬でぱっと大輪の桜が開いたように明るくなった。
「マスターと、デートしたいんだよ!」
「デ、デート……?」
想定外のピュアな単語に、思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまう。
「うん。こっちに召喚されてから、ずっと戦ってばっかりだったから……普通の女の子みたいに、マスターとお洒落してお出かけしてみたいんだよ」
少しだけ顔を赤らめ、はにかむように微笑む彼女の破壊力は凄まじかった。
「……そうだな。分かった」
心地よい空気感とともに、小さく息を吐く。
「次の学園の休日、どこか街の良さそうな場所に二人で行こう」
「ほんと!? 約束なんだよ!?」
ぱあぁぁ、と今日一番の輝きで顔を輝かせ、桜色の美しい髪をぶんぶんと振りながら、その場で小刻みにぴょんぴょんと跳ねるサクラ。
(……そんなに嬉しいもんかね)
思わず口元から苦笑が漏れる。
――デートか。
転生する前のあの空間では、もっと気楽に“青春”するつもりだった。
それが今じゃ、頭の中はダンジョンと攻略のことばかりで。
常に大小さまざまな不安を抱えてる気がする。
唯一の救いといえば、サクラがそばにいてくれたことかな。
……まあ。悪いことばかりでもないか。
ある意味ではこんな可愛い子とデートできるんだ。
ここは気持ちを切り替えていくべきだろう。
「……ああ。約束だ」
そう告げると、サクラは本当に、世界を祝福するかのような満面の笑みを咲かせたのだった。
――――
そのあと、サクラと一緒に食堂で夕食を済ませた後、俺は異空間にサクラを残し、一人自室に戻ってきた。
(……デートか。そういえば初めてするな。前世含めて彼女できたことないしな)
ガサゴソと私服に着替えながら、ベッドに腰を下ろして小さく息を吐く。
ふと視線を落とすと、机の上の棚に並べられた私物――「fortissimoEXS」のパッケージが目に入った。
無意識のうちに、俺の右手はそのパッケージへと伸び、感触を確かめる。
「……懐かしいな」
ノートPCを開き、慣れた手つきでディスクドライブにそれを差し込んだ。
微かな回転音とともに、液晶画面に見慣れた鮮やかなブランドロゴが映し出される。
(こっちの世界に来てから、一度もまともに起動してなかったな。エロゲー)
前世ではどんなに忙しい日でも欠かさずやっていた。
彼女たち、ヒロインの笑顔や仕草に一喜一憂したものだ。
俺はそんな
そんな数あるジャンルの中でも、俺が特に病みつきになっていたのが、いわゆる『燃えゲー』と呼ばれるジャンルだ。
理不尽な運命に抗う熱いバトル展開に胸を震わせ、どうしようもない絶望的な結末に一度は心を激しく抉られ、それでも最後には、一縷の光のような奇跡の救いが待っている――。
綺麗事かもしれない。だが、そんな不器用で熱い物語に、俺の灰色の人生は何度も救われてきたのだ。
――エロゲー。
世間一般的には、性的描写を理由としてR-18指定されている成人向けゲームのことを指す。
それは全年齢対象のコンシューマーゲームとの最大の差異であり、アドベンチャーゲーム(ADV)の知識を一切持たない新規プレイヤーからは、時に「ただテキストを読んでクリックするだけのゲーム」と揶揄されることも少なくない。
しかし、エロゲーと一括りに言っても、その実態はすべてが同じような短絡的展開ではない。
むしろ、表現の規制が緩いからこそ、ストーリーの重厚さや人間の業を深く重視した名作が数多く存在する。
そのため、エロゲー業界ではストーリーの方向性を軸にした、緻密なジャンル分けがなされているのだ。
エロ行為のシチュエーションに特化した「抜きゲー」、キャラクターの全方位的な愛らしさを前面に押し出した「萌えゲー」。
そして、成人向けでありながら、下下手な少年漫画よりも熱いシナリオと壮絶なバトル演出がクセになる「燃えゲー」。
他にも思わず腹を抱えて笑ってしまう「ギャグエロゲー」、涙腺を崩壊させる「泣きゲー」、精神を極限まで摩耗させる「鬱ゲー」など、多岐にわたる。
また、ゲームタイプも紙芝居方式のアドベンチャー「
黎明期のメディアはカセットテープやフロッピーディスク、その後はCD-ROMが主流であったが、今はネットでDLされることも多いだろう。
今、俺の手元にあるのは、まさに古き良き全盛期の文化が詰まったパッケージ版――CDやDVDメディアのものだ。
しかし、俺のいた前世の現実世界において、エロゲー業界は年々縮小傾向にあるのが冷酷な現実だった。
同人ゲーといった小規模・低価格な市場は拡大しているものの、企業が莫大な開発費を投じて制作するフルプライスの大作ともなると、一本あたり八千円から一万円以上の高額な資金が必要となり、新規ユーザーにとっての敷居は高くなる一方だった。
あの伝説的なメガヒット作『Fate/stay night』ですら、当時のエロゲパッケージ版の累計出荷数は約20万本。
それ以外にも、一本あたり数十時間に及ぶプレイ時間の長さがタイパを求める現代人に敬遠されたり、悪質な違法ダウンロード問題が追い打ちをかけていた。
それでもなお、全年齢対象のゲームでは決して描き得ない、人間のドロドロとした本質や深み、エッジの効いた尖った味わいがあるからこそ、エロゲーには他では代替できない絶対的な魅力があると俺は確信している。
(この学園の購買部にも売ってなかったし、ここにあるエロゲーはもう二度と手に入らないだろうな)
光を放つ液晶画面の中、麗しく佇むキャラクターのグラフィックを、俺はしばらく無言で見つめ続けた。
(――でも、今は……)
不思議と、画面の向こうの二次元のヒロインから、自然とサクラのあの生々しい笑顔へと、思考がシフトしていく。
嬉しそうにコロッケを頬張った顔。少し拗ねて頬を膨らませた顔。
そして、真っ直ぐに俺の目を見て「一番でいたい」と健気に告げた、あの時の熱を帯びた表情。
俺は、この画面の向こうにいるような、どんな逆境も不敵な笑みで跳ね返す、格好良くて熱くて頼もしい『エロゲの主人公』なんかじゃない。
中身はただの、前世が社畜だった小心者の一般人だ。
(せめて、サクラや今後召喚されるヒロインたちは自分の手で守れるようにしたいな)
「……現実の方が、よっぽど厄介だな」
パチリ、と静かにノートPCの画面を閉じた。
愛おしいパッケージをそっと元の棚へと戻し、俺はそのままベッドへと仰向けに倒れ込んだ。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
サクラとのこれからのこと、次の休日のデートのこと。ダンジョンのこと。原作主人公のこと。
そして――これから呼び出すかもしれない“次のヒロイン”。
考えるべき難題は、山ほどあった。
「……まあ、考えても始まらねえか。今は寝よう」
小さく呟いて、俺は室内の照明のスイッチを切った。
ゆっくりと重い瞼を閉じる。
身体に馴染んだ心地よい疲労感に身を任せると、次の瞬間には、俺の意識は深い深い、底のない眠りの中へと落ちていった。