『ハイスクールハックアンドスラッシュ』の世界に転生して八日目。
乾いた音が教室に響いた瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
椅子を引く音が重なり、誰かが大きく息を吐く。
午前で授業が終わるのは、今日が特別だからだ。
教室の空気はどこか軽い。
鞄を閉じる音、立ち上がる気配、誰かの笑い声――そのどれもが、数日前とは少しだけ違って聞こえる。
「終わったな、特別実習」
誰かがそう呟いた。その一言で、ようやく実感が追いつく。
――1年生の特別実習。
全クラスの“初回ダンジョンダイブ”が、これで一通り終わったのだ。
あの閉ざされた時間。
ダンジョンで死ねばヒトとして大切な何かを失うという、学園の残酷なルール。
そして――生きて戻った者と、そうでない者。
その決定的な差は、もう覆すことはできない。
(……ここからが本番だな)
心の中で、静かに呟く。これまではただの“
だが、それも今日で終わりだ。
ここからは、個人の意志と裁量で“任意”にダンジョンへと潜ることができるようになる。
学園の授業は午前中のみとなり、午後はダンジョン攻略に充てることができるというわけだ。
――言い換えれば。強くなるか、それとも家畜のように搾取され、取り残されるか。
もっとも、ダンジョンダイブする頻度は、トップクラスの実力者でも「二日に一回」でかなり多いとされている。
そして、学園からの最低限のノルマとしては、週一回潜っていれば特に口出しはしてこない。
だからと言って、無暗にダンジョンに潜っても強くなることはできない。
視線だけで教室内を一周する。
すでにパーティを組み始めている連中、装備の話で盛り上がっている連中、そして静かに考え込んでいるやつ。
動き出しは、もう始まっている。
(俺には……”異空間生成”がある。毎日潜っても常にベストコンディションで攻略できるな)
それは、この学園において明確な“アドバンテージ”だった。
ダンジョンを攻略するうえでの、俺の目的は三つ――
・二十階層「
・俺をこの世界に転生させた、あの女神の真意の確認。
・自身のレベル上げ、スキルの強化。
とりあえず、この三つだな。女神の情報を手に入れることは、かなり難しいとは思うが……
だが――ダンジョンの奥に行けば行くほど、この世界の“核心”に近づくはずだ。
(……よし、いくか)
椅子から立ち上がる。鞄を肩にかけながら、思考を切り替える。
遊びは終わりだ。ここからは――本格的なダンジョン攻略の時間だ。
――――
――穿界迷宮『YGGDRASILL』、接続枝界『黄泉比良坂』
――第参階層、『既知外』領域
「……く、」
肺の奥に、じっとりとした、鉄錆びた重さを感じる。空気が違う。
湿っているわけでもないのに、喉の奥に鉛の針が引っかかるような悍ましい違和感。
肌にまとわりつく、目に見えない怨念の“圧”のようなもの。
これが――瘴気。
この世界のダンジョンは階層ごとに空間が完全に分断されており、下層へ降りるほど、その濃度は増していく。
だが“降りる”と言っても、物理的な階段があるわけじゃない。
各階層は空間そのものが、断絶されていて、次の階層へ進むには専用の“ゲート”を潜るしかないのだ。
ダンジョンがあまりにも広大すぎるため、
原作でも、この迷宮の最深層に到達した者は歴史上、一人として存在しないとされていた。
構造も、出現するモンスターの規則性も、すべてが人の理解を拒むように作られている。
学園が辛うじて、地図を作成して管理できている範囲は『既知内』領域と呼ぶ。
そして、その外側――地図の端から先に広がる、未踏回廊は『既知外』領域と呼ばれている。
今、俺が立っているのはまさにその“外側”だ。
以前、サクラとダイブしたポイントに、学園地下の『羅城門』を通じて転移してきた。
静かすぎる。
足元の黒ずんだ石床は、どこか粘つく獣の脂で濡れたような光沢を帯びている。
天井は遥か高く、光源もないはずなのに、不気味に発光する燐光苔のせいでぼんやりと視界は確保されていた。
だが、その薄緑色の明るさは、決して“安心できる明るさ”じゃない。
『既知内』領域では、定期的にモンスターの間引きが行われる。
また、多くの生徒がダイブする場所も『既知内』領域の中だ。
だから個体レベルも低く、ある程度のリスクは軽減されている。
(もっとも、ダンジョンでは新入生を食い物にしているクズな上級生も存在するから、一概に攻略しやすいとは言えないがな)
対して、この『既知外』領域は、出現するモンスターのレベルも桁違いに高く、瘴気も濃い。
新入生なら、まず震えと恐怖で動くことすらできないだろう。
危険だが、その分、
軽く周囲の索敵を確認してから、視線を上げる。
「――”異空間生成”、
黒い渦が目の前に広がる。空間が歪み、ゆっくりと裂けるように開いていく。
そこから――ふわり、と。対照的な二つの気配が、外の世界へと溢れ出た。
まず一人。鮮やかな桜色の髪を両サイドで結んだ少女が、勢いよく一歩踏み出す。
その瞳はきらきらと輝き、まるで遠足前の子供のように周囲を見回していた。
「……来たんだよ、マスター!」
声にも張りがある。
ブレザーを押し上げる豊かな胸を張り、やる気十分、といったところか。
――『fortissimo EXS』のヒロイン、”サクラ”。
そして、もう一人。
音もなく、ゆっくりと足を踏み出す少女。
透き通るような金色の長い髪が、薄暗いダンジョンの空気の中で淡く自発的な光を反射する。
その翡翠の瞳は周囲を見ているはずなのに、どこか焦点が定まっていない。
驚きも、恐怖も、警戒も――そこには何一つない。
ただ、目に映るものを“そのまま記号として受け取っている”だけのような、極めて薄い反応。
初めて潜るダンジョンの、人間なら恐怖するほどの”瘴気”すら、彼女は全く気にしていない様子だった。
「……ここが、ダンジョン?」
小さく呟く。。声音には一切の抑揚がなく、疑問というよりは、単なる事実の確認に近い。
視線が壁をなぞり、床へ落ち、また空間全体へと戻る。
だが、そこに“怖がる”という感情は存在していない。
未知の場所に対する戸惑いではなく、ただ“知らないものを見ている”だけだ。
――『Dies irae』のヒロイン、”マリィ”。
性格も、気配も、まるで違う二人。
だが――どちらも、このダンジョンにおいては“規格外”の存在だ。
(戦力は、これ以上ないほど揃ったな)
薄く笑う。瘴気の満ちた空間の中で、その全能感だけがやけに鮮明だった。
――『Dies irae』。前世で俺がやり込んだエロゲー、神座万象シリーズの一つである。
時代は第四神座「
世界そのものが、歪んでいる。常識も倫理も、すべてを踏み越えた“超越者”同士の戦い。
第二次世界大戦の亡霊――ナチスの生き残りである史上最悪の超人集団「
人間の形をしていながら、人間ではない。神にも等しい怪物たちが、己の渇望を具現化して世界を塗り替える世界だ。
その中心にいるのが――主人公「
聖遺物の契約によって結ばれた二人は、やがて聖槍十三騎士団との争いに巻き込まれていく。
……つまり、俺が今、隣に立たせている存在は――“『Dies irae』の核となるヒロイン”だ。
(冷静に考えて、呼び出せていい存在じゃないな……)
苦笑すら出ない。
マリィを召喚したとき、最初に感じたのは驚愕だった。
同時に、俺自身が『エイヴィヒカイト』の使い手になったことを理解した。
『エイヴィヒカイト』とは、聖槍十三騎士団の副首領・魔術師メルクリウスが開発した、魂を喰らう『聖遺物』を人間の手で取り扱うための複合魔術(位階システム)である。
本来なら、凡たる人間が触れれば一瞬で精神が壊れる。
扱いに失敗すれば、己の聖遺物に自身の魂を食われて自我を失ってしまう。
また術を発動するための燃料である他者の魂を抱え込むのは、常人であればただ一つだけでも心身ともに破綻する。
聖遺物を取り扱うのには様々なデメリットはあるが、その分強大な力を手に入れることが出来る。
だが、今のところ俺の肉体に不調は見られないし、マリィに聞いても問題なく使えるらしい。
彼女に確認したが、この世界に「聖槍十三騎士団」の存在は確認されていない。
それを聞いたとき、正直、心底ほっとした。
もしいたら、ここまで冷静ではなかったと思う。
(あいつら、超人集団に勝てるはずないもんな。おそらく原作主人公の叶馬でも無理だろう。いや……大隊長クラスならいけるか?)
「――”ステータス”」
=====≪STATUS≫=====
名:影山幹隆
レベル20
職業:
スキル:ヒロイン召喚 レベル2
ステータス レベル3
異空間生成 レベル3
エイヴィヒカイト 形成
スキルポイント:3
パーティ:(リーダー)幹隆 レベル20、サクラ レベル20、マリィ レベル1
=================
ゆっくりと視線を落とす。
俺自身のステータスにも、確かな変化が現れていた。
『Dies irae』の戦闘体系において重要な要素――位階。
位階は本来、殺した人間の“魂の数”によって上昇する。
だが、藤井連とマリィの例外的な契約においては、魂の数ではなく「魂の質」――内面の渇望の到達点によって、その段階が引き上げられる。
(……ゴブリンしか殺してない俺が、いきなり第二段階の“
違和感はある。だが、俺にもその例外のルールが適用されているのだろう。
位階というものは四段階存在し、【活動・形成・創造・流出】がある。今の俺の位階は”形成”。
下から二つ目、聖遺物を武器として具現化できる段階だ。
「マスター、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。問題ない」
サクラが少しだけ不安そうに距離を詰めてくる。俺はマリィの方へ視線を向けた。
「…………」
彼女は、ただ、じっと上を見ていた。
天井――と言っていいのかも曖昧な、瘴気が渦巻く黒ずんだ岩盤の奥。
そこに“何か”を見ているようで、しかし何も見ていないような、虚無の目。
焦点が合っていない。というより――“そもそも合わせる気がない”ように見える。
「よし、いこうか。とりあえず今回の目標は、さらに下層へ続く『第四階層』へのゲートを探すことだ」
声をかけると、彼女はわずかに長い睫毛を瞬かせて、現実へと意識を戻した。
「うん。わかったんだよ!」
サクラの声だけが、この暗闇のダンジョンの中で妙に明るく響いた。
通路と玄室で構成された広大なダンジョンは、まるで迷宮そのものが呼吸しているかのように、湿った空気を吐き出している。
足音が遅れて反響し、どこか別の場所から不気味な足音が返ってくる。
「マスター、くるんだよ! 目の前の玄室に、大量のゴブリンの群れがいるんだよ!」
「ああ。わかった。――マリィ、力を借りたい」
「わかりました。
サクラの”
数、位置、武装、種別――それらが視界に重なるように展開される。
思考が“速くなる”のではない。世界の時間の流れのほうが、圧倒的に遅く感じるのだ。
俺はマリィとの融合によって解放される、己の血塗られた聖遺物を呼び起こした。
「「――
俺と、マリィの声が完璧に重なる。
「「――時よ止まれ。おまえは美しい」」
詠唱と同時に、周囲の空気がガラスのようにバリバリと音を立ててひび割れる。
マリィの身体が淡く崩れ、光の粒子となって霧散する。
それは消滅したのではなく――“俺の魂、身体へと収束”したのだ。
刹那、俺の右腕に、
だが、右腕に落ちたギロチンは肉を裂くことなく形を変え、黒く、禍々しく、強大な『刃』へと姿を変えて俺の右腕と一体化した。
刀身は鉄の塊のように黒く重いが、今の俺には羽毛のように軽い。
俺自身の渇望に合わせて、最も使いやすい殺戮の形状へと具現化している。
(この能力を使えるってことは……俺の『渇望』が、藤井連と同じ【この平穏な今を永遠に止めておきたい】というものだったってことなのか……?)
それとも、このチートスキルの影響で、聖遺物の形と力だけをシステム的に引き出しているのか……。
今はまだわからない。だが、この学園で強くなるために、誰にも虐げられないために、この力は有難く使わせてもらう。
『血、血、血、血が欲しい……!』
無垢で、無邪気で、だからこそ狂気的に歪んだマリィの甘い声が脳内に直接響く。
“形成”の発動に呼応するように、前方から現れた数十匹のゴブリンたちが一斉にざわめいた。
怯え、後ずさり、そして――理解できない『天敵』を見る目でこちらを見ている。
こちらを化け物かのように見るその目は、まるで俺自身が獣にでもなったかのような錯覚を抱かせた。
「ああ、ギロチンに注ごう。血を……」
――ドンッ!
地面を蹴った瞬間、視界の景色が消失した。時間が停止したかのような錯覚。
――シュッ!
最初の一体の首が、抵抗もなく、音すら置き去りにして宙を舞う。
俺の肉体は、既に人間としての、限界を遥かに超越していた。
サクラと”同化”したことによる「
マリィと”契約”したことで得た「エイヴィヒカイト」の、聖遺物としての破壊力。
その合一された力は、既に第一段階のどの
――ドンッ!――ザシュッ!
軽い。あまりにも、軽い。
肉を断つ感触も、頑丈な骨を断つ抵抗も――すべてが“遅れてやってくる”。
跳躍。斬首。着地。それを繰り返す。考える前に身体が動く。
――ドンッ!――ザシュッ!
跳躍。斬首。跳躍。斬首。
ゴブリンたちは、自分たちがなぜ首を切られているのかすら理解していない。
俺の動きを目で追えているものは、誰一人としておらず、ただ無残に、命を散らしていた。
気づけば、静寂に包まれた玄室の中、ゴブリンの死体はまだ消えておらず、そこは真っ赤な血の池へと化していた。
俺は自身の右腕のギロチンを、床の血溜まりへと近づける。
――ゴクッ。――ゴクッ。
まるで生き物のように、黒い刃が血を啜る。
真っ赤に染まっていた床は一瞬で元の乾いた石床へと戻り、数多の血を吸ったギロチンは、妖しく、禍々しい輝きを放っていた。
『……不味い。ぜんぜん美味しくないよ、幹隆』
静寂に包まれた玄室で、マリィの不機嫌そうにへこんだ声だけが脳内で聞こえた。
「そりゃ、ただのゴブリンの魂だしな」と俺は苦笑しながら、昨日――彼女を召喚したあの夜の出会いを思い出していた。
――――
ダンジョンダイブする前日の夜。
床は畳。白い壁に囲まれた十畳ほどの部屋――外界から切り離された異空間。
静まり返った空気の中で、サクラがぽつりと、どこか寂しげな声を呟いた。
「マスター、新しい女の子を……召喚するんだね」
「そうだ。明日は特別実習が終わって、ダンジョンダイブが本格的に解放される日だ。この学園で生き残るには、少しでも戦力はあったほうがいい」
その言葉には、一切の軽さはない。
この世界に来てから、嫌というほど思い知らされた弱肉強食の現実だ。
「それって……私みたいに、戦える子が来るってこと?」
「確定じゃない。ただ――あの女神が俺を“わざわざ”この世界に送り込んだ理由があるなら、か弱くて戦えない女の子よりも、ある程度強力なスキルや高い身体能力を持って召喚される可能性が高い」
「……マスター。それって、私が『か弱くない』ってことなの!?」
ぷくーっと頬を膨らませ、あからさまに不満を露わにして怒るサクラ。
(……いや、冷静に考えて俺より遥かに強いだろ、お前)
喉まで出かかった言葉を、俺はなんとか飲み込む。
「はははっ……違う、違う。そういう意味じゃない」
すると、サクラはわざとらしく床に手をつき、崩れ落ちるように大袈裟に肩を震わせた。
……ヨヨヨ、と古典的な悲劇のヒロインのように嘆いてみせる。
「マスターが冷たいんだよ。どうせ私は、もう用済みの『過去の女』なんだよ……」
完全に安いお芝居だ。だが――不思議と、無視する気にはなれなかった。
俺は畳の上にしゃがみ込み、サクラの滑らかな顎を軽く指で掴む。
逃げるように逸らされていた彼女の視線を、無理やりこちらに向けさせる。
そして――勢いのままに、その桜色の唇を重ねた。
「……ん、ちゅ……っ」
一瞬、サクラの息が止まる。
驚きに目を見開いた彼女の口内に滑り込ませると、甘い吐息が漏れた。
「……あっ、はぁ……」
唇を離すと、サクラはわずかに口を開いたまま、ひどく熱を帯びた、名残惜しそうな瞳でこちらを見上げていた。
「昨日も異空間の中で散々やっただろ。少しは我慢してくれ。嫌いになったわけじゃない」
「……うぅ、マスターの意地悪んだよ……」
湿った唇を細い指でなぞりながら、拗ねたように呟く。
けれど、その瞳の奥には――先ほどまでの不安は消え去り、はっきりとした、底のない“依存”が宿っていた。
ここ数日、あからさまにサクラの方から肉体を求めてくる回数が増えている。
やはり隷属の影響なのだろうか……そう考えるのが自然だった。
すでに『
その様子は、まるで原作のメインヒロイン「静香」の様子を思わせる。
クラスにいる彼女は、原作主人公の「船坂叶馬」に異常なほどべったりだ。あれも全く同じ原理だ。
静香の魂魄が叶馬の手に突き刺さっており、彼の感情や思いがダイレクトに流れ込んでくるため、彼女は叶馬のそばにいるだけで脳がとろけるほど安心するらしい。
だから離れられない。
だから――狂信的に依存する。
(この世界のシステムは、とことんエロゲのようによくできているな……)
「それじゃあ、やるぞ。――”ヒロイン召喚”」
一度目同様、俺がスキルを唱えた瞬間、部屋全体が眩いばかりの純白の光に包まれた。
視界が白に塗り潰され、輪郭も距離感もすべてが溶けていく。
その光の中心で、やがてひとつの可憐な“影”がゆっくりと形を結び始めた。
光が静かにほどけていくと、そこに佇んでいたのは、一人の少女だった。
淡い金色の髪が柔らかく流れ、まるで光そのものを織り上げたかのようにかすかに輝いている。
その細い首元には、
透き通るような白い肌は現実感を失わせ、触れれば消えてしまいそうなほどに儚い。
彼女がゆっくりと顔を上げる。
澄みきった、汚れなき翡翠の瞳がこちらを映した瞬間、不思議と俺の胸の奥が、静かに満たされていくのを感じた。
――そこに彼女がいるだけで、世界の色が変わる。
そんな錯覚を抱かせるとてつもない存在が、確かに目の前に立っていた。
「おお!――本当に女の子が召喚されたんだよ!」
サクラが瞬時に目を輝かせ、新入りの少女の周りをチワワのようにぐるぐると回り始めた。
無遠慮に顔を覗き込み、手を振り、反応を確かめるように限界まで距離を詰める。
完全にいつもの調子だ。
「……
小さく。本当に、鼓膜を震わすだけの息のような声で――金髪の少女が呟いた。
その翡翠の視線は、サクラをスルーして、真っ直ぐに俺だけを射抜いている。
その少女の顔を見て、俺は完全に言葉を失っていた。
(ま、まじかよ!『Dies ire』の”マリィ”召喚されちゃったよ……。これ、どうしたらいいんだよ、神様……!)
一気に、背筋に冷や汗が流れる。サクラとは根本的に違う。
これは、“強い”とか“凄い”とか、そういう次元の話じゃない。
――触れてはいけない世界の禁忌に、直接手を伸ばしてしまったような悍ましい感覚。
「と、とりあえず自己紹介しようか。みんな初対面だしな。……俺の名前は幹隆。――影山幹隆だ」
内心の動揺を押し殺しながら、なんとか言葉を絞り出す。
「私はサクラ!マスターの
びしっと手を上げ、マリィに対して牽制するように誇らしげに言い切るサクラ。
ここにきてポンコツ兵器っぷりを披露するサクラ。
(なんだよ、一番って……てか、初対面相手に
心の中で激しくツッコミを入れるが、もちろん口には出さない。
「…………マリィ、です」
短く、鈴の鳴るような声でそう答える。やはり彼女は、どこか人間としては希薄な存在だった。
肉体はここにあるのに、存在の質量が幽霊のように薄い。
一人は感情の塊のように笑い、動き、騒ぐサクラ。
もう一人は、感情の起伏をすべて削ぎ落としたように、ただ静かにそこに佇むマリィ。
(……とんでもないヒロインを引いちまったな)
乾いた笑いが、喉の奥で引っかかった。
『Dies ire』のヒロインの内の一人――マリィ。
本名はマルグリット・ブルイユ。名前の意味は「サン・マロの宝石」。
1793年、フランスの港町。
聖者の血が滴る断頭台の下、無数の怨嗟と血のリフレインに包まれて――彼女は生を受けた。
彼女の生まれ持つ性質は、【触れた者の首を無条件で刎ね飛ばす】という絶対の呪い。
彼女の意志とは無関係に、触れればただ“そうなる”。
だからこそ、生前の世界では誰も彼女に触れられなかった。近づけなかった。
人は彼女を化け物として嫌悪し、忌避し、恐れた。
当然だ、触れれば死ぬのだから。誰とも触れ合うことなく、ただ遠ざけられ、孤独の闇に置き去りにされ続けた日々。
言葉も、肌の温もりも、すべてが彼女の外側にあった。その為、人としての感情が薄い。
そして、17歳の日に、自身もまた断頭台へと送られ、ギロチンによってその短い生涯を終えている。
生涯を終えた後、その魂は世界を彷徨い続けている。
そんな彼女が、ここに立っていること自体驚きだ。
「マリィ……何もわからないとは思うが、とりあえず俺に聞きたいことはないか?」
できるだけ優しく、平静を装って問いかける。
「……幹隆は、私と『青春』がしたいんですか?」
長い間を置いて、マリィがぽつりとそう言った。
「せ、青春……?」
あまりにも予想外すぎるピュアな単語に、思わず素っ頓狂な声で聞き返す。
「はい。ここに来る前、神と名乗るものにそう言われました。“私の管理する世界に、貴方と青春がしたい少年がいます。こんな何もない浜辺にいるよりかは、きっと楽しいと思いますよ”と」
ちょ、ちょっと待ってくれ……! マリィ、お前、あの神に会ったのか!?」
気づけば、声が強くなっていた。
――ガシッ!
俺は彼女の持つ『触れたら即死する斬首の呪い』を完全に失念し、反射的に、マリィの華奢な両肩を強く掴んでしまっていた。
(――あ、やべっ……!!!)
触れた瞬間、血の気が引いて思考が凍りつく。斬首の呪い。
彼女の“それ”を、完全に忘れていた。俺の首が飛ぶ――。
だが――
「……幹隆、痛いです……」
静かな、少しだけ困ったような声。何も、起きない。
「……え」
遅れて、自分の両手を見下ろす。首は繋がっている。血も一滴も出ていない。
“普通に、彼女の柔らかい肩に触れている”。
「……す、すまん」
慌てて手を離す。マリィの呪いは、どうやら発動していないらしい。
俺が彼女の『宿主』として認識されているからか……?
「……神と名乗るものには、確かに会いました」
マリィは、何事もなかったかのように翡翠の瞳を揺らし、言葉を続ける。
「私は、“青春”というものが何なのか、興味がありました。だから、その提案に乗りました」
わずかに視線が揺れる。ほんの僅か――だが、確かに。
「…いつか幹隆が、その『召喚』で私を呼び出してくれる日まで、ずっと、待っていました」
その言葉は、あまりにも静かで。
けれど――その言葉は俺の中でとても重く響いた。
「……そうか。待たせて悪かったな」
短く、息を吐く。
(神。異世界転生。エロゲのヒロインを召喚する能力。そして、このタイミングでのマリィの召喚――)
点と点が、少しずつ繋がり始めている。だが、その全体像はまだ見えない。
(……けど、これで確定だな)
最初から、仕組まれていた。俺がこの世界へ送られたことも。
サクラやマリィと出会ったことも。すべて、何者かの意思の上にある。
薄く目を細める。
――なら、その真意を目的を暴いてやる。
俺はその夜、マリィへこの歪んだ世界のことをすべて説明した。
ダンジョン。
異世界。
原作主人公――叶馬の存在。
物語の中の世界だということ。
そして、この豊葦原学園が“強者のみがすべてを貪り、生き残れる残酷な場所”であることも。
マリィは途中で口を挟むことなく、静かに俺の話を聞いていた。
感情の薄い翡翠の瞳が、ただ真っ直ぐにこちらを見つめている。
やがて――。
「……わかりました」
小さく、けれど固い決意を込めた声で彼女は言った。
「私は、どこまでも幹隆についていきます。あなたが私の、
その瞬間。
『Dies irae』のヒロイン――マリィが、正式に俺のパーティへと加わったのだ。
――――