あの頃のことをひと言で表すなら、学校と呼べたかも知れない。
ぼんやりとした顔をして水輝はのろのろと腕を差し伸べた。手の先に力を引き寄せて翠色の宝珠を現す。こうして時の宝珠に触れるとあの頃のことを少し思い出すことが出来る。
狭く、限られた場所が水輝の全てだった。三群のあの世界で関わってきた者たちのことを水輝は一人一人思い出してみた。だが思い出そうとしてもあの頃のようにはっきりとは顔を思い浮かべることが出来なくなっている。脳裏に思い浮かぶ姿はおぼろで捉えどころがない。
三群に落ちたあの時に水輝はこの世界での記憶をなくした。過去の記憶のないまっさらな状態で降り立った地上はとても美しかった。一人、また一人と知った顔が増え、水輝の周りはあっという間に賑やかになった。
恋もした。心の底から欲しいと願って、けれど想いは実らず辛い思いもした。時には男で、時には女で、心を寄せた相手を手に入れようとした。
たぶん、想いが通じ合った相手もいた。そういう相手とは身体も重ねた。
「……そう、なんだけどなあ……」
水輝は指の先で宙に浮いた翠色の宝珠を撫でて目を細めた。あの頃はそれが絶対で確かで、それ以外には真実はないと思っていた。記憶を奪われ、支配を望み、相手の意のままに操られることを求めていた頃もある。その時は相手が自分の全てと思えたし、他には何も欲しくなかった。
幸せだったと思う。水輝はベッドに裸で転がったまま、宝珠を静かにつかみ寄せた。泣いて笑って怒って、色んな楽しいことや悲しいことが繰り返され、時は流れていった。
だがそれは狭く限られた世界だった。毎日が祭のような、不思議な感覚があった。きっと学校というのがあれに近いのだと思う。
「考えてみりゃ、外のことなんてあんま気にしてなかったなー……」
きっと彼らに護られていたのだろう。当時の知り合いの顔を一人一人思い浮かべて水輝はため息を吐いた。ひな鳥が巣に護られているのと同じだったのかも知れない。
そんな中で優一郎に出会った。水輝は両手に翠色の宝珠を包んで微かな笑みを浮かべた。今でも初めて会ったときの事ははっきりと覚えている。当時の優一郎はまだ龍神として覚醒してはおらず、人間として生活をしていた。水輝を初めて見た優一郎はやけに驚いた顔をしていた。
出会った時は特に何も感じなかった。やがて時が流れ、優一郎が覚醒し、言葉という名の力を司る龍神として覚醒した。
縛られたかった。がんじがらめに縛られて、囚われてみたかった。たぶんそれは、周囲に優しく護られていたから感じたことだったのだろう。結局、水輝は女性化した優一郎と身体を重ね、子供が出来た。その子供がこの翠宝珠を司る龍神、翠だ。
だが水輝はあることをきっかけに優一郎の女性の部分を消してしまう。その後、あの佑を自分の傍に引っ張り出した。そして水輝は佑に心を惹かれて結ばれ、子をもうけた。その子供が優一郎の妻である理子だ。
考えてみれば随分と勝手なことばかりしてきた気がする。結局は水輝は優一郎と共にこの世界に戻ってきた。
今ならわかる。たぶん、あの世界の学校という環境を自分は卒業してしまったのだ。水輝はそう考えてから苦笑した。そっと宝珠を器の内側にしまい込む。
この世界に戻ってから、水輝は何度か三群のあの世界に行こうと試みた。だがその度に失敗した。きっとあの世界はもう自分を必要としていないのだ。理性ではそう思ったが、感情では納得出来なかった。
だがその回数も次第に減り、今では行こうという気が起こらない。
「満足……してるからかなあ……」
掠れた声で呟いて水輝はさっきの優一郎とのことを思い出した。身体だけでなく、心も、交わるたびに深い快感に晒される。これまでどこの誰と身体を重ねても、こんな風に感じることはなかった。ついこの間まではこのベッドに佑が一緒に横たわっていたはずなのに、今では優一郎が一緒にいることが当たり前と感じてしまう。傍にいるともっと近くに行きたくなり、交わると深い快楽の淵に落ちる感じがする。底のない、深く静かな水の奥に落ちているような気がするのだ。
「あっ! いけね!」
ぼんやりと考えを巡らせていた水輝は時計を見て慌てて起きあがった。青藍を迎えに行くのを忘れていた。水輝は慌ただしく服を着て急いで家を駆け出した。
次の日、水輝は青藍を連れて『塔』に向かった。子連れで姿を現した水輝を仰天した目で局員たちが見る。水輝はだがそれを気にせず、真っ先に優一郎の研究室に向かった。昨日の晩は何やら忙しいとかで、優一郎の顔を見られなかったのだ。
青藍は『塔』の中が珍しいのかしきりに周囲を見回している。昨日の報道のこともあってか、通りすがる人々は奇異な目で水輝と青藍を見て過ぎる。水輝は度の過ぎた視線は怒りをこめて睨み返し、それ以外は無視してさっさと先を急いだ。
研究室のドアをノックすると女性が顔を覗かせた。
「あら。おはようございます、池田さん」
にっこりと挨拶したこの女性は確か祥子という名前だった気がする。優一郎の秘書的存在の祥子に水輝は挨拶を返した。
「あの……そのお子さんは?」
「あ、おれの子供」
水輝が平然と答えると祥子が驚きの目で青藍を見下ろす。
「託児所がさ。今朝は開くのが遅いらしくて。連れてきちまった」
頭をかいて笑ってから水輝は研究室の中をドアの隙間から覗いた。席に着いていた優一郎は水輝には気付いていたのだろう。微笑みを浮かべて立ち上がる。
「水輝さん、こんにちは」
にっこりと笑った優一郎に頷いてから、水輝は祥子に目を戻した。
「ちょっと入っていいか?」
「あっ、はい! す、すみません。どうぞ」
慌てたように祥子がドアを大きく開く。水輝は青藍を連れて優一郎の研究室に入った。優一郎が奥の応接室に続くドアを開く。水輝は促されるままに青藍の手を引いて応接室に入った。
「ごめん、何となく顔が見たくなって来ちまった」
そう言ってから水輝はドアを閉めようとしていた優一郎の頬に軽くキスをした。手を繋いでいた青藍がうー、と不服そうな声を上げる。水輝は笑って青藍を抱え上げ、ついでに頬にキスをした。
「青藍」
優一郎が呼ぶと青藍がにこにこと笑いながら手を伸ばす。
「なんだ? 優一郎にだっこされたいのか?」
そう言いながら水輝は優一郎にどうする、と目で訊ねた。すると優一郎が頷いて胸に手を突っ込み、女性に変わってから青藍を抱える。
「そういえばさ、青藍、ここじゃないところに突っ込めないかな」
勧められるままにソファに腰掛けながら水輝は考えていたことを口にした。水輝の隣に腰掛け、青藍を膝に乗せた優一郎が不思議そうな顔をする。
「どこか、他の世界へ、ということですか?」
「ああ。大きくなったら青藍も学校とか通うようになるだろ? ちょっと調べてはみたんだが、この世界の学校ってどこも教えることが偏ってるしなあ……」
水輝は難しい顔をして足に肘をついた。手元で育てるのが一番なのかも知れないが、残念ながらこの世界はいつドームの中が崩壊してもおかしくない状態になっている。
「わかりました。調べておきましょう」
にっこりと笑って優一郎が頷く。水輝はほっと息を吐いて微かに笑った。
「悪いな、頼ってばっかで。ほんとは作戦のついでに『下』に降りることがあったら、そこに置いてもいいかと思ってたんだが」
そこまで言って水輝は何となく口を噤んだ。
「考えもなく、手放すのは危険ですよ。ハンターが幅を利かせている世界もありますし」
青藍を膝の上であやしながら優一郎がさらりとそう言う。そうだよなあ、と呟いて水輝は頭をかいた。幾ら青藍が半分しか水輝の血を継いでないと言っても、純粋な人と言い切ることは出来ない。ハンターというのは龍神という名のハイブリッドを狩る性質を持つのだ。そんな者が幅を利かせているところに青藍を放り込んだら、あっという間に狩られてしまうだろう。
「いっそのこと、おれの力を食わせて成長させるって手もあるんだが」
呻くように言って水輝は横目に青藍を見た。青藍は無邪気に笑いながら優一郎の胸にしがみついている。
「どうせなら、佑を食べさせれば良かったんじゃないですか?」
「あー……そうか、本当のこと言ってなかったのか。いや、おれが殺したには違いないんだが」
優一郎に問われて水輝はしかめ面をした。それから水輝は優一郎の頭を片手に抱き、そっと額を合わせた。
「悪い。説明するの面倒だから、記憶読んでくれ」
そう声を掛けて水輝は思惟の周囲に張り巡らせていた力の防御壁を消した。
「なるほど……」
しばし黙した後、優一郎がそう呟いて険しい表情をする。水輝は不思議に思って顔を上げた。元通りに防御をしてから優一郎の顔を覗き込む。
「どうした? 何かまずいことでもあるのか? 怖い顔してんぞ」
「いえ、なんでもありません」
にっこりと笑う優一郎を見つめて水輝は瞼を半分閉じた。優一郎の膝の上では青藍が楽しそうに笑っている。
「変なこと考えてるだろ? さっきの顔、そんな感じだったぞ?」
「変なことって、どういうことですか?」
不思議そうな顔をして優一郎が言う。さっきの険しい表情には見覚えがあるような気がする。水輝はじっと優一郎を見つめてぼそりと呟いた。
「何か企んでる時の顔だ。おまえがおれのことを好きでいてくれるってのは信用するが」
そこまで言ってから水輝は口を噤んだ。黙って手を伸ばして青藍を抱き上げる。膝に下ろすと青藍はにこにこと笑って水輝をパパと呼んだ。
「いったい、何を企むっていうんですか?」
そう言って優一郎がにっこりと笑う。すると青藍は優一郎の方に手を伸ばしてにこにこと笑った。
「まーま」
「お? なんだ。青藍には優一郎が母親に見えるのか?」
苦笑を浮かべて水輝は青藍から手を離した。水輝の膝から優一郎の膝に移動した青藍が楽しそうに笑う。
「青藍はいい子だね」
「ま、実鈴よりはよっぽど母親らしいよなあ」
よしよし、と優一郎が青藍の頭を撫でる。水輝はくすくすと笑って青藍の頬を指でつついた。きょとんとした顔をして青藍が水輝と優一郎とを見比べる。水輝はしばし、優一郎と一緒に青藍と戯れていた。
青藍の成長はかなり早いです。
水輝の記憶がおかしいことになってきてます。