「吉良博士? コーヒー、零れますよ」
横の机についていた研究員の一人に言われ、優一郎ははっと我に返って斜めに傾いていたコーヒーカップを持ち直した。そんな優一郎を不思議そうに見てから、忠告した女性研究員が仕事に戻る。
何故か落ち着かない。優一郎はそっとため息を吐いてコーヒーカップを机に置いた。このコーヒーも、さっき奥の部屋に運んで貰ったお茶も、どちらも優一郎のために研究員がわざわざ用意してくれたものだ。コーヒーもお茶も、それに近い飲み物は『塔』にもあるのだが、そのものとなると売店でも販売していない。『下』の世界の食品は特殊な通信販売でしか買えないのだ。そのためにどうしても単価が高くなる。
ぼんやりと考えを巡らせていた優一郎は、何気なくコーヒーカップに口をつけて少しだけ眉を寄せた。どうも思ったより長い間、考え事をしていたらしい。コーヒーはいつの間にかぬるくなっている。優一郎は仕方なくぬるいコーヒーを一気に飲み干した。
端末画面にはまとめようとしていたデータが表示されたままになっている。優一郎は画面の隅にある時計を確認してため息を吐いた。あれから一時間ほどが過ぎている。それを確認してから優一郎は背後の扉を振り返った。奥の部屋は完全防音になっていて話し声などは全く聞こえてこない。
何で水輝はあの時にあんなことを考えていたのだろう。優一郎は気になっていたことをまた心の中から引っ張り出してみた。あの時の水輝はやけに切羽詰まっていたような気がする。まずいだのやばいだのといった思惟が流れてきていた。何がだろう、と考えて優一郎は首を傾げた。もしかして水輝は桂のようなタイプの女性が好みということだろうか。だからあんな風に最初は冷たくあしらい、桂が涙ぐんだところで慌てて前言を撤回するような真似をしたのだろうか。
だが水輝が伴侶に迎えている佑と桂とではタイプが全く異なる。優一郎は腕組みをして難しい顔をして考え込んだ。最初は水輝が桂を落とすために駆け引きをしているのだと優一郎も思ったのだ。だがそれではあの時の水輝の思惟に説明がつかない。もしもそのつもりだったのなら、焦る必要はどこにもないし、別段まずくもやばくもないだろう。
うーん、と唸って優一郎は眉間を押さえた。そんな優一郎を研究員たちが何か言いたそうな顔で見ていたが、優一郎は彼らの視線にはまったく気付かなかった。
それとも水輝は女性からの好意を受けたことに動揺していたのだろうか。そこまで考えて優一郎はそれはないだろうと心の中で即座に答えを出した。水輝が女性にもてるのは今に始まったことではない。多少の好意を寄せられたからといって動揺するようなことはないだろう。優一郎は考えながら無意識に椅子ごと振り返り、じっと奥の部屋のドアを見つめていた。
もしかして水輝は桂がハイブリッドにまつわる研究をしていることに腹を立てていたのだろうか。そう考えてから優一郎はすぐに違う、と小声で呟いた。今時、ハイブリッドの研究などありふれていて、特に珍しいものでもなんでもない。桂だけではなく、他の研究員にもハイブリッドの生態調査をしようとしている者はある。そのことを水輝は多分、知っているだろう。
「あの、吉良博士? 通信が入っているようですが」
研究員の一人が遠慮がちに優一郎を呼ぶ。だが優一郎は考えに没頭していてその声に気が付かなかった。
もしかしたら何か自分が気付かないところで水輝の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。そこまで考えて優一郎はどんよりと暗い顔をした。水輝の思惟は相変わらず頑なに閉ざされていて、滅多に見ることが出来ない。五つのペナルティを貰っている今でそれなのだ。垣間見えた程度の思惟を参考にしても水輝の態度の理由が判らない。
「吉良博士? ええと、あの、通信が」
少し大きめな声で呼ばれ、優一郎は驚きに身を竦めて慌てて振り返った。いつの間にか研究室に詰める研究員たちがじっと優一郎に注目している。優一郎は慌てて机の上に置きっぱなしになっていた通信機を取り上げた。耳に装着したところでくるりと椅子ごと振り返って奥の部屋に続くドアに視線をやる。
『わたしに許可も無く、うちの旦那に愉快なアルバイトを紹介してくれたみたいじゃない』
挨拶もなしでいきなり話しかけてきたのは佑だった。
「いや、違うんだ。その、えっと、研究……そう、研究のためなんだ」
うろたえながら優一郎は小声でそう答えた。答えてからはたと気付く。もしかしたら水輝は佑のことを気にしていたのかも知れない。だから他の女性と交わるようなアルバイトのことを、心の底では敬遠していたのだろうか。
いや、それだと水輝がやっているらしいアルバイトの説明がつかない。ぐるぐると考えを巡らせる優一郎を余所に、佑が言葉を継ぐ。
『わたしが知る限り、うちの人、はそういう理由でするのは嫌がると思うんだけど』
食事だったら、ともかく。不満いっぱいの声で佑がそう続ける。
「食事?」
どういう意味だろう。佑の言った意味が判らず優一郎は首を傾げた。佑はだが黙っている。自分で考えろということなのだろう。そのことに気付いた優一郎は記憶を引っ張り出して考えを巡らせた。
あの世界にいた頃の水輝はどうだっただろう。つらつらと考えを巡らせて優一郎は大事なことを忘れていたことに気が付いた。あの頃の水輝は確か、処女血を食って力を溜めていたような気がする。もしかしたら佑が言ったのはそういう意味だろうか。
『いいの。気にしないで。こっちの話だから。それよりも、今からそっちに行っていいかしら?』
明るく、だが妙な迫力のある声で佑が言う。それを聞いた優一郎は真っ青になった。佑の異名が脳裏を過ぎる。クラッシャーの名を欲しいままにする佑がここに来たらどうなることか。優一郎は慌ただしく部屋の中を見回してから奥の部屋に向かうドアに目を戻した。ここには壊されると困る資料が大量にあるのだ。
「ちょっと、待った」
「何を待つのかしら?」
唐突に間近で声がする。冷ややかな声に優一郎は恐る恐る振り返った。腕組みをして優一郎を冷めた目で見下ろしてから、佑がくるりと表情を変えて研究員たちに向き直る。よそ行きの行儀のいい雰囲気を纏った佑が丁寧に頭を下げる。
「皆様、突然の訪問、失礼いたします。池田佑と申します」
そう挨拶してから佑が研究員たちを見回す。どの研究員もあんぐりと口を開けて佑を見ている。優一郎は疲れたため息を吐いて頭をかいた。ハイブリッド種が空間を跳ぶことは彼らも知識では判っている。が、『塔』の中をわざわざ空間転移する者は少ない。『塔』内部にはあらゆる場所に転移禁止区域が設けられている。下手にそこで転移してしまうとペナルティが発生する。そのために例えその能力を持っていても『塔』内部では使わないのが普通なのだ。
「ハイブリッドの能力を研究するためという理由で、この研究区画での転移の解禁申請が出されていたはずよ。その許可が、お昼前に下りていたわ」
優一郎の考えを読んだのか、佑がさらりと言う。それを聞いて優一郎は難しい顔をした。
「区画内のみでの転移解禁申請しかしていないはずだし、そうでなければ下りるはずがない」
「許可は公示されているから、見てみなさい。区画内での転移を許可することと、区画内から区画外への転移を禁止することは書かれているけど、区画外から区画内への転移については記載が無いわ。つまりは、オッケーってことよね?」
すらすらとよどみない口調で説明してから佑がにっこりと笑う。優一郎は慌てて端末に寄って『塔』内部規定の項目をチェックした。特例として出された項目を日付順に並べて字を目で追う。そこには確かに佑が言った通りのことが書かれていた。
「これは、きっと文章が間違ってるんだ」
「それは推測でしかないでしょう? 現に、何の問題も無く転移できたわけだし」
戸惑う優一郎にさらりと返して佑が右手をひらひらとさせる。佑の右手には親指から中指までの三本の指にペナルティの指輪が嵌っていた。にっこりと笑った佑にすぐに言い返すことが出来ず、優一郎は何となく端末画面に目をやった。そこでふと気付く。研究員たちが興味津々といった顔で佑のことを見ているのだ。恐らく彼らの耳には佑の悪名は入っていただろうが、実物を見るのは初めてなのだろう。よく考えたら作戦部に所属する佑がこんなところをふらふらしているのも珍しい話なのだ。
優一郎と佑が会ったらヤバいんじゃね?
……という危惧が書いた当時はあったような気がします。
それにしても佑、跳ぶんじゃねえ!!w というのが優一郎の本音でしょうか。