機嫌良く鼻歌を歌いながら優一郎は研究室に入った。おはようございます、という研究員たちの挨拶に笑顔で応えて席に着く。いつものように隣の席の祥子がおはようございます、と言いながら今日のスケジュールを読み上げる。優一郎はにこにこと笑いながらそれを聞いた。
「あの……吉良博士。何だかつやつやしてません?」
スケジュールを報告した後、祥子が少し声を落として優一郎に話しかける。
「そうかな? 最近、いろいろ上手くいってなかったからね」
うんうん、と頷きながら優一郎は祥子に返事しつつ、昨日から今朝にかけてのことをまざまざと思い出してほぅ、とため息を吐いた。
動画なんか目じゃなかった。
心の底で呟いて優一郎は脳裏に水輝の姿を思い描いた。そうなんですか? と祥子が不思議そうな顔をして返事する。医療局とも今朝方話はついたし、何の問題もない。うんうん、と頷く優一郎を不思議そうに見つめてから祥子が席に着く。そこでふと、優一郎は昨日の動画を祥子の端末から無断で消したことを思いだした。そのことを断ると、祥子は笑ってありがとうございますと逆に優一郎に礼を言った。
「ちょっと、おかしな主張をしている団体が動いてるみたいだね」
優一郎は端末を起動させながら祥子に話しかけた。そうなんですよ、と祥子が笑みを納めて小声で言う。
「何でもハイブリッドを排斥しようっていうことみたいですけど」
変な人たちですよね、と祥子が困ったような顔をして言う。
「気にしても仕方ないよ。同じレベルで争うほどばからしいことは無いからね」
「それがですね……。ハイブリッドの中でちょっと問題が出てるみたいで」
困ったような顔をして祥子が声を潜める。祥子はちらりと周囲を伺ってからこっそりと言った。
「あの、池田さんでしたっけ。彼のことをよく思ってない方がいるらしくて。技術部で今朝方、揉めたみたいですよ」
「なるほど。あの人は目立つ上にトラブルメーカーだからね」
知らん顔を決め込んで優一郎は祥子に頷いてみせた。そうなんですよねー、と呟いてから祥子がため息を吐く。
「何でも、彼の擁護派とか、派閥まで出来ちゃってるみたいで。ハイブリッドの中でも意見が割れてるとか」
祥子曰く、ハイブリッドの中には水輝をハイブリッド種から排斥しよう、という者と擁護する者がいるらしい。それを聞いた優一郎は微かに眉を寄せた。
「なるほど」
「でも、ばかばかしいですよね。私は五群出身ですから、ハイブリッドって言われても今ひとつぴんと来ないんですけど……」
そう言いながら祥子が唇に指を当てて天井を仰ぐ。しばし黙ってから祥子は肩を竦めて笑ってみせた。
「人種差別みたいなもの? なんですかね?」
「まあ、ハイブリッドといってもそれぞれの性質はかなり異なるんだけどね。まあ、それを言えばどんな生き物だって同じだけど」
考えを巡らせながら優一郎は返事をした。そうですよねぇ、と頷いた祥子がはっとしたように目を見張る。
「あっ、すぐにコーヒーおいれしますね!」
忘れていてすみません、と詫びて祥子が慌ただしく席を立つ。研究室の隅に寄ってコーヒーをいれ始めた祥子をしばし見つめてから、優一郎は端末画面に目をやった。
「あれ?」
優一郎は端末画面の隅に点滅するものを見つけて瞬きした。どうやら誰かから電信が届いたらしい。もしかしたら医療局からだろうか。そんなことを思いながら優一郎は何気なく届いた電文を開いた。
差出人は愛華だった。機械化人の件についての問い合わせだ。手術の日程を伝えないと。そう思ってから優一郎ははたと気付いた。そう言えば医療局の許可は取ったが、詳しい日程はまだ出ていない。優一郎は時計を見てから立ち上がった。今の時間なら医療局の総合受付も暇にしているだろう。
「ちょっと、出かけてくるね」
コーヒーをいれていた祥子に声を掛けて優一郎は研究室を出た。優一郎はのんびりと廊下を進み、医療局の棟に向かった。一階にある総合受付に顔を出すと、すぐに女性が応対してくれた。
「あ、その件でしたら、医療局医療特殊技術部ですねー」
端末を操作して女性が明るい声で言う。専用のIDチップを貰って優一郎は礼を言って受付を離れた。エレベーターのところで該当する部署の所在を調べる。どうやら言われた部署はこの棟の最上階にあるらしい。
一応、機密だから仕方ないか。用途はともかく。エレベーターに乗り込みながら優一郎は考えを巡らせた。本当はわざわざ訪ねなくても通信で用件は済ませられるのだが、機密とされているためにその方法は使えない。ぼんやりと考えながら優一郎は何気なくエレベーターの数字を見つめた。最上階は八十八階だ。高速で昇降するこのエレベーターだと、最上階にもほんの数十秒ほどで辿り着く。
軽い電子音がして扉が開く。優一郎は考え事をしながら廊下を進んだ。ポケットからチップを取り出して何となく眺めてみる。そんなことをしているうちに優一郎は行き止まりまで歩いてしまった。確か該当部署はこの辺りのはずだ。
ドアに医療局医療特殊技術部と記された部屋が真横にある。優一郎はその部屋のドアをノックした。中から女性の声が返事する。それを待って優一郎は失礼しますとドアを開けた。
その瞬間、部屋の中にいた女性局員たちが一斉に優一郎の方を見る。優一郎は彼女たちの視線の意味が理解出来ず、訝りに眉を寄せた。
「あのーう……。何かごようですかー?」
部屋の奥にいた一人の女性局員が間延びした声で優一郎に問い掛ける。
「予約番号732で特殊手術をお願いしている者ですが」
戸惑いを覚えつつも優一郎は言った。すると何故か部屋に詰めていた局員たちがひそひそと話をし始める。えっとー、と言ったさっきの女性局員が足早に優一郎に近付く。
「ごめんなさーい。三課では手術とかはしてないんですー。たぶん、お隣じゃないでしょうかー?」
にこにこと笑いながら女性局員が言う。どうやら訪問する部屋を間違えてしまったらしい。
「申し訳ありません。失礼しました」
優一郎は慌てて頭を下げ、そそくさと部屋を後にした。優一郎が部屋を出た瞬間、ドアの向こうで一斉に女性の賑やかな声が上がる。優一郎は急に聞こえてきた歓声にびくんと身を竦め、慌てて振り返った。
きゃあああ! みたみた!? いまのー!
りある! りあるだったー! しあわせー!
……などという雄叫びに近い歓声が聞こえてくる。な、なんなんだろう、いったい。そう呟いて優一郎はドア越しに耳を澄ました。賑やかに騒いでいた女性たちの声に混ざり、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「こら! 騒ぐな喚くな静かにしろ! おまえらは妙なネタで盛り上がることしか知らんのか!」
その声はどんどん近くなってくる。どうやら女性たちを叱りながらドアに近付いているらしい。優一郎は身の危険を感じて咄嗟にドアから飛び離れた。
「あ」
ドアを開けた水輝が目を丸くして優一郎を見る。
「珍しいところでお会いしますね」
優一郎はにっこりと水輝に笑みかけた。その直後、部屋の中にいた女性たちが一斉に歓声を上げる。
「感動の再会ですね!」
「やだー! すごーい! ほんものだよー!」
「まずい! ディスクの容量がー! 録画がー!」
などという女性の声が聞こえてくる。水輝はしばしその場に固まっていたが、やがてため息を吐いて優一郎の腕をつかんで引っ張った。部屋の中に引っ張り込まれた優一郎は驚いて水輝を見やった。
「騒ぐな! 仕事しろてめえら!」
賑やかな声を上げる女性たちを叱りつけ、水輝がずんずんと大股で部屋の奥に向かう。何故か今日の水輝は優一郎と同じように白衣を身に着けていた。
「水輝さーん。解析結果そろそろでますよー」
「うーい。回しといてくれ」
優一郎に話しかけてきたあの女性局員の言うことに水輝が片手を上げて答える。優一郎はさっぱり訳が判らないまま、ずるずると水輝に引きずられた。
このエピソード(1と2)で二章は終わりです。