・各務 チヒロ
リクエスト作品です。
『ホワイト・アウト』の後日談です。
事件が解決しても心の傷が癒える事はありません。
そんな感じの物語です。
深く、深く、沈み込む。
これが夢と分かっていながら、目覚める事が叶わない。
光は無く、何もない空間をただひたすらに落ちていく感覚。その感覚は、まるで水の中に沈んでいくようで、息苦しい。
そして、そして、そして……
無数の腕が身体中に絡み付き、私の身体を弄ぶ。
声を出したくとも唇を塞がれ、助けを呼ぼうとしても肺から空気が漏れるばかり。
息が苦しい。怖い。恐い。恐い恐いこわいコワイこわい……!
皮膚の外側で蠢く蛆虫が、私の身体を這うように動き回る感覚が全身を駆け巡り、そのおぞましさに吐き気を覚えた。
お願いヤメテ……私の身体に触れないで……私の身体を穢さないで……
そんな願いは叶う筈もなく、無数の腕が私の身体を抑え付け、身動きを取れなくする。
跪き、首を垂れさせ、まるで土下座をするような姿勢を取らされる。
恐怖と絶望が入り混じり、私の目からは自然と涙が溢れ出した。
嫌だ……いやだ……イヤだ……イヤダッ!!
髪を鷲掴みにされ、無理矢理顔を上げさせられる。
そして、眼前に迫る熱源に、私は目を見開き絶叫を上げた。
その恐怖から逃れようと身体をよじらせるが、それは徒労に終わった。
助けを呼ぼうと声を出そうとするが、それも叶わない。無数の腕によって口を塞がれているからだ。
迫るそれを、彼女は覚えている。忘れる筈がない。忘れ去る事など出来る筈もない。
かつて、彼女が受けた陵辱と暴力。その果ての狂気に至る所業。
その身に受けた傷は癒える事無く、今も彼女の心に深い影を落とす。
嫌だ、やめて、お願いだから……
その願いは届く筈もなく、それは容赦なく彼女の身体を蹂躙する。
そして……
チヒロの意識が現実へと引き戻される。
呼吸を整えながら、彼女は周囲を見渡す。シャーレの仮眠室。誰もいない事を確認すると、彼女は自身の身体を抱き寄せた。
その身体は小刻みに震えており、顔色も悪い。
またあの時の夢を見た。あの光景を、あの恐怖を、再び彼女はその身に刻み込んだのだ。
夢の内容を思い出しながら身体を震わせるチヒロ。
あの後、チヒロは先生やヴァルキューレ警察学校の生徒達によって救出され、一命をとりとめた。
しかし、その心的外傷は深く、未だに彼女の心を蝕んでいる。そして、それは夢という形で彼女を襲い続けていた。
「また……あの時の……っ」
あの時の光景。そして、不良生徒達の笑い声が脳裏に過る度に、チヒロは恐怖に身体を震わせた。
身体の震えを抑えようとする彼女だが、治まる事はなく、むしろ酷くなっていく一方だ。
「ぅ……ぅっ……」
震える身体を抱きしめ、嗚咽を漏らすチヒロ。全身から噴き出した汗は留まる事を知らず、彼女の衣服を濡らしていた。
身体から大量の水分が抜けたせいか、喉の渇きを覚え、彼女はふらつく足取りで冷蔵庫へと向かう。まだ深夜の時間帯のせいか、辺りは暗く、足元も覚束ない。しかし、それ以上に、視界が悪い。
目の前がボヤケ、遠くを視認する事も儘ならない。
それでも、チヒロは冷蔵庫を目指して歩き続けた。だが、その足取りは次第に遅くなり、遂には立ち止まるとそのまま蹲ってしまう。
「ひっぐ……うぅぅ……」
嗚咽を漏らしながら涙を流し、泣き崩れる。
片目が見えない。
不良生徒に拉致され、暴力をその身に受けた上に公共のトイレに拘束され、名も顔も知らない住民たちに犯され続けた。
そして、穢され尽くされた彼女に追い打ちをかけるように、不良生徒は彼女の眼球を焼いたのだ。
瞼の奥が熱くなる。前がよく見えない。ただ、痛みだけが身体を支配していき、それ以降視力を失った彼女は今現在に至るまで片方の眼が光を見る事も無く過ごす事を強要された。
片方が無事だからと、それで問題なく生活できるかと問われれば、答えは否だ。
距離感が掴めず物に躓く。遠近感が狂い、物にぶつかってしまう。目を開く度、自分の視界の悪さを再認識させられ、そしてまた絶望する。
自分が普通だった時は、こんな事は無かったのに……。
「うぅぅ……ぁぁぁ……」
嗚咽が漏れる。
また、あの時の光景が脳裏に過る。不良生徒達の笑い声と、彼女の身体を弄ぶ無数の腕の感触。そのおぞましさと、恐怖に身体が震える。
「ぅ……く……っ……うぅぅ……」
涙は止まらない。嗚咽が漏れる。
苦しい……苦しい……苦しい……っ。
このまま苦しい思いをするくらいなら……。
ふと、ベットの脇に備え付けられていた簡易テーブルに目が向く。
病院から処方された睡眠薬。悪夢に魘される事が増え、まともに睡眠がとれなくなったチヒロの為にと用意したものだった。
外に出る機会を減らす為に月単位で処方された薬。
脳裏に浮かんだ単語が思考を染め上げていく。
苦しいならば、辛いならば、逃げてしまってもいいじゃないか。
足腰の感覚が無くなっていく。ふらふらとベットの前まで歩くと、そのまま倒れ込むように横になり、テーブルの上に置かれた薬を無造作に掴み取る。手を震わせながら箱を開け、処方された分量の数倍の睡眠薬を掌に出すと、チヒロはそれを凝視した。
これを全て飲めば、楽になる。
悪夢を見る事もなくなるし、絶望からも解放される。この苦しみから解放される。
チヒロは薬を口に近付け、そして……
朝、シャーレの執務室にチヒロはいた。
昨晩の出来事はまるで夢だったかのように、何事もなかったかのように平然と振る舞っている。
否、唯一機能している片目のクマから察するに、彼女はあれから一睡もしていない事を伺える。
最後の最後、彼女は楽になる事を拒んだ。
それは、助けてくれた先生に対する裏切りであり、そして、自分の事を心配してくれるヴェリタスのメンバーの思いを裏切る行為だ。
だからこそ、彼女は踏み越えなかった。踏み越える勇気がなかった。
果たしてそれが正しい選択だったのかは定かではない。しかし、少なくとも、先生の厚意を無碍にする事だけは避けられた。
それだけが、唯一の救いでもあった。
そう、本当にそれだけが唯一の救いだったのだ。
今はただ、先生に与えられた書類整理に精を出し、他の事を考えないよう心掛けている。
しかし、それすらも彼女からすれば苦痛以外の何物でもなかった。
PCの画面を注視しても、文字列を目で追う事ができない。ボヤケて見えるだけで、文字を認識する事すら困難なのだ。
眼鏡のレンズを調整し、目を近づけてみても、その症状は改善される兆しすら見せない。
以前なら数分と経たずに処理できた作業も、今では倍以上の時間を必要とする始末。
おまけに、何とか作業を終えて提出するも、いくつもの不備が後から確認され、余計な仕事が増えていくばかり。
それが自分だけの責任になるなら受け入れる。しかし、そのしわ寄せが先生にも向かってしまうと、チヒロは申し訳なさで押し潰されそうになり、その心は少しずつ蝕まれていった。
今まで簡単に出来ていた事すら出来ない。自分にしかできない事が出来なくなった者に何の価値があるというのだろうか?
プログラムを組み立て、作業を簡略化しようと試みるも、その作業すらまともに出来ない。
そして、また一つ、自分にしか出来ない事を失ったチヒロは、絶望の淵へと追いやられる。
頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ……。心の中でそう唱え、チヒロは必死に自分を奮い立たせた。
しかし、その思いとは裏腹に、彼女の心は徐々に壊れ始めていくのであった。
「チヒロ、お疲れ様」
昼食後の休憩時間、先生が声をかけてくれる。
その手には自販機で購入した珈琲が二缶握られており、一缶をチヒロに差し出した。
「あ、ありがとう……先生……」
お礼を言って受け取ろうとするも、遠近感を失った彼女の手は空を切り、受け取ろうとした缶は床に落ちてしまった。
「あ……ご、ごめん……」
慌てて謝罪するチヒロに先生は『気にしないでいいよ』と言って、落ちた缶を拾い上げる。そして持っていた方の珈琲缶を改めてチヒロに渡すと、先生自身は落ちた方の缶のプルタブを開け、それを口に運んだ
「あ、あの……先生……」
チヒロは何か言いたげに口を開く。しかし、先生は彼女の言葉を手で遮ると。
「大丈夫だよ。チヒロ」
そう言って優しく微笑み、珈琲を口に含んだ。
「っ」
思わず俯いてしまうチヒロ。しかし、彼女は決して恥じているわけではない。ただ、謝罪を口にしようとした自分に対し、『大丈夫だから』と言ってくれた先生の気持ちが嬉しかっただけだ。
その優しさに、チヒロは目頭が熱くなるのを感じた。しかし、それを悟られまいと必死に堪える。
「ありがとう……先生……」
そんな小さな呟きが、彼女の口から零れたのだった。
探るようにプルタブに指をかけ、カシュッと子気味の良い音と共に開いたそれを口元まで持って行き、チヒロはゆっくりと飲み始めた。
一口飲むと、口の中に香ばしさと苦みが広がる。その味は、チヒロが今まで口にしていたものよりも、遥かに美味しく感じられた。普段から飲み慣れたものでも、先生から受け取った厚意という事だけで、こうも感じ方が変わるものなのだと気付かされ、そして、それが少しだけ嬉しかった。
「……………………っ」
違う。この感情は本来感じてはいけないものだった。
この厚意は、本来受け取る事のなかったものだ。
それを自分は享受してしまっている。その自覚と認識が、自分が他の生徒と比べ、気遣われているという現実を否応にも突き付けてきた。
特別扱い。その単語が脳裏を過る度に、チヒロの心に暗い影が差す。
「あ、あの……先生……」
「うん?」
チヒロは意を決して先生に話しかけたが、言葉が続かない。何を言えば良いのか分からず、口を噤む。
「どうかした? 遠慮せずに言って?」
そんなチヒロを見て、先生は優しく語りかける。その気遣いが逆にチヒロを苦しめる事になっているという事を彼は知らない。
「……そ……その……」
絞り出すように声を出すチヒロ。そんなチヒロの姿を見て、先生は苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「……ごめんね」
「え?」
突然の謝罪にチヒロは目を見開く。何故彼が謝る必要があるのか理解出来ず困惑する彼女の姿を見て、先生は続ける。
「『大丈夫』って口で言っても、それは言葉だけだもんね……。でも、その『大丈夫』をチヒロに強要してしまっているのも事実なんだ」
「そ、そんな……」
チヒロは否定しようとするも、先生の言葉によってそれは遮られる。
「……私はね、チヒロが『大丈夫』って言うなら、それを信じてあげたいんだ。でも、それは同時に、チヒロの『大丈夫じゃない』って気持ちを蔑ろにしてしまっている事でもある」
「っ……!?」
先生の言葉は正しかった。彼の優しさは、確かにチヒロを気遣っての行動ではある。しかし、それは同時に彼女の負の感情を無視してしまっている事にも繋がっていた。
「だから、チヒロが『大丈夫じゃない』って感じたら、それを私に言って欲しいんだ。私は君の力になりたいから」
「っ……!!」
チヒロは言葉を失った。そして同時に、自分の愚かさを呪った。
先生はただ、自分に対して気遣っているだけだと思っていた。だが、それは間違いだったのだ。彼は本気で彼女の事を想って行動してくれている。その事を理解してしまった。
だからこそ、チヒロは嬉しかったのだ。
自分の事を気遣ってくれる人がいるという事を実感できた事が、何よりも嬉しかった。
しかし、それと同時に不安もあった。もし自分が『大丈夫じゃない』という感情を先生に伝えてしまった場合、彼は自分の事をどう思うだろうか?
こんな自分に愛想を尽かし、離れていくのではないだろうか。
そんな思いが頭の中を駆け巡り、チヒロは恐怖する。
「私は頼りないかもしれないけどさ……それでもチヒロの力になりたいんだ」
先生は真剣な眼差しで告げる。その瞳に、嘘偽りはない。
チヒロはそんな彼の姿を見て、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「あ……ぅ……」
上手く言葉が紡げない。言いたい事は山ほどあるのに、それをどう言葉にすれば良いのかが分からない。
「…………」
そんなチヒロの様子を察してか、先生は再び珈琲を口に含むと、静かに目を瞑った。そして、そのまま数秒間沈黙が流れる。
「チヒロ」
不意に名前を呼ばれ、チヒロの体がビクリと震える。恐る恐る顔を上げると、先生は優しく微笑みながら口を開いた。
「ゆっくりで良いから……自分の言葉で話してごらん?」
その一言を聞いた瞬間、チヒロの中で何かが弾けた。
「……せ……先生……わ、私……」
震える声で言葉を紡ぐ。そして、口をパクパクと開閉させながら何度も同じ言葉を繰り返そうとするが、肝心の言葉が出てこない。
「私は……っ」
最後の最後まで、チヒロは言葉にして伝える事が出来なかった。
しかし、そんなチヒロに先生は手を伸ばし、その頭を撫でる。
一瞬、チヒロの身体がビクリと反応する。しかし、彼女はその手を振り払おうとはしなかった。
先生は何も言わない。ただ、黙って彼女の頭を撫で続けた。チヒロもそれを少しずつ受け入れている様子だった。
やがて、チヒロが落ち着きを取り戻した頃を見計らい、先生は手を離した。そして、そのまま彼女の隣に移動して座り直すと、再び珈琲を口にする。
まだ、自分の思いを口にする事は出来ない。
しかし、先生はチヒロがいつか、思いの内を話してくれる日を待っているのだろう。
その時が来るまで、この人はずっと傍に居てくれる。決して自分を一人にしない。チヒロにはそれが理解できたからこそ、その優しさに甘える自身に罪悪感を覚えた。
鏡の前に映る自分を見つめる。
光を失った眼を隠すように黒の革製の眼帯を装着し、その上から眼鏡をかける。
元々前髪が少し長かった事もあり、上手く調整すればこの眼帯も誤魔化しきることが出来た。しかし、顔の所々に残った火傷の痕までは誤魔化す事は出来ず、少し濃いめの化粧で上塗りをしている。
「チヒロ、大丈夫?」
ノックと共に、先生の声がドアの向こう側から聞こえる。扉を開けないのはその音が未だにトラウマで、あの時の事を思い出してしまうからだ。
「大丈夫」
チヒロは眼帯の位置を直すと、再び鏡に映る自分を見つめる。
「私は……大丈夫……」
今度は先生に聞こえない小さな声でそう呟き、チヒロは部屋の外へ出る。
「おまたせ、先生」
そう言って、前髪で片目を隠すように弄りながらチヒロは微笑んだ。
「うん。じゃあ行こうか」
先生はそんなチヒロに優しい眼差しを向けると、彼女の手を引いて歩き出した。
片目で遠近感が掴めない彼女に対するさりげない配慮。その気遣いが、チヒロには嬉しくもあり、そして同時に切なくもあった。
少しずつでも元の生活を取り戻すために、先生に無理を言ってシャーレの外に出てリハビリをしたいと申し出た。
退院後、精神面で不安定だったチヒロは学園を休学し、シャーレで療養を続けていた。
今まで経験した事のない恐怖や絶望、そして孤独感。それら全てを嫌というほど味わい、精神を病んだ彼女は外にすら出れなくなっていた。それでも、せめて自身の出来る範囲で先生に貢献しようと思い、仕事の手伝いを申し出たものの、今まで出来た作業が覚束なくなり、その焦りから、不安と恐怖はあるものの、外出を提案したのだ。
『無理をしないで、ゆっくりで良いよ』
先生はそう言ってくれたけど、それでもチヒロは少しでも早く、元の生活を取り戻せるように努力したかった。無茶は承知であり、此処で無理する事に何らかのメリットがあるとは考え難いが、それでもチヒロは少しでも前に進みたいと思い、先生にその事を申し出たのだ。
「それで、これから何処に行くの?」
「そうだね。折角だから近くの公園に行ってみない?」
「公園?」
「うん。今日は特別な予定もないし、息抜きも兼ねてさ」
「……うん。分かった」
先生の提案を受け入れ、チヒロは彼と共に公園へと向かう。
近くとはいえ、シャーレから公園まではそこそこの距離がある。その間、久し振りの外の空気を堪能するも、どうしても周りの景色が気になってしまう。道行く人や自動車、信号機や電信柱など、当たり前のものがぼやけて見える。少し怖かったが、それでも先生の手を離せなかった。もし今離してしまったら、今度こそ一人になってしまうかもしれないという恐怖感から来るものだったのかもしれない。
と、狭い歩道を並んで歩いていると、小さな子供がチヒロの横を駆け抜けていった。距離感が分からず、ぶつかりそうになり、チヒロの身体がビクリと強張る。しかし、咄嗟に先生がチヒロの手を引き、何とかぶつからずに済んだ。
直ぐに我に返り、恐る恐る子供の方を見た。幸いにも子供は気にする事なく通り過ぎて行ったが、それでもチヒロは恐怖を覚えた。
先生以外の人に『ぶつかる』『触れる』と思った瞬間、あの時受けた傷がフラッシュバックし、心臓が鷲掴みにされたような感覚に陥ったのだ。
「大丈夫?」
そんなチヒロの心情を察してか、先生が心配そうに声をかける。しかし、その優しさが今のチヒロには逆に辛く感じられた。
「……うん、大丈夫」
本心を隠し、チヒロは何事もなかったかのように振る舞う。
「ごめんなさい。無理な事を言って」
「……どうして謝るの?」
「だって、今の状態で無理に外出しようって言ったから……」
先生の言葉に、チヒロは俯きながら答えた。
「そんな事ないよ」
先生は優しい口調で言う。求める言葉を、本心から言っている事が分かる程に、優しい声だった。
「チヒロが外に出たいって言ってくれた時、凄く嬉しかったよ。少しずつで良い。チヒロが元の生活に戻れるよう、私は全力でサポートするから」
「……うん」
「だから、今は焦らずにゆっくりやっていこう。大丈夫、時間はまだまだあるよ」
先生はそう言って微笑むと、再び歩き出す。チヒロもそれに倣って歩き出した。
一歩、また一歩と踏み出す度に、心拍数が上がっていく感覚を覚える。怖い。不安だ。それでも、先生は傍に居てくれるから大丈夫。そう自分に言い聞かせながら歩を進める。数分程歩いた所で公園に到着した。平日とはいえ、休日である今日はそれなりの人で賑わっていた。家族連れやカップル、友人同士など、様々なグループが思い思いに過ごしている様子が見える。
人がいる。それも沢山。それが当たり前の筈なのに、今のチヒロには怖くて仕方なかった。
「あそこのベンチで休もうか」
先生はそう告げると、手を引きながら歩き出した。それにつられてチヒロも歩みを進める。先生のエスコートのおかげもあり、無事にベンチまで辿り着く事が出来た。
しかし。
「ねぇ、あの人眼帯してるよ」
「ほんとだ。目を怪我しているのかな?」
「っ!?」
周囲に響く声。それは子供のものだったが、チヒロにとっては恐怖の対象でしかない。思わず足を止めてしまうも、先生が優しく背中を押す事で再び歩き出し、何とかベンチに辿り着く事が出来た。
「チヒロ、大丈夫?」
ベンチに座り込むと、先生が声をかける。その声は不安げでありながらも労る気持ちが滲み出ているように感じられた。
「うん……平気……」
呼吸を整えつつ答える。先程よりも冷静さを取り戻した事で落ち着きを取り戻す事が出来たが、それでも恐怖は拭い切れない。
「ごめん、先生」
申し訳なさから謝罪の言葉を口にすると、先生は首を横に振った。
「謝る必要はないよ。寧ろ私の方こそごめんね」
先生はそう言うと、優しくチヒロの頭を撫でる。身体が委縮し、震えてしまう。先生に触れられていると分かっている筈なのに、身体がそれを拒んでいる。そんな自分に嫌気がさすも、どうしようもなかった。
先生はそんなチヒロを安心させようとしているのか、優しく語りかける。
「大丈夫だよ、大丈夫。怖くないから」
そう言って、再び頭を撫で始めた。その手の温かさが心地よく感じる反面、チヒロは複雑な気持ちだった。
「違うよ。先生……」
小さく呟くも、それ以上言葉が続かない。言いたい事は山程あるのに、それが喉につかえて上手く言葉に出来なかった。
「あれ、先生?」
そんな二人のやり取りを他所に、女性の声が耳に届いた。声のした方を見ると、そこにはトリニティの制服を着た少女が先生に向かって手を振っていた。
「やあ、カズサ。奇遇だね」
先生は手を振り返すと少女に声をかける。どうやら知り合いらしい。
黒髪の前下がりのワンレンボブ。制服の上に猫耳付きのフードがついたパーカーを着ており、首には猫のワンポイントが付いたチョーカーを巻いている。年下だが少し大人びた外見とは裏腹に、チヒロより身長は低く、そのアンバランスさが少女に不思議な魅力を与えていた。
「久し振りだね先生。最近、連絡しても返事がないから心配したよ」
何気ない日常の会話。先生は数多くの生徒と関りを持っており、生徒の相談や悩み事を聞いたり、時には一緒に出かけたりする事もある。カズサもまた、そんな生徒の内の1人だったのだろう。
「ごめんね。ちょっと仕事が立て込んでてさ」
そんなカズサに先生は申し訳なさそうに言う。しかし、少女は特に気にしている様子はなかった。
「そっか……まぁ、元気そうで何よりだよ」
一瞬だけカズサの視線がチヒロに向けられたが、その視線に特別な意味はない。
先生が生徒と一緒にいる事は日常茶飯事であり、偶々カズサが通りかかった所に、チヒロと先生が一緒にいただけの事である。
しかし、カズサの視線を感じたチヒロは、咄嗟に顔を背け、眼帯を着けた側の目を隠すように前髪で弄った。
その仕草にカズサは一瞬だけ不思議そうに首を傾げていたが、直ぐに視線は先生の方へと戻される。
「それでさ……先生に聞きたかった事があるんだけど」
カズサの問いに、先生は苦笑いを浮かべつつ答える。その返答はチヒロの事を気遣うものだった。
居たたまれない。そんな感情がチヒロの心を蝕んでいく。
「……先生」
と、小さな声で先生に声をかけ、服の裾を小さく掴む。
―私の事は気にしないで、その子の話を聞いてあげて―
言葉ではなく、目で訴えかけるチヒロに、先生は一瞬戸惑うも、返事を返す間もなくベンチから立ち上がり、先生とカズサに背を向けて歩き出す。
「あぁ……もしかして、タイミング悪かった?」
と、バツの悪そうな顔で言うカズサ。対して先生は、背を向けて離れるチヒロの背中を目で追いながら答えた。
本来なら追うべき所なのだろう。しかし、チヒロの思いを汲み取らずに行動すれば、それすらも彼女の心を傷付けてしまうかもしれない。
あの事件から、チヒロはまだ立ち直っていない。少しでも彼女の心が癒えてくれればと願うも、それでも長い時間を必要とするだろう。先生からすれば、一歩ずつでも良い。その一歩から立ち直るきっかけとなるならば、彼女の支えになりたいと心から願いつつ、そしてそんな彼女の意思も汲み取るべく、熟慮の末、答えを導いた。
「……………………いや、大丈夫だよ」
その声色は優しいものだったが、何処か寂しげな様子であった。
……やってしまった。
先生を困らせるつもりはなかったのに。
あんな形で離れれば、先生は当然の事、先生の事を慕って話しかけてきた彼女にも、嫌な思いをさせてしまったかもしれない。
いや、きっとそうに違いないだろう。
でも、それでも……。
こうして、他の生徒と今の自分を見つめ直すと、嫌でも現実を突きつけられてしまう。
制服の下に隠れる傷跡も、顔に残された傷跡も……全て、全て全て全て、二度と消える事のない傷痕だ。
忘れようとすればする程、それらを思い出してしまい、トラウマがフラッシュバックして呼吸すらままならなくなる程の恐怖と絶望を感じてしまう。
学年は違えど、同じ学生の筈なのに、一目見ただけで傷一つない綺麗な肌をした彼女を見ただけで、心の奥にあった何かが壊れてしまいそうになる。何故、私は彼女とは違うのだろう。いや、彼女だけではない。ほんの少し前まで、私は、彼女と同じくらい……。
「……惨め」
思わず口から零れる本音にハッとする。慌てて周囲を見渡し、誰も居ない事を確認すると安堵の溜息を洩らす。
「もう……嫌だ……」
そう呟くと、チヒロはその場に蹲り、静かに嗚咽を漏らす。
「なんで……私なの……?」
溢れてくる涙を手で拭いながら、何度も問いかける。答えは返ってこないと分かっているが、それでも問わずにはいられなかった。こんな世界に何の意味があると言うのか。理不尽極まるこの世界。悪い事をしたわけではない。寧ろ、正しい事をしてきた筈だ。
他の人にはない才能を悪用する事なく、寧ろ社会に役立てる為に使ってきた。それなのに、こんな仕打ちを受けなければならない理由が分からなかった。それでも現実は非情であり、決してチヒロの味方にはなってくれない。
ただ、ほんのちょっと、僅かに歯車が狂っただけだ。だが、その僅かな狂いが、チヒロの全てを狂わせた。
技術は進化し、いずれはこの身体に刻まれた忌まわしい傷跡が消える医学が発展するかもしれない。だが、それは数年先の未来であって、今のチヒロにはどうする事も出来ない。そして、如何に技術が発展しようとも、心の傷までは癒す事は出来ない。
如何な天才であろうと、一人の例外もなく、万能に至る事はない。
故に、この壊れた心は癒える事はなく、永遠にチヒロの心を蝕み続ける。
「誰か……助けてよ……」
嗚咽を漏らしながら、チヒロは天に祈った。しかし、そんな願いを聞き届ける神などいない。それでも願わずには居られなかったのだ。
結局、その後、チヒロは人の目を気にしながら存在感を消し、遠目に先生とカズサが別れるまで時間を潰した。
先生と合流し、その足でシャーレに帰宅する。
その途中、階段から足を踏み外し、転倒するトラブルもあったが、その時も先生は優しく手を差し伸べてくれた。
『大丈夫?』と、そう一言だけ。
チヒロはただ黙って頷き返すだけだった。そして、そのまま先生の手を取り、再び歩き出す。
先生は何も言わなかったが、それでもチヒロを心配するように見つめていた。
その視線に気付きながらも、チヒロはその視線から逃げるように顔を逸らし、手をぎゅっと握り返した。
「……」
そしてまた無言の時間が訪れる。車道側を先生が歩き、その隣をチヒロが歩く。
先生の手が温かい。手を繋いでいる事で安心し、次第にチヒロの心に落ち着きが戻ってくる。そして同時に罪悪感が込み上げてくる。先生は本当に気を使ってくれている。それなのに、自分は迷惑ばかりかけてしまっている。
『ありがとう』の一言すら言えなかった。そして言う機会を失った今となって、それすらも後悔する。
チヒロは無言のまま、先生の横顔を見た。その横顔からは何も読み取れない。しかし、それでも先生は優しい人だという事は分かる。だからこそ、そんな先生に心配をかけたくないとチヒロは思うのだ。だが、それが出来ない自分に対し、チヒロは嫌気がさした。
そんな事を考えている内に、何時の間にかシャーレに到着していた。
「着いたよ。じゃあ、私は此処で」
そう言って立ち去ろうとする先生の手を反射的に強く握る。突然の事に先生は少し驚いた様子を見せた。
「……チヒロ?」
そんな先生の声にハッとなるチヒロだったが、それでも手を離す事は出来ない。この手を離してしまえば、もう二度と触れる事すら許されなくなってしまうような気がしたからだ。
無言のままチヒロは俯く。伝えるんだ。今の自分の気持ちを、素直に、素直に。例えそれが、先生を困らせてしまう結果になろうとも、それでも、この気持ちだけは伝えなければならない。
口を開け。声帯を震わせ、言葉を紡げ。
頭の中で何度も言葉を反復し、何度も自身に言い聞かせる。だが、声が上手く出てこない。まるで言葉そのものが喉元で詰まってしまっているような感覚だ。
情けない自分に憤りを感じる。自分はこんなにも臆病だっただろうか?
チヒロは唇を強く噛み、鉄の匂いが口内に広がった。
目頭が熱くなる中、言葉を紡ぐ事すら叶わない中、チヒロは思考が停止しかけている事に気付く。
駄目だ。このままではいけない。諦めたくない、諦めたくなんてない……チヒロは必死に自分を奮い立たせるも、その意思に反して唇が動かない。
ならばせめて、せめて気持ちだけでも伝えなければ。
そう思い、漸くチヒロは先生に自身の気持ちを伝えた。
先生の手を顔に近付け、火傷の痕に指を這わせる。そして、眼帯の下の、光を失った傷跡にも触れさせる。
チヒロの行為に先生は一瞬驚愕するも、彼女の伝えたいという気持ちを汲み取る為に、彼女の思う通りに身を委ねた。
―私……頑張れてるかな?―
まるで道に迷った童のように震え、不安と恐怖が入り混じった感情に圧し潰されそうになりながら、チヒロは縋るように先生の顔を見つめる。
心にぽっかりと穴が開いたような感覚と共に、チヒロの感情が頭の中でひしめき合う。
『誰かに認められたい』
『誰かの役に立ちたい』
『誰かに褒められたい』
『誰かと一緒に居たい』
『今の私を受け入れて欲しい』
そんな感情が次々と浮かび上がり、チヒロは必死にそれらを振り払うように首を振る。しかし、どんなに振り払おうともそれらは消えず、寧ろ更に強くなってチヒロの心を蝕んでいく。
先生ならきっと、求めている答えを紡いでくれる。
優しい声色で『大丈夫』と言って、頭を撫でてくれるだろう。
その優しさが、今は何よりも欲しい。
浅ましくも、そう願わずにはいられなかった。
先生の瞳を見つめる。先生の優しい眼差しに見つめられるだけで、不思議と心が満たされていくのを感じた。その優しさに縋りたいという気持ちが大きくなった時……ふと、公園で出会ったカズサの事を思い出した。
「…………………………ぁ」
そして、漸く気付く。先程、自分はカズサに対して何を思ったのかを。
『羨ましい』
そう、羨ましかったのだ。彼女のように傷のない綺麗な肌もそうだが、何よりも彼女が先生に向ける信頼の眼差しが羨ましかったのだ。その眼差しは、チヒロが先生に向けるものとよく似ており、そしてそれは……。
「……っ」
チヒロは咄嗟に先生の手を離し、一歩後ずさる。
「あ……わ、私……」
自分が何をしたのかを理解して言葉を失ったチヒロは、思考がぐちゃぐちゃになるのを感じながら心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
「あ……あぁ……」
チヒロは頭を抱え、その場に蹲る。
『羨ましい』
『妬ましい』
そんな感情が頭の中を駆け巡る中、それでも尚、チヒロの心に芽生えた新たな感情は消えなかった。それはまるで、今まで蓋をして見ないようにしてきた感情のようで、チヒロは自分自身に嫌悪する。
チヒロはそんな心の闇に必死に抵抗するように唇を強く噛むも、一度意識してしまったものを取り払う事は出来ず、どんどん膨らんでいくばかりであった。
そして、その感情が爆発した時、チヒロは叫び出した。
「いやだ!! 違う! 嫌だ!!! 私そんな事思ってない!! 私は……ただ……っ!」
支離滅裂になりながらも叫ぶチヒロ。感情が抑えきれず、頭を抱えるようにしながら髪を振り乱す。
「チヒロ! 落ち着いてっ!? 大丈夫、大丈夫だから……っ!」
先生の声が聞こえるが、それに反応する余裕すらチヒロにはなかった。
今の自分を先生に見られたくない。
その一心で、チヒロは建物の中に入ると、自分の為に割り当てられた個室に逃げ込み、鍵をかけた。
そして、荒い息を吐き出しながら洗面所まで行くと、蛇口を捻って水を出し、それを両手で掬うと顔に叩きつけた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
何度も何度も水をかけては流す行為を繰り返す。しかし、どれだけ水を被ろうともチヒロの心が晴れる事はなかった。
寧ろ抑え込んでいた感情は顕著に表れ、チヒロを蝕んでいく。
「うっ……うぇ……」
嗚咽が漏れる。苦しい。辛い。逃げたい。嫌だ。
負の感情が次々と押し寄せてくる中、チヒロは濃いめの化粧で隠していた傷痕を鏡越しに見てしまう。
「ぁ……………あぁ…………」
思わず言葉を失ったチヒロは、その傷痕を手でなぞる。
「あ……あぁ……っ」
再び嗚咽が漏れる。しかし、今度は先程よりも強く、深く。そして、眼帯を外すと同時に光を失い、白濁った左目を再確認し、それと同時に涙が溢れてきた。
「うぁ……あああっ……!」
堰を切ったように溢れ出す涙。それは止まる事無く流れ続け、チヒロはその場に崩れ落ちた。
「う……ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!?!!」
感情が爆発し、チヒロは子供の様に泣きじゃくった。どうしていいのか分からず、ただ叫び続ける事しか出来なかったのだ。
「ひぐっ……うぁ……わだじぃ……な゛んでごんなっ…………っ!?」
傷一つなく、綺麗な肌をしたカズサを見て、普通に、何気なく先生と接する彼女。そしてそんな彼女を見てしまった自分自身の内なる感情に気付かされたチヒロは、『羨ましい』『妬ましい』という感情の果てに、己の『醜悪』さを思い知る事となる。
先生の厚意に甘んじ、それでもなお、自分の事しか考えられない。
先生の優しさを、信頼を、その全てを踏み躙ってまで、己の欲求を満たす事しか考えず、それを実行したチヒロに、もはや先生の隣に居る資格はない。
「わだ……じぃ……ごんなどっでぇ……」
醜い、醜い、醜い……。
こんな自分は嫌いだ。
大っ嫌いだ。
でも、この感情を捨てる事は出来ない。
いや……きっとそんな日は永遠に訪れないだろう。例え自身の醜い感情を抑える事が出来たとしても、今度は違う理由で胸が張り裂けそうになる筈だからだ。その事実にチヒロは絶望し、再び泣き叫ぶ。
「うぁ……ああぁぁあああっ!?!?」
そんなチヒロの悲鳴を、誰も聞いてはいなかった。そして、その泣き声は夜が更け、朝日が昇るその時まで続いていたのだった。
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