・早瀬 ユウカ
・シャーレの先生
他、複数名登場しますがほんの少しです。
リクエスト作品です。
早瀬ユウカが不良グループに捕まり拷問された後の話です。
ペンの走る音だけが室内に響き渡る。
シャーレのオフィス。先生以外誰もいない空間で、彼は黙々と書類に目を通していた。
目の下にはクマが浮かび上がり、顔色も悪い。疲れ切っている様子で、書類のチェックを行う先生の手は動きが鈍い。
それも仕方のない事だろう。あの事件があった後なら猶更だ。
自身を狙った不良生徒達から先生を守る為にユウカは囚われの身となり、身体と心に深い傷を負い、廃人同然となってしまった。
ミレニアムの最新医療を以てしても、ユウカの心と身体に刻まれた傷は完治する事は無かったのだ。
そして何より、そんな状態のユウカを一人にしておく事は出来ないと、シャーレの建物に彼女専用の医療施設を設け、そこで彼女を介護しながら心のケアをする。それが、あの騒動の後で先生に課せられた責任でもあった。
傷痕を見ればパニック障害を発症する為、鏡は撤去し、窓は反射しないフィルムを用いた特殊なものへと替えた。そして、ユウカの服装も肌の露出を極力控え、尚且つ傷痕が見えないようにと配慮されたデザインの服へと変えている。
無論、どれだけ対策を取ろうとも、何がきっかけでパニックを起こすかわからない。
例え、ベットの上でしか生活できない身体になったとしてもだ。
携帯が振動し、先生を現実へと引き戻す。
『ユウカ』と表示の出ている画面。先生の顔が悲し気に歪み、携帯の画面に触れると、席を立った。
「ユウカ、ご飯の時間だよ」
オフィスから下の階層に移動した先生は、手早く消化に良い食事を準備すると、ユウカが寝ているベットまで持って行く。
「…………」
先生の声に、ユウカの瞼が僅かに開く。しかし、その瞳は何も映さず、ただ虚空を見つめていた。
ベットの横に置いてある机を動かし、そこに食事を置くと、先生はユウカの口元へスプーンを差し出した。しかし、ユウカは口を閉じたまま微動だにしない。それでも、先生はユウカが反応するまで根気よく、何度も食事を与え続けた。
「ほら、ユウカ。口を開けて」
「…………」
小さく口が開き、スプーンを口内へと入れると、ゆっくりと咀嚼するユウカ。
「美味しい?」
「…………」
返事はない。それでも、先生は何度も食事を与え続けた。一口、二口、三口……そこでユウカの口が完全に閉口する。
「もういいの?」
「…………」
「そっか。分かった」
器の中には半分以上の食事が残っている。だが、これでも食べた方だ。食事の量も、日を跨ぐごとに少なくなってきている。
頬は少し痩せこけ、服越しでも分かるくらいに肉付きが落ちてしまっているのが見て分かる。
朝と晩。一日二回、食事の回数も減り、一度に摂取できる食事の量も減っている。
このままでは……と、頭を過った最悪の結末を振り払い、先生はユウカの頭を撫でた。
髪の毛がサラサラと指の隙間から零れる。
「……っ」
一瞬、ユウカの身体が小さく震えた。それは、不良生徒に囚われた時のトラウマか、それとも別の反応かは定かではない。しかし、その反応も一瞬で、ユウカは直ぐに反応を示さなくなる。それでも、その一瞬だけの反応に希望を見出し、先生はそのままユウカの背中を優しく撫でながら言葉をかけ続けた。
ちょっとずつ。ちょっとずつでもいい。この反応が少しずつでも増えていったなら……。
と、携帯から着信音が鳴り響く。先生はユウカに『ごめんね』と一言断りを入れると、携帯の通話ボタンを押した。
電話の相手は生塩 ノア。彼女もまた、あの事件からユウカの為にシャーレに通う日々を続けていた。
ユウカの身体を清潔に保つ為に、そして、服を脱がせた時に傷痕を彼女に見せないように注意を払える生徒が彼女しかいなかったからだ。
何処に傷があり、どう服を脱がせば視界に映らないか。それを心得ているからこそ、先生はノアを頼る事にしたのだ。
遣り取りの後、ノアがシャーレに訪れると、先生は彼女を出迎えた。
「こんにちは、先生。ユウカちゃんの様子はどうですか?」
そう言って、心配そうな表情を浮かべながらユウカのいるベットへと視線を向ける。
「うん……食事の量は相変わらずだけど、ほんの少しだけ反応が返ってきたんだ」
「そうですか」
それだけ聞くと、ノアはベットへと近付き、ユウカの頭を優しく撫でた。
「ユウカちゃん……遅くなってごめんね。今から身体を綺麗にするからね」
先生が席を外した後、ユウカの身体を起こし、服を脱がしていく。服を全て脱がせるのではなく、部分的に脱がせる事で、ユウカの視界から傷跡を隠すようにしている。
お湯に付けたタオルを搾り、ユウカの身体を優しく拭いていく。
「……っ」
時折、タオルで拭く度にユウカの身体が小さく震える。それでもノアは手を止めずに、ユウカの身体を清めていった。
先生の言っていた反応はこれだろう。一種の反射に近い反応ではあるが、それでも反応が見られた事をノアは嬉しく思えた。
しかし、下半身へとタオルを運ぼうとしたその時……。
「っ!!」
ユウカの身体が大きく震え、ガタンッという音と共にベットから転げ落ちた。
「ユウカちゃん!!」
ノアが慌ててユウカに駆け寄り、身体を抱き起す。
「大丈夫っ!! ユウカちゃん!!」
本来なら声を荒げるべきではないのだろう。だが、ノアはユウカの身体を揺すりながら、必死に呼びかける。
「あ゛……う゛…ぁ……」
反応を示さなかったユウカから声が零れた。
しかしそれは、ノアが望んだ形での声ではない。それは、ノアも理解していた。
ユウカが震える手で、自身の顔を覆う。そして……。
「あ゛ぁ゛……あ゛ぁ゛……あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……」
壊れてしまった人形のように、ユウカは小さな声で、呻くように声を漏らし続ける。
「あ゛……ぅ゛……う゛ぁ゛……」
何がきっかけで起きたのか定かではない。数日に何度か、こうして発作的にパニックを起こし、その度に先生が宥めていると聞いてはいたが、それでも、彼女の姿は見るに堪えないものだ。
しかし、ノアの視覚に、そしてノアの聴覚に、ユウカの姿が記憶されていく。
「ユウカ……ちゃん」
目を見開き、大粒の涙を流しながら、ノアはユウカを抱きしめた。
「大丈夫……大丈夫だよ……」
何が大丈夫なのか、ノア自身にも分からない。それでも、ノアはユウカの身体が壊れないようにと抱きしめ続けた。
「…………」
どれ程の時間そうしていただろう。数分か、それとも数十分か。漸くユウカの発作が治まり、ノアは安堵の息を吐く。
「先生、呼んでくるから……ちょっと待っててね」
そう言って立ち上がり、先生がいるオフィスへと向かうべく歩き出す。その足取りは重く、まるで自分の足ではないようだった。
先生に何と説明すればいいのか。先生が何を言うのか。そんな事ばかりが頭に浮かび、足取りはどんどんと重くなっていく。
やがてオフィスに辿り着き、先生がいる部屋の前で足を止めると、大きく深呼吸を行い、意を決して中に入る。
「先生……ユウカちゃんの事なんだけどね……」
そう言って視線を向けると、そこには椅子に座りながら眠っている先生の姿があった。
「……先生」
ノアもそうであるように、先生もまた、ユウカの事で心労が溜まっていたのだろう。
眠る先生に近付き、その髪を掻き上げると身嗜みを整える余裕もないのか、先生の髪の毛はボサボサで、目の下にも濃い隈ができているのがよくわかる。
責任を感じ、シャーレを改築してまでユウカを介護する先生。ノアも、そんな先生に負担を掛けまいとシャーレに通い、ユウカの世話をしている。
しかし……それでも……。
「……ユウカちゃん」
呟くように言葉を漏らすノアの瞳から、一筋の涙が零れた。
―モモイの場合―
久方振りの休日。先生はユウカを連れてシャーレ近郊の公園を歩いていた。
車椅子にユウカを乗せ、ゆっくりと押しながら公園の中を散策する。
休日の為か、公園には多くの子供の姿が見える。ユウカはその光景をぼんやりと見つめていた。
「いい天気だね。ユウカ」
「…………」
「今日は暖かいし、お散歩日和だね」
そんな他愛のない話をしながら、先生は車椅子を押して公園の中を歩いていく。
子供の姿が見えるとは言ったが、それ以外の不安要素がある人物が居ないとも言い切れない。
その為、公園周辺をRABBIT小隊に警戒してもらっている。
万が一、ユウカのトラウマを刺激しかねない存在が来た時には対処してもらう為だ。
と……そんな時だ。RABBIT小隊のミヤコからメッセージが届いた。彼女達からの連絡に、先生の表情が一瞬強張るも、端末を操作してメッセージを確認し、安堵の息を漏らした。
内容は、ミレミアムの生徒が先生に近付いてきているという内容だった。そして、その人物は先生にとっても、ユウカにとっても見知った人物である。
「ユウカ、モモイが来てくれたみたいだよ」
先生の言葉にユウカは反応を示さない。それでも構わずに先生は言葉を続ける。
「ほら、ユウカ。あそこで手を振ってる子がいるでしょ?」
先生が指さす方向に視線を向ければ、そこには元気一杯に手を振るモモイの姿があった。
モモイは二人に近付くと、ユウカの顔を覗き込むようにして顔を近付ける。
顔に残った傷痕は未だに残っている。そして、顔以外の身体中にもだ。
話しかけられても反応を示さないユウカに、モモイは寂し気な表情を浮かべそうになるも、すぐさま自身の頬を抓り、ユウカに笑顔を向けた。
「ユウカ、この間ね、新しいゲームを作ったんだよ。結構自信作でさ、ユウカにも遊んで欲しいんだ」
反応のないユウカに、モモイはそれでもめげずに言葉を掛け続ける。
「恋愛シミュレーションゲームでさ、攻略可能なヒロインは108人もいて、ミドリが頑張ってくれたんだ。それでね、そのヒロインの中にユウカに似てる子がいるんだけど、その子が結構攻略が難しくて……」
それでも尚、ユウカは何も返さない。表情をピクリとも動かさず、ただ虚空を見つめているだけだ。
「それでさ……えっと……」
それでもめげずに話を続けようとしたモモイ。そんな時だ、先生がモモイの頭を撫でてくれた。
「せ、先生?」
「ありがとうモモイ。ユウカの為に来てくれて」
先生は優しく微笑むと、車椅子を押しながらモモイと一緒に公園を歩いていく。
「ね、ねぇ先生」
「……なに?」
「私さ……ユウカの事、ずっと待ってるからね」
その言葉に、先生は返事を返さない。だが、それでもモモイは言葉を続けた。
「私だけじゃないよ。ミドリもユズも、アリスも……みんな待ってるからね」
「……うん。きっと、ユウカも喜ぶよ」
先生は、そう言葉を返すので精いっぱいだった。
ユウカが発見され、病院に搬送された時、誰よりも早くに駆け付け、ユウカに声を掛け続けていたのはモモイ達ゲーム開発部だ。
そして、廃人同然となったユウカを元に戻すべく、アリスはキヴォトス中を巡り、治療法を探し続けてくれている。
当初は『協会に連れて行けば元に戻ります』と、ユウカをトリニティに連れて行こうとしたアリスだったが、先生やモモイから止められ、代わりとなる治療法を探し始めたのだ。その為、部室に顔を出す機会も減り、各自治区で彼女の目撃情報が報告書として挙げられている。
ユズも、ミドリも、自分達に出来る事を必死に考え、その結論として『最高のゲーム』を作る事で、ユウカが復帰した時の刺激になればと、今も開発を続けている。
注意して見てみれば、モモイの表情からは疲労の色が見える。
寝る間も惜しんでシナリオを作り、ユウカを元気付けようとゲーム作りに励んでいるのだろう。
またあの頃のように、ユウカに怒られながらも遊びにかまけ、期日ギリギリでユウカに泣きつき、先生の協力を得ながらゲーム作りに勤しんでいたあの日々に戻る事を夢見て。
暫く一緒に公園内を歩いていたモモイだったが、やがてユウカが反応を示さない事に堪え切れなくなったのか、俯きながら肩を震わせていた。
「……っ……よ……」
小さな声がモモイの口から零れる。
「ごめんね……先生、ごめん……」
ぽたっ、ぽたっと地面が濡れていき、モモイの瞳から止めどなく涙が溢れる。あの事件から何か月経とうと、モモイの涙は止まる事はなかった。
「私……ユウカが元に戻った後の事考えて……頑張ってるんだけど……」
それでも、ユウカは反応を示さない。
何時も自分を りつけてくれたユウカ。何度も、何度も活動方針で口論になり、幾度となく衝突したが、それでもモモイはユウカの事が好きだった。もう知らないと言われても、最後の最後は見捨てずに助けてくれたユウカが好きだった。
そのユウカが、今、目の前にいる。だが、その瞳にモモイを映す事はない。ただただ虚空を見つめているだけのユウカに、モモイは涙を流し続けた。
ユウカの手を握り、その胸に顔を埋めながら、モモイは何度もユウカの名前を呼び続けた。
「ユウカ……ユウカぁ……」
しかし、ユウカは反応を示さない。ただ虚空を見つめ、モモイの涙を拭う事もしない。
「ごめん、ごめんね……ユウカぁ……」
そんなモモイを、先生が優しく抱きしめると、その胸の中でモモイは泣き続けた。
―ネルの場合―
モモイと別れた後……正確には、ユウカの件で、多くのミレニアムの生徒がシャーレに訪れるようになったのは言うまでもない。
ゲーム開発部は勿論、エンジニア部やC&C、ヴェリタスや特異現象捜査部、それ以外の多くの生徒もシャーレに押し寄せ、ユウカの様子を見に来たり、治療に使えそうな機材を持ち込んだりしていた。
特に、C&Cやヴェリタス、特異現象捜査部は事件後も、関わった不良生徒の捜査に力を入れ続けている。
ある日、シャーレを訪れた美甘 ネルは、ユウカの様子を見に来た後、先生と事件の関係者に関する情報を共有していた。
「先生……ユウカの調子はどうだ?」
「うん……ユウカは相変わらずだよ」
「……そうか」
表情を曇らせながら、ネルが先生の事を見据える。
「あれからよ、リオやヒマリの協力もあって、不良生徒共の大半を特定する事が出来たんだ」
「……そうなんだ」
「……でも、主犯のリーダー格までは特定する事が出来なかったんだ」
ネルの悔し気な表情に、先生もまた目を伏せる。
彼女の言う通り、先生も事件の主犯の不良生徒を特定できないでいた。
主犯の居所を把握出来ず、あの事件以降、足取りは掴めていない。
不良生徒に情報の提供を求めるも、返答は全て『知らない』だった。
各自治区の協力を得て、在校中の生徒や停学や退学処分となった生徒のリストも確認して貰っているが、特定する事が出来なかったのだ。
もしかしたら卒業した生徒ではと、ここ数年以内に卒業した生徒の調査をするも、該当の生徒は存在せず、捜査は難航している。
「流石にリオ達が調べて特定出来ないって事は明らかに異常だ。先生、何か心当たりはねぇか?」
「……ごめんね。何もわからないんだ」
「そうか……すまねぇ、先生を責めるつもりはなかったんだ。ただ、何か情報があったら教えてくれ」
そう言ってネルは頭を下げる。
「うん、分かったよ。でも……もし見つけたとしても……」
「……あぁ、分かってる。先生にも情報は伝えるし、勝手な行動もとらねぇ。ただ……それでも、そいつの居場所が分かり次第、あたしに連絡してくれ。そん時はC&C総出で対処する」
「…………」
「……すまねぇな。こんな話をしてよ。あたしはそろそろ行くわ」
そう言ってネルは立ち上がると、先生に背を向けた。
「先生、ユウカを頼んだぜ。アイツがまた笑ってる姿が見れるようにな」
ネルの言葉に、先生もまた優しく微笑んだ。
―ウタハの場合―
「先生、ユウカはあれからずっとあの調子なのかい?」
ユウカの見舞いに来たエンジニア部の白石 ウタハは、先生の前で眠っているユウカを見つめながら先生に問い掛ける。
「……うん、そうだね。あれからずっとこの調子だよ」
「……そうか」
ウタハは、静かにユウカの頭を撫でるとそのまま先生に向き直る。
「不思議なものだね。腕や足……無論、欠損していないのであればそれにこした事はないのだけれど、それでも身体の欠損なら、私達にも出来る事はあったんだろう」
ウタハの言うように、身体の欠損であれば、ウタハ達エンジニア部の技術があれば、肉体の代わりを用意する事は可能だっただろう。
だが……。
「でも、ユウカの場合はそうではない……」
腕や足といった身体の一部ではなく、心の欠損。そして、その心をどう癒せばいいのかすらも分からないのだ。
「……そうだね」
ユウカの心の傷は、肉体の損傷よりも深い。それは先生やウタハにも分かっている事だった。
「それでも、私はユウカの力になりたい」
今は不可能でも、技術が発展すれば、ユウカを元の状態に戻す事が出来るかもしれない。それが叶わないのなら、せめて少しでも心の傷を癒す方法を模索したい。ウタハはそう考えているのだ。
「先生、それまでの間、時間はかかるだろうが、ユウカを……よろしく頼む」
ウタハが先生に対し、深々と頭を下げる。先生がそれに応えるように頷くと、ウタハは満足そうな表情で部屋を後にした。
―調月 リオの場合―
深夜、仕事がひと段落し、一息ついた先生の下に、一体のドローンが飛来する。見覚えのあるドローン。恐らく相手は……。
『先生、久し振りね』
「久し振りだねリオ」
調月 リオ。ユウカと同じく、ミレニアムのセミナーに所属する生徒会長。
『ユウカの事は聞いているわ。ネルにも手伝って貰って、不良生徒達の割り出しもしているんだけど……』
ネルからは話を聞いている。ヒマリと協力してキヴォトス中の生徒達の情報を洗い出していると。
『……ごめんなさい。まだ主犯の不良生徒の居場所は特定できてないの』
「……そっか」
ドローン越しにリオが溜息を吐くのが見て取れる。それでも、関係のある不良生徒の大半がリオとヒマリのお陰で特定出来ただけでも、先生にとっては有難い事だった。
「でも、ありがとうリオ」
『お礼なんていいわ。私が不在の間、ユウカには苦労をかけたから……。だから、これくらいはさせて』
「うん、ユウカもきっと喜ぶよ」
『それと先生、少し聞きたい事があるんだけど良いかしら?』
「うん、いいよ」
『今、各自治区の在学生と停学・退学処分を受けた生徒と5年以内に卒業した生徒も含めて調べているのだけれど、今の所該当する生徒がいないの。これは、明らかに異常よ』
「……そうだね」
『……ねぇ、先生。もしかしてこの生徒は……』
「うん、その生徒は多分、最近私と関わった学校の生徒かもしれない」
そう、ネルの話を聞いた時から気にはなっていたのだ。
リオやヒマリ、そして先生ですら把握出来ない生徒。何処の学園に所属しているかすら何一つとして情報がないとなると、ある一つの学園が先生の脳裏に浮かんでくる。
先生と関わりがあり、尚且つ、先生に恨みを持っているとなると、恐らくはそこしかないだろう。
『アリウス分校……ね?』
アリウス分校。かつて、トリニティ総合学園から激しい弾圧を受け、自治区から追放された学園である。
彼女達が表舞台に戻ってきたのはつい最近。エデン条約の最中に大規模なテロを起こした事で、その存在が世間に知れ渡り、世間を賑わせた。
最終的には、彼女達を裏で操っていた人物を倒した事で、彼女達はトリニティに保護され、再教育を行っている。
しかし、大規模のテロの最中、敗走した一部の生徒達は姿をくらまし、他の自治区に潜伏したとの情報もあり、今回の事件の主犯の不良の生徒もまた、そうした生徒による犯行と考えられるのだ。
リオやヒマリが調べても見つかる筈がない。何故なら彼女達は、公の場では存在しない事になっているのだから。
『そう、それなら、捜査の方針を変える必要があるわね。ブラックマーケットの監視カメラを調べ上げて、主犯の生徒の顔の割り出しをした後、人海戦術で見つけるしか方法はないわ』
「うん、そうだね。でも……」
『……分かっているわ。勿論、無茶のない範囲で調べるし、ユウカや先生に危険が及ぶようなら深追いはしないわ』
「ごめんね。お願いするよ」
『良いのよ先生。こう言うのは出来る人材がやるべきなの。その方が合理的でしょ?』
「……ありがとう」
そんなやり取りをした後、リオは通信を切り、ドローンを操作してその場から離れていく。
ネルにも言ったが、リオにも無茶はしないで欲しい。そう思いながら、先生はユウカのいる部屋へと足を運んだ。
ーチヒロの場合ー
「先生、ちょっと時間ある?」
そう言って、チヒロは先生を休憩室へと呼び出した。
「うん、大丈夫だよ」
先生がそう言うと、チヒロは頷きながら先生の向かい側の椅子に腰を下ろした。そして、ポケットから写真を取り出し、それを先生に渡した。
「先生……これ」
それは、大勢の不良生徒達が写った写真だった。
「……これは」
「……先生とユウカを襲った生徒達の写真。正確には、監視カメラに映っていた映像を切り取ったものだけど」
そう言って、写真の中にいる不良生徒の1人を丸で囲み、チヒロはその不良生徒に指をさした。
「この子、恐らく今回の主犯の生徒だと思う」
ヒマリとリオの協力の下、割り出された不良生徒をネルが捕まえ、そして彼女達からの聴取からリーダー格の不良生徒の特徴を割り出し、ブラックマーケットの監視カメラを追跡して入手したものだ。
「この子が……主犯の子なんだね」
「うん、そう。確認もとった」
「……そっか。ありがとう。チヒロ」
「……うん」
「でも、よくこの映像を手に入れられたね。ヒマリやリオが調べても見つからなかったんでしょ?」
「ううん。部長や会長は私達よりも早くにこの映像に辿り着いたんだけど、そこから先が行き詰まってる状態なの」
「それは、この子がどの学園にも所属していないからかな?」
「それもあるけど、ユウカが見付かってから今日までのブラックマーケットからその近辺の監視カメラを全て調べたんだけど、この子が映っている映像が一つもなかったの」
「……それは、まさか」
「うん、多分想像通りだよ。主犯の子は地下に潜った。ブラックマーケットの何処かにね」
無法の地に潜り、姿を眩ませた。既に彼女は、表の世界から姿を消し、裏の世界へと溶け込んでいるのだろう。
「ねえ、先生」
チヒロが俯きながら先生に語りかける。その身体は小刻みに震えており、何かに恐怖しているようにも見えた。
「もしも、この子がまだ、目的を果たしていないと思っているなら、本当にヤバいよ。だってこの子、まだ何かするかもしれない。その為の準備期間として、姿を隠したなら相当の執念だよ」
「…………」
「だから先生……気を付けて」
「うん、ありがとうチヒロ。私も気をつけるよ」
そう言って先生は優しく微笑んだ。そんな先生に対して、チヒロは何か言いたげな表情を浮かべるも、それが言葉として発される事はなく、そのままチヒロは部屋を出て行った。
ヴェリタスのメンバー総出で主犯格の不良生徒の足取りを追った。しかし、その結果がこれである。
写真一枚。たった一枚の写真しか入手出来なかった。その写真に写る主犯格の不良生徒。彼女は、一体どんな目的を持って先生を襲ったのだろうか?
その理由は定かではないが、その後の彼女の行動を調べれば調べる程、その歪さが際立って見えたのだ。
彼女が何処で見切りを付け、姿を眩ましたのか。ユウカが発見された日とは言ったが、本当はもっと前から彼女の足取りだけが掴めなかったのだ。
他の不良生徒達はブラックマーケットの彼方此方で目撃されているにも拘らずだ。
はっきり言って不気味だ。
もしも彼女が、自身の痕跡を残した通信を最後に姿を眩ましたのだとしたら、ユウカを最後まで痛めつけた理由は、彼女が足枷になるように仕向けたからではないだろうか?
ほんの数日、ユウカを徹底的に痛めつけた後、彼女を幽閉し、その後の行方を誰にも告げずに姿を消したのだとしたら、それは余りにも……。
最悪の場合、姿を眩ませたついでに顔も声も、変えているかもしれない。あそこはブラックマーケット。金さえ積めば、その程度は造作もないのだから。
ーサオリの場合ー
チヒロから写真を受け取った先生は、その写真を見つめながらサオリと連絡を取っていた。
錠前 サオリ。アリウス分校の生徒であり、彼女なら件の生徒の事を知っているかもしれない。
今は少しでも情報が欲しい。その思いでサオリと連絡を取った先生は、後日、彼女と近くの公園で会う約束をした。
そして、約束の日。先生はサオリと合流すると、彼女に写真を見せながら事の経緯を説明した。
写真を受け取ったサオリは、静かに写真を見つめ続けていたが、ぎゅっと強く唇を噛み締めると、そのまま俯いた。
それは、怒りを堪えているようにも見えるし、後悔に苛まれているようにも見えた。
「……サオリ」
「っ……すまない。少し、考え事をしてしまった」
そう言ってサオリは写真を先生に返すと、静かに息を吐き、そして先生を見据えた。
「その写真に写っている生徒だが、よく覚えている」
サオリは語った。彼女がかつて、アリウス自治区にいた頃、自分達を支配していたマダム直属の生徒だった事。
方針に反発した生徒達を拷問し、恐怖を植え付ける事でその支配体制を盤石にした功績を買われ、マダムの腹心として、アリウス自治区の監視を行っていた事。
そして、その支配体制が先生の手により崩され、混乱に乗じて姿を消した事。
もしも彼女がトリニティが保護したアリウスの生徒達のリストに載っていなかったとしたら、今も何処かで虎視眈々と機会を窺っている可能性がある事を。
一通りの情報を話したサオリは、深い溜息を吐いた。
「すまない先生。私達アリウスの問題に先生を巻き込んでしまった」
サオリが先生に頭を下げる。だが、そんなサオリの肩に手を置き、先生は首を横に振った。
「ううん、これはサオリ達の問題じゃないよ。これは私達みたいな大人の問題でもあるからさ」
子供を導く筈の大人が、誤った道に子供達を歩ませてしまった。そして、その結果が今に至る。
サオリにアリウスの話を持ち掛ける事ですら、本来なら憚られる事だった。しかし、それを無理強いさせてしまった事に、先生は罪悪感を感じずにはいられなかった。
「だから、私の方こそサオリに無理強いさせてごめんね。でも、ありがとう」
先生の言葉にサオリは少しばかり目を見開くもすぐに表情を戻し、そして静かに頷いた。
件の主犯である生徒の事を知りたい。その一心で自分を呼んだ事は分かる。先生からすれば、襲われた上に自分を庇った生徒が犠牲になったのだ。
その心境は、理解しているつもりだ。
「先生、私もアツコ達と今回の情報を共有する。そして、何か分かり次第、改めて連絡しよう」
「うん、ありがとう。サオリ。でも、無茶だけはしないでね」
「あぁ、了解した」
そう言ってサオリは先生に背を向けて歩いていく。その背を先生は、見えなくなるまで見送った。
多くの生徒達がユウカの見舞いに来た。皆が皆、彼女を心配し、そして自分達に何か出来る事はないかと模索し、彼女が復帰する日を心から願った。
『冷酷な算術使い』と恐れられてはいるが、それはあくまでも、彼女がセミナーの会計を務めている立場上、部活動の予算に関わる仕事をしている為、仕方のない事であり、面倒見が良く、人情家である性格から、多くの生徒達から慕われているのが実状だ。
普段は自分達の好きなように行動する生徒達が、彼女の為に一丸となって協力し合い、そして彼女の為にと行動している。
出来る事は少ない。それでも、出来る事を精一杯やろうと、彼女を知る生徒達が行動している。
そんな生徒達の為にも、ユウカには一刻も早く復帰して貰いたい。先生はそう願わずにはいられなかった。
しかし、現実は無常である。これが物語の世界であれば、奇跡が起きてユウカは完治し、また皆と楽しい日々を過ごせるだろうに。
現実はそう上手くはいかないのだ。
いかなかったのだ。
不良生徒に連れ去られ、ノア達に保護されてから数か月。しかし、ユウカの心は未だに囚われたままだった。
鎖に繋がれ、眼前には得物を構える不良生徒達。
そして、それらを指揮するように前に立ち、余裕の笑みを浮かべる主犯格の不良生徒。この鎖が外れても、自分はまた襲われる。そんな思いがユウカの心に、魂に刻まれていたのだ。
息は荒く、動悸が激しい。身体の震えが止まらない。
助けて……怖い……痛いのは嫌だ……先生、早く助けに来て……そんな思いがユウカの心を支配し続ける。だが、その思いは届かない。ユウカの願いが叶う事はない。
これは現実に起こった事。そして、既に過去の出来事。覚めぬ夢の中で、延々と繰り返される悪夢の中で、ユウカは今もなお苦しみ続けていた。
主犯格の不良生徒がゆっくりと近付いて来る。その手には錆びた針が……その手には電球が……。主犯格の不良生徒は、それらの得物を構えると、ユウカに振りかざした。
「い゛や゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!?!」
闇に染まった絶望の世界。ユウカの悲鳴だけが響き渡り、やがてそれもまた闇へと溶け込んでいった。
囚われた悪夢はユウカの精神を蝕み、そしてそれが、悪夢から現実の世界へと引き継がれる。
仕事を終え、ユウカの見舞いに来た先生は、その悲鳴を聞きつけ、慌ててユウカの部屋へと駆け込んだ。
「ユウカ!! 大丈夫!?」
部屋に入ると、パニックを起こしたユウカが床を這いながら窓に近付き、必死に開けようとしていた。
その光景に、先生はノアから聞いた当時の状況を思い出す。窓のない部屋。明かりのない部屋に閉じ込められ、扉は厳重に閉ざされた中で、飢えと渇きに苦しみながら、瀕死の状態まで追い詰められていた事を。
出入り自由なドアではなく、窓を開けようとしている様は、まるでそこからしか外に出られないとユウカが思い込んでいるかの様だった。
ユウカは未だに囚われているのだ。不良生徒に拷問じみた行為を繰り返された地獄の日々に。そして、悪夢の最中に記憶が想起され、そこから必死に逃げようとしているのだと。
「ユウカ!! もう大丈夫だよ!! 私は此処にいるよ!!」
先生がユウカを抱き締める。その瞬間、先生と目があったユウカの目からは恐怖の色が浮かんでいた。
「あ゛……あ゛ぁ゛……ぁ゛」
そんなユウカの目に、先生が一瞬怯む。しかし、先生はそのまま強く彼女を抱き締めた。
「もう大丈夫……大丈夫だから……」
「ぁ……あ゛ぁ゛……あ゛」
震えるユウカの身体を、先生は強く抱き締める。もう離さないと、そう言わんばかりに。
しかし、ユウカの震えは止まらない。
「あ゛……ぁ゛……あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!?!!」
先生を引き剥がそうと、ユウカは必死に先生の身体を叩く。
「あ゛ぁ゛……い゛や゛ぁ゛……や゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……っ!!?!」
助けを求めるように、ユウカは先生の腕から逃れようと暴れ続ける。だが、先生は決して彼女を離さない。
「い゛や゛ぁ゛……ぃ゛ゃ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ!?!?」
叫ぶ。喉が潰れんばかりに、ユウカは必死に叫び続ける。
「あ゛ぁ゛ぁ……っ!?!?」
恐怖から泣きじゃくるユウカを先生は決して離さない。
「ぃ゛あ゛ぁ゛……ゃ゛ぁ゛……」
既に喉が潰れ、言葉にならない言葉を叫び続ける。ユウカにとって、目の前の先生ですら恐怖の対象として認識していたのかもしれない。
「大丈夫、大丈夫だよ。私はユウカを傷付けないよ」
そう言って、先生は更に強くユウカを抱きしめるも、その言葉すら、彼女には届かなかった。
そして……。
「っ!!」
体勢が崩れて、二人の身体が窓へと吸い寄せられるように倒れる。そして、その衝撃で窓ガラスは割れ、そのまま二人の身体は外へと投げ出された。
「ユウカっ!!」
咄嗟に先生はユウカを抱き締めて身体を捻る。もう離さない。今度は私が守る。そんな覚悟を込めて、先生はユウカを抱き締めたまま、地面へと叩き付けられた。
鈍い音が周囲に響き渡る。何かが潰れたような感触。それでもユウカを抱き締める腕は解かなかった。
身体が動かない。意識が段々と遠のいていく。意識が途切れる直前、先生の耳に届いたのは誰かが自分を呼ぶ声とユウカの悲痛な叫び声だった。
ーアリス・ノアの場合ー
何時ものように、先生に連絡を入れ、シャーレに向かっていたノアは、その途中で大きなリュックを背負ったアリスを見かけた。
「あら、アリスちゃんこんばんは。こんな時間にどうしたの?」
「あ、ノア先輩……パンパカパーン!! アリスはノア先輩と合流しました」
そう言って、笑顔でリュックを下ろすと、中から栄養剤や医療キッドを取り出して、それをノアに見せた。
「アリスちゃん? これは一体……」
「はい、これはユウカが元気になる為のアイテムです。トリニティの教会ではダメと聞いたので、色んな人から話を聞いてこれらのアイテムを集めてきました」
話を聞くに、恐らく怪我や体調が悪いといった内容で解釈した人々がアリスに教えてくれたのだろう。
しかし、これらの物を使ったからとて、ユウカが元に戻る事はない。
「アリスちゃん、ユウカちゃんは……っ」
開きかけた口を咄嗟に閉じ、ノアは言葉を飲み込んだ。ユウカの現状をアリスに説明するのは酷な話だ。
そんなノアの思いなど露知らずといった様子で、アリスはリュックからアイテムを取り出し続ける。
「アリスはユウカに元気になって欲しいのです」
元気になって、そしてまた、昔のように皆で楽しく過ごせる日が来る事を、アリスは心から願っている。そんな純粋な思いを、ノアは無下にする事が出来なかったのだ。
「そうね……ユウカちゃんには早く元気になって欲しいわね」
「はい。そして、またアリスをギュッてして欲しいのです」
そう言って、はにかむ様に微笑むと、アリスは荷物をリュックに直すとノアの方を向いた。
「それでは、早速ユウカのお見舞いに行きましょう」
「えぇ、そうね。そうしましょうか」
アリスの手を握り、シャーレへと向かう。そうだ、彼女を慕う生徒は沢山いるのだ。今はダメでも、きっと、何時かは……。
あの頃のように元の日常が帰ってくる。そんな儚い願いを胸に抱きながら、ノアはアリスと共にシャーレの建物近くまで来たノアとアリスの耳にガラスが割れる音が聞こえた。
「…………ぇ?」
音に反応し、頭上を見上げたノア。その瞳に、その視覚に、ユウカと先生の姿を捉えたノアは、地面に叩き付けられて鈍い音を奏でる二人を見て、言葉を失った。
先生……ユウカちゃん……なんで……?
ピクリとも動かない先生と、先生に抱き締められたまま必死に抜け出そうともがくユウカ。
先生を中心に血溜まりが広がっていく。その光景をノアは呆然と見つめる事しか出来なかった。
「先生!? ユウカ!?」
アリスが叫ぶ。しかし、先生からの反応はない。
「ノア先輩!? 先生が……先生が!!」
アリスの声に、ノアは我に帰ると、震える指先で携帯端末を操作し、救急へと連絡を入れた。
ユウカは……大丈夫そうだ。地面に接触する刹那、先生が彼女を庇うように身を挺したのだろう。その甲斐もあってか、ユウカは目立った外傷はないようだ。しかし、先生の傷は深い。早く病院に連れて行かなければ……。
「先生……先生っ!?」
アリスの声。動かない先生を揺さぶるも、今は安静に……。
ユウカは……座り込んだまま先生をジッと見つめ、その目からはポロポロと涙を流し、悲痛な声で何かを訴える姿。
「や゛ぁ゛……っ!! いや゛ぁ゛ぁ゛!! やだぁぁっ!! ぁ゛ぁ゛……ぁ゛ぁ……あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……」
先生を揺さぶるアリスに、泣き叫ぶユウカ。ノアの視界に映る光景が、まるでスローモーションのようにゆっくりと流れる。
あぁ、これは夢だ。悪い夢。こんな、残酷な夢は早く覚めてくれ。そう願わずにはいられなかった。
その後、先生は奇跡的にも一命を取り留めた。あの場にノアがいなければ発見が遅れ、それこそ手遅れとなっていただろう。
現場の状況から、パニックを起こしたユウカを先生が宥めようとし、その最中の事故と判断。
ユウカは軽い打撲で済んだが、先生は重傷。そして、そのまま入院する事となった。
以降、ミレニアムは今回の一件で、ユウカの復帰は不可能と判断。ミレニアムにある精神科病院の隔離施設に入院する事となった。
アリスは泣いていた。必死に集めた道具を使って、ユウカを元気付けようとしたのに。この結果になってしまった事に。
他のミレニアムの生徒達も、ユウカが復帰する事を望んでいた。だが、それは叶わない願いとなった。
怒りの矛先は件の不良生徒へと向けられ、今でもその行方を追っているが、その足取りは掴めていない。
「先生……ユウカちゃん……ごめんなさい……」
ミレニアムの生徒達と共に、ノアは今日もブラックマーケットを捜索していた。
頭に浮かぶのは、あの時の音と声と景色。それらがノアの心を蝕んでいる。
少しでもこの呪縛から逃れる為に、やるべき事を放棄し、件の不良生徒の捜索を続けているのだ。
例え、それで事態が好転しないとしても、今のノアにはこれしか思いつかない。情けないと、そう思われても仕方がない。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にする。しかし、その言葉は誰にも届かない。ただ虚空に吸い込まれるように消えていくだけだった。
携帯の端末が震える。ポケットから取り出し、画面を確認すると、病院からの連絡であり、ユウカが再びパニックを起こした旨が伝えられた。
心が休まる暇もない。病院に向かわねばと重たい足を引きずりながら、ノアは他の生徒達と別れを告げ、ミレニアムの自治区へ戻ろうとした。
その時。
「すみません。ハンカチ落としましたよ」
ふと、ノアに声が掛けられた。振り返ると、そこには一人の女性が立っている。
「あ……ありがとうございます」
そう言ってハンカチを受け取りながら、その女性の顔を見た。何処にでもいそうな普通の生徒。服装からして〇〇学園のものだろう。
こんな所にいたら危ないと思いつつも、自身が同じ場所にいるのだから説得力がない。そう自嘲しながら、ノアは足早にその場から立ち去ろうとした。
しかし、ほんの一瞬、記憶の底にあった情報が脳裏に過り、ノアは思わず足を止めて女性の顔を見た。
「あの……すみません」
「はい、なんですか?」
「貴女とは何処かでお会いしませんでしたか?」
「え?」
ノアの言葉に、女性は首を傾げる。そして……。
「すみません、人違いではないでしょうか?」
そんな女性の反応に、ノアは落胆した。
「そうですか、すみません」
そう言って、ノアは再びその場から立ち去ろうとする。だが、そんなノアを女性は呼び止めた。
「……あの」
「なんですか?」
女性の呼び止めにノアは足を止め、振り返る。すると、女性は少し迷ったような仕草を見せながらも口を開いた。
「私で良ければ……お話を聞かせてもらえませんか?」
「え……?」
「貴女のその、辛そうな顔が気になってしまって」
そう言って、女性は優しく微笑む。ノアはその笑顔に、思わず心を許してしまいそうになり、首を横に振ってその誘惑を断ち切った。
「お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫です」
「そうですが……お節介でごめんなさい」
そう言って女性は再び微笑む。その微笑みに、いや、その声に、ノアは何故か懐かしさを覚えたが、その理由が分からない。
「そんな事ありません。私の事を気遣ってくれて、ありがとうございます」
そう言ってノアはその場を後にした。そんなノアを女性はただ静かに見送るのであった。
そして……。
「そうですか。残念残念」
女性は、先程の笑みと打って変わり、能面のような無表情になると、ブラックマーケットの奥へと歩いていった。
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