・小鈎 ハレ
・シャーレの先生
・ヴェリタスのメンバー
・不良生徒
リクエスト作品です。
ハレがキャンプ中に遭難する話です。
歩く、歩く、歩く……
果てなく続く道なき獣道。
空腹と渇き、ペットボトルの水は残り僅か。
今すぐにでも飲み干したい衝動に駆られるも、それは叶わない。
歩いた先で、水のある場所に辿り着けるとは思っていないから。
「はぁ……っ、はっ……」
息が切れる。足が重い。
それでも、歩き続けるしかないんだ。
だって、止まったらもう歩けなくなる。
どうしてこんな事になったのだろう?
何処で間違えてしまったのだろう?
そんな事を考えながら、小鈎ハレはただ、目的地も分からないまま、歩く事しか出来なかった。
「え、また山に?」
ミネラルクラフトの新規アップデートを控え、音瀬コタマと小塗マキと共に新モードの分析準備をしていた小鈎ハレ達ヴェリタスのメンバーに、副部長の各務チヒロから再びキャンプをする旨を伝えられた。
「そ、今度は前回よりも少し難易度の高い山ね。最初のキャンプから少し経ったけど、あれから全然生活習慣が改善されていないから、もう一度山に登って気持ちを引き締めなおしてもらうわ」
「うっ……そんな事ないよ」
チヒロの鋭い指摘に、ハレは言葉を詰まらせた。
「そ、そうだよ。確かにちょっと夜更かし気味だったかもしれないし、部屋から出る機会も殆どなかったけど、それでも前よりはずっと健康的な生活リズムを維持できてるもん」
「夜更かししていて部屋から出る事が殆どない段階でアウトなのよ。それに、足元に転がっている空になったエナドリやカップ麺の容器を見て、健康的な生活リズムを維持していると言えると思う?」
「あ……う、それは」
チヒロの鋭い視線に射貫かれたマキやコタマも、何も言い返す事ができずにいた。
彼女の言う通り、年末のキャンプから戻って来たハレ達ヴェリタスのメンバーは、未だ生活リズムを改善できてはいないのが現状だ。ぐうの音も出ないとはこの事だろう。
前回のキャンプも、目的地に辿り着くのにかなり苦労した。それ以上の難易度と聞いただけで、部室にいた他のメンバーからも、ややうんざりとした空気を感じる。
また電波の届かない山の中で、テントを張って寝泊まりするのかと思うと、それだけで気が滅入るし、何より前回よりも更に難易度が高くなると聞けば、その億劫さも倍増だ。『また電波の届かない山に行くのは、少し億劫だな』と、思わず本音を漏らしたくなる。
「ほら、みんな。そんな暗い顔しない。前回より少し大変とはいえ、決められた登山道を歩くだけだからなんの問題もないし、今回も先生が引率として付き合ってくれるんだから楽しんでいきましょう」
「え、先生が付き合ってくれるの?」
チヒロの発言に部員全員が反応する。先生が付き合ってくれるなら、億劫な気持ちも幾分か晴れるというものだろう。
(そっか、先生も来てくれるのか)
年末のキャンプの際、先生が同行してくれたのは今でも鮮明に覚えている。そして、その後も何度か先生と一緒にキャンプをする機会があり、今回も先生が引率してくれるのかと少し嬉しくなった。
今回は前回の反省も踏まえ、粉末タイプのエナドリを持参しよう。他にも、先生と一緒に行く事を前提にして、必要な物を買い足そう。少し前までの億劫な気持ちは消え去り、キャンプ当日が楽しみになったハレは、心なしかキーボードを弾く指も軽やかになっていた。
キャンプ当日。前回と同じくキャンプ用の衣服に身を包んだハレは、息を切らしながら登山道を登っていた。
山の景色を楽しむ余裕もなく、唯々目的地に早く着く事を祈るばかり。他のメンバーも、チヒロ以外似たようなもので、明らかに前回よりも険しくなっている山路に苦戦している様子だ。
「もう無理……休憩したい」
前回の反省も踏まえ、荷物を多めに持参したのが裏目に出た。荷物の重さは、それだけ体力を消耗し、ハレを苦しめる。
「ハレ、大丈夫?」
と、その時、背後から聞き慣れた声が聞こえ、振り向くと先生が心配そうにハレの顔を覗き込んでいた。
「あ、先生……大丈夫です……」
「ちょっと休憩しようか。はい、飲み物」
そう言って先生はリュックからペットボトルを取り出し、ハレに手渡す。先生の気遣いに感謝しながら、渡された水に口をつける。水が喉を通り、乾いた身体が潤っていく。美味しいと感じながらも、蓋が開いていたペットボトルに、ハレは違和感を覚えた。
「あ、これ……」
ハレの脳裏にペットボトルに口を付けた先生の姿がよぎる。もしこのペットボトルに先生が口を付けていれば、間接キスになるのではないか?
先生が飲んだかもしれない飲み口に自分の唇を重ねた事に恥ずかしくなったハレは顔が熱くなるのを感じた。そんな想いを悟られないよう気をつけながら水を飲み、ボトルの蓋を閉め、先生に返そうとするも、先生は『残りも飲んでいいよ』と優しく答えた。
「あ、ありがとうございます」
受け取ったものの、間接キスの事を意識してしまったハレは、どうしても蓋を開ける事が出来なかった。仕方なく上着のポケットに水の入ったボトルをしまうと、ハレは先生の背中を追った。
無事に目的地に到着し、テントを張り終えると、すぐに昼食の準備を始めた。
先生とチヒロは食材を調理し、ハレはコタマとマキ達と共に薪集め。
「昼頃から霧が出るって聞いたからあまり遠くに行ったらダメだよ」
と先生から注意され、薪集めは近場で行う事にしたハレだったが、周辺で見つかるのは極僅か。他のメンバーも同様らしく、中々薪が見つからない。
「はぁ……これじゃあ、今日の夕食分の薪は集められそうにないな……」
昼食分なら何とかなりそうだが夕食分ともなると心許ない。と、視線を森の方へと向けると、少し奥に薪として利用できそうな木の枝が目についた。
先生からは注意されたけど、少しくらいならいいよね?
そう思い、一人森の中を進んでいく。
案の定、木々に囲まれた森の中だと、薪として利用できそうな枝は簡単に見つかった。枝を一本一本拾っていき、少しずつ森の奥へと進んでいく。意識は足元や目の前の木々へと集中し、来た道の事の事は頭から抜け落ちていた。
枝を集めながら、森の奥へと進んでいくと、次第に霧が濃くなり始めた事にすら気付かずに……。
「よし、これだけ集めれば……あれ?」
両手いっぱいに薪となる枝を抱えたハレだったが、漸く周囲が霧に包まれかけている事に気付き、慌ててきた道を戻ろうと後ろを振り返った。しかし、思いの外、森の奥まで歩いていたせいか、霞がかったように視界がぼやけ、帰り道が分からなくなっていた。
「え……嘘?」
どちらに進めば帰れるのか分からず、その場に立ち尽くしてしまう。
「ど、どうしよう……た、確かこっちから来たような」
記憶を辿り、歩いてきた方向へと戻ってみるも、やはり霧が邪魔をして帰り道が全く見えない。
「なんで……なんで?」
完全に方向感覚を失ったハレは狼狽える。焦りと恐怖からか、震える手でポケットから携帯を取り出し、連絡を試みるも、電波の届かない山の中である事を思い出し、絶望する。
「と、とにかく歩いてみよう」
闇雲に森の中を進んでも、体力を消費するだけで何の解決にもならない事は分かっている。それでも、じっとしているよりはマシだと考え、ハレは歩き出した。
「思った以上に霧が出てきたな。皆、大丈夫?」
チヒロと共に食事の準備をしていた先生は、薪拾いに出ていたマキとコタマを見つけ、直ぐにテントに戻るよう促した。二人は先生の言う事に従い、一緒にテントへと戻ると、一緒に薪拾いをしていたハレがいない事に気付く。
「先生、ハレがいない」
「え、ハレが?」
コタマの言葉に先生は周囲を見渡してみるも、ハレの姿は何処にもない。
マキやチヒロにも確認してみるも、やはりハレの姿を見ていないとの事だった。
もしかすると薪拾いに夢中になりすぎて、森の奥まで入り込んでしまったのかもしれない。そして、運悪く霧の影響で帰り道を見失い、迷い込んだのかもしれない。そう思った先生はすぐさま下山してヴァルキューレに連絡し、捜索隊を派遣してもらおうと考えるも、この霧の中で不用意に動いては自身も遭難してしまうかもしれない。
霧が晴れるまで此処で待機するしかない。歯痒い気持ちを抑え、先生とチヒロ達は霧が晴れるまで待機する事にした。
その間、遭難したハレが無事である事を祈る事しか出来なかった。
日も沈み、暗闇となった森の中で、ハレは大木に背中を預ける形で座り込んでいた。
長く道なき道を歩き続けたせいで疲労もピークに達し、足は棒のようになり、もう一歩たりとも歩けない状態だった。
(……どうしよう。結局、道も帰り道も見つける事ができなかった)
携帯の電波が入らない山の中。助けを呼ぶ事もできず、ハレは一人途方に暮れるしかなかった。日が完全に沈み、周囲は深い暗闇に包まれている。このまま夜を明かす事になるのだろうか?
視線を落とし、自身の手を見つめる。携帯の明かり以外暗闇に包まれた森を照らすものは何もなく、心細い気持ちだけがハレの中で募っていく。
「先生……」
思わず、今は側にいない人物の名前を呟く。
「チヒロ先輩……コタマ先輩……マキ……っ」
続いてヴェリタスのメンバーの名前を呼ぶも、誰からも返答はない。
「やだ……やだよ……」
次第にハレの目元に涙が溜まっていく。恐怖と心細さで感情がぐちゃぐちゃになる中、このまま誰も助けが来ないのではないかと不安だけが募っていく。
それだけではない。日が沈んだ事で一気に気温が下がり、防寒着だけで寒さを凌ぐ事は困難だ。こんな時、テントに置いてきた寝袋があれば、少しは寒さを凌ぐ事ができただろうに。
「寒いよ……怖いよ……誰か……助けて……」
膝を抱え、蹲るハレ。このまま誰も助けに来なかったらどうしよう。そんな考えが頭を過り、恐怖で身体が震え始める。
「う……うぇ……」
目尻から涙がとめどなく溢れる。恐怖と孤独に苛まれ、堪えられなくなったハレは、静かに嗚咽を漏らす。暗闇の中、たった一人取り残された恐怖は静かに、ハレの心を蝕むのだった。
翌朝、寒さに震えながら目を覚ましたハレは、改めて自分の置かれた状況を再認識する。
四方八方が森に囲われ、来た道すらも分からなくなったという状況。
昨日から何も口にしていない事による空腹と渇きは更に酷くなり、体力は殆ど回復していない。
唯一、霧が晴れた事が不幸中の幸いと言えた。もし、今もまだ深い霧が立ち込めていれば、間違いなくハレの精神は限界に達していただろう。
「駄目だ……弱気になっちゃ……」
このまま座り込んでいては状況は悪化するだけだ。何とかしてこの森から抜けないと。
「……そうだ。此処まで登ってきたんだから、ずっと下り続ければ」
登山の為に上り続けたのだから、逆に下り続ければ、いずれは麓に辿り着く筈だ。その途中で整備された山道を発見できれば、それこそ僥倖だろう。
そして何より、下る事によって小川でも発見する事が出来れば食料は兎も角、水だけでも確保する事が出来る。空腹さえ我慢すれば、多少の事は我慢できるはず。そう判断したハレは自身に活を入れ、行動に移す事にした。
「よし……行こう」
ハレは立ち上がり、歩き出す。体力が殆ど回復していない為、足取りはかなり重いが、それでも一歩ずつ確実に前へと進んでいく。草葉を掻き分け、倒木を乗り越えながら前へ前へと進む。足元が見え難い中、木の根や石などに躓き転びながらも、ただひたすらに歩を進める。その歩みは亀のように遅いが、それでも確実にハレは下山していた。
そう、下山する事は出来ていたのだ。
しかし、登山ルートから大きく逸れ、道なき道を進み続けた結果、広大な山の中を彷徨う事になるとは、この時のハレは知る由もなかった。
「はぁ……はぁ……」
どれくらい歩いたのか、時間の流れが分からなくなるほどの時が流れた。疲弊しきったハレの体力は既に限界を迎え、息も絶え絶えとなっている。空腹と渇きも相まって体力の消耗が早く、もう歩く事すら困難だ。
「う……っ、あ……」
遂にはその場に倒れ込みそうになるも、ハレは咄嗟に大木にしがみつき、何とか踏み留まる。しかし、その拍子に上着のポケットから先生から貰ったペットボトルが地面に落ち、中から『チャポン』と音を鳴らした。
「…………ぁ」
その音に、ハレは我慢の限界が来た。
ペットボトルに飛びつき、蓋を開けると勢いよくペットボトルを傾ける。喉を鳴らし、中の水を飲み込むハレ。口の中が少し潤い、しかしそれでも、身体は水分を求めている。
もっと……もっと欲しい。
そう思い、ペットボトルを真上まで傾けるも、中から水が落ちてくる事はなかった。
「あ……あぁ……」
水は空になっていた。その事実にハレは呆然とするしかなかった。もう、このペットボトルの中身はない。つまり、この先、水は手に入らないという事になる。
「うそ……やだ……」
もう駄目だと思ったハレの目から涙が零れ落ちる。もう泣く事しかできないのか?
「ゔ、ゔわ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!?!」
遂に、堪えていた悲しみが決壊し、ハレは大声を上げて泣き出した。もう我慢の限界だった。孤独と不安で心が押し潰されそうになり、恐怖と心細さから涙が止まらないのだ。
「だれか……だれがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
まるで子供の様に泣き喚くハレ。このまま誰も助けに来ず、遭難したまま死んでしまうのではないか?
その考えが頭の中を過り、ハレの恐怖と絶望はより一層強くなる。
「やだ、やだよぉぉぉぉ……このまま死んじゃうなんてやだぁぁぁぁ……」
泣き喚き、地面に蹲るハレ。叫べば叫ぶほど。泣けば泣くほど、事態が悪化する事は目に見えている。それでも、泣き叫ばずにはいられない。
先生……、みんな……チヒロ先輩……コタマ先輩……マキ……助けてよ。
そんな願いも虚しく響くだけで誰にも届きはしない。最早、完全に八方塞がりだ。
「だずげで……だずげでよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………っ」
もう限界だった。我慢する事も、希望を抱く事も全て。ハレの心は完全に折れ、大粒の涙を流しながら助けを求める。誰も来ない事は分かっていながらも、助けを求めずにはいられなかった。
零れ落ちる涙を袖で何度も拭い、それでも涙は止まる事はなかった。
やがて、袖が涙で湿り気を帯び始めた頃、ふと濡れた袖をじっと見つめた後、徐に袖を口元へ運び、涙で濡れた袖を吸い始めた。一心不乱に濡れた袖を吸い、少しでも水分を補給しようとするハレ。その姿は、何処か狂気じみていて、不気味だった。
「お゛……あぁぁぁ……」
袖を吸う度、言いようのない虚脱感に襲われるも、身体は水分を欲しているのか、一心不乱に袖を吸い続ける。水ではなく涙で濡れている為、水分の補給は殆どできていない。それでも、ハレは袖を吸い続ける事をやめない。
最早、心も身体も限界を迎えたのか、今のハレには少しでも水分を補給する事しか頭になかった。
「おぁぁ……げほっ、かはっ」
不意に咳き込み、袖を口から離してしまう。水は既に全て吸い尽くされてしまい、これ以上水分の補給は出来ないようだ。それでもなお、渇きはハレの身体と精神を蝕んでいく。
「あ……あぁ……」
もう駄目だと思ったその時、ハレはふとある事を思い出した。それは『此処が森の中なら何処かに必ず川がある』という事だった。
そう、川だ。水が流れる場所があるではないか。
その事を思い出した瞬間、ハレは最後の力を振り絞り、立ち上がった。そして、そのまま森の奥深くへと歩み始めるのだった。
「あ゛ぁ゛……げほっ……げほっ……げほっ……」
もうどれだけ歩いたのか?
それすらも分からないほど、ハレは森の中を彷徨っていた。道中、何度も転倒し、身体の至る箇所に擦り傷や切り傷を負いながらもなお歩みを止めないハレの姿は正しく『異常』の一言に尽きた。
「あ゛ぁ゛……ゔぉ゙ぇ゛……あ゛ぁ゛っ……」
最早、言葉にもならない嗚咽が漏れる。もう限界だった。
「ゔあ゙ぁ゛……あ゛……」
しかし、それでもハレは歩き続ける。まるで何かに取り憑かれたかのように、ただ只管前へと進むのだ。
「うぁ゙……あ……」
しかし、とうとうハレは地面に倒れ込む。既に足腰は言う事を聞かず、立ち上がる事すら叶わない状態だ。それでも尚、ハレは地面を掴みながら起き上がろうとするも、思うように動かない身体ではそれも叶わない。
「ゔぅ゙……あ、あぁ……」
遂には腕すら動かせなくなり、ハレは再び地面に伏してしまう。最早立ち上がる気力さえない状況に陥ってしまった。それでも尚、諦めずに立ち上がろうとするも、身体は言う事を聞かない。まるで、自分の身体ではないかのように。
「……あ、あぁ」
やがて、ハレの目から光が消え始める。意識が朦朧とし始め、視界がぼやける。そして遂には意識を失いかけてしまう。しかし、その時だった。
倒れた時に目線が変化した事で、地面に出来た僅かな窪みの中に、何時から溜まっていたのか定かではない水溜まりを発見した。
「あ……あぁ……み……みずぅ……みずぅ!!」
それを見た瞬間、薄れかけていた意識が覚醒し、力を振り絞り、這う這うの身体でその水溜まりに辿り着いたハレは、迷う事なく口を付け水を啜り始めた。
「んくっ……んっ……」
渇きが癒えていく感覚に浸りながら、無心で水を飲むハレ。やがて喉の渇きを癒しきると、その場に仰向けに倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……」
渇きが癒えた事に安堵したハレは深く息をはく。意識が朦朧とする中、脳裏に過ぎるのは安堵感と幸福感だった。
あぁ、良かった……水が飲めて。本当に良かった……。
そう思いながら、ハレはゆっくりと瞼を閉じた。そして間もなくして寝息を立て始めた。
その寝顔は苦しみから解放された穏やかな表情だった。だが、その瞳からは一筋の涙が零れ落ちていたのだった。
場所は変わって朝まで霧が晴れるのを待ち続けた先生は、足早に山を下り、ヴァルキューレに連絡を取っていた。
先生の傍にはチヒロが憔悴しきった表情で先生とヴァルキューレのやり取りを聞いている。
自分がキャンプに行こうなんて言わなければ、こんな事にはならなかったのに。
後悔しても、もう手遅れだ。せめて、ハレの無事を祈る事しかチヒロにできる事はない。
他の二人はテントで待機している。もしもハレが戻ってきた時、直ぐにでも連絡が取れるようにだ。
どうか無事であってくれ。そう祈るチヒロの前で、先生とヴァルキューレの会話は終了した。
捜索隊はすぐにでも派遣されるらしく、ヘリも手配できるとの事だ。
テントを張った地点を中心に、山頂から旋回しながら捜索をするらしい。
ハレがそう遠くない所で見付かる事を祈り、二人はこの場で待機する事となった。
暫くしてヘリの音が聞こえ始めると、山に向かって飛んで行く。
「ハレ……無事でいて……」
チヒロはそう呟くと、両手を組み、祈るように目を閉じた。
「…………ん」
ハレは重い瞼をゆっくりと開く。
身体が重怠い。頭痛もする。長い間気を失い、動いていなかったせいか、身体が芯まで冷え切った感覚に、ハレは身体を震わせる。
「さ……さむぃ……」
ガチガチと歯を鳴らし、自身の身体を抱き締めるように丸くなる。しかし、そんな事をしても直ぐに身体が温まる事はない。
更に、寒さに加えて口の中から土の香りとジャリジャリとした感触が残っている。
水溜まりの水を飲んだ影響だろう。仕方がなかったとはいえ、その苦さに涙が滲む。
それでも、一度渇きを癒した後だと、身体が否が応でも反応してしまう。
「お……みず……」
水が欲しい。その欲求がハレに水溜まりの水を強要する。
理性が『飲んではいけない』と警鐘を鳴らすが、身体は既に動き出していた。
ゆっくりと水溜まりに口を近付け、水を飲む。渇いた身体に水分が染み渡るような感覚に、思わず涙が出そうになる。
「ん……んっ」
余程喉が乾いていたのか、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み続けるハレだったが、水の中に混じった様々な不純物が臭いとして鼻腔をくすぐる。その臭いに思わず顔をしかめるが、身体は止まらない。ゴクゴクと喉を鳴らしながら水を飲み続ける事をやめない。やがて、水溜まりの水を飲み干したハレは、そのまま近くの木々に背中を預け、地面に座り込んだ。
喉は潤ったが、問題が解決したわけではない。喉の渇きに関しては一時の猶予が与えられたに過ぎないし、空腹と寒さに関しては未だに解決されていない。寧ろ、水を飲んだ事で余計に体力を消耗した気がしてならない。
「うぅ……」
寒さと空腹に苛まれながら、ただじっと座り込み続けるハレだったが、二度目の野宿ともなると、如何にキヴォトスの生徒の身体が頑丈であろうとも、限界が近付いているのが分かる。
もって後一日だろう。それを過ぎた場合、流石に命の保証はない。
生への執着が冷静な判断力を奪っていく。否、体温が徐々に下がった事により、低体温症の症状が出始めているのだろう。
震えは止まらず、思考や判断能力が低下し、危険と分かっていながら、水溜まりの水を飲み干したのも、この症状が出始めた事によるものだ。
「さむい……さむい……さむい……っ」
死にたくない、そう願っても手を差し伸べてくれる人間は此処にはいない。仮にいたとしても、この絶望的な状況を打破する手立ては存在しないだろう。その事実がハレを蝕み、再び恐怖と絶望が心を支配していく。
「ダメだ……うごか……ないと……っ」
そして、暗がりの中、ハレはよろよろと立ち上がったのだった。前は見えない。しかし少しでもいい。前に進まないと。前に進めば、きっと助かる筈。そう自分に言い聞かせ、一歩ずつゆっくりと進んでいく。
前に進んだ事で水を得る事が出来たのだ。前に進めば、きっと助かる筈なんだ。
足元を確認するように歩いていた為、移動速度は亀のように遅かったが、それでも確実に前進していた。
「さむ……い……」
身体は冷え切り、体温の低下は留まる事を知らない。未だ意識はハッキリとせず、思考もままならない状況だ。しかし、ハレの身体は止まることなくゆっくりと進んでいく。
まるで、何かに導かれるように。
ハレが目覚める前。先生からの救援要請で出動したヴァルキューレのメンバーが上空から彼女の捜索をしていたのだが、その時の音も、気を失っていたハレの耳に届く事がなかった。
もしもその時、ハレが救援の為に出動していたヴァルキューレのヘリの音に気付いていれば、また結末は違ったのかもしれない。
明け方。日が昇り、空が白み始めた頃。
ハレはフラフラとなった身体にムチ打ち、運よく沢を発見した。そこで再び水を補給し、沢に沿って下り始めた。
明確な目印の無い中、唯一、沢を下るという明確な判断材料を見つけた事に、ハレは少しずつ希望を見出す事が出来ていた。
人里はこの沢を下った先にきっとある。その思いがハレに確かな足取りで進ませる力を与えていった。
そして、遠くから人の声を聴いたハレは、その希望が確かなものへと変わっていくのを感じていた。
「あ……あぁ」
希望を胸に、ハレは声のした方へと足を進めた。そして、遂にその目に人の影を捉える事が出来た。
複数の不良生徒達が、沢の近くにテントを張り、バーベキュー用のコンロを囲みながら食事を楽しんでいる。その姿を……いや、バーベキュー用のコンロで焼かれていた野菜や肉類を見た瞬間、ハレは思わず駆け出していた。
二日も食事を取っていないハレいとって、目の前の食材は正に渡りに舟。
ハレは不良生徒達の輪の中に飛び込むと、その勢いのまま、一人の不良生徒の足にしがみついた。
「た……たべていい?」
突然の出来事に困惑する生徒や、『何こいつ?』という目でハレを見る不良生徒。
しかし、ハレはそんな視線を気にも止めず、目の前の肉や野菜に釘付けだった。
「は? ふざけんな。なんで私らのバイト代で買った飯をお前なんかに……」
ハレが足にしがみついた不良生徒はそう吐き捨て、足を振り払おうとした。しかしそれでもなおハレは離れようとせず、必死に肉や野菜をねだる。
「おねがい……っ!! もう二日も何も食べてなくて……道に迷ってからずっと……」
「知るかよ!! てか、そんな見え透いた嘘に騙されるわけねぇだろ!!」
ハレの懇願を足を振り払おうとする事で拒否し、尚且つ怒鳴り散らす不良生徒。
しかし、ハレはそんな不良生徒の足に必死にしがみつきながら懇願する。
この時、ハレは気付いていなかった。彼女達の言う通り、ハレは本当の意味で『運よく』山の麓にあるキャンプ場の近くまで下山する事が出来ていたのだ。そして彼女達は、そこから少し離れた沢の近くでテントを張りキャンプしていた為、ハレの言う『遭難した』という言葉は、食材を持ち去る常套手段と考えたのだろう。
「おねがいします!! なんでもするから……っ」
しかし、そんな事など知る由もないハレは必死に彼女達に懇願する。その目には涙さえ浮かんでおり、本当に限界が近かったのだ。
思考や判断能力が著しく低下し、二日も何も食べずの状況。そんなハレの前に食材が並べられているのを見れば、正常な判断など出来る筈もない。
そんなハレに対し、不良生徒達の対応が荒くなるのは、無理からぬ事だった。
「しつけぇな!! そんなに欲しいならくれてやるよっ!!」
そんな怒声と共に、不良生徒の一人はハレの身体を思い切り突き放すと、火消し用に用意していたバケツを持ち上げ、中の水をハレ目掛けてぶちまけた。
「っ!! え……ぁ……へ?」
頭から水を被り、一瞬思考が停止する。しかし、直ぐにその状況を理解する。
水はハレの服に染み込み、身体から体温を奪い始める。更に冷たい風が体温を奪い、ハレの思考は更に混乱していく。
「あ……あぁ……」
そんな状況に、ハレは呆然と立ち尽くす事しか出来ない。しかし、不良生徒達はそんなハレの姿に一興を見出し、各々が銃器をハレに向けて構えた。
「はっはっは!! なにその間抜け面、ウケるんだけど!!」
「面白れぇから、何でもしてくれんなら飯を食わせてやるよ」
「折角キャンプに来たのに、熊一匹出やしねぇから退屈してたんだよなぁ」
「あぁ、だからさぁ」
―折角だからお前で狩りの練習するわ―
その言葉に、ハレの思考は完全に停止した。しかし次の瞬間、不良生徒達が一斉に発砲し始め、思考が回復したと同時にハレは走り出した。
「ひっ!?」
放たれた銃弾の一部が身体に被弾する。固まりかけていた筋肉が銃弾に晒され、激痛と共に本能がその場から逃げろと警鐘を鳴らす。
ハレは少しでも距離を取ろうと、必死に足を動かした。しかし、相手は健康な状態の不良生徒達でハレは疲労困憊でまともに動ける状態ではない。遊び感覚で照準を合わせ、引き金を引いて嬲り者にする不良生徒から、ハレは涙を浮かべながら逃げるしかなかった。
「あっはははは!!」
「ほらほら逃げな逃げなぁ!!」
そんなハレの必死の形相が面白いのか、不良生徒達は笑いながら銃を乱射する。その内一発がハレのふくらはぎに直撃し、激痛が走る。
「い……ぎっ……あ"ぁぁ!!」
激痛を必死にこらえ、ハレは来た道を必死に逃げ惑う。しかし、不良生徒達はそんなハレを嘲笑いながら追いかけ続ける。
「ほらほら逃げろよぉ!!」
「あっはははは!! 必死じゃん!」
「や、やだっ……やだっ……やだぁぁぁぁぁぁ!!」
草木を掻き分け、枝葉で皮膚を裂き、石で足を傷付けながらハレは逃げ続ける。
そして、急な上り坂でもある獣道を必死に上り、少しでも距離を取って彼女達の視界から姿を隠そうと、碌に前を見ずに走り続けた結果、足元がお留守になり、足を滑らせ、そのまま斜面を転げ落ちてしまった。
「あがっ!? ……ひぁ!?」
木や岩、地面に何度も身体を打ち付けながら転がるハレ。そして急斜面の先が崖と気付く間もなく、そのまま崖下に真っ逆さまに落下した。
「………………………………………ぁ」
眼前に迫る岩肌に、ハレの脳裏に『死』の文字が浮かんだ。
そして、幾度にも渡り、岩肌に身体を打ち付けられたハレは、そのまま頭から地面に叩き付けられ、そのまま意識を失った。
その頃、不良生徒達はというと、ハレを見失い、辺りを捜索していた。
「おーい!! 居たか?」
「いねぇ、何処にもいねぇぞ」
「まじかぁ、逃げられたか」
「意外と逃げ足早かったな」
「まぁ良いじゃん。これでやっとご飯にありつけるってワケだし」
そんな会話をしながら、不良生徒達はハレの事を忘れ、食事の準備へと戻って行った。
「……ぅ……ぁ……ぁ……っ」
夕方、崖から転落したハレが意識を取り戻した。何とか生きていた。しかし、息も絶え絶えで全身傷だらけの状態。岩肌に何度も身体を打ち付け、四肢は有り得ない方向に折れ曲がり、足の骨は皮膚を突き破り、ズボンの布を裂いて露出させていた。
―あれ……私、何で此処に?―
そんな事をハレは朦朧とする意識の中で考えていた。しかし、そんな思考もすぐに激痛と疲労に掻き消されていく。
それと同時に、視線だけを自身の腕へと向けると、前腕部の半ばから折れ曲がった腕が痣と血で赤黒く染まっているのが目に入る。
―あぁ……そっ……私……崖から落ちて……―
痛みに霞む意識の中で、ハレは自身が崖から転落し、此処まで落ちてきた事を悟ると、視線を崖の上へと向けた。そこそこの高さだ。露出した岩肌の彼方此方に落ちた時の形跡が残されていたが、そんな事を考える余裕がなかった。
身体が動かない。唯一動くのは首から上と目だけ。目を動かし辺りを見回すと、少し離れた場所に破損した銃と携帯が転がっているのがハレの目に映った。
「ヒュー……ヒュー……」
呼吸音がおかしい。肺が傷付いているのだろう。
寒い。身体が怠い……いや、身体が熱い。なんでこんなに暑いんだ。少し前まで寒かった筈なのに。
服を脱ぎたい。脱いで少しでも身体を冷やしたいのに、身体が思うように動かない。
目頭が熱くなる。涙がボロボロと零れ落ちる。
そうだ。助けを求めないと。
「た…………………………け………」
助けて……助けて……助けて……助けて……。
声にならない声を必死に絞り出すハレ。しかし、その声に反応してくれる者は一人もおらず、日が落ち始め、夜の帳が下りてきた。
その間中、何とか動く口で呼吸しながら助けを乞い続ける。しかし、その声も徐々に小さくなり、声を出す事すら億劫になってきた。
「……か………ぇ…………た…………っ」
疲れた。その言葉を最後に、ハレの意識は静かに刈り取られた。
頭部に浮かぶヘイロー。
その光が徐々にくすんでいき、ボロボロと崩壊していくのに、そう時間は掛からなかった。
―……レ…………ハレ……―
誰かが、私の名前を呼んでいる。
暖かい声だ。暖かくて、そして優しい声色。
何だか安心する。安心し過ぎて、また眠ってしまいそうだ。
―ハレ……起きてよ、ハレ……―
声が段々鮮明になってくる。
重たい瞼をゆっくりと開く。
すると、視界いっぱいに先生の顔が映し出され、視界の端にはチヒロや他のヴェリタスのメンバーが此方を見つめていた。
「……ぁれ? せん……せぃ?」
「あ、やっと起きたね。ずっと寝てたから心配だったんだ。おはよう、ハレ」
「おはよ……ござ……ます……」
まだ覚醒しきれてない頭でそう返すと、先生は優しく微笑んでくれた。
「あ……の……私……」
まだ頭がハッキリしていないが、私は先生の笑顔につられて笑みを浮かべた。
なんだか、変な夢を見ていた気がする。
薪を集めていたら霧のせいで道に迷い、森の中を彷徨った悪夢を。
彷徨った挙句、沢で不良生徒に追われて、そのまま崖から落ちた悪夢を。
あぁ、そっか。全部夢だったんだ。
「私、本当によく寝てました?」
「うん、ぐっすりと」
そっかぁ。私、そんなに寝てたんだ。まぁ、仕方ないよね。登山経験だって浅いし、急に身体を動かしたものだから、その疲れがたたって、寝ちゃったんだ。
でも、本当によく寝たなぁ。もうお日様も高いし、結構長い間寝ていたんだろうなぁ。
そんな私に、先生は水筒から湯気の立つ飲み物をコップに注いで渡してくれる。
「はい、これ飲んで」
「あ、ありがとうございます……」
私はその飲み物をゆっくりと口に含むと、口いっぱいにほんのりとした苦みと共に甘みが広がってきた。
初めてのキャンプの時に飲んだ先生の珈琲の味。その味に舌鼓を打ちながら、私は小さく息を吐いた。
あぁ…………
―美味しい……―
雨粒がハレの身体を優しく叩き付ける。
その雨粒は、ハレの身体を冷やすと同時に、彼女の体温を奪いとる。
僅かに開いた瞳からは光が消え失せ、その身体はピクリとも動かない。
頬を濡らす雨水が血と共にハレの口の中に流され、口内を僅かに潤していく。
彼女が最後に見た夢は、この絶望的な状況化において、唯一の救いと呼べるものだったのかもしれない。
頭上のヘイローは完全に光を失い。ボロボロに崩れ落ちていく。
ヘイローの消失は即ち、死者の証。
最後の瞬間まで必死に生きようと足搔いた彼女は……享年16歳という若さで命を落とした。
その後、その亡骸は周辺を捜索していたヴァルキューレによって回収されたが、その表情は苦しみに歪んだものではなく、とても穏やかなものだったという。
ハレを発見したヴァルキューレの生徒はこう証言した。
『彼女を発見した時、あまりにも穏やかな表情だったから、まだ助かると思い、何度も声をかけた』
『しかし、いくら声をかけても反応が無かった為、危険な状況と判断し、慌てて崖下まで降りて確認したが、その時には既に身体が冷え切っており、手遅れだった』
そして、彼女が辿った道を調べようとしたが、雨によってその殆どが洗い流され、唯一、崖の岩肌に残された血痕が、彼女が崖から足を滑らせて落ちた事を証明していた。
あと少し、あと少しで麓のキャンプ場に辿り着いたというのに、なんと運の無い事か。
ハレが遺体として発見された事を知った先生はもとより、キャンプを提案したチヒロは、その場で泣き崩れた。
『う、そ……だ……っ』
『なんで、こんな……』
チヒロはその場で泣き崩れ、言葉にならない声を上げ続けた。
悲しみ、後悔。様々な感情がごちゃ混ぜになり、思考が纏まらない。
チヒロは涙と鼻水を垂れ流しながらハレの死に絶望したのだった。
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