7,
A面
気がつけば、吾輩はどこやら知れぬ場所に立っていた。
床があるのかないのか、天井があるのかないのか、
まるで世界そのものが灰色の靄に溶けてしまったような空間である。
――よもや、武空術まで発現させてしまったのではなかろうか。
そんな馬鹿げた考えが脳裏をよぎるほど、
足元の感触があやふやであった。
辺りを見回すと、目の前に例の謎端末がぽつねんと浮かんでいる。
その端末が、抑揚というものを一切忘れた声で告げた。
「内部個体による活動身体制御を停止」
「自動帰還モード起動。就寝姿勢を確認後セーフティーモードに移行します」
「セーフティーモードへ移行いたしました」
「現在、活動身体へのエネルギー供給を制限中」
「回復プログラム主要ユニット“スタンド”の制御コアへ運用プログラムをインストール開始」
「リソースは活動身体保護プログラム36%、プログラムインストール33.4%を使用中」
どうやら吾輩の身体――いや、憑依している御仁の身体は、
勝手に寝かされ、勝手に節電され、勝手に改造されつつあるらしい。
「内部個体からの検索要求を確認。【武空術の発現の可能性】について検索いたしますか」
――あ、キャンセルで。
「承知いたしました。要求を破棄いたします」
この無機質な返答の裏に、
“忙しいから阿呆な質問をするでない”
という気配を感じたのは、吾輩の被害妄想であろうか。
しかし、超常現象の連続に浮かれ、
つい余計なことを口走ったのは事実である。
深呼吸をして気持ちを整える。
憑依している御仁の危機的状況を取り除かねば、
吾輩の実生活にも何らかの影響が出るのは明白である。
最悪、生命活動の停止を共有する羽目になる――
その可能性は、だいぶ前から察していた。
だがしかし。
推定艦これ世界へ来訪できたという事実に、
吾輩が多大な興奮を覚えていたのもまた事実である。
「回復プラン実行および完遂までの計画策定を推奨いたします」
謎端末は、空間に大きな白いスクリーンを出現させた。
そこには吾輩が立てた計画がずらりと並んでいる。
「“なんやかんやでヨシ!”の計画は合理的判断により破棄されます」
計画の大半が、容赦なく削除されていく。
「施設および周囲の情報を展開。またYKKネットワークにより基地内の敵対行動個体をナンバリングします」
「さあ、合理的に計画を再構築いたしましょう」
「40秒で支度しましょう」
情報が……情報が多い!
直近で経験したデスマーチの足音が聞こえてくる。
胃がきりきりと痛み、自然と肩が落ちた。
「安心してください。合理的支援により疲労は一切発生いたしません」
……キイロートークーロハ~……
どこからともなく、勇ましいテンポの歌声が響き始めた。
「リソースを8.10%使用し、環境設定を“ジャパニーズビジネスマン”に移行します」
かくして吾輩は、
謎端末さんの無慈悲な合理性に追い立てられ、
異界の灰色空間にて、
まるでデスマーチの如き計画策定を強いられたのである。
情報は洪水のように押し寄せ、
スクリーンは容赦なく更新され、
吾輩の精神は、
まるで薄い紙を何度も折り畳むように疲弊していった。
――そろそろ限界である。
そう思った瞬間、
世界がふっと揺らいだ。
灰色の空間が波紋のように広がり、
端末の声が遠ざかり、
視界は白く、白く、白く――
まるで深い水底から水面へ浮かび上がるように
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深い水底から光を求めてもがく者がある。
吾輩の覚醒は、まさにそのようなものであった。
瞼を開けると、
そこは見慣れた病室である。
しかし、吾輩の身体はすでに吾輩のものではなかった。
病院衣とアテントとつっかけで過ごしていた頃の吾輩は、
もはやどこにもいない。
代わりにそこにあるのは、
丸太のごとき腕を持つ十六歳の高継氏――
わらしべの帝である。
時計のないこの部屋では正確な時刻はわからぬが、
起床ラッパをまだ聞いていないところを見るに、
どうやら六時前であろう。
そして、計画の第一段階において、
絶対に失敗の許されぬ案件がある。
――“吹雪嬢の協力を得る”
毎朝六時半頃に世話へ来るであろう吹雪嬢を、
吾輩は今まさに待ち受けているのである。
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C面
吹雪が病室の扉を開けたとき、
そこにあるはずの光景は、静かに裏切られていた。
本来ならベッドで眠っているはずの高継が、
窓際に立ち、外の朝焼けを眺めていたのだ。
吹雪は息を呑んだ。
驚きと安堵が胸の中で入り混じり、
それでも声を絞り出す。
「……提督さん?」
(誰が提督やねん)
(黙止。吹雪氏の“乙女回路”にそぐわない回答は非合理的です)
(…うむ、心得た。騙しているようで気が進まぬが、今は仕方がなかろう)
高継は一瞬だけ逡巡し、
ゆっくりと振り返った。
朝日を背にしたその姿は、
吹雪の目にはどこか威厳めいたものに映った。
「……提督さん……!」
吹雪の声が震える。
高継は静かに微笑んだ。
(今の振り返り方は大変合理的です。10点満点中9点です)
(表情が少し硬いです)
(口元をもう少し上げて……上げすぎです。妙な顔になりかけています)
(そろそろ台詞をどうぞ)
(ゆっくり頷くとより合理的……ですがコルセットで頷けませんね)
(では優しげに目を細めて……近眼老人の真似は非合理的です)
「……吹雪さん、だね?」
(声がかすれて……吹雪氏の乙女回路が反応しています。これは合理的ではありませんがヨシ!です)
「君の声……聞こえていたよ」
(乙女回路上昇中!114……514……810……上昇が止まりません!)
(回路とは何であろうか。そもそも数値化できる類の物か?)
(協力者“共犯者”の存在を明示。吹雪氏の右肩をご覧ください)
(やや、妖精さんであるな。パチものは拝見しているが、あれこそが本物であるか)
(パチもの is 何?)
(吾輩の耳元でろくでもないことを喚いている御仁のことであるな)
(合理的発言のみ行っている私の外にもそのような存在が……興味深いです)
(さいですか)
吹雪は言葉を失い、
ただ立ち尽くしていた。
高継はゆっくりと歩み寄り、
吹雪の肩に触れないよう距離を保ちながら、
そっと手を差し出した。
(警戒する小動物に近づく絵柄です。背筋を伸ばして堂々としましょう)
(ご安心を。この部屋を中心に半径50m内に知的生命は存在しておりません。通報の可能性は皆無です)
普通なら身構える場面だが、
吹雪はむしろ安堵したように、
その手をしっかりと握り返した。
(乙女回路の暴走を確認!)
「提督さん……!
あの時は、本当に助けていただいて……ありがとうございます……!」
「私……提督さんに助けていただいたのに、
何もできなくて……
それなのに、こうして……」
吹雪の声は震え、
目には涙が浮かんでいた。
(ここで抱きしめて!合理的に!)
(頭を軽く撫でるだけとか何を日和っているんですか。合理的ではありません)
(いや、撫でるくらいで十分だろう)
(口吸いまでなら許されます!さぁ合理的に!極めて合理的に!)
(キミの方が暴走していない?)
高継は視界の端で、
小さな妖精が全身でジェスチャーしているのを確認しつつ、
吹雪の頭をそっと撫でた。
(いや駄目であろう。吹雪氏の肩を見てみい)
(それ以上のスキンシップ禁止?片腹痛い)
(1匹だけなら誤射です。やっておしまい!)
(いやテンションおかしいよ?キミ)
吹雪は涙をこぼしながら、
それでも笑顔を浮かべていた。
殺風景な病室であったが、
その空気はどこか柔らかく、
静かに温かさが満ちていくようだった。