針がレコードの溝を滑る
微かな摩擦音が、深い静寂に包まれた部屋へ溶け込んでいく。
シューベルトのピアノ三重奏曲第二番
冷たい雨が窓ガラスを音もなく濡らす夜の底で、弦楽器とピアノの旋律だけが、冷徹な規則性を持って響いていた。
アーサー・ビショップは、マホガニーの重厚なデスクに向かい、ただ黙々と手を動かしている。
琥珀色のバーボンが注がれたクリスタルグラスの傍らには、完全に分解されたグロック17のパーツが整然と並べられていた。
ガンオイルの硝煙を思わせる特有の匂いが、古い紙と上質な革の香りが染み付いた部屋の空気に混ざり合う。
真鍮のブラシでスライドの微かな煤を払い、柔らかな布でバレルを磨き上げる。
彼の指先の動きには一切の無駄がなく、精巧な時計の歯車のように正確だった。
かつては完璧な偽装殺人を行う「メカニック」として裏社会に名を馳せた男。
しかし、今の彼が請け負う仕事は単なる金銭を介した命のやり取りではない。
布を置き、組み上げた銃のスライドを引く。
チャキリ――という鋭く冷たい金属音が部屋の空気を切った直後だった。
視線の端、磨き上げられたデスクの片隅に、それは唐突に存在していた。
純白の封筒
つい数秒前までは、そこにはバーボンのボトル以外何もなかったはずだ。
空間の裂け目から音もなく滑り落ちてきたかのように、それはあまりにも自然に、そして決定的な異物としてそこに置かれている。
足音も、気配も、空気の揺らぎすら一切なかった。
だが、ビショップの表情は微塵も動かない。
それが彼を雇う「主」のやり方であることを、すでに熟知しているからだ。
純愛という名の物語を「至高の芸術」として蒐集する、高次元の偏執的な
ビショップは今、その神にも等しい存在と契約を結び、コレクションたる名画を汚す害虫を徹底的に排除する専属の「
ビショップは銃をデスクに置き、銀色のペーパーナイフを手に取る。
蝋封を滑らかに裂き、中から一枚の光沢紙を引き出した。
そこに写っているのは、木漏れ日の下で身を寄せ合い、はにかむように微笑み合う若い男女の姿。
不純物の一切混じっていない、透明で無防備な幸福の結晶。
ビショップがその写真をデスクに置いた瞬間、静かなる異変が始まった。
写真の右下隅から、どす黒い染みがジワリと滲み出したのだ。
それはただのインクの染みではなかった。
悪臭を放つヘドロのように微かに泡立ちながら、まるで意思を持った生き物のように蠢き、写真の中の二人の間に割り込むように這い進んでいく。
幸福な情景を侵食し、純潔を引き裂こうとする不吉な兆候。
黒い泥は、愛し合う男から女を引き剥がすように彼女の足元に絡みつき、次第にひとつの悍ましい人間の輪郭へと形を変えていく。
やがて泥の表面が波打ち、ひとりの男の顔が浮かび上がった。
他者の絆を嘲笑い、愛という名画を泥足で踏みにじることに卑劣な悦びを見出す、間男の顔。
そして、その顔の横に血が滲むような赤黒い文字が次々と浮かび上がる。
ターゲットの名前、年齢、行動パターン、そして現在の潜伏先。
それは、これから駆除されるべき害虫の詳細なデータだった。
ビショップは瞬きもせず、冷え切った双眸でその情報を完全に脳裏へ刻み込む。
すべてを読み終えたと同時、写真は黒い泥に完全に覆い尽くされる直前で発火点に達したように青白い炎を上げ、音もなく一握りの灰へと変わった。
後に残されたのは、微かな焦げ臭さ――そして、殺しのライセンスだけだ。
グラスに残ったバーボンを静かに飲み干すと、ビショップは椅子から立ち上がった。
完璧に手入れされたグロックをコンシールド・ホルスターに収め、背もたれに掛けてあった仕立ての良い漆黒のジャケットを羽織る。
準備は整った
デスクの上に残った不気味な灰を冷たい目で見下ろし、彼は誰にともなく、這うような低い声で呟いた。
「……さて、名画の修復の時間だ」
地下ガレージのシャッターが、重々しい音を立てて上がる。
深夜の冷気が流れ込む中、美しく磨き上げられた愛車、ジャガー・Eタイプのドアハンドルに手を掛けた。
革張りのシートに身を沈め、イグニッションキーを回す。
直列6気筒エンジンが、これから始まる無慈悲な暴力へのプレリュードのように低く獰猛な産声を上げた。
ヘッドライトが暗闇を切り裂く。
ビショップの乗る車は、雨に濡れたアスファルトを滑るように走り出し、静寂に包まれた夜の底へと完全に溶けていった。
多機能フォームの使い方間違ってたら、自分が太字にしようとしてるのがコマンド丸見えになっちゃって恥ずかしいことになってるんだろうなとハラハラしながら使っています。
ちなみに今作主人公のモデルは映画「メカニック」の主人公です