ジムの裏手から続く細い路地には、街灯の光がほとんど届かない。
孝がトレーナーとのミーティングで残るため、先に一人で帰路についた楓は、背後から忍び寄る粘着質な気配に足を踏み止めた。
振り返る間も与えられず、ぬらりとした冷たい手が彼女の細い手首を掴み、強引にコンクリートの壁へと押し付ける。
「急いで帰って、どうするつもりだ…?優等生くんのメシの支度か?」
耳元に吹きかけられた煙草とアルコールが混ざったような悪臭に、楓の全身から血の気が引いた。
逃げ道を塞ぐように立ち塞がっていたのは、吉田龍我だった。
爬虫類のように細められた双眸が、街灯の僅かな光を反射して卑猥な色を帯びている。
蛇に睨まれた蛙のように硬直する楓の顎を、龍我の汚れた指先が撫で上げた。
「や、やめて……」
振り払おうとする楓の抵抗を嘲笑うかのように、龍我は空いた手でスマートフォンを取り出し、画面を彼女の目の前へ突きつけた。
「いいから、これ見てみろよ」
薄暗い路地裏で青白く光る液晶画面。そこに映し出されていたのは、見慣れた孝のスポーツバッグだった。
しかし、ファスナーの隙間から覗く奥底には、あるはずのない不吉な異物が押し込まれていた。小さな透明のビニール袋に詰められた、怪しげな白い粉末。
動画は数秒で終わり、再びループ再生される。
楓の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
「……これ、警察やボクシング協会に匿名でタレ込んだら、どうなると思う」
「嘘…ッ…あんたが、勝手に……」
「そうだなァ…俺が仕込んだって警察に泣きつくか?でもよ、証拠はどこにある?あのバッグから出るのは優等生クンの指紋だけだぜ?」
龍我の口角が、ぞっとするほど深く吊り上がった。
「真面目一本でやってきた高校生ホープが、実は薬抜きじゃリングにも上がれないジャンキーだった………最高のニュースじゃねえか。協会は一発で永久追放、高校も退学。あいつの人生、ゲームオーバーだ!!」
「どうしてこんなコト…ッ……孝くんは、そんなこと絶対にしない! 誰だって信じてくれるッ」
「世間はそう思わねンだよ…それに、俺は失うもんが何ひとつないからさ、底辺のクズが何を言われようがノーダメージだが、アイツはどうかな?」
無敵の人特有の、持たざる者ゆえの暴力的な論理。
積み上げてきた努力も、真っ直ぐな情熱も、この男の悪意ひとつでいとも容易く泥に塗れてしまう。
その圧倒的な不条理を前に、楓の足が小刻みに震え始めた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、ボロボロになるまでサンドバッグを叩き続ける孝の横顔。
プロのリングに立つという、幼い頃から二人で大切に温めてきた夢の形。
それが今、目の前で薄汚い男の靴底に踏みにじられようとしている。
絶望に染まる楓の表情を見て、龍我は嗜虐的な喜びに喉の奥を鳴らした。
「でもよォ…俺も鬼じゃねえ、お前が俺の言うことを聞くならさぁ、この動画も、バッグの中身も無かったことにしてやるよ」
龍我の顔が、楓の首筋に触れるほど近づく。
「アイツの夢を守りたきゃ今夜…ホテルに来い。朝までたっッッ…ぷり俺を気持ちよくさせてくれればさぁ…優等生クンの未来は安泰だ」
それは、悪魔の取引だった。
拒絶すれば、孝の夢は終わる。
だが、受け入れれば、孝への純粋な想いを裏切ることになる。
激しい葛藤が楓の胸を引き裂く。
しかし、孝の汗まみれの笑顔を思い出した瞬間、彼女の答えは決まっていた。
自分の身がどれだけ汚れようと、彼から夢を奪うことだけは絶対にできない。
「……わかっ…わかっ…た。いく、から……だから、孝にだけは…ッ…手を…出さないで…」
大粒の涙が頬を伝い落ちるのを見届け、龍我は満足げに楓から手を離した。
アトで場所を送る、とだけ言い残し、闇に紛れて消えていく龍我の後ろ姿を、楓は見ることなくただ膝から崩れ落ちて蹲るしかなかった。
純愛が孕む自己犠牲という名の脆さが、残酷なまでに露呈した瞬間だった。