冷気を孕んだ異音の発生源へと、龍我は首だけをぎこちなく巡らせた。
四階の密室。
施錠され、チェーンまで掛けられた鋼鉄の扉。窓は完全に閉ざされており、侵入経路など物理的に存在するはずのない空間。
その部屋の最も暗い死角、安っぽいベルベットのソファに、それは座っていた。
漆黒のジャケットを身に纏い、完全に闇と同化した男。
男は足を静かに組み、手にした重厚なサイレンサーが装着されたグロック17――その銃口を、真っ直ぐに龍我の眉間へと向けていた。
先ほどの音は、ゆっくりと撃鉄を起こす冷酷な宣告だった。
「……あ?」
龍我の口から、間の抜けた音が漏れる。
ベッドに組み敷かれていた楓もまた、涙で潤んだ目を見開き、信じられないものを見るように男を見つめていた。
どうやって入ったのか。
いつからそこにいたのか。
気配も、足音も、空気の揺らぎすら一切なかった。まるで、最初からこの部屋の闇そのものであったかのように、男はただそこに実在していた。
「……誰だ、てめえ。どこから入ってきやがった」
極度の混乱と本能的な恐怖を誤魔化すように、龍我は喉の奥から唸り声を上げた。
持ち前の凶暴性を剥き出しにし、ベッドから立ち上がって男を睨みつける。
自分は裏社会にも顔が利くし、少年院上がりで怖いものなどない。
その虚勢が、彼の身体を動かしていた。
「今、このアマといいトコなんだよ。邪魔すんじゃねえ。殺されたくなかったら、さっさと消えろ」
唾を飛ばし、肩で風を切るように威嚇する龍我。
だが、ソファに座るアーサー・ビショップの表情には、微塵の揺らぎもなかった。
瞬きすら少なく、彫刻のように冷たい双眸は、ただ「処理すべき汚物」を観察しているかのように感情が欠落している。
「……孝のバッグに入れた白い粉のことだが」
ビショップの口から滑り出た声は、室内の温度をさらに数度下げるほど低く、平坦だった。
龍我の恫喝など全く耳に入っていないかのように、淡々と事実だけを口にする。
「あれはただのBCAAだ。中身はすり替えておいた」
「……は?」
龍我が目を剥くのと同時に、ビショップの傍らのローテーブルに置かれた黒い端末から、ノイズ一つないクリアな音声が流れ始めた。
『アイツの夢を守りたきゃ今夜…ホテルに来い。朝までたっッッ…ぷり俺を気持ちよくさせてくれればさぁ…優等生クンの未来は安泰だ』
つい一時間前、薄暗い路地裏で楓を絶望の底に突き落とした、龍我自身の醜悪な声だった。
高音質の録音データは、龍我の卑劣な恐喝の事実を、逃れようのない形で室内に響き渡らせる。
楓はハッと息を呑んだ。
孝の夢を人質に取られていた最悪の枷が、この見知らぬ男の手によっていとも容易く外されたのだ。
絶望の沼に沈みかけていた楓の目に、暗闇に座るその男は、理不尽な悪を刈り取るために遣わされた「絶対的な死神」、あるいは「救済をもたらす神の使い」のように映った。
だが、底辺を這いずり回ってきた龍我の悪あがきは、まだ終わらない。
一瞬焦りの色を浮かべたものの、すぐに顔を歪めて嘲笑う。
「……ッハ、音声の捏造なんて今の時代いくらでもできるんだよ! そんなモン、俺が仕込んだ証拠にはならねーよ!そもそもバッグから出る指紋は――」
「そうか」
ビショップは、龍我の喚き声を短い言葉で切って捨てた。
「では、これはどうだ」
ビショップが端末のキーを一つ叩く。
その瞬間、龍我がジーンズのポケットに入れていたスマートフォンが、けたたましいバイブレーションと共に勝手に光を放ち始めた。
「な、なんだ……!?」
慌ててスマホを取り出した龍我の目に飛び込んできたのは、彼自身の意思とは無関係に、猛烈な勢いで自動スクロールしていく画面だった。
それは、絶対に表に出てはならない情報の数々。
パスワード付きの隠しフォルダに厳重に保存していたはずの、裏社会の半グレ集団との違法薬物取引のメッセージ履歴。
そして、ジムの月謝を誤魔化し、後輩から恐喝した資金を横領していた詳細な帳簿データ。
それらが、まるで手品のように白日の下に曝け出されていく。
「な……なん…っ、てめえ……これを……!」
龍我の額から、滝のような脂汗が噴き出した。
声を荒げ、動揺で激しく身体を揺らす龍我に対し、ビショップはソファに背を預けたまま、ただ静かに宣告する。
「お前が喋るたびに、お前の人生の残り時間は減っていく」
感情の起伏が全くない、清掃作業の工程を読み上げるかのような声。
それが逆に、龍我の精神をゴリゴリと削り取っていく。
「先ほどの恐喝音声と、お前の端末から抽出したこれらのデータは、すでに暗号化され、三箇所のサーバーを経由して送信予約済みだ。宛先は所轄の警察署、ジムの会長、そして――」
ビショップの銃口が、微かに龍我の鼻先を捉えた。
「お前が薬を横流しして裏切った、指定暴力団の幹部だ」
「…………ッ!!」
龍我の顔面から、完全に血の気が引いた。
警察やジムに知られれば終わりだが、ヤクザの資金源を横領し裏切っていたことがバレれば、ただの終わりでは済まない。
コンクリ詰めで海の底か、生きたまま臓器を抜かれるか。
「送信まで、あと10秒」
冷徹なカウントダウンが始まった。
「ま、待て! 待ってくれ! 冗談だろ!?」
「9……8……」
「わかった、俺が悪かった! 何でもする! 金なら払う!」
必死で命乞いをする龍我の声は、裏返り、惨めなほどに震えていた。
つい先程まで「失うものがない」と豪語していた「無敵の人」の論理など、真の強者の前では紙屑にも等しい。
自分は盤上のプレイヤーですらなく、ただ一方的に蹂躙され、廃棄されるだけの小さな駒に過ぎなかったのだ。
その絶対的な絶望と不条理な恐怖が、龍我の矮小な魂を完全に押し潰していた。