「……ゼロ」
冷徹な唇から最後の一声が紡がれた直後、室内の闇にピリ、という無機質な電子音が響いた。
ビショップの傍らに置かれた端末の画面に、『送信完了』のポップアップが静かに浮かび上がる。
それは、吉田龍我という人間の社会的な死を告げる、あまりにも呆気ない終わりの鐘だった。
「あ……あぁ……」
龍我の顔から、すべての血の気と表情が抜け落ちた。
所轄の警察。
ボクシングジムの会長。
そして、裏切った指定暴力団の幹部。
たった今、自分の致命的な証拠がそのすべてに行き渡ったのだ。
警察に捕まるだけならまだマシかもしれない。
だが、シノギを横領されたヤクザが自分をどう扱うか、裏社会の末端を這いずり回ってきた彼には痛いほど理解できた。
指を詰められるなんて今時時代遅れだ…当時としてもその程度では済まない。ドラム缶にコンクリートと共に詰められ、冷たい東京湾の底に沈められる。
自分の人生が完全に終わったのだという絶対的な事実が、冷水のように脳髄へぶちまけられた。
その絶望は、わずか数秒で極限の恐怖へと変わり、やがて行き場を失った逆恨みの狂気へと引火した。
「ふざけんなァッ! どうせ終わるなら、てめえも道連れにしてやるッ!」
獣のような咆哮と共に、龍我が床を蹴った。
187センチ、89キロの筋骨隆々たる巨体が、凄まじい瞬発力でビショップへと殺到する。
腐っても天才と謳われたボクサー。
その恵まれた体躯から放たれる右ストレートは、空気を引き裂き、常人の頭蓋骨なら容易く粉砕するほどの凶悪な質量と速度を持っていた。
血走った目、飛び散る汗、獣じみた殺意。それはまさしく、暴力の権化そのものだった。
だが。
ビショップはソファから立ち上がる動作の延長で、わずかに首を傾げた。
ただそれだけで、必殺の右ストレートは彼の頬の数ミリ横を虚しく通過する。
「お前の暴力は、『リングの上』というぬるま湯のルールでしか通用しない」
すれ違いざま、ビショップの低く冷ややかな声が龍我の鼓膜を打った。
直後、ビショップの左手が、空を切って伸びきった龍我の右腕を蛇のように捕らえる。
打撃で応戦するのではなく、人体の
ビショップは龍我の手首を掴むと同時に、自らの身体を反転させ、テコの原理を利用してその関節を本来曲がらない方向へと容赦なく極め上げた。
ゴキァッ
濡れた太い木の枝を無理やりへし折ったような、おぞましい破砕音が密室に響き渡る。
「ぎ、ギャアアアアアアアアッ!?」
手首の骨が皮膚を突き破らんばかりにひしゃげ、龍我の喉から豚の屠殺を思わせる絶叫が噴き出した。
だが、ビショップの解体は終わらない。
苦痛で前のめりに体勢を崩した龍我の
メチャリ
今度は、膝の皿が粉々に砕け散る鈍い音。
人体の支柱を完全に破壊された龍我の巨体は、一瞬宙に浮いたかと思うと、糸の切れた操り人形のように不様な音を立てて床へ崩れ落ちた。
「あ……がッ、ひぃ……っ、あああああッ!」
数秒前まで、己の圧倒的な暴力と権力で楓を蹂躙しようとしていた男の見る影は、そこにはなかった。
砕けた膝とへし折られた手首を抱え込み、激痛と恐怖のあまり鼻水と涎を撒き散らしながら、床の上に這いつくばってガクガクと痙攣している。
それは、踏み潰された害虫と何ら変わらない、あまりにも惨めな姿だった。
ビショップは静かに歩み寄り、冷え切った革靴の底を、這いずり回る龍我の顔のすぐ横に無音で置いた。
激しい運動を行った直後にも関わらず、彼の息はただの一度も乱れておらず、仕立ての良い漆黒のジャケットには一本のシワすら刻まれていない。
暴力の質が、そして住む世界が根本から違っていた。
「ひぃっ……ゆる、ゆるして……」
涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにした龍我を見下ろし、ビショップは氷のように冷徹な声で最後の宣告を下す。
「名画に泥を塗ろうとした罪は重い。……残りの人生は、海の底で後悔しろ」
言葉と同時、ビショップの硬く引き締まった手刀が、龍我の
ゴッ、という短い衝撃音と共に、龍我の白目が剥き出しになり、その巨体がビクンと一度大きく跳ねて、完全に沈黙した。
静寂が戻った密室の中で、ビショップは乱れた袖口を直すように軽く手首を振る。
彼にとっては、日常に組み込まれた単なる清掃作業がひとつ終わったに過ぎない。
ベッドの上で毛布を抱きしめ、ただ震えながら事の顛末を見つめていた楓の瞳には、一切の感情を排して害虫を駆除したその男の姿が、どうしようもなく恐ろしく、そしてどこか神々しいほどに完璧な存在として映り込んでいた。