床に倒れ伏した巨体の痙攣が完全に止まり、密室には嵐が過ぎ去った後のような、深い静寂が降り積もっていた。
紫色のネオンの光だけが、暗闇の中で無機質に点滅を繰り返している。
ベッドの上で毛布をきつく抱きしめていた楓は、荒くなっていた呼吸を少しずつ落ち着かせながら、眼前の光景をただ見つめていた。
自分を蹂躙しようとしていた醜悪な男は、完全に意識を刈り取られ、床の染みのように無様な姿を晒している。
そして、その傍らには、一切の感情を排した漆黒の男が、微かな足音すら立てずに静かに立ち尽くしていた。
「……助けて、くれたんですよね……」
楓の唇から、震える声が微かに漏れた。
それが誰なのか、なぜここに現れたのかは全くわからない。
だが、彼が介入しなければ、孝の夢も、自分の尊厳も、すべてが泥に塗れて終わっていたことだけは確かだった。
「……ありがとう、ございます……」
戦慄と安堵が入り混じった感謝の言葉。
しかし、アーサー・ビショップは表情を微塵も変えることなく、冷え切った視線を気絶した龍我へと向けたまま、淡々と口を開いた。
「警察やジムにデータを送ったというのは嘘だ」
予想外の言葉に、楓は小さく息を呑む。
ビショップはジャケットの襟を正しながら、ただ事実だけを冷酷に並べ立てた。
「あいつを処理するのに、警察や協会では生ぬるい。データは、この男が薬を横流しして裏切ったヤクザの幹部にのみ送信した」
その言葉が意味する絶対的な絶望を、ビショップは底冷えのする声で語る。
「今頃、彼らが殺意を持ってこの部屋に向かっている頃だろう。あとは、裏社会のゴミ処理機構がすべてを代行する……ドラム缶の中でコンクリートに沈むか、あるいは生きたまま解体されて内臓を売り払われるか……いずれにせよ、二度と表の世界にこの男の姿が現れることはない」
それは、手を汚さずに対象を完全に抹消する、
法で裁くのではなく、悪をより大きな悪の胃袋に放り込み、効率的に廃棄させる。
ビショップの住む世界がいかに血も涙もない冷酷なルールで回っているかを、その静かな言葉が雄弁に物語っていた。
楓が言葉を失っていると、ビショップは無言で床に片膝を突いた。
彼の視線の先には、龍我に無惨に踏み躙られ、千切れた赤いミサンガが落ちていた。
孝との思い出の結晶であり、二人の純愛の象徴。
ビショップは革手袋に包まれた指先で、その薄汚れた赤い糸を静かに拾い上げる。
「名画に汚れは不要だ」
低く呟かれた言葉と共に、ビショップの指先から微かな熱のない光が漏れ出した。
彼が契約する
物理法則を完全に無視し、千切れた繊維が生き物のように蠢き、絡み合い、あっという間に元の鮮やかな赤色と形を取り戻していく。
数秒後、ビショップの掌の上には、一切の傷も汚れもない、買いたての頃のような美しいミサンガが横たわっていた。
先ほどまでの凄惨な暴力とは対照的な、あまりにも静かで神秘的な光景だった。
ビショップは立ち上がり、呆然とする楓の傍らへそのミサンガを静かに置いた。
「お前の中に、この男の記憶は残さない。……それが
懐から銀色に鈍く光る小型のデバイスを取り出しながら、プロフェッショナルとしての冷徹さを以てそう答える。
ビショップが低い声で宣告した瞬間、楓の視界の端から、世界が黒いインクを落としたように急速に溶け始めた。
部屋の輪郭が曖昧になり、カビと芳香剤の匂いが消え去っていく。
意識が遠のき、深い眠りの底へと引きずり込まれる中で、楓が最後に見たのは、闇そのものに溶けて消えていく漆黒の男の静かな後ろ姿だった。
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冷たい夜風が、頬を優しく撫でた。
不意に目を覚ますと、楓はボクシングジムの前に置かれた古びたベンチに座っていた。
遠くで車の走る音が微かに聞こえ、街灯のオレンジ色の光がアスファルトを照らしている。
自分がなぜここで眠っていたのか、どうしてこんな時間にジムの前にいるのか、頭の中には薄い霧がかかったようでうまく思い出せない。
ただ、「大切な人を待っていた」という確かな感覚だけが胸の奥に残っていた。
ふと視線を落とすと、右手首には赤いミサンガがしっかりと結ばれている。
龍我という男の卑劣な脅迫も、密室での身の毛もよだつ恐怖も、闇から現れた死神のような男の姿も、彼女の記憶からは完全に抜け落ちていた。
ただ、胸の奥に理由のわからない微かな違和感と、ひどく安心するような温もりだけが残響のように漂っている。
ガチャリ
振り返ると、ミーティングを終わらせ、少しの疲労とスッキリとした顔つきの孝が、スポーツバッグを肩に掛けて立っていた。
彼はベンチに座る楓の姿を認めると、驚いたように目を丸くした。
「楓……こんな時間まで待ってたのか?」
孝は少し呆れたような、けれど隠しきれない喜びと優しさを滲ませた声で歩み寄ってくる。
「こんな所に一人でいたら危ないだろ。……一緒に帰ろう」
差し出された無骨で大きな手。
その手には、これから多くの困難を乗り越え、夢を掴み取るための確かな力が宿っている。
楓は記憶の欠落による微かな戸惑いを夜風に預け、満面の笑みを浮かべてその手を取った。
「うん。一緒に帰ろ、孝くん」
二人の影が、街灯に照らされてアスファルトの上で一つに重なる。
額縁の端にこびりついた薄汚い泥は、誰の目にも触れることなく完璧に削り落とされた。
神が愛でる至高の芸術は、何一つ損なわれることなく、再び純白のキャンバスの上で美しくその物語を紡ぎ始めていた。
コレ需要あるのかな?と授業を受けながら自分の妄想を書き溜めたメモ帳の中身を消化しながら、多機能フォームと戦っています。