夢幻の大地、メルヘヴン。
草木は人の声に応え、石さえも時に笑い、夜空には幻鳥と妖精が尾を引いて舞う。その西岸にある港町アカルパポートは、陽が落ちてからが本番だった。濡れた石畳にランタンの灯が揺れ、酒と香辛料の匂いが潮風に混じる。港に停泊した船からは異国の歌が漏れ、路地の奥では、旅人と船乗りの笑い声が夜を賑わせていた。
その喧騒から少し離れた通りを、一人の魔女が歩いていた。
桃色の髪を二つに編み、尖ったウィッチハットを被る。
夜に溶けるような黒のドレスは臍にまで切れ込みが入り、歩むたびに白い腿とその奥の影を月光にちらつかせる。
豊かな胸元も歩みに合わせて柔らかく揺れ、行き交う酔客の視線を釘付けにする。
まだ十八歳の少女でありながら、その立ち居振る舞いには、年齢だけでは測れない艶と、幾つもの戦場を越えてきた者だけが持つ凛々しさがあった。
カルデアの魔女、ドロシー。
南方の孤島に築かれた魔術国家カルデアは、ARMの発祥地である。銀の装身具に魔力を流し、炎を呼び、風を操り、結界を張り、守護者を召喚する秘宝。今でこそARMは世界中に広がっているが、その製法の根幹はいまだカルデアの奥深くに秘匿されている。
そのカルデアに生まれたドロシーは、八年もの間、一つの使命に縛られてきた。
国外へ流出した七百九十八個の禁断のARMを回収すること。 そして、それを持ち出した姉ディアナを討つこと。
身内の不始末は、身内が裁く。
カルデアの掟は、まだ幼さの残る少女の肩に、姉の罪と命を同時に背負わせた。
その使命は、終わった。
つい先日、最後のARMはカルデアへ戻された。石造りの広間に七百九十八の輝きが並び、大長老が静かに頷いた瞬間、ドロシーの八年はようやく幕を閉じた。
『よくやった、ドロシー』
褒められたかったわけではない。 許されたかったのかもしれない。
姉を追い、姉を討ち、姉が残した罪の後始末を終えるまで、ドロシーは自分の人生をどこか遠くへ預けたままだった。
もう、明日からは自由に生きてよい。
そう言われても、胸に広がったのは解放感だけではなかった。喜びの底に、ぽっかりとした空白がある。八年間ずっと握りしめていたものを手放した途端、指先が何を掴めばいいのかわからなくなったようだった。
(自由、ね……)
ドロシーは帽子のつばを押さえ、小さく笑った。
そんな空白を埋めるように、ひとつの顔が浮かぶ。
虎水ギンタ。
異世界からメルヘヴンへやって来た少年。無鉄砲で、まっすぐで、誰かのために泣いて怒れる少年。チェスの兵隊との戦いを終えた彼は、もうこの世界にはいない。幼馴染の少女、小雪のいる世界へ帰っていった。
(ギンタン、今頃、何してるのかな……)
最後に交わした言葉。雲海の上で触れた唇。遠くなった背中。
思い出すたび、胸の奥が少しだけ痛む。
けれど今夜、ドロシーがアカルパポートまで足を運んだのは、感傷に浸るためではなかった。手にしているのは、派手な意匠の優待券。差出人はガーニッシュ。曰く、港町に面白い酒場があるから、使命明けの祝いに行ってこい、とのことだった。
(ガーニッシュったら、相変わらず妙なところで気が利くんだから)
葡萄のレリーフが刻まれた木扉の前で、ドロシーは足を止める。
酒場《バッカス亭》。
扉を開ける直前、ふと数日前の記憶がよみがえった。
カルデア宮殿の最奥。石畳に刻まれた魔法陣を、円を描く燭台の火が照らしていた。
「七百九十八個目のARM、確認した」
大長老の声が、広間に深く響く。
「よくやった、ドロシー」
魔法陣の周囲には、回収されたARMが半円を描いて並んでいた。八年の旅路が、いまこの場所で形になっている。ドロシーは背筋を伸ばし、胸に手を当てて一礼した。
「大ジジ様」
「カルデアの掟は、若いお前を長く縛り続けてきた。だが、それも今日までだ。これからは、お前らしく生きよ」
老いた声に滲んでいたのは、誇りだけではない。わずかな悔恨と、孫娘を送り出すような慈しみだった。
ドロシーの胸に熱いものが込み上げる。
「大ジジ様……!」
けれど涙は見せなかった。魔女は凛と顔を上げ、大長老の眼差しを受け止めた。
儀式が終わり、宮殿の回廊へ出ると、三つの影が待っていた。
「よう、ドロシー! 返納の儀、お疲れ!」
真っ先に声を上げたのは、燃えるような赤毛の少女、ウィートだった。勢いよく手を振る様は、昔から少しも変わらない。
「長い旅、ご苦労さま。そろそろ肩の荷、下ろしていい頃でしょ?」
腰に手を当て、からかうように笑ったのはガーニッシュ。派手な装いも、相手の懐へ遠慮なく踏み込む物言いも、いかにも彼女らしい。
その隣で、ピンクの髪を揺らしたイフィーが、控えめに微笑む。
「八年間の使命、よくやり通したね。おめでとう、ドロシー」
「ありがとう、みんな」
ドロシーは三人を見渡し、素直に笑った。
ウィート、ガーニッシュ、イフィー。 カルデアでの日々を知る者たち。彼女たちがそこにいるだけで、ドロシーが帰ってきたのだという実感が、少しずつ胸に満ちていった。
「で、これからどうする?」
ウィートが軽く背中を叩く。
「どうしよう……八年間ずっとARM回収だったから、明日からの人生が想像できないのよね」
「じゃあ恋でも始めなさいよ」
ガーニッシュが待ってましたとばかりに言った。
「華の十八歳でしょ? アルヴィスとか、ナナシとか、いい男もいるじゃない」
「もう、あいつらとはそういう関係じゃないってば!」
ドロシーは頬を赤らめ、慌てて否定する。
「――ってことは、まだギンタのことを」
「ばか、ウィート!」
イフィーが呆れたようにウィートの腕をつついた。ドロシーは否定しなかった。ただ困ったように笑い、目を伏せた。
その時だった。
「戻ってたのか、ドロシー」
朗らかな声が回廊に響いた。
振り向いた先に、白銀の髪を後ろで束ねた青年が立っている。カルデア人には珍しい褐色の肌。穏やかな目元。少しだけ遠慮がちな笑み。
オスカー。
代々ARM彫金師を営む家の生まれで、宮殿前の通りに小さな工房を構えている青年だった。腕は確かだが、家系ゆえに魔力量は低い。魔法の才を重んじるカルデアでは、そのことが時に冷たい視線を招いた。
けれどオスカーは、卑屈にならなかった。
誰よりも丁寧に銀を磨き、誰よりも繊細に魔力の流れを読む。持たざる者でありながら、持つ者のための道具を作る。その姿に、幼いドロシーは憧れた。
姉ディアナの罪によって周囲の目が変わった頃、ドロシーは初めて、自分もまたカルデアの中で孤独なのだと知った。そんな彼女にとって、魔力の少なさを理由に見下されながらも工房に立ち続けるオスカーは、眩しく見えた。
年上の、優しい彫金師。
それは、ドロシーの初恋だった。
もっとも本人は、その感情に長く名前を付けられなかったし、いつしかその淡い想いは、異世界から来た少年への恋に上書きされていった。それでも、オスカーという名を聞くたび、胸の奥にしまった古い鈴が微かに鳴る。
「たまには俺の店にも寄ってくれよ。返納したARMの整備だって、まだまだ仕事はあるんだ」
「うん。近いうちに顔出すよ、オスカー」
ドロシーは帽子のつばを軽く持ち上げ、笑った。
その様子を、少し離れた柱の影から三人が見守っていた。
「絵になる、二人」
イフィーがぽつりと呟く。
「そういえばドロシーって、大昔にオスカーのこと――」
「ちょっと。面白そうな話、後で詳しく聞かせなさいよ」
ガーニッシュが目を輝かせる。ウィートはしまったという顔をしながらも、結局にやにや笑いを隠せなかった。
華やかな魔女と、寡黙な彫金師。
身分も、魔力量も、生きてきた場所も違う。それでも、ふたりの間には確かに、かつて同じ疎外を知った者同士の親しさがあった。
「…ま、国外のイイ男と出会うって手もあるかもよ?ホラドロシー、パーッと遊んできなさいな」
ガーニッシュがドロシーに手渡したのは、アカルパポート《バッカス亭》の優待券。
(全くガーニッシュったら。)
ドロシーは《バッカス亭》の扉に手をかける。
(イイ男ねえ…)
心のなかで呟きながら扉を開ける。中から、酒と音楽と、人の熱が溢れ出した。
「やっぱりドロシーちゃんやないか! おーい、こっちや!」
聞き覚えのある陽気な声が飛んできた。
目隠しをした金髪の青年、ナナシ。盗賊ギルド・ルベリアの頭領であり、ウォーゲームを共に戦った仲間でもある。
「久しぶりやなぁ。なんや、おっぱいも育っとるんと違うか~?」
「あんたは相変わらずね」
軽口に軽く拳を返し、ドロシーはカウンター席に腰を下ろした。
杯を重ねるうち、話題は自然と一年前の戦いに移った。チェスの兵隊。ウォーゲーム。ファントム。ディアナ。そして、ギンタ。
(――乗っとるっ……)
テーブルへ前のめりになるたび、ドロシーの胸が柔らかく潰れ形を変える。
一年前より成熟した18歳の肢体に、ナナシの視線がちらつく。
「ギンタと別れる時、ドロシーちゃんおらんかったやろ。あいつ、寂しそうやったで」
ナナシはそう言って、ドロシーの胸元へ注ぐ視線を誤魔化すように話を振る。
「……見届けられなかった。でも、その前に気持ちは伝えたわ」
グラスの中で、琥珀色の酒が揺れる。
雲海の上で交わした、最初で最後の口づけ。あれが恋だったのか、旅の熱だったのか、今でもうまく言葉にできない。ただ、ギンタの笑顔を思い出すと、胸の奥が温かくなって、同時に痛んだ。
「ほんなら、俺が彼氏になったろか?」
ナナシがわざとらしく笑う。
ドロシーは一瞬だけ目を丸くし、それから肩を竦めた。
「ありがとう。でもナナシは浮気するでしょ?」
「信用ないなぁ」
「日頃の行いよ」
ふたりは笑った。
けれど、その笑いの底には、ほんのわずかな寂しさが混じっていた。ナナシは軽い男だ。けれど軽いだけの男ではない。ドロシーもそれを知っている。
ふと、カウンターの上で指先が触れた。
ほんの数秒。
酒場の音が遠くなる。ドロシーは手を引くべきか迷い、ナナシもまた、いつものように茶化す言葉を選べずにいた。
やがて、どちらからともなく指は離れた。
「……今夜のドロシーちゃん、ちょっと危なっかしいな」
「何よ、それ」
「自由になったばっかりの女は、どこ飛んでくかわからんってことや」
会計の時、ナナシはドロシーの手に小さな指輪を押し込んだ。
「《エレクトリック・アイ》や。新しい雷ARMが手に入ったから、これは預けとく。忘れんようにな」
「キザね。でも今度返すわ。忘れられないうちに」
ドロシーが店を出たあと、ナナシは空になったグラスを見つめ、苦笑した。
「……振られてもうたなあ」
*
夜風が頬を撫でる。
港町の喧騒は、少しずつ背後へ遠ざかっていた。
(危なかった……)
軽く受け流したつもりでも、胸の鼓動はまだ速い。もしナナシがもう少し強く迫っていたら。使命を終えた解放感と酒の熱に背中を押されていたら。
自分は、どうしていただろう。
一瞬だけ、脳裏にナナシと夜を過ごす刹那の未来が浮かんだ。
(でも、やっぱり私、ギンタンを忘れられないや。ごめんね、ナナシ)
もし今夜、ナナシの手を取っていたら。 もしこのまま夜明けまで、彼と過ごしていたら。
この後の出来事に気づかず、ドロシーの運命は、まったく別の軌跡を辿っていたかもしれない。
石畳の角を曲がった瞬間、背筋に冷たいものが走った。
港の喧騒が、遠ざかったわけではない。
さっきまで確かに耳に届いていた笑い声も、酒場の音楽も、波止場の鐘も、同じ夜の中にある。それなのに、その一角だけ、音が死んでいた。
路地の奥。
月明かりの届かない影が、ひとつだけ濃い。
「こそこそ隠れてないで、出てきたらどうだい?」
ドロシーは足を止めず、あえて人気のない横丁へ踏み込んだ。
靴音が、濡れた石畳に小さく跳ねる。右手は自然に指輪へ伸びていた。酒は入っている。疲れもある。だが、油断していい気配ではなかった。
闇の奥から、巨躯の男が現れた。
黒いローブを深く被り、顔は見えない。肩幅は常人の倍近く、腕は丸太のように太い。だが、ただの力自慢ではない。沈んだ魔力が、夜気を押し退けるように漂っている。
男は名乗らなかった。
「魔女ドロシー…排除する」
虚空から五叉の巨大手裏剣を呼び出し、無造作に構える。
「ウェポンARM《大文字》……!」
鋼が唸った。
初撃は速い。
見た目に似合わぬ踏み込みだった。石畳が砕け、巨体が一息で間合いを詰める。五叉の刃が横薙ぎに走り、路地の壁を削って火花を散らした。
ドロシーは反射的に身を沈める。
刃が帽子のつばを掠めた。
「いきなり物騒ね!」
箒型ARM《ゼピュロスブルーム》を顕現させる。銀の柄が掌へ収まり、穂先に風が巻いた。
ドロシーは低い姿勢のまま一歩踏み込み、下から男の手首を打つ。
鈍い音。
だが、男の腕は揺れただけだった。
(硬い……!)
筋肉だけではない。身体強化系のARMか、あるいは防御の魔力を纏っている。
「倒れろ!魔女ドロシー!」
男が吠え、二撃目を振り下ろす。
ドロシーは壁を蹴った。狭い路地の両壁を足場にして身体を跳ね上げ、刃をかわす。大文字が石畳へ食い込み、破片が飛ぶ。その瞬間、彼女は空中で半回転し、箒の柄を男の後頭部へ叩き込んだ。
「ぐっ……!」
男の頭が下がる。
浅い。
だが、隙はできた。
「ウィンダールヴ!」
ゼピュロスブルームの穂先から風刃が走る。路地を縦に裂く真空の刃。男は巨体を捻ってかわしたが、ローブの肩口が裂け、血が散った。
「へえ。図体のわりに身軽じゃない」
「ちょこまかと……!」
男は怒鳴り、地面に掌を叩きつけた。
「ネイチャーARM《砂地獄》!」
硬い石畳が、足元から崩れた。
砂。
港町の石畳が、あり得ないほど細かい砂に変わっていく。円形に渦を巻き、ドロシーの足首を呑み込んだ。
「っ……!」
抜こうとした瞬間、砂の中から無数の腕が伸びる。
手ではない。縄でもない。砂を固めた触手めいた拘束だった。足首に絡み、膝を押さえ、腰へ巻きつく。
ドロシーは箒を地面へ突き立て、風圧で身体を浮かせようとした。
だが、砂の渦は下へ下へと引き込む。
(足場そのものを変えられた……!)
男は大文字を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「どうした。空でも飛ぶか?」
「言われなくても!」
ドロシーはゼピュロスブルームへ魔力を流す。風が足元に集まり、砂を吹き飛ばす。だが、砂は飛ばされた端からまた形を取り、彼女の身体へ絡みついた。
拘束が胸元と肩口へ伸びる。
豊かな胸は圧迫されて形を変え、スリットスカートはめくれ上がり、滑らかな内腿を露わにする。
「あっ…ぐうっ…」
冷たく湿った質感の触手が、ドロシーの身体を締め上げていく。身を捩じっても、動きは封じられる。艶やかな唇から、か細い喘ぎが漏れる。
巨漢の右腕が鞭状のムカデへと変形する。《ウェポンARM・百足》だ。刃のような節が彼女の左肩を掠め、黒衣を弾き飛ばす。白い肩が月光に染まる。
「ああああっ!!」
次に右腰。黒衣が剥ぎ取られ、鼠径部の柔肌があらわになる。
「くっ……!」
このARMは地面と繋がっている。ならば、術者を切ればいい。
ドロシーは無理に拘束を解こうとしなかった。逆に、砂に引かれるまま一瞬だけ身を沈める。男が勝ったと見て、わずかに踏み込んだ。
その瞬間を待っていた。
「調子に乗るなっ!」
ゼピュロスブルームの穂先が跳ねる。
地面からではない。砂の拘束の内側から、圧縮した風を撃ち出した。
風刃は低く、鋭く、路地を走った。
男の右腕を掠め、ローブごと肉を裂く。
「ぐあっ……!」
大文字が揺らぐ。
砂の拘束が一瞬だけ緩んだ。
ドロシーはその隙を逃さず、身体を捻って片足を引き抜く。だがもう片方の足首には、まだ砂が食いついている。完全に抜ける前に、男は後方へ跳んだ。
「畜生……《煙幕》!」
黒煙が炸裂した。
視界が潰れる。
同時に、ドロシーを縛っていた砂の腕が崩れた。
「ARMが解除された……?」
煙の中で、ドロシーは目を細める。
見えない。
ただの煙幕ではない。魔力の気配が薄れていく。ゼピュロスブルームへ流していた魔力が、途中で切断されたように散った。
背後で、嗄れた笑い声がした。
「この煙幕は魔力をゼロにする。俺はARMを使えねえが――お前も同じだ!」
声の位置を頼りに、ドロシーは横へ跳んだ。
半拍、遅い。
巨拳が脇腹にめり込んだ。
「がっ……!」
身体が浮く。
石畳へ叩きつけられる。背中に衝撃。息が詰まる。魔力で受け身を取ることもできない。煙の中、男の影が迫る。
ドロシーは転がってかわそうとした。
だが、腕を掴まれた。
強い。
人間離れした握力だった。肩が軋み、身体が強引に引き起こされる。反射的に蹴りを放つが、男は腹で受け止め、逆に彼女を壁へ押しつけた。
「へへ……ARMが使えなければ腕力勝負。男が女に負けるはずもねえ」
ドロシーは歯を食いしばる。
この距離。この煙。魔力なし。ゼピュロスブルームは手にあるが、ただの箒に近い。相手は巨漢。まともに力比べをすれば不利だ。
ならば、力比べをしなければいい。
ドロシーは抵抗をやめた。
男が一瞬、拍子抜けしたように力を緩める。
その瞬間、額を叩き込んだ。
「ぐっ!?」
男の鼻が折れる音。
同時に、ドロシーは膝を跳ね上げた。狙いは急所ではない。男の太腿。巨体を支える軸足。
男が呻き、姿勢を崩す。
「この女……!」
だが、倒れない。
男の手がドロシーの胸元を掴み、一気に引きちぎる。
「くうっ!」
弾けるように露出した乳房に、男は生唾を呑む。
「ひゃはっ!すげえ美乳だ。流石の魔女ドロシーよ!」
ドロシーは気丈に睨み返すが、恥ずかしさに耳の裏まで赤く染まっている。
「やめろ……!」
ドロシーの声には怒りがあった。恐怖よりも先に、怒りが来た。戦場で追い詰められることはあった。傷を負うこともあった。だが、戦士としてではなく、女として踏みにじろうとする手つきに、全身の血が熱くなる。
彼女は男を睨み上げた。
「さて、お次は…」
欲情に隆起した股間を隠す気もない男の手が、ドロシーのスリットスカートを捲り上げようとする。
その時、首元の通信用ARMが鋭く鳴った。
『――任務を忘れたのですか。カルデアへ戻りなさい』
若い男の声だった。
巨漢は忌々しげに舌打ちした。
「……命拾いしたな、魔女」
ドロシーを突き飛ばす。
次の瞬間、ディメンションARMの光が男を包み、巨体は闇へ消えた。
煙が晴れていく。
ドロシーは壁に手をつき、荒い息を吐いた。破れた胸元の布で胸を押さえ隠す。痛みよりも、屈辱よりも、胸の奥に刺さった違和感の方が強かった。
(油断した……)
あの黒ローブ。あのARM。あの声。
(カルデアへ戻れ、だって……?)
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
ドロシーは通信用ARMを取り出した。だが、応答はない。何度試しても、雑音すら返らない。
「まさか……」
背中に手を回すと、小さな銀細工が張り付いていた。通信を阻害するARMだ。
(いつから? 誰がつけた?)
ガーニッシュの優待券。 ナナシとの酒場。 黒ローブの襲撃。
点と点が、まだ線にならない。けれど、何かが動いている。
ドロシーは通信阻害のARMを握り潰した。
直後、通信が繋がる。
『ドロシー! 良かった……こっちから何度も――あああっ!』
イフィーの悲鳴。
そして、途切れる通信。
ドロシーの顔色が変わった。
「くそっ……ディメンションARM、アンダータ!」
指輪が光を帯びる。
「私をカルデアへ!」
光がドロシーの身体を包み、彼女の姿はアカルパポートの路地から掻き消えた。