転移の光が晴れた瞬間、熱風がドロシーの頬を打った。
カルデアが燃えていた。
白い石壁は黒く煤け、宮殿へ続く道には瓦礫が散乱している。夜空を焦がす炎の中で、逃げ惑う人々の悲鳴と、ARMの炸裂音が入り混じっていた。
「何よ、これ……」
声が掠れる。
つい数日前、使命の終わりを祝ってくれた街だった。友人たちが笑っていた。大長老が労ってくれた。オスカーが、また店に寄れと言ってくれた。
その場所が、炎に呑まれている。
「ドロシー……!」
背後から、弱々しい声がした。
振り返ると、イフィーがよろめきながら立っていた。髪もローブも血に濡れ、片腕を押さえている。
「イフィー!」
ドロシーは駆け寄り、彼女の身体を支えた。
「しっかりして。何があったの!?」
「黒いローブの男たちが……“チェス”を名乗って……」
黒ローブ。
さきほどの襲撃者と同じ。
「男たちは宮殿へ……オスカーが、足止めに……大ジジ様が危ない……」
「もう喋らないで!」
ドロシーはホーリーARMを展開し、イフィーの傷を塞いだ。完全ではない。だが命は繋げる。
「ここは私に任せて。安全な場所へ行って」
「ドロシー……気をつけて……」
イフィーの声を背に、ドロシーは再びアンダータを起動した。
目指すは、宮殿最奥。
返納の儀が行われた、あの広間だった。
*
蝋燭の多くは倒れ、魔法陣は煤と血で汚れていた。
焦げた匂い。血の匂い。ARMが暴発した後の、鼻の奥に刺さる銀臭い魔力の残滓。
返納の儀が行われた広間は、数日前とは別の場所のようだった。あの時、七百九十八個のARMが静かに輝いていた魔法陣の上には、今は瓦礫と血溜まりが散っている。
その中央に、大長老が倒れていた。
「大ジジ様ッ!」
ドロシーが駆け寄ろうとした瞬間、男の声がそれを遮った。
「久しぶりですね、ドロシー」
細身の長身。うねる髪。どこか芝居がかった口調。
カペル・マイスター。
かつてゴーストチェスとしてメルを苦しめた、ゴーストARMの使い手。最後は異形と化し、ギンタに倒されたはずの男。
「お前……生きて……」
「ええ。世界を変革するため、死の淵から戻って参りました」
カペルが薄く笑う。
その背後に、四つの影が現れた。
一人は、先ほど路地でドロシーを襲った巨漢。 二人は、小柄な黒ローブ。 そして、最後の一人は――。
「ガーニッシュ……?」
ドロシーの声が震えた。
露出の高いドレス。見慣れた顔。いつものように不敵な目。
だが彼女は、炎に包まれたカルデアの側ではなく、黒ローブたちの側に立っていた。
「本当に馬鹿ね、ドロシー」
ガーニッシュは冷たく笑う。
「ナナシと楽しくやってればよかったのに」
「まさか……アカルパポートに行かせたのも、カルデアからの通信が届かないようにしたのも、アンタが……?」
信じられなかった。
ガーニッシュは気まぐれで、私欲に走ることもある。だが、カルデアを敵に売るような真似をする女ではない――少なくとも、ドロシーはそう思っていた。
カペルが横目でガーニッシュを見る。
「おや。それは聞き捨てなりませんね。どういうつもりですか、ガーニッシュ」
「……チッ」
ガーニッシュは舌打ちし、視線を逸らした。
ドロシーは眉をひそめる。
(ドロシーを遠ざけることは、カペルの指示じゃない……?)
カルデアを襲うなら、ドロシーを遠ざけるのは合理的だ。だが、リーダーであるカペルがそれを知らないのなら、ガーニッシュは別の思惑で動いていることになる。
問いただしたいことは山ほどあった。
だが、カペルはそれを許さない。
「さて、そろそろ次のステージへ行きましょう」
カペルが腕を掲げる。
その手には、奇妙なARMがあった。
道化師の意匠を持つ鍵。門番ピエロに似ている。だが、纏う魔力の流れが逆だった。外から内へ呼ぶのではない。内から外へ、世界の壁をこじ開けるための力。
ドロシーの顔が強張る。
「まさか……逆門番ピエロ……!」
異界の住人を呼び出す門番ピエロとは対極に、こちらから異界へ渡るためのARM。カルデア宮殿最深部に封印されていたはずの秘宝。
「それを奪うために……!」
「ええ。実に素晴らしい道具です」
カペルは恍惚とした表情で言った。
「ギンタやダンナの世界を先に侵略するのも悪くはない。ですが、知っていますか? 三つ目の世界の存在を」
「三つ目の……世界?」
メルヘヴン。 ギンタのいた世界。 そのどちらでもない、別の世界。
カペルは笑う。
「そこで私は、真のキングメーカーになる。ファントム様とは違う、真の王を見つけるのです」
何を言っているのか、わからない。
だが、わかることもあった。
この男を行かせてはいけない。
「行かせないッ!」
ドロシーは床を蹴った。
ゼピュロスブルームが顕現する。路地裏の戦いで負った痛みが脇腹を刺す。だが構っていられない。ここで逆門番ピエロを起動されたら、何が起こるかわからない。
一直線にカペルへ。
しかし、小柄な黒ローブ二人が前に出た。
一人が両手を広げる。冷気が弾け、床から氷塊が突き上がった。もう一人が掌を振ると、巨大な鋸刃が空中に現れ、回転しながら走ってくる。
氷と鋸。
別方向からの同時攻撃。
「邪魔!」
ドロシーはゼピュロスブルームを振り抜いた。風が氷塊を砕き、破片が光る。だが砕けた氷の向こうから鋸刃が迫っていた。
身体を捻ってかわす。
頬に熱い痛み。鋸の端が掠めた。
かわした先へ、氷の槍。
「くっ……!」
箒の柄で受ける。衝撃で腕が痺れた。氷槍は砕けたが、破片が胸元と肩を叩く。そこへ巨漢が踏み込んだ。
「さっきの続きだ、魔女!」
大文字が唸る。
ドロシーは低く身を沈めた。刃が頭上を薙ぎ、背後の柱を削る。石粉が舞う。彼女はその懐へ潜り込み、箒の柄を巨漢の鳩尾へ叩き込んだ。
重い手応え。
だが、巨漢は倒れない。
「効くかよ!」
膝が来る。
ドロシーは肘で受けた。骨が軋む。体格差がありすぎる。押し負ける前に、彼女は風を足元で爆ぜさせ、後方へ跳んだ。
着地と同時に、横から氷塊。
前から鋸刃。
背後に巨漢。
(連携が速い……!)
即席の襲撃者ではない。動きに役割がある。カペルを守りながら、ドロシーを削る配置だ。
ならば守りを崩す。
「デンジャラスストーム!」
道化師の笑みを浮かべた風船がいくつも出現し、氷使いの男へ殺到する。
「小細工を!」
黒ローブが氷の壁を立てる。風船が触れ、爆発。氷壁が砕け、白い霧が広間へ広がった。
視界が悪くなる。
その霧の中を、ドロシーは走った。
狙いはカペル。
「甘いですね」
霧の向こうから、カペルの声。
床が鳴った。
ゴーストARM、デモンハンド。
巨大な腕が、霧を裂いて迫る。
ドロシーは身を反らす。爪が腹部を掠め、ドレスを裂いた。続く二本目が横から来る。
「ウィンダールヴ!」
風刃を至近距離で放つ。
デモンハンドの指が数本切れ飛んだ。だが、腕そのものは止まらない。切断面から新たな肉が泡立つように盛り上がる。
(再生が早い……!)
カペルは余裕の笑みを崩さない。
「以前の私と同じと思わないことです」
「うぐっ!!」
デモンハンドがドロシーの身体を掴む。
「う…うっ…」
巨大な悪魔の手が、ドロシーの胸を弄ぶようにムニムニと揉みしだく。
そのままドロシーを高く掲げる。スカートはめくれ上がり、その下に下着をつけていない彼女の一糸纏わぬ下半身が襲撃者たちの目に、大ジジ様の目にも晒される。
「…ホントね、前より攻撃がいやらしくなった。今更性に目覚めたわけ?」
ドロシーは挑発し、エアハンマーでデモンハンドを破壊する。
その着地点へ、鋸刃が走った。
避けきれない。
ゼピュロスブルームを盾にする。火花。衝撃。腕が弾かれ、身体が半回転する。そこへ氷の塊が腹へ叩き込まれた。
「きゃあああっ!」
ドロシーの身体が壁へ吹き飛ぶ。
背中から石壁に激突した。呼吸が止まる。落下する。床に叩きつけられる寸前、誰かの腕が彼女を抱き止めた。
「ドロシー!」
「オスカー……!」
褐色の腕。白銀の髪。さきほどまで回想の中にいた青年が、血と煤にまみれた姿でそこにいた。
ドロシーの心臓が跳ねる。
懐かしさではない。安堵でもない。もっと複雑で、ずっと古い感情が一瞬だけ胸を揺らした。
しかし、オスカーの顔に余裕はなかった。
「駄目だ、ドロシー。こいつらは強い。今の君じゃ――」
「そんなの、やってみなきゃわからないでしょ!」
言い返しながら、彼女はオスカーの腕から身を起こす。
カペルはその間にも逆門番ピエロを起動していた。
巨大なピエロの影が、魔法陣の上に立ち上がる。
空間が歪む。広間の蝋燭の火が、一斉に横へ流れた。世界そのものが、どこか別の場所へ引っ張られている。
「トンネル開通デース! ダイスの目は六。お入りくださーい!」
巨大なピエロがサイコロを振る。
カペル、大男、小男二人、ガーニッシュ。
五人。
六なら、一人分余る。
だが、黒ローブたちの間に妙なざわめきが走った。
「八面ダイスとはいえ、七などそうそう出ませんね。まあ、最低限三ならよいのですが」
カペルが肩を竦める。
「お、おいカペル! 俺は連れてくよな?」
巨漢が焦ったように詰め寄る。
「抜けるならお前だろうが! 俺より下の位のくせに!」
小柄な男が食ってかかる。
(何を争ってる……? 六人行けるはずじゃ……)
次の瞬間、カペルの腕が砲身へ変形した。
「ハウリングデモン」
轟音。
放たれた一撃が、巨漢の胸を貫いた。
「畜、生……また、俺は……」
倒れた男のローブが裂け、素顔が露わになる。
「コウガ……!」
かつてチェスの兵隊に属したナイト、コウガ。
混乱するドロシーをよそに、カペルは何事もなかったかのように門へ向かう。
「待……て……!」
ドロシーの声に、カペルが振り返った。
「貴方も来るのですよ。新世界へ」
カペルの腕が巨大な手へ変形した。
ドロシーは反応した。
ゼピュロスブルームを構え、風を放つ。だが、先ほどの連戦で魔力が乱れていた。風刃は巨大な指を一本裂いたに留まり、残る四本が彼女の身体を掴み上げる。
「なっ……!」
胸と腰を締めつけられ、肺から息が漏れた。箒を振ろうにも、腕ごと拘束される。ゴーストアームはぬめるように形を変え、力を逃がさない。
「さらば、メルヘヴン。次に戻るのは、この世界を破壊する日となるでしょう」
カペルと部下たち、ガーニッシュ。そしてドロシー。
逆門番ピエロの扉が、彼らを呑み込もうとする。
(ふざけるな……)
カルデアが燃えている。 大長老が倒れている。 イフィーが血を流した。 ガーニッシュが裏切った。 オスカーが、目の前にいる。
それなのに、自分はまた何もできないのか。
ディアナの時も、メルの仲間がいなければ辿り着けたかどうかわからない。姉を討ったと思っても、胸に残るのは勝利ではなく、無力感だった。
それでも。
今度こそ、止める。
「上等だよ」
ドロシーはカペルを睨み上げた。
「アンタが何を企んでるか知らない。でも、カルデアを襲った罪は償わせる」
「ドロシー!」
扉の向こうから、オスカーが飛び込んできた。
「オスカー、来ちゃ駄目!」
オスカーはドロシーを掴む巨大な手にしがみつき、引き剥がそうとする。生身でどうにかなるものではない。それでも彼は手を離さなかった。
その無謀さが、昔の記憶と重なる。
持たざる者でありながら、誰かのために手を伸ばす青年。
かつて、ドロシーが憧れた姿。
「これで六人。トンネル閉鎖しマース!」
門番ピエロの声が響く。
メルヘヴンへの扉が閉じた。
光が弾ける。
ドロシーたちは、揉み合いながら異界のトンネルへ放り出された。
七色の奔流の中で、メルヘヴンの景色が遠ざかる。
そして、裂け目の向こうに、夜のような世界が見えた。
奇妙な形の城。 知らない空。 知らない魔力。
そこで、ドロシーが一生涯忘れられない物語が始まる。