冷たい水が、肺の奥まで入り込んでくる。
ドロシーは必死に顔を上げた。
「っ……は、ぁ……!」
息を吸ったつもりが、喉へ水が流れ込む。地下水路の流れは想像以上に速く、彼女の身体を石壁へ、鉄柵へ、曲がり角へと容赦なく叩きつけていった。
暗い。
頭上には黒い天井。左右にはぬめった石壁。時折、鉄格子の隙間から月明かりが線のように差し込み、すぐにまた闇へ消える。
ドロシーは壁へ手を伸ばした。
爪が石を掻く。
滑る。
もう一度。
今度は古い金具に指がかかった。全身に力を込め、流れに抗う。
「く……っ!」
肩が外れそうな痛み。
踏ん張る足は水流にさらわれ、身体は横向きに引き伸ばされる。錆びた金具が、ぎしりと嫌な音を立てた。
もたない。
そう思った瞬間、金具が壁から抜けた。
ドロシーの身体は、再び流れに呑まれる。
背中が石にぶつかる。肘を打つ。膝が何か硬いものを擦り、痛みが走る。帽子はどこかで水にさらわれ、三つ編みもほどけかけていた。黒いドレスは水を吸って重く、裂けた裾が足に絡みつく。
(ゼピュロスブルーム……)
手の中にない。
それだけで、胸の奥が冷えた。
箒があれば、こんな水路など一瞬で抜けられた。風を起こし、身体を浮かせ、翼猿たちを笑い飛ばして城の外へ出られたはずだ。
だが、ない。
姉から譲られた、ドロシーの象徴とも呼べるARMが、今は手元にない。
水路が急に広がった。
暗い筒のような通路から、外へ押し出される。冷たい夜気。水音の反響が消え、代わりに虫の声と川の流れが耳に入った。
城の外へ出たのだ。
だが、助かったわけではない。
水路から吐き出された先は、城下を迂回する川だった。地下水路ほどではないが、流れは速い。濡れたドレスが身体に貼りつき、重石のように彼女を沈めようとする。
「はっ……はぁっ……!」
ドロシーは何とか水面に顔を出し続けた。
泳ぎなど、得意ではない。
箒に乗って空を飛ぶ魔女にとって、激流を泳ぐ機会などそうあるものではない。しかも、転移の衝撃、翼猿との戦闘、水路での打撲で、身体はとっくに限界に近かった。
川岸が見える。
遠い。
手を伸ばす。枝の葉が指先を掠める。届かない。
次の枝。
今度こそ掴んだ。
「っ……!」
だが、枝は細かった。
水流に引かれるドロシーの体重を支えきれず、嫌な音を立てて折れる。彼女は枝ごと水面へ叩きつけられ、また流されていった。
(だめ……このままじゃ……)
肺が焼ける。手足が冷たい。濡れた衣服が肌へ貼りつき、裂けた布が水の中で揺れる。スリットの入った裾はさらに大きく裂け、白い太腿が水面に浮かんでは沈んだ。
もし翼猿たちが追いついていたなら。
この格好で、弱りきったまま、何もできずに見つかる。
(冗談じゃない……!)
最後の力で、川岸へ腕を伸ばす。
一度。
二度。
三度。
視界の端に、土の色が見えた。
浅瀬。
川が、少しだけ緩くなっている。
ドロシーはそこへ流されるまま、半ば転がるように岸へ打ち上げられた。
「げほっ……げほっ……!」
四つん這いになり、飲み込んだ水を吐く。
喉が痛い。胸が痛い。全身が重い。
それでも、生きている。
そう思った直後、力が抜けた。
ドロシーは泥に頬をつけたまま、動けなくなった。
夜気が冷たい。
濡れたドレスは胸元と腰に張りつき、裂けた部分から肌が覗いている。肩口は翼猿の爪で裂かれ、太腿には石で擦った赤い跡が走っていた。
この姿で眠るのは危険だ。
わかっている。
けれど、指一本動かせなかった。
(ギンタン……)
また、その名が浮かぶ。
遠い世界へ帰った少年。
もう、自分の声は届かない。
ドロシーの意識は、泥と水の匂いの中へ沈んでいった。
*
「あれま、大変!」
遠くで、女の声がした。
「こんな夜中に……まだ若い娘じゃないか。獄鬼にでも襲われたのかね」
肩を揺さぶられる。
返事をしようとしたが、喉が動かない。目も開かない。身体が重く、ひどく寒かった。
「あら、息がある。お嬢ちゃん、しっかり!」
誰かの手が、濡れた髪をかき分ける。
「ひどい格好だねえ……このままじゃ冷えちまう」
一瞬、ドロシーの身体が強張った。
けれど、その手つきに下卑たものはなかった。
濡れて肌へ貼りついた服を、怪我に触れないよう慎重にずらし、泥を払う手。傷口を確かめ、冷えきった身体を毛布で包む手。
「大丈夫。大丈夫だからね。あたしの家まで、少し我慢しな」
ドロシーはその声を最後に、再び意識を失った。
*
目を覚ますと、木の匂いがした。
低い天井。むき出しの梁。壁には乾燥させた草や道具が掛けられている。窓の隙間から柔らかな朝の光が差し込み、どこかで煮込まれた野菜の匂いがした。
ドロシーは寝台の上にいた。
「うわぁッ!」
彼女が目を開けた途端、傍らの女が大きく仰け反った。
髪を後ろで束ね、素朴なエプロンをつけた、中年の農婦だった。
「ああ、びっくりした。目が覚めたんだね。よかったよぉ」
「……貴女は……?」
声が掠れている。
身を起こそうとすると、肩と背中と膝が一斉に痛んだ。だが、傷には包帯が巻かれている。濡れて泥だらけだった服は脱がされ、乾いた布で身体を覆われていた。
枕元の椅子には、黒いドレスが掛けられている。破れた箇所は応急的に縫われ、暖炉のそばで乾かされていた。
「私はボク。この辺で細々と暮らしてる農婦さ。河原で倒れてたあんたを見つけてね。ほら、モロコシのスープだよ。まずはお食べ」
差し出された椀から、湯気が立っている。
警戒心はある。
だが、胃は空だった。
「ありがとうございます……助けてくれたんですね」
ドロシーは椀を受け取り、ゆっくり口をつけた。
温かい。
喉を通った瞬間、身体の芯が少しずつ戻ってくるようだった。
「河原であんたを見た時は肝を冷やしたよ。こんな田舎の夜中に、別嬪さんが野ざらしで倒れてるんだもの。獄鬼に見つかったら、どうなってたか」
「獄鬼……?」
聞き慣れない言葉だった。
ボクは目を丸くする。
「あんた、獄鬼も知らないのかい。人里離れたところに出る化け物さ。男なら殺されたり食われたり。でも女が襲われたら……まあ、もっと悲惨だよ。犯されて、孕まされちまう」
そこで、ボクの声が少し低くなった。
「奴らは人を人と思っちゃいない。だから皆、魔女様や魔法使い様の加護に縋るしかないんだよ」
「魔女……魔法使い……」
その呼び名なら、ドロシー自身にも馴染みがある。
だが、ボクの口ぶりからすると、この世界での意味は違うらしい。
ボクは湯気の立つ椀を両手で包み、少し声を潜めた。
「ここはオズの国、東部マンチキン。死の砂漠に囲まれたこの国は、いくつかの地方に分かれていてね。中央にはオズ大王様のおられるエスメラルダ、南にはグリンダ様の治めるカドリングがある」
「そこも、魔女が治めているの?」
「そうさ。けど、あちらの魔女様や魔法使い様は、獄鬼から人を守ってくださる。……本当は、魔法を持つ者ってのは、そうあるべきなんだろうね」
「本当は?」
「声が大きいよ」
ボクは慌てて窓の外を見た。
朝の光は穏やかだった。だが、その穏やかさがかえって、彼女の怯えを際立たせている。
「ここマンチキンを治めているのは、ネッサローズ様。西には、そのお姉様のエルファバ様が治める国がある。どちらも、とても強い魔女様だ。強すぎるくらいにね」
その言い方には、敬意よりも恐れが滲んでいた。
「表向きは、あの方々も獄鬼から民を守ってくださることになっている。だけど実際には……」
ボクはそこで言葉を切る。
暖炉の火が、小さく爆ぜた。
「翼猿が、城の兵隊として家々を回っているのを見ただろう。あれも獄鬼の一種さ。野に出る獄鬼から守ってやると言いながら、城の兵隊もまた獄鬼なんだ。私らには、どちらがましか選ぶこともできない」
ドロシーは黙った。
ボクの声はさらに低くなる。
「税は重い。献上品を怠れば、見回りから外される。獄鬼避けの巡回が来なくなれば、夜の畑も道も終わりだ。だから皆、頭を下げる。ネッサローズ様を讃える。翼猿にも逆らわない」
「……それで、守られてるって言えるの?」
「言うしかないんだよ」
ボクは苦く笑った。
「中央のエスメラルダや、南のカドリングみたいな土地なら、魔法使い様は人を守るために力を使う。けれどマンチキンじゃ、魔法は人を従わせるためにも使われる。あんたが魔女だって言うなら、わかるだろう。力ってのは、持つ者の心次第で、救いにも鞭にもなる」
ドロシーは椀の中のスープを見下ろした。
温かいはずの湯気が、急に遠く感じた。
「北は?」
「北のギリキンかい。昔はオズ大王様の娘御、モンビ様の管轄だったと聞くけど、今は……荒れているらしいね。詳しいことは、こんな田舎の農婦にはわからない。ただ、旅人は皆、北へは近づくなと言う」
ボクはそこで、ふと口をつぐんだ。
「……喋りすぎたね。今の話、外ではしないでおくれ。壁にも耳がある。翼猿は空から来るだけじゃない。夜の戸口にも、昼の井戸端にも、どこにでも目があるんだ」
ドロシーは頷きかけた。
その時だった。
乱暴なノックが、家の戸を叩いた。
どん、どん、どん。
木の扉が軋む。
ボクの顔色が変わった。
「噂をすれば……」
彼女は覗き窓へ向かい、すぐにドロシーを手で制した。
「動くんじゃないよ。寝台の陰に隠れてな」
その声には、先ほどまでの気さくさがなかった。
ドロシーは痛む身体を押して、寝台の陰へ身を沈める。乾かされていた服に手を伸ばす暇はない。肩に掛けられた布を押さえ、息を殺した。
扉が開く。
冷たい外気と共に、獣の匂いが流れ込んだ。
「女ヲ見ナカッタカ」
歪な声。
ドロシーの背筋が強張る。
翼猿だった。
青黒い体毛。むき出しの牙。背中の翼。昨夜、城で彼女を襲った守衛たちと同じ種族だ。
「桃色ノ髪、黒イ服ノ女ダ。昨夜、ネッサローズ様ノ城ヲ破壊シタ」
「い、いいえ。そんな人は見ておりませんが……」
ボクの声が震えている。
翼猿は室内を見回し、鼻を鳴らした。
濡れた布。薬草。血の匂い。
ドロシーは布の下で指輪を探る。
リングアーマーはある。だが、今の身体で即座に動けるかどうか。ゼピュロスブルームはない。まともに戦えば、家ごと壊すことになる。
翼猿の視線が、暖炉のそばの黒いドレスへ向いた。
ボクが一歩、前へ出る。
「ああ、それは娘の古着ですよ。洗ったばかりでね」
「娘?」
「嫁に行った娘が置いていったんです。田舎の家には、そんなものがいくらでもあるでしょう」
翼猿はじっとボクを見た。
長い沈黙。
やがて、鼻を鳴らす。
「現在、指名手配中ダ。見ツケ次第、城ヘ知ラセロ。匿エバ、家族ゴト罰セラレル」
「……はい。もちろんです」
扉が閉まる。
羽音が遠ざかっていく。
ドロシーは寝台の陰から顔を出した。
「かばってくれて、ありがとう」
ボクは答えなかった。
しばらく扉を見つめていた。その背中が、小さく震えている。
「……あんた、本当に何をしたんだい」
「さっき言った通りです。移動の事故で、たまたまその城に……」
「たまたま、ネッサローズ様の城を壊したって?」
ボクが振り向く。
その顔から、先ほどまでの温かさが消えていた。
「笑い事じゃないよ。あの方は、怒らせちゃいけない。あたしらみたいな者はね、魔女様の機嫌ひとつで生きる場所も、家族も、全部なくすんだ」
「……ボクさん」
「旦那も、昔、献上品を少しケチっただけだった。たったそれだけで、うちの畑は獄鬼避けの巡回から外された。夜のうちに、あの人は帰ってこなくなった」
怯えと怒りと悔恨が、低い声に混じっていた。
「それでも、息子夫婦は城下にいる。孫もいる。あたしがあんたを匿っていると知られたら、あの子たちがどうなるか……」
ドロシーは黙った。
責める言葉が出てこなかった。
この女は、自分を助けてくれた。
嘘をついて、翼猿から庇ってくれた。
それでも、恐怖に勝てない。
そういう世界なのだ。
「恨まないでおくれよ」
ボクは、壁に立てかけてあった麺棒を握った。
ドロシーの目が細くなる。
「……本気?」
「あんたを城に引き渡せば、少なくとも家族は見逃してもらえるかもしれない」
「私は、あなたに助けられた。だからできれば、戦いたくないんだけど」
「だったら、おとなしくしておくれ」
ボクが踏み込んだ。
中年の農婦とは思えないほど、動きは速かった。農作業で鍛えた腕が、麺棒を振り下ろす。
ドロシーは避けようとした。
だが、まだ身体が重い。水路で痛めた肩が反応を遅らせる。
ごつん、と鈍い音。
「ぐっ……!」
側頭部に衝撃が走り、視界が揺れた。
寝台に手をついて踏みとどまる。布が肩から滑り落ちかけ、ドロシーは片手で押さえた。乾いた服はまだ遠い。今この場でまともに動ける格好ではない。
ボクの目が、一瞬そこへ落ちる。
無防備な肩。濡れた髪。包帯の巻かれた胸元。傷つき、疲れ、武器も失った若い魔女。
そこにあったのは下卑た欲ではない。
だが、獲物を見る目だった。
捕まえられる。
差し出せる。
この女を犠牲にすれば、自分の家族は助かるかもしれない。
その計算が、ボクの瞳に宿っていた。
「ごめんよ……ごめんよ、お嬢ちゃん……!」
二撃目が来る。
ドロシーは指輪に魔力を込めた。
「リングアーマー!」
銀の鎧人形が、寝台の陰から立ち上がる。
振り下ろされた麺棒を、鋼の腕が受け止めた。
「な……!」
ボクの顔が引きつる。
リングアーマーは彼女の背後へ回り込み、腕を軽く押さえた。傷つけない。だが、動けない程度には確実に拘束する。
ドロシーはふらつきながら立ち上がった。
頭が痛む。足元もおぼつかない。けれど、声だけは静かだった。
「ボクさん。あなたを責めるつもりはないよ」
「……あんたも、魔女なのかい」
「私の世界では、そう呼ばれてた」
ドロシーは暖炉のそばへ歩き、乾きかけた黒いドレスを手に取った。
破れた箇所は多い。だが、着られないほどではない。
「看病とスープ、ありがとう。ここにいたら、あなたの立場が悪くなる。だから出ていく」
「お嬢ちゃん……」
「でも、次に翼猿が来たら、私を見なかったって言い通しなさい。あなたは私を捕まえようとして失敗したんじゃない。最初から、誰も見なかった。いい?」
ボクは唇を震わせた。
返事はなかった。
ドロシーはリングアーマーを解除する。
拘束が解けたボクは、膝から崩れ落ちた。
ドロシーは破れた服を身につけ、帽子のない髪を後ろへ払う。
ゼピュロスブルームはない。身体も万全ではない。行くあてもない。
それでも、ここにはいられない。
扉を開ける。
朝の光が眩しかった。
「ごめんね、お嬢ちゃん……達者でね……」
背後から、ボクの声がした。
ドロシーは振り返らなかった。
ただ、小さく頷いて、見知らぬ国の土を踏んだ。
空にはまだ、翼猿の影が飛んでいた。