※この作品はR-18です。

オズの国のドロシー ―傷だらけの黄色い道―   作:LFぼーむ

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ACT.4 民家にて

 冷たい水が、肺の奥まで入り込んでくる。

 ドロシーは必死に顔を上げた。

「っ……は、ぁ……!」

 息を吸ったつもりが、喉へ水が流れ込む。地下水路の流れは想像以上に速く、彼女の身体を石壁へ、鉄柵へ、曲がり角へと容赦なく叩きつけていった。

 暗い。

 頭上には黒い天井。左右にはぬめった石壁。時折、鉄格子の隙間から月明かりが線のように差し込み、すぐにまた闇へ消える。

 ドロシーは壁へ手を伸ばした。

 爪が石を掻く。

 滑る。

 もう一度。

 今度は古い金具に指がかかった。全身に力を込め、流れに抗う。

「く……っ!」

 肩が外れそうな痛み。

 踏ん張る足は水流にさらわれ、身体は横向きに引き伸ばされる。錆びた金具が、ぎしりと嫌な音を立てた。

 もたない。

 そう思った瞬間、金具が壁から抜けた。

 ドロシーの身体は、再び流れに呑まれる。

 背中が石にぶつかる。肘を打つ。膝が何か硬いものを擦り、痛みが走る。帽子はどこかで水にさらわれ、三つ編みもほどけかけていた。黒いドレスは水を吸って重く、裂けた裾が足に絡みつく。

(ゼピュロスブルーム……)

 手の中にない。

 それだけで、胸の奥が冷えた。

 箒があれば、こんな水路など一瞬で抜けられた。風を起こし、身体を浮かせ、翼猿たちを笑い飛ばして城の外へ出られたはずだ。

 だが、ない。

 姉から譲られた、ドロシーの象徴とも呼べるARMが、今は手元にない。

 水路が急に広がった。

 暗い筒のような通路から、外へ押し出される。冷たい夜気。水音の反響が消え、代わりに虫の声と川の流れが耳に入った。

 城の外へ出たのだ。

 だが、助かったわけではない。

 水路から吐き出された先は、城下を迂回する川だった。地下水路ほどではないが、流れは速い。濡れたドレスが身体に貼りつき、重石のように彼女を沈めようとする。

「はっ……はぁっ……!」

 ドロシーは何とか水面に顔を出し続けた。

 泳ぎなど、得意ではない。

 箒に乗って空を飛ぶ魔女にとって、激流を泳ぐ機会などそうあるものではない。しかも、転移の衝撃、翼猿との戦闘、水路での打撲で、身体はとっくに限界に近かった。

 川岸が見える。

 遠い。

 手を伸ばす。枝の葉が指先を掠める。届かない。

 次の枝。

 今度こそ掴んだ。

「っ……!」

 だが、枝は細かった。

 水流に引かれるドロシーの体重を支えきれず、嫌な音を立てて折れる。彼女は枝ごと水面へ叩きつけられ、また流されていった。

(だめ……このままじゃ……)

 肺が焼ける。手足が冷たい。濡れた衣服が肌へ貼りつき、裂けた布が水の中で揺れる。スリットの入った裾はさらに大きく裂け、白い太腿が水面に浮かんでは沈んだ。

 もし翼猿たちが追いついていたなら。

 この格好で、弱りきったまま、何もできずに見つかる。

(冗談じゃない……!)

 最後の力で、川岸へ腕を伸ばす。

 一度。

 二度。

 三度。

 視界の端に、土の色が見えた。

 浅瀬。

 川が、少しだけ緩くなっている。

 

 ドロシーはそこへ流されるまま、半ば転がるように岸へ打ち上げられた。

 

【挿絵表示】

 

「げほっ……げほっ……!」

 四つん這いになり、飲み込んだ水を吐く。

 喉が痛い。胸が痛い。全身が重い。

 それでも、生きている。

 そう思った直後、力が抜けた。

 ドロシーは泥に頬をつけたまま、動けなくなった。

 夜気が冷たい。

 濡れたドレスは胸元と腰に張りつき、裂けた部分から肌が覗いている。肩口は翼猿の爪で裂かれ、太腿には石で擦った赤い跡が走っていた。

 この姿で眠るのは危険だ。

 わかっている。

 けれど、指一本動かせなかった。

(ギンタン……)

 また、その名が浮かぶ。

 遠い世界へ帰った少年。

 もう、自分の声は届かない。

 ドロシーの意識は、泥と水の匂いの中へ沈んでいった。

 

 *

 

「あれま、大変!」

 遠くで、女の声がした。

「こんな夜中に……まだ若い娘じゃないか。獄鬼にでも襲われたのかね」

 肩を揺さぶられる。

 返事をしようとしたが、喉が動かない。目も開かない。身体が重く、ひどく寒かった。

「あら、息がある。お嬢ちゃん、しっかり!」

 誰かの手が、濡れた髪をかき分ける。

「ひどい格好だねえ……このままじゃ冷えちまう」

 一瞬、ドロシーの身体が強張った。

 けれど、その手つきに下卑たものはなかった。

 濡れて肌へ貼りついた服を、怪我に触れないよう慎重にずらし、泥を払う手。傷口を確かめ、冷えきった身体を毛布で包む手。

「大丈夫。大丈夫だからね。あたしの家まで、少し我慢しな」

 ドロシーはその声を最後に、再び意識を失った。

 *

 目を覚ますと、木の匂いがした。

 低い天井。むき出しの梁。壁には乾燥させた草や道具が掛けられている。窓の隙間から柔らかな朝の光が差し込み、どこかで煮込まれた野菜の匂いがした。

 ドロシーは寝台の上にいた。

「うわぁッ!」

 彼女が目を開けた途端、傍らの女が大きく仰け反った。

 髪を後ろで束ね、素朴なエプロンをつけた、中年の農婦だった。

「ああ、びっくりした。目が覚めたんだね。よかったよぉ」

「……貴女は……?」

 声が掠れている。

 身を起こそうとすると、肩と背中と膝が一斉に痛んだ。だが、傷には包帯が巻かれている。濡れて泥だらけだった服は脱がされ、乾いた布で身体を覆われていた。

 

【挿絵表示】

 

 枕元の椅子には、黒いドレスが掛けられている。破れた箇所は応急的に縫われ、暖炉のそばで乾かされていた。

「私はボク。この辺で細々と暮らしてる農婦さ。河原で倒れてたあんたを見つけてね。ほら、モロコシのスープだよ。まずはお食べ」

 差し出された椀から、湯気が立っている。

 警戒心はある。

 だが、胃は空だった。

「ありがとうございます……助けてくれたんですね」

 ドロシーは椀を受け取り、ゆっくり口をつけた。

 温かい。

 喉を通った瞬間、身体の芯が少しずつ戻ってくるようだった。

「河原であんたを見た時は肝を冷やしたよ。こんな田舎の夜中に、別嬪さんが野ざらしで倒れてるんだもの。獄鬼に見つかったら、どうなってたか」

 

「獄鬼……?」

 聞き慣れない言葉だった。

 ボクは目を丸くする。

 

「あんた、獄鬼も知らないのかい。人里離れたところに出る化け物さ。男なら殺されたり食われたり。でも女が襲われたら……まあ、もっと悲惨だよ。犯されて、孕まされちまう」

 そこで、ボクの声が少し低くなった。

 

「奴らは人を人と思っちゃいない。だから皆、魔女様や魔法使い様の加護に縋るしかないんだよ」

「魔女……魔法使い……」

 その呼び名なら、ドロシー自身にも馴染みがある。

 だが、ボクの口ぶりからすると、この世界での意味は違うらしい。

 ボクは湯気の立つ椀を両手で包み、少し声を潜めた。

「ここはオズの国、東部マンチキン。死の砂漠に囲まれたこの国は、いくつかの地方に分かれていてね。中央にはオズ大王様のおられるエスメラルダ、南にはグリンダ様の治めるカドリングがある」

 

【挿絵表示】

 

「そこも、魔女が治めているの?」

「そうさ。けど、あちらの魔女様や魔法使い様は、獄鬼から人を守ってくださる。……本当は、魔法を持つ者ってのは、そうあるべきなんだろうね」

「本当は?」

「声が大きいよ」

 ボクは慌てて窓の外を見た。

 朝の光は穏やかだった。だが、その穏やかさがかえって、彼女の怯えを際立たせている。

 

「ここマンチキンを治めているのは、ネッサローズ様。西には、そのお姉様のエルファバ様が治める国がある。どちらも、とても強い魔女様だ。強すぎるくらいにね」

 その言い方には、敬意よりも恐れが滲んでいた。

「表向きは、あの方々も獄鬼から民を守ってくださることになっている。だけど実際には……」

 ボクはそこで言葉を切る。

 暖炉の火が、小さく爆ぜた。

「翼猿が、城の兵隊として家々を回っているのを見ただろう。あれも獄鬼の一種さ。野に出る獄鬼から守ってやると言いながら、城の兵隊もまた獄鬼なんだ。私らには、どちらがましか選ぶこともできない」

 ドロシーは黙った。

 ボクの声はさらに低くなる。

「税は重い。献上品を怠れば、見回りから外される。獄鬼避けの巡回が来なくなれば、夜の畑も道も終わりだ。だから皆、頭を下げる。ネッサローズ様を讃える。翼猿にも逆らわない」

「……それで、守られてるって言えるの?」

「言うしかないんだよ」

 ボクは苦く笑った。

「中央のエスメラルダや、南のカドリングみたいな土地なら、魔法使い様は人を守るために力を使う。けれどマンチキンじゃ、魔法は人を従わせるためにも使われる。あんたが魔女だって言うなら、わかるだろう。力ってのは、持つ者の心次第で、救いにも鞭にもなる」

 ドロシーは椀の中のスープを見下ろした。

 温かいはずの湯気が、急に遠く感じた。

 

「北は?」

「北のギリキンかい。昔はオズ大王様の娘御、モンビ様の管轄だったと聞くけど、今は……荒れているらしいね。詳しいことは、こんな田舎の農婦にはわからない。ただ、旅人は皆、北へは近づくなと言う」

 ボクはそこで、ふと口をつぐんだ。

「……喋りすぎたね。今の話、外ではしないでおくれ。壁にも耳がある。翼猿は空から来るだけじゃない。夜の戸口にも、昼の井戸端にも、どこにでも目があるんだ」

 ドロシーは頷きかけた。

 

 

 その時だった。

 乱暴なノックが、家の戸を叩いた。

 どん、どん、どん。

 木の扉が軋む。

 ボクの顔色が変わった。

「噂をすれば……」

 彼女は覗き窓へ向かい、すぐにドロシーを手で制した。

「動くんじゃないよ。寝台の陰に隠れてな」

 その声には、先ほどまでの気さくさがなかった。

 ドロシーは痛む身体を押して、寝台の陰へ身を沈める。乾かされていた服に手を伸ばす暇はない。肩に掛けられた布を押さえ、息を殺した。

 扉が開く。

 冷たい外気と共に、獣の匂いが流れ込んだ。

「女ヲ見ナカッタカ」

 歪な声。

 ドロシーの背筋が強張る。

 翼猿だった。

 青黒い体毛。むき出しの牙。背中の翼。昨夜、城で彼女を襲った守衛たちと同じ種族だ。

「桃色ノ髪、黒イ服ノ女ダ。昨夜、ネッサローズ様ノ城ヲ破壊シタ」

「い、いいえ。そんな人は見ておりませんが……」

 ボクの声が震えている。

 翼猿は室内を見回し、鼻を鳴らした。

 濡れた布。薬草。血の匂い。

 ドロシーは布の下で指輪を探る。

 リングアーマーはある。だが、今の身体で即座に動けるかどうか。ゼピュロスブルームはない。まともに戦えば、家ごと壊すことになる。

 翼猿の視線が、暖炉のそばの黒いドレスへ向いた。

 ボクが一歩、前へ出る。

「ああ、それは娘の古着ですよ。洗ったばかりでね」

「娘?」

「嫁に行った娘が置いていったんです。田舎の家には、そんなものがいくらでもあるでしょう」

 

 翼猿はじっとボクを見た。

 長い沈黙。

 やがて、鼻を鳴らす。

「現在、指名手配中ダ。見ツケ次第、城ヘ知ラセロ。匿エバ、家族ゴト罰セラレル」

「……はい。もちろんです」

 扉が閉まる。

 羽音が遠ざかっていく。

 ドロシーは寝台の陰から顔を出した。

「かばってくれて、ありがとう」

 ボクは答えなかった。

 しばらく扉を見つめていた。その背中が、小さく震えている。

「……あんた、本当に何をしたんだい」

「さっき言った通りです。移動の事故で、たまたまその城に……」

「たまたま、ネッサローズ様の城を壊したって?」

 ボクが振り向く。

 その顔から、先ほどまでの温かさが消えていた。

「笑い事じゃないよ。あの方は、怒らせちゃいけない。あたしらみたいな者はね、魔女様の機嫌ひとつで生きる場所も、家族も、全部なくすんだ」

「……ボクさん」

「旦那も、昔、献上品を少しケチっただけだった。たったそれだけで、うちの畑は獄鬼避けの巡回から外された。夜のうちに、あの人は帰ってこなくなった」

 怯えと怒りと悔恨が、低い声に混じっていた。

「それでも、息子夫婦は城下にいる。孫もいる。あたしがあんたを匿っていると知られたら、あの子たちがどうなるか……」

 ドロシーは黙った。

 責める言葉が出てこなかった。

 この女は、自分を助けてくれた。

 嘘をついて、翼猿から庇ってくれた。

 それでも、恐怖に勝てない。

 そういう世界なのだ。

 

「恨まないでおくれよ」

 ボクは、壁に立てかけてあった麺棒を握った。

 ドロシーの目が細くなる。

「……本気?」

「あんたを城に引き渡せば、少なくとも家族は見逃してもらえるかもしれない」

「私は、あなたに助けられた。だからできれば、戦いたくないんだけど」

「だったら、おとなしくしておくれ」

 ボクが踏み込んだ。

 中年の農婦とは思えないほど、動きは速かった。農作業で鍛えた腕が、麺棒を振り下ろす。

 

【挿絵表示】

 

 ドロシーは避けようとした。

 だが、まだ身体が重い。水路で痛めた肩が反応を遅らせる。

 ごつん、と鈍い音。

「ぐっ……!」

 側頭部に衝撃が走り、視界が揺れた。

 寝台に手をついて踏みとどまる。布が肩から滑り落ちかけ、ドロシーは片手で押さえた。乾いた服はまだ遠い。今この場でまともに動ける格好ではない。

 ボクの目が、一瞬そこへ落ちる。

 無防備な肩。濡れた髪。包帯の巻かれた胸元。傷つき、疲れ、武器も失った若い魔女。

 そこにあったのは下卑た欲ではない。

 だが、獲物を見る目だった。

 捕まえられる。

 差し出せる。

 この女を犠牲にすれば、自分の家族は助かるかもしれない。

 その計算が、ボクの瞳に宿っていた。

「ごめんよ……ごめんよ、お嬢ちゃん……!」

 二撃目が来る。

 ドロシーは指輪に魔力を込めた。

「リングアーマー!」

 銀の鎧人形が、寝台の陰から立ち上がる。

 振り下ろされた麺棒を、鋼の腕が受け止めた。

「な……!」

 ボクの顔が引きつる。

 リングアーマーは彼女の背後へ回り込み、腕を軽く押さえた。傷つけない。だが、動けない程度には確実に拘束する。

 ドロシーはふらつきながら立ち上がった。

 頭が痛む。足元もおぼつかない。けれど、声だけは静かだった。

「ボクさん。あなたを責めるつもりはないよ」

「……あんたも、魔女なのかい」

「私の世界では、そう呼ばれてた」

 ドロシーは暖炉のそばへ歩き、乾きかけた黒いドレスを手に取った。

 破れた箇所は多い。だが、着られないほどではない。

「看病とスープ、ありがとう。ここにいたら、あなたの立場が悪くなる。だから出ていく」

「お嬢ちゃん……」

「でも、次に翼猿が来たら、私を見なかったって言い通しなさい。あなたは私を捕まえようとして失敗したんじゃない。最初から、誰も見なかった。いい?」

 ボクは唇を震わせた。

 返事はなかった。

 ドロシーはリングアーマーを解除する。

 拘束が解けたボクは、膝から崩れ落ちた。

 ドロシーは破れた服を身につけ、帽子のない髪を後ろへ払う。

 ゼピュロスブルームはない。身体も万全ではない。行くあてもない。

 それでも、ここにはいられない。

 扉を開ける。

 朝の光が眩しかった。

「ごめんね、お嬢ちゃん……達者でね……」

 背後から、ボクの声がした。

 ドロシーは振り返らなかった。

 ただ、小さく頷いて、見知らぬ国の土を踏んだ。

 空にはまだ、翼猿の影が飛んでいた。

 

 

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