森は、朝の光を拒んでいるようだった。
頭上では枝葉が幾重にも絡み合い、空を細く切り取っている。湿った土の匂い。苔むした木の根。どこかで鳥の鳴く声がするのに、その姿は見えない。
ドロシーは、足音を殺して歩いていた。
ボクの家を出てから、どれほど経っただろう。
応急的に縫われた黒いドレスは、まだ完全には身体に馴染まない。肩口の裂け目は塞がれていたが、布の下には包帯が巻かれている。水路で打った背中、翼猿に裂かれた肩、石で擦った膝と太腿。傷は乾き始めていたが、歩くたびに鈍く疼いた。
ボクは助けてくれた。
温かいスープを出してくれた。濡れた服を乾かし、傷の手当てもしてくれた。翼猿の前では、嘘をついて庇ってくれた。
それでも最後には、家族を守るため、ドロシーを引き渡そうとした。
善人が、善人のまま裏切る。
そのことが、胸の奥に重く残っている。
(そういう世界なんだ……ここは)
メルヘヴンにも悪人はいた。チェスの兵隊のような、世界そのものを戦火に巻き込む者たちもいた。けれど、この国は少し違う。
悪意だけが敵ではない。
恐怖。生活。家族。税。支配。
そういうものが、人を簡単に曲げる。
空を見上げる。
木々の隙間を、黒い影が横切った。
翼猿だ。
まだ探している。
開けた道を歩けば、すぐに見つかる。ボクは、黄色い煉瓦の道の周辺には宿場や集落が点在していると言っていた。だがそこへ出るまでに捕まっては意味がない。
だから、ドロシーは森へ入った。
森なら上空からは見えにくい。翼猿たちは空では速いが、枝葉の密集した森では速度を落とす。隠れるには悪くない。
問題は、森には別の危険があることだった。
「獄鬼、ね……」
ボクの言葉が蘇る。
オズの国に存在する化け物。人里離れた場所をうろつく。魔法を持たない者では対抗できない。男は喰われ、女は犯される……
ドロシーは右手を上げた。
「……ゼピュロスブルーム」
返事はなかった。
わかっていた。
指輪がない。
いつもなら右手の中指に嵌まっている、風のARM。昨夜、ネッサローズ城の暗闇で翼猿に妨害され、水路へ落ちる直前に手放した。
頭では理解していた。
けれど、指先を見つめて、ようやく実感が追いついてくる。
「……ない」
声に出した瞬間、胸の奥が冷えた。
ゼピュロスブルーム。
姉ディアナから譲られた、風の箒。ドロシーの象徴。空を飛ぶ力であり、戦いの軸であり、危機に陥った時に最後まで頼れる相棒だった。
それを、この世界に来て早々に失った。
「ほんと、最悪……」
笑うしかなかった。
カペルはどこへ行ったのか。
オスカーは無事なのか。
ガーニッシュは何を考えているのか。
カルデアはどうなったのか。
帰る方法はあるのか。
何ひとつ、わからない。
(ギンタンも、最初はこんな感じだったのかな)
異世界に放り込まれて、知らない空の下に立つ。
けれど、ギンタにはバッボがいた。メルがいた。ジャックやスノウ、アルヴィス、アラン、ナナシがいた。
今のドロシーには、誰もいない。
その事実を振り払うように、彼女は歩き出した。
「悩んでても仕方ない。まずは追っ手を撒いて、それから――」
言葉が止まった。
森の空気が変わった。
鳥の声が消えている。
湿った土の下から、低い振動。
ドロシーは反射的に横へ跳んだ。
直後、彼女が立っていた場所へ、巨大な腕が叩きつけられた。
土が弾ける。
木の根が砕け、湿った泥が飛び散った。
「ミつケた……」
太い声が、木々の奥から響いた。
現れたのは、獣だった。
いや、獣と言うには歪すぎる。
熊のような巨体。虎に似た頭。太い腕。背中には硬い毛が棘のように逆立ち、口元からは黒ずんだ涎が糸を引いている。大きさはドロシーの倍近い。人間なら一撃で胴を潰されるだろう。
だが、目には知性のようなものがあった。
濁っている。
けれど、ただの野生動物ではない。
「ピんク髪ノ魔女ォ……」
獣は片言の人語を発した。
ドロシーは半歩下がり、指輪を探る。
「獄鬼……ってやつ?」
「おデ、カりダ。オまエ連れテッテ、ネッさローず様ニ褒メてモラう」
「へえ。名前まであるんだ」
軽口を叩く。
だが、視線は冷静に相手を測っていた。
腕が長い。足は太いが、突進は速そうだ。爪の一撃をまともに受ければ終わる。距離を取り、風で崩す。それが本来の戦い方。
しかし、ゼピュロスブルームはない。
この世界の魔力は重い。
使い慣れた風も、今は手の中で形になりにくい。
「ただのでかい熊のくせに、このドロシーちゃんに挑もうだなんて」
ドロシーは左手の指輪に魔力を込めた。
「百年早いのよ。エアハンマー!」
圧縮した空気の塊が放たれる。
いつもなら、獣の巨体など軽く吹き飛ばせるはずだった。
だが、空気弾はカリダの胸に当たり、毛を少し揺らしただけだった。
「……あれ?」
カリダが首を傾げる。
次の瞬間、巨腕が横薙ぎに来た。
「きゃあっ!」
ドロシーは反射的に身を投げた。爪が胸元を掠め、ボクが縫ってくれた布地がまた裂ける。ドロシーの右胸が大きく揺れながら外気に晒される。
転がりながら距離を取る。
(やっぱり重い……! ゼピュロスブルームなしじゃ、出力が安定しない!)
城内では、まだ箒が媒介になっていた。今はそれすらない。補助に使っていたARMだけで、この濁った魔力を練らなければならない。
カリダが突進する。
ドロシーは木の幹を蹴った。
巨体がすぐ横を通り抜け、太い木をへし折る。避けた先で、後ろ脚の爪が跳ねた。白い太腿に赤い線が走る。
「っ……!」
傷は浅い。
だが、足が一瞬止まった。
その隙を、カリダは逃さない。
「捕マエタ!」
巨大な手が伸びる。
ドロシーは咄嗟に腕を上げた。リングアーマーを呼ぶには間に合わない。手首を掴まれた。
「ぐっ……!」
握力が骨に食い込む。
「ネッさローず様、喜ブ」
濁った目が、彼女を上から下まで眺める。
破れた黒いドレス。泥に汚れた頬。裂けた肩口から覗く包帯と白い肌。スリットの広がった裾から露わになった太腿には、先ほどの爪痕が赤く走っている。抵抗するたび、乱れた布が身体に張りつき、傷だらけの輪郭を浮かび上がらせた。右胸の布は弾け飛び、豊かな胸が剥き出しになる。
カリダの目に、下卑た光が混じった。
「おデ、褒メらレル。魔女、捕マエタ」
「……見世物じゃないのよ」
ドロシーの声が低くなる。
カリダの爪が、腰の辺りへ伸びた。
ゆっくりとスカートが持ち上げられる。下着をつけていないドロシーの下半身はそれだけで露わになってしまう。
「……何考えてんのよ、ヘンタイ熊」
毒つきながらも、股を閉じて大事なところが見えないようにするドロシー。
「っ!?」
やがてカリダの股間からムクムクと肥大していく赤黒い肉棒を目にして、息を呑む。
色事は未経験のドロシーには、人間のそれとの違いはまだわからないが―明らかにそれは生殖器だ。
『詳しくないって言ったって、獄鬼も知らないのかい。端的に言えば化け物さね。男なら殺されたり食われたりで済む。でも女が襲われたら……まあ、もっと悲惨だよ。犯されて、孕まされちまう』
ボクの説明を思い出す。語られる膨大な異世界の説明の中でスルーしていたが、よく考えればドロシーにとっては常識外のことだ。
メルヘヴンにもモンスターはいた。
しかし、それが女を犯す?それも?孕ませる?
犬が猫と交尾しても子が生まれないように、仮に人間の女がモンスターに犯されたとして、妊娠にまで至らないはず……
だが今、熊と虎を混ぜたようなこのモンスター―獄鬼、カリダは、いやらしい視線でドロシーを舐め回し、性器を勃起させている。
どちらにせよ、好きにさせる気はない。
ドロシーは腕を掴まれたまま、深く息を吸った。
魔力が重い。
ならば、細く操るのではなく、近距離で叩きつける。
「この距離なら……外さない!」
空いている手を、カリダの顔面へ向ける。
「エアハンマー!」
圧縮空気が、至近距離で爆ぜた。
「グボォッ!?」
カリダの顔が仰け反る。
指の力が緩んだ瞬間、ドロシーは手首を無理に捻って拘束を抜けた。皮膚が擦れ、鋭い痛みが走る。だが構っていられない。
地面へ落ち、肩から転がる。
泥を跳ね上げながら立ち上がると、カリダは鼻血を垂らし、怒りに濁った目でこちらを睨んでいた。
「魔女ォ……!」
「こっちの台詞よ」
ドロシーは息を整える。
正面から力で押せば負ける。
長引かせれば、魔力が尽きる。
ならば、次で決める。
カリダが突進した。
単純な突進。けれど、巨体ゆえにそれだけで脅威だった。地面が揺れ、木々が震える。
ドロシーは逃げなかった。
ぎりぎりまで引きつける。
爪が届く寸前、半歩だけ横へずれる。黒いドレスの表面が裂け、冷たい風が腹を撫でた。怖い。だが、止まらない。
振り抜かれた前脚の内側へ回り込み、再度急所の顔面へ、残った魔力を全部叩き込む。
「エアハンマーッ!!」
風の塊が、深くめり込んだ。
鈍い破裂音。
カリダの巨体が吹き飛び、岩へ叩きつけられた。岩肌が割れ、怪物は二、三度痙攣したあと、ようやく動かなくなる。
森が静かになった。
ドロシーはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
指先が震える。
膝が笑う。
呼吸を整えようとしても、喉の奥がひゅうひゅう鳴るばかりだ。
勝った。
初めてこの国で、本物の獄鬼と戦って、生き残った。
だが、辛勝だった。
メルヘヴンなら一撃で済んだ相手に、ここまで追い詰められた。
その事実が、じわりと重くのしかかる。
「……最悪」
掠れた声で呟く。
それでも、生きている。
ドロシーは震える手で、裂けた胸元を押さえた。次に太腿の傷へ視線を落とし、顔をしかめる。手首には、カリダの指の痕が赤黒く残っていた。
この格好で、長く森にいるのは危険だ。
獄鬼だけではない。翼猿もまだ空を探している。
その時、森の向こうから、かすかな音が聞こえた。
木々のざわめきとは違う。
車輪の軋み。
人の怒鳴り声。
家畜の鳴き声。
人里の気配だった。
「……集落?」
ボクが言っていた。黄色い煉瓦の道の周辺には、小さな宿場や農村が点在していると。
人里へ出るのは危険だ。
また裏切られるかもしれない。
ネッサローズへ通報されるかもしれない。
それでも、このまま森で倒れるよりはましだった。
ドロシーは太腿の傷に、裂けた裾の布を巻いた。荒い応急処置だったが、血を隠すだけなら十分だ。
「行かなきゃ……」
知らない国で、初めて倒した獄鬼。
だがそれは、この世界の恐ろしさの、ほんの入り口にすぎなかった。
ドロシーは傷だらけの足で、森の向こうに聞こえる人の声を目指した。