旧水車小屋が見えた頃には、東の空が白み始めていた。
川沿いに建つ石造りの小屋は、とうに役目を終えている。傾いた水車は流れに押されるたび、錆びた軸を軋ませた。
だが、泥の上に刻まれた轍は新しい。
「カペル!!」
ドロシーが駆け出す。
オスカーも遅れず続いた。
蹴破った扉の向こうには、空になった木箱が並んでいた。
人はいない。
床には緩衝材として詰められていた黒い藁と、獣脂のような臭いを放つ布。箱の側面には、街で見たものと同じ三日月の刻印が焼きつけられている。
「裏だ!」
オスカーの声と同時に、二人は小屋を飛び出した。
川向こうの土手を、一台の小型馬車が走っていた。
御者台に人影はない。車輪の脇から生えた昆虫じみた脚が、馬車そのものを走らせている。
幌の隙間から、長い水色の髪が一瞬だけ覗いた。
「カペルだ!」
ドロシーがARMを掲げる。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
一度、二度。間を置かず、激しく打ち鳴らされる。
火災を報せる間隔ではない。
獄鬼の襲撃を告げる鐘だった。
土手の向こう、森に囲まれた小さな村。その上空を黒い群れが旋回している。
「村が…獄鬼に襲われてる!」
一方、カペルの馬車は反対方向へ遠ざかっていく。
「どっちにする?」
オスカーが言った。
判断を委ねる声だった。
ドロシーは馬車を睨んだ。
馬車を追えば今度こそカペルの尻尾を掴める。OZ-ARMをこの世界にばら撒いて何を狙っているのか。カペルを捕らえれば一気に近づく。
再び鐘が鳴る。
今度は、風に乗って子供の泣き声が届いた。
「――村へ行く」
ドロシーは踵を返した。
「カペルはいいのか?」
「よくないわよ。でも、あいつを追う機会は次もある。あの村の人たちには、次がないかもしれない」
オスカーは微笑み、大きく頷いた。
「ああ」
二人は並んで走った。
「やっぱり変わったな!ドロシー。お姉さんを追ってカルデアを旅立ったときとは全然違う」
悪名高き魔女だった頃のドロシーだ。常に張り詰めていて、目的のためには手段を選ばない。
「…変わったのは、ギンタのお陰か?」
「どうかしら」
*
村を襲っていたのは、蝙蝠に似た獄鬼の群れだった。
人間ほどの大きさを持ち、翼の付け根から鉤爪の生えた腕を伸ばしている。群れは村人を食らうのではなく、屋根や荷車を壊し、逃げ惑う者を空へ攫っては弄ぶように放り落としていた。
「危ない!」
蝙蝠獄鬼が少年に飛びかかる。ドロシーは身を挺して彼を庇った。
「酷い有様だねこりゃ…」
太ももから血を流しながら、ドロシーは悪態をつく。
村の中央では、母親が井戸の縁に縋りついていた。
「娘が……娘が、まだあそこに!」
指さす先では、穀物倉の屋根に幼い少女が取り残されている。炎こそ出ていないが、獄鬼が柱をへし折ったせいで建物全体が傾き始めていた。
「オスカー、下をお願い!」
「ドロシーは?」
「あの子を迎えに行く!」
返事を待たず、ドロシーは風のARMを発動させた。
旋風が足元に巻き起こり、その身体を一気に屋根まで運ぶ。
風はドロシーの服を傷つける。ゼピュロスブルームがない今、ドロシーが空を飛ぶにはこんな無理矢理な方法しかない。
少女を抱き上げた直後、倉の梁が折れた。
オスカーが両手を振る。
銀色の刃が二本、崩れかけた壁へ突き刺さった。刃を中心に石材が凍りつき、倒壊がわずかに遅れる。
「飛べ、ドロシー!」
「言われなくても!」
風を蹴り、少女を抱いたまま宙へ逃れる。
だが、黒い影が上から重なった。
一頭の獄鬼がドロシーの肩を掴み、もう一頭が腰へ腕を回す。少女を離すまいとしたため、咄嗟に迎撃できない。
それでも、ドロシーはARMに精神を集中させた。
「オスカー、受け取って!」
少女を地上へ投げる。ドロシーの風が少女を包み、ゆっくりと落下する。
落下地点へ走り込んだオスカーが、少女をしっかりと受け止めた。
少女を母親へ渡すや否や、彼は頭上を見上げる。
少女を風で包むことに集中して無防備な空中のドロシーへ、三頭の獄鬼が同時に襲いかかっていた。
「しつこいのよ!」
身体を捻って蹴りつける。
踵が一頭の顎を打ち抜いたものの、その脚を大型の蝙蝠獄鬼が大きく持ち上げた。
「っ……!」
スカートの下に何もつけていないドロシーは、下半身を大胆にさらけ出す。
下には大勢の村人がいる。
オスカーもいる。
恥ずかしさで顔から火が出そうだ。ドロシーは精一杯暴れて抵抗する。
「この…エロ獄鬼……!」
大蝙蝠はドロシーの脚を掴んだまま町中の空を旋回する。
晒された肌へ無数の視線が集まるのを感じた。恥ずかしさで頬が熱くなる
やがて、大蝙蝠は勃起した性器を剥き出しのドロシーの下半身に擦り付ける。
「ふ、ふざけるな!!」
「ドロシー!」
オスカーが屋根から飛び上がった。
オスカーが投げた銀の短剣が、大蝙蝠の翼を縫い留める。低級のウェポンARMだ。
ドロシーは大蝙蝠の頭へ掌を突き出した。
「エア・ハンマー!」
圧縮された風が炸裂し、獄鬼を取り巻きごとまとめて吹き飛ばす。
半死半生の大蝙蝠はドロシーを手放し、今度はオスカーを捉え、空へ連れ去ろうとする。
「馬鹿! 何やってるのよ!」
「君に言われたくはないな!」
獄鬼が身を振った。オスカーを掴む鉤爪が外れる。
地上までは十数メートル。落ちれば無事では済まない。
ドロシーは攻撃のために集めていた魔力を解き、自分の身体を彼へ向けた。
「掴まって!」
伸ばした手と手が触れる。
互いの指が絡み、ドロシーは全身でオスカーを引き寄せた。
その反動で体勢を崩し、二人の身体が宙で強く重なる。
オスカーの腕が、咄嗟に彼女の腰へ回った。
ほとんど剥き出しになった肌へ、大きな手が直接触れる。
「ひゃっ……!」
「す、すまない!」
「謝る前に離れ――駄目、今は離さないで!」
「どっちなんだ!」
「落ちるでしょうが!」
オスカーの胸板へ押しつけられ、自分の身体の柔らかな部分が潰れている。薄い衣服越しに伝わる男の体温と硬さが、羞恥とは別の熱を生んだ。
けれど意識を乱している場合ではない。
ドロシーはオスカーを抱えたまま大蝙蝠の方を向いた。
「心臓を狙うわ。合わせて!」
「三つ数える。三――」
「遅い!」
「まだ一だぞ!」
オスカーが銀刃を投げる。
同時にドロシーが風を撃ち込んだ。
銀刃が獄鬼の肋骨の間へ潜り込み、風圧がそれを梃子のように押し上げる。
獄鬼の赤い瞳から光が消え、巨体が地面へ墜落する。主を失った群れは統制をなくし、森の彼方へ散っていった。
村に静けさが戻った。
ドロシーはゆっくりと地上へ降り立つ。
安堵した途端、身体を吹き抜けた風に肩を震わせた。
そういえば、ほとんど着ていない。
村人たちの視線が集まっている。
ドロシーは胸元と下腹部を腕で隠し、頬を真っ赤にした。
「……見るなっ!」
怒鳴られた男たちが、慌てて顔を背ける。
オスカーは腰へ結ばれた自分の外套を解き、彼女の肩へ掛けた。そのまま前を合わせ、首元の留め具まで閉じる。
必要以上に身体へ触れない、慎重な手つきだった。
「君には、その外套を返す才能がないらしい」
「返そうとはしてるわよ。毎回そっちから掛けてくるんでしょうが」
「では、貸し出し期限は無期限にしておこう」
ドロシーは文句を返しかけた。
だが、オスカーの左腕から血が流れていることに気づく。
先ほど獄鬼へしがみついた際、鉤爪に裂かれていた。
「怪我してるじゃない」
「この程度なら――」
「座って」
「ドロシー、僕は」
「座りなさい」
「……はい」
オスカーは素直に井戸の縁へ腰を下ろした。
*
「魔女様、本当にありがとうございました」
日が高くなった頃、村長がドロシーの前で深く頭を下げた。
その後ろには、村人たちが集まっている。誰もが疲れ切った顔をしていたが、朝まで漂っていた怯えは、いくらか薄れていた。
助け出された少女も母親に手を引かれてやってきた。もう泣いてはいない。ただ、母親の陰に半分隠れたまま、じっとドロシーを見上げている。
「これ、あげる」
少女が両手で差し出したのは、小さな花冠だった。
編み目はところどころ緩み、摘んだ花には根が残っている。慌てて作ったものらしく、大きさも少し足りなかった。
それでもドロシーは受け取り、自分の頭に載せた。
「似合う?」
少女が小さく頷く。
「ありがとう。それから、魔女様じゃなくていいわ。私の名前はドロシー」
「どろしー」
「そう。忘れないでね」
少女はもう一度、今度は少し大きな声で、その名を呼んだ。
村長は二人に、せめて今夜だけでも村で休んでほしいと申し出た。
カペルの馬車にはすでに大きく引き離されている。オスカーは左腕に深い傷を負い、ドロシーの魔力も連戦によって底をつきかけていた。ここで無理に追跡を再開しても、追いつくより先に倒れる可能性のほうが高い。
二人は一晩だけ世話になることにした。
*
夕食には、保存肉と豆を煮込んだスープ、黒パン、それに山羊の乳から作ったチーズが出された。
質素ではあったが、久しぶりの温かな食事だった。ドロシーは一杯目をほとんど噛まずに平らげ、二杯目まできれいに食べた。
向かいに座るオスカーは、傷のせいか食が進まないらしい。村人と話しながら何度も匙を口元へ運んでいたが、椀の中身はなかなか減らなかった。
「食べないならもらうわよ」
ドロシーが冗談半分に言うと、オスカーは椀を自分の側へ引き寄せた。
「怪我人の食事まで奪うものじゃない」
「いつまでも減らないから言ってるの」
「ちゃんと食べてるよ」
そう言って、また匙を口元へ運ぶ。
村長をはじめ、給仕をしていた村人たちは、その様子を妙に注意深く見ていた。
けれど、ドロシーは気づかなかった。腹が満たされると、それまで張りつめていた糸が一気に緩んでしまったからだ。
用意された部屋へ戻る頃には、すでに足元が覚束なかった。
今日は魔力を使いすぎた。そう思い、寝台へ腰を下ろす。
だが、疲労だけでは説明できないほど眠気は急だった。
外套を脱ぎ、腰のARMを外したところで、腕が動かなくなった。寝台脇の卓へ置こうとしたARMが、鈍い音を立てて床へ落ちる。
拾わなければと思った。
そのはずなのに、指一本動かせなかった。
身体の内側へ重い泥を流し込まれたようだった。視界が狭まり、息を吸うたびに意識が遠のいていく。
何かがおかしい。
そう理解したときには、もう声も出せなかった。
ドロシーの身体は寝台へ沈み、そのまま深い闇へ引き込まれた。
*
扉が開いたのは、それからしばらく後だった。
蝶番が低く軋む。
入ってきたのは三人の男だった。灯りを絞ったランプと、太い縄を持っている。
「眠ってるのか」
「あれだけ入れたんだ。朝までは起きねえよ」
「男のほうは?」
「同じものを食わせた。きっと今頃寝てるさ」
一人が寝台へ近づき、ドロシーの顔の前で手を振った。反応はない。
肩を揺すっても、瞼さえ動かなかった。
「それで、どうする」
「村長の話じゃ、まず縛れって」
「縛って、それからだ。目を覚ませば、こいつが大人しく従うと思うか?」
誰も答えられなかった。
彼女を村へ留めておけば、次に獄鬼が来ても戦わせられる。そう考えて薬を盛ったものの、目覚めた後のことまで決めていた者はいなかった。
男の一人が、寝台の脇へ膝をついた。
眠るドロシーの顔から、首筋、胸元へと視線を落としていく。その目に浮かんだものを見て、背後の男が眉をひそめた。
「おい。何考えてる」
「別に」
そう答えながら、男はドロシーの頬へ触れた。
指先で肌を押し、反応がないことを確かめる。今度は首筋へ手を滑らせた。
「やめとけ。縛るだけだ」
「昼間、見ただろ」
男の声が、わずかに掠れた。
獄鬼との戦いで衣服を裂かれ、宙へ吊り上げられた彼女の姿を、村人たちも目にしていた。
あのときは恐怖のほうが勝っていた。だが安全な部屋の中で、抵抗できない女を前にしている今、男たちの頭に蘇ったのは、戦いの凄惨さではなかった。
年齢は17、18といったところだろうか。その若さにしては発育の良すぎる身体。その乳房、下半身が大空の中で、多くの町民の目に晒されていたことを、彼らは思い出す。
「恩人だぞ」
「分かってる」
口ではそう言いながら、止めようとした男の視線も、ドロシーの身体から離れなくなっていた。
最初の男がドロシーの胸に触れる。
「すげえ、これが魔女様の……」
たぷんたぷんと柔らかく形を変えながら、少女の胸は男の手に揉まれていく。乱暴に掴まれても、ドロシーの身体にはわずかな反応しかない。
「おい、流石に…」
「少しくらい、分かりゃしねえよ」
2人目の男がボロボロのドロシーの胸の布に手をかけ、裂け目に指を入れて一気に引き裂くと、白く柔らかな乳房が躍り出た。
「ん…」
ドロシーが眠ったまま悩ましげな声を出すと、真っ白な乳房と桜色の乳首がぷるんと揺れる。ごくりと、3人の男が同時に生唾を飲む。気づけば皆、股間を固く膨らませていた。
3人目がドロシーのスリットに手を入れ、腿を探る。
ドロシーは動かない。
男の呼吸が次第に荒くなった。
もう一人の男が、その腕を掴んだ。
制止するためだったはずの手は、しかし、すぐには引き離さなかった。
「俺、もう我慢できねえ」
横たわるドロシーを見下ろし、最初の男が自分の腰布を下ろした。
勃起した中年男性の性器が空気に触れる。
寝台へ上がり、ドロシーの膝の間へ身体を割り込ませた。
その重みで寝台が大きく軋んだ。
赤黒い亀頭が、少女の秘裂に接触する。
男の目は爛々とした欲情の炎を灯していた。
ドロシーの意識が、不意に闇の底から浮かび上がった。
最初に感じたのは、胸を押さえつける手だった。
次いで、身体の上にいる男の重さと、酒臭い息。
まだ夢の中にいるのだと思った。
だが、肌を這う指の感触だけが、あまりにも生々しかった。
ドロシーは目を開いた。
見知らぬ男の顔が、すぐ上にあった。
「――っ!」
声にならない息を吐き、男の顎を掌で突き上げる。
男が仰け反った。ドロシーはその身体を蹴り飛ばし、寝台から転がり落ちる。
「起きたぞ!」
「押さえろ!」
立ち上がろうとした途端、激しい目眩が襲った。
膝が崩れる。
床へ落ちたARMへ手を伸ばしたが、その前に髪を掴まれた。
背後から腕を捻られ、壁へ押しつけられる。頬が硬い板へ打ちつけられた。
「離しなさい……!」
「今さら離せるか!」
男の声は恐怖で裏返っていた。
自分たちが何をしたのか、ようやく理解したのだろう。だが謝るのではなく、口を塞ぐことを選んだ。
ドロシーは肘を振り、男の脇腹へ叩き込んだ。手が緩んだ隙に振り返る。
もう一人が正面から飛びかかってきた。
肩を掴まれ、再び壁へ叩きつけられる。
背中に痛みが走った。
男がドロシーのお腹の布を掴み、破れかけていたドレスを力任せに引いた。布地が大きな音を立てて裂け、下半身が露わになる。
ドロシーは男の顔を引っ掻いた。
「この女……!」
少女と男たちはもみ合う。パフスリーブを掴まれ、肩が露出する。
男たちの顔に欲情の色が戻る。腕を押さえつけられたドロシーはろくな抵抗も出来ないまま、男たちが自分のスカートを捲り上げるのを見ているしかない。
その瞬間、部屋の扉が外側から吹き飛んだ。
男が振り返るより早く、その身体がドロシーから引き剥がされた。
オスカーが男の腕を背中へ捻り上げ、そのまま床へ叩き伏せる。肩の傷が開いたのか、シャツの左袖には血が滲んでいた。
「触るな」
低い声だった。
普段の気安さは、どこにも残っていない。
斧へ手を伸ばした男の喉元へ、銀色の刃が突きつけられた。切っ先が皮膚へ触れ、赤い線を作る。
「次に動いたら、手加減できない」
男は斧から手を離した。
残る一人は窓から逃げようとしたが、オスカーが蹴った椅子に脚を取られ、床へ倒れ込んだ。
三人が動けなくなったことを確かめてから、オスカーは剣を下ろした。
すぐにはドロシーへ近づかなかった。
「ドロシー。僕だ」
短く名乗り、彼女の反応を待つ。
ドロシーは裂けた胸元を腕で覆ったまま、荒い息を繰り返していた。
「……分かってる」
「立てるか」
頷こうとしたが、足に力が入らなかった。
オスカーは自分の上着を脱ぎ、手を伸ばせば届く場所へ置いた。
ドロシーはそれを取り、身体へ巻きつける。
それを見てから、彼はようやく手を差し出した。
ドロシーがその手を取ると、オスカーは彼女の身体へ余計に触れないよう気をつけながら、ゆっくりと立たせた。
「どうして、動けるの」
ドロシーは壁にもたれたまま訊いた。
「あの食事、食べなかったからな」
「でも、食事のとき……」
「食べているふりだよ。村人たちが、俺等の椀ばかり見ていたからな。気づいたときには、君の椀はもう空だった」
オスカーは床に倒れた男たちを見下ろした。
「君の部屋へ来ようとしたが、俺の扉には外から閂がかけられていた。遅くなって悪かった」
ドロシーは答えなかった。
答えようとすると、声が震えそうだった。
*
騒ぎを聞きつけ、村長と村人たちが集まってきた。
縛り上げられた男たちと、オスカーの上着を身体へ巻きつけたドロシーを見て、誰もが何が起きたのかを察した。
「食事に薬を入れたのは、あなた?」
ドロシーが訊いた。
村長は床へ膝をついた。
「……はい」
「こいつらに命じたことは?」
「眠っている間に、お二人を縛れと。それだけです。その先は、決して――」
ドロシーが睨みつけると、村長は口を閉ざした。
「…申し訳、ございません」
村長の額が床へ触れた。
ドロシーはその姿をしばらく見下ろしていた。
「…夜明け前に出ていくわ」
ドロシーが冷たく言う。そして、ドロシーとオスカーは宿屋から、村外れの納屋へ移った。
村の女が、洗ったばかりの古い服と毛布を置いていった。謝罪の言葉はなかった。何を言っても足りないと分かっていたのだろう。
オスカーは納屋の外で待ち、ドロシーが着替え終わるまで中へ入らなかった。
服を脱ぐ間、ドロシーの指は何度も止まった。
裂けた布に触れるたび、男たちの手の感触が蘇った。腹の底から込み上げる吐き気を堪え、服を丸めて納屋の隅へ投げる。
着替え終えても、一人でいる気にはなれなかった。
「もう入っていいわ」
声をかけると、オスカーが納屋へ入ってきた。ドロシーから少し離れ、壁際へ腰を下ろす。
二人とも眠らないまま、夜が明けかけていた。
オスカーの左袖には、乾いた血が黒くこびりついている。
「傷を見せて」
「君のほうこそ休んだらどうだ」
「腕が動かなくなっても知らないわよ」
治療道具を引き寄せると、オスカーは大人しくシャツを脱いだ。
傷は肩近くまで達していた。ドロシーが薬を含ませた布を当てると、筋肉がわずかに強張る。
「痛い?」
「少し」
「じゃあ我慢して」
包帯を巻きながら、その身体を改めて見る。
工房にいた頃は、もっと細身だった。小さな魔法具を扱っていた腕は逞しくなり、記憶にない傷痕も増えている。
幼い頃には、知らなかった身体だった。
治療を終えると、今度はオスカーがドロシーの足首を見た。
「そこも傷になっている」
「自分でできるわ」
「そうか」
あっさり包帯を渡され、ドロシーは少し迷った。
「……やっぱり、お願い」
オスカーは彼女の顔を確かめてから、足を膝へ載せた。必要なところにしか触れない、慎重な手つきだった。
その指を見ているうちに、昔のことを思い出した。
「私が工房へ持っていった物、まだ覚えてる?」
「髪留めと鈴。蓋の閉まらない宝石箱。それから、片方だけの耳飾り」
「覚えすぎよ」
「しょっちゅう来ていたからね」
「……あれ、半分くらいは壊れてなかったの」
「知っていたよ」
ドロシーは顔を上げた。
「鈴の中の布も?」
「宝石箱の留め金も。耳飾りの片割れをポケットに入れていたことも」
「気づいてたなら言いなさいよ」
「言えば、来なくなると思った」
オスカーは包帯を結び終え、ようやく笑った。
「僕も、君が来るのを楽しみにしていたんだ」
ドロシーは膝へ視線を落とした。
「あなたに会う口実だったのよ」
「ああ」
言葉は続かなかった。
はっきり言えるのは、ドロシーにとって初めての確かな恋心は、ギンタへのそれだった。
オスカーへの気持ちは、幼いドロシーなりの、年上の男性への純粋な憧れの気持ちだったのだと、思う。
姉が大罪を犯して形見の狭い想いをしていたドロシーにとって、低魔力の家系として蔑まれていたオスカーに親近感を感じていただけかもしれない。
あの日工房にいた青年と、目の前の男は同じ人間だ。けれど、懐かしいだけでは済まない何かを、今の彼には感じてしまう。
納屋の隙間から朝の光が差し込んだ。
ドロシーが立ち上がると、残った薬のせいで足元が揺れた。オスカーが手を差し出す。
「じゃあ恋でも始めなさいよ」
その向こうにある顔を見たとき、この世界に来る直前にガーニッシュに言われた言葉がふと胸をよぎった。
「水車小屋までって約束だったわよね」
「ああ」
「カペルを追う間も、一緒に来て」
オスカーが少し目を見開く。
「いいのか?」
「私が頼んでるのよ」
「なら、もちろん」
ドロシーは差し出された手を取った。
これが昔の恋の続きなのか、ただ懐かしいだけなのかは、まだ分からない。
ギンタを思う気持ちは、今も消えていない。遠い世界へ帰ったからといって、簡単に過去にできるものでもなかった。
ただ、どこへ繋がっているのかも知れない土地で、自分の子供時代を知る人間が隣にいる。その心強さだけは、疑いようがなかった。