昼を過ぎる頃には、ドロシーの足取りは目に見えて重くなっていた。
「平気よ」
「何も聞いてないぞ」
隣を歩くオスカーが笑う。
「顔に書いてある。『足が痛いけど意地でも認めません』ってな」
「書いてない」
「じゃあ、歩き方に出てる」
ドロシーは足を速めた。
だが、傷めた足首へ体重が掛かった途端、僅かに顔を歪める。
「ほらな」
「うるさい!」
「はいはい。威勢はいいから、次に休める場所があったら素直に休め」
オスカーはそう言って、ドロシーの帽子を指先で軽く押し下げた。
「子供扱いしないで」
「無茶をする小娘を放っておけないだけだよ」
「誰が小娘よ!」
「俺より年下の、強情で、すぐ服をぼろぼろにする魔女」
「最後のは私のせいじゃないでしょうが!」
言い合いながら進んでいると、街道脇に古びた看板が現れた。
雨風で文字の大半は消えている。辛うじて残った湯気の絵と、山へ続く細道だけが、その先に何があるのかを示していた。
「湯治場?」
「ちょうどいい」
オスカーは迷わず脇道へ入った。
「ちょっと。カペルの痕跡は西へ続いてるのよ」
「この道も西だ。それに、その足と格好で追いつけると思うか?」
ドロシーは自分の姿を見下ろした。
昨夜縫い直してもらった魔女服には、泥と血の跡が残っている。
帽子と同じ濃紺のワンピース型ドレス。白い襟から長い袖、腰を絞った胴、足元まで続くスリットスカートまでが一続きになった衣装だ。
深い切れ込みから覗く脚には、獄鬼の爪痕と青痣が残っていた。
「湯に浸かって、傷を洗って、服を乾かす。急ぐのはその後だ」
「勝手に決めないでよ」
「じゃあ、ドロシーが決めろ。今すぐ追跡を続けて途中で倒れるか、ひと風呂浴びてから格好よく追うか」
「……後者」
「いい判断だ、お嬢さん」
「その呼び方も腹が立つ」
オスカーは声を上げて笑った。
*
湯治場は、山肌へ張りつくように建っていた。
木造二階建ての宿と、その裏に並ぶ二つの湯小屋。
建物は古びているが掃除は行き届いている。ただし、客の姿はほとんどなかった。
女将は二人を見るなり目を丸くした。
「まあまあ、ひどい格好だねえ。獄鬼にでも追われたのかい?」
「追いかけ返したところよ」
「そりゃ頼もしい。そちらは旦那さんかい?」
「違います!」
ドロシーが即答する。
オスカーは隣で楽しそうに笑った。
「残念ながら、まだね」
「余計なこと言わないで!」
「冗談だよ。怒るなって」
女将は二人を見比べ、含みのある顔で頷いた。
「はいはい。最近の若い人は面倒だねえ」
「だから違うって言ってるでしょうが!」
部屋へ通された後も、ドロシーの頬は赤いままだった。
「何を笑ってるのよ」
「いや。旅先で夫婦に間違われるのも、悪くないもんだなと思ってさ」
「私は悪い」
「そうか? 傍から見れば似合ってたってことだぞ」
「調子に乗るな!」
投げつけられた枕を、オスカーは片手で受け止めた。
女将から渡された湯浴み布は、胸元から腿までを覆える長さだった。
湯小屋は男女別だが、間を隔てるのは厚い岩壁だけ。上部は開いているため、互いの声は聞こえるという。
「何かあったら呼べ」
「温泉で何があるのよ」
「ここの女将、獄鬼の話をしたときだけ目が泳いだ」
ドロシーも気づいていた。
「やっぱり、何か隠してるわよね」
「ああ。だからリング・アーマーだけは持っていけ。濡らしても平気だろ」
「分かってる」
「それと、あまり長く入るなよ」
「はいはい、お兄ちゃん」
「素直でよろしい」
「皮肉よ!」
*
女湯へ入ると、濃い湯煙がドロシーの身体を包んだ。
白濁した湯が自然石の浴槽を満たし、岩の隙間から絶えず新しい湯が流れ込んでいる。
ドロシーは帽子を外し、首元の飾りを解いた。
背の留め具を外し、長い袖から腕を抜く。ワンピース型の魔女服を頭から脱ぐと、その下には何も身につけていない裸身が現れた。
ドロシーの魔女服は、もともと下着を前提とした衣装ではない。
胸を覆う布も、腰を隠すものもない。身体を包むのは、深いスリットを持つ一枚のドレスだけだ。
湯浴み布を胸元へ巻きつけ、結び目を固く締める。
右手には、念のためリング・アーマーを残した。
湯へ足を入れた瞬間、傷へ熱が染み込んだ。
「あ……気持ちいい……」
「聞こえてるぞ」
岩壁の向こうからオスカーの声が飛んできた。
「聞くな!」
「無茶言うなよ。壁一枚なんだから」
「じゃあ、しばらく話しかけないで。静かに入りたいの」
「へいへい。お嬢さんの仰せのままに」
向こう側で大きな水音がする。
オスカーも湯へ入ったのだろう。
ドロシーは肩まで浸かり、岩へ背を預けた。
身体の疲れが、温かな湯の中へ溶け出していく。
岩壁の向こうには、同じように服を脱いだオスカーがいる。
意識した途端、余計な想像が頭をよぎった。
濡れた褐色の肌。
広い肩。
昨日、包帯を巻くために触れた、硬い胸板と腕。
(何を考えてるのよ、私……)
ドロシーは頬まで湯へ沈めた。
静かにしろと言ったのは失敗だったかもしれない。
声がない分、隣にいる男の存在を余計に意識してしまう。
湯の流れだと思った。
だが、すぐ目の前で湯が盛り上がり、青黒い頭がぬっと突き出した。
横に裂けた口。細かな歯。濁った眼。
獄鬼だ。
あまりに近い。
声を上げるより、まず離れなければならない。ドロシーは咄嗟に身を翻し、石組みの縁へ急いだ。
あと一歩で手が届く。
その寸前、背後から水かきのある掌が伸び、口を塞いだ。
「んんっ……!」
生臭い腕が胴へ回り、湯の中へ引き戻される。
ドロシーは肘を振り、腕を引っ掻いた。激しくもがくたびに湯が跳ね、胸元で結んでいたタオルが緩んでいく。
ついに布が大きくずれ、隠していた乳房が湯気の中へさらされた。
魚人の目が、そこへ吸い寄せられる。
喉の奥で、濁った息が鳴った。背後から押しつけられる身体が強張る。
異形の生殖器が勃起していた。黄色く濁った視線にも、粘ついた欲が宿る。
青黒い鱗。ぬめる皮膚。人間の男ほどもある半魚人の身体。
魚鬼。
湯の底に潜み、客を待ち受けていた獄鬼だった。
「んっ……んん!」
口を塞ぐ手へ爪を立てる。
だが、皮膚がぬるぬると滑り、まともに掴めない。
魚鬼のもう片方の腕が、湯浴み布の上からドロシーの胸を抱え込んだ。
濡れた身体同士が密着する。
鱗に覆われた指が布の合わせ目へ潜り込み、柔らかな肌を探るように這った。
右腕は、魚鬼の胴と自分の身体の間に挟まれている。
指にはリング・アーマーがある。
それでも、恐怖と驚きで魔力を集中できない。
岩壁の向こうから、オスカーの鼻歌が聞こえた。
すぐそこにいる。
腕を伸ばせば届きそうな場所に。
「んんっ! んーっ!」
必死に声を出す。
魚鬼の掌がさらに強く口へ押しつけられた。
呻きは湯音に紛れ、岩壁を越えない。
ドロシーの沈黙を、オスカーは不自然に思っていない。
静かに入りたいと言ったのは彼女自身だ。
魚鬼の裂けた口が、笑うように歪んだ。
言葉を理解している。
隣に男がいることも。
その男がまだ何も気づいていないことも。
「――っ!」
ドロシーは温泉の縁にうつ伏せになるようにして抑え込まれる。
抵抗してもがく下半身に、固い感触を覚える。
「んーっ!!」
魚鬼の性器が、ドロシーの陰唇を擦り付けていた。
この世界で既に何種類もの獄鬼と交戦して理解した、奴らの特性。
圧倒的な性欲。それは、人間の女に向けられる。
人間の女を孕ませて増える、穢らわしい生き物。
「んんっ!!!」
ドロシーは目の色を変えて暴れる。
暴れるほどに、少女の陰唇が魚鬼の亀頭を擦り、快感を与える。
このままでは挿入ってしまう。何も知らないオスカーのすぐそばで、気持ち悪い生物に純潔を奪われてしまう。ドロシーは涙を浮かべながら抵抗した。
魚鬼の固く勃起した性器が上滑りした瞬間、ぶびゅ と粘音が響いた。
間をおいて、ぼたぼたと熱い感触がドロシーの尻、背中に降り注ぐ。
虚空に放たれた精液が、ドロシーの柔肌をべっとりと汚した。
(これが、精液……獄鬼の……)
性経験のないドロシーにとって、初めて目にした、初めて肌に触れた精液。
それは人間のものですらない、魚型の獄鬼のもの。
嫌悪感に涙ぐむドロシー。
一度射精しただけでは、魚鬼は欲情を失わなかった。
「――っ!」
ドロシーを仰向けに押し倒し、膝を掴み、閉じた脚を左右へ押し開こうとする。
「んんっ……!」
ドロシーは首を振った。
背後の魚鬼が、ドロシーの胸へ掌を押しつけた。
柔らかさを確かめるように指が沈み、乳房の形を何度も歪める。
生臭い舌が、ドロシーの首を舐めた。
ドロシーの脚は完全に開かれ、その前には屹立した陰茎が姿を表す。
向こう側から、オスカーが湯を掻く音が聞こえた。
近い。
あまりにも近い。
それなのに、ドロシーが獄鬼に犯されかけていることを、彼は知らない。
恐怖が羞恥を上回った。
(冗談じゃない……!)
ドロシーは、口を塞いでいる手の水かきへ思い切り歯を立てた。
「ギィッ!」
魚鬼の拘束が一瞬だけ緩む。
「オス――!」
叫びきる前に、再び口を塞がれた。
だが、右腕が身体の間から抜けていた。
ドロシーは掌を開き、指輪へ魔力を叩き込んだ。
「んんっ――!」
リング・アーマーが展開する。
光輪がドロシーの身体を中心に炸裂し、密着していた魚鬼を岩壁へ叩きつけた。
腿を掴んでいたもう一匹も、水柱とともに湯船の外へ放り出される。
轟音が湯小屋を揺らした。
「ドロシー!」
「遅い!」
木戸が勢いよく開いた。
オスカーが腰へ湯浴み布を巻いただけの姿で飛び込んでくる。
濡れた髪。
広い肩と厚い胸板。
いつもの気安い笑みは消えていた。
視線が、ずり落ちた布を片手で押さえるドロシーへ止まる。
胸元と首筋には、魚鬼の指と舌が残した赤い痕が浮かんでいた。
「二匹か?」
「見えてるので全部ならね!」
「無事そうだな」
「どこを見て言ってるのよ!」
「怒鳴れるなら上等だ!」
魚鬼がオスカーへ飛びかかる。
銀の短剣が閃き、その爪を受け止めた。
「ドロシー、布は後だ!」
「分かってる!」
ドロシーは胸元から手を離した。
湯浴み布がさらにずれ、片方の乳房がほとんど露出する。
それでも両手をリング・アーマーへ向けた。
「吹き飛びなさい!」
光輪が魚鬼を横から殴りつける。
オスカーは弾かれた魚鬼の腕へ銀色の糸を巻きつけ、その巨体を床へ引き倒した。
ウェポンARM、アラクネ。魔力の少ないオスカーが常用する、低級ながら使い勝手の良いARMだ。
もう一匹が湯へ潜る。
「下だ!」
オスカーが叫ぶ。
ドロシーは湯船の縁を蹴った。
水中から伸びた腕をかわし、リングダガーを魚鬼の肩へ突き立てる。
魚鬼が暴れ、彼女の身体を湯へ引き込んだ。
オスカーが飛び込む。
裸の腕がドロシーの腰を抱え、魚鬼から引き離した。
「掴まれ!」
「言われなくても!」
ドロシーはオスカーの首へ腕を回した。
ずれた布の下で、剥き出しの胸が彼の肌へ押しつけられる。
だが、どちらも今はそれを気にしていられない。
オスカーが魚鬼を蹴り離す。
ドロシーは彼の肩越しに掌を向けた。
「エア・ハンマー!」
風圧が湯を爆発させた。
魚鬼は水路の入口へ叩き込まれ、そのまま動かなくなった。
*
「ほら、こっち来い」
「子供じゃないって言ってるでしょう」
「いいから来い。震えてるぞ」
湯小屋の隅へ座ったドロシーを、オスカーが大きな布で包んだ。
濡れた髪を乱暴にならない程度の力で拭く。
「自分でできる」
「その手で?」
指摘され、ドロシーは自分の右手を見た。
魚鬼の水かきを噛んだ際、逆に爪で切られていた。傷は浅いが、まだ血が滲んでいる。
「……すぐ隣にいたくせに」
「無茶言うな。静かにしろって言ったのはドロシーだろ」
「分かってるわよ」
「口を塞がれてたんじゃ、俺に聞こえるわけもない。よく自分で抜けたな」
「当たり前でしょう。私を誰だと思ってるの」
「偉い偉い」
オスカーの大きな手が、ドロシーの頭を撫でた。
「馬鹿にしてる?」
「してないよ。本気で感心してる」
冗談めかした声だった。
それでも、髪を拭く手は優しい。
ドロシーの震えが収まるまで、オスカーは隣を離れなかった。
「首、見せてみな」
「平気」
「その台詞は信用しないことにしてる」
オスカーは薬を手に取った。
ドロシーは布を胸元へ寄せたまま、首を傾ける。
魚鬼の舌が触れた場所へ、オスカーの指が薬を塗る。
同じ男の手なのに、不快感はなかった。
「胸の痕も見たほうがいいな」
「……見たいだけじゃないでしょうね」
「それならもっと上手い口実を考えるさ」
オスカーは笑い、すぐに真顔へ戻った。
「嫌なら女将に頼む。どうする?」
ドロシーは少し迷い、布を僅かに下げた。
「薬を塗るだけよ」
「ああ」
魚鬼に掴まれた膨らみの上部へ、青黒い痕が残っている。
オスカーの指が、その縁を慎重になぞった。
薬の冷たさと、男の指の温かさ。
先ほどとは違う震えが、胸の奥へ走った。
「痛むか?」
「……少し」
「なら、もう少し優しくやる」
普段の軽い口調とは違う、低い声だった。
ドロシーは彼の横顔を見つめる。
魚鬼に触れられた痕を、オスカーの指が消していく。
そう思うと、薬を塗られているだけなのに、妙に身体が熱くなった。
「終わり」
手が離れる。
ドロシーは慌てて布を引き上げた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
オスカーは立ち上がり、自分の肩へ布を掛けた。
「さて。腹も立ってることだし、あの水路を調べるか」
「その格好で?」
「お互い様だろ」
「先に服を着なさい!」
*
湯治宿を出たのは、夕方近くになってからだった。
女将は、最近何人かの旅人が姿を消していたことを認めた。
獄鬼の存在を確かめれば宿を閉じなければならない。だから、何も知らないふりをしていたのだという。
魚鬼に攫われた若い女が一人、水路の空洞から救出された。何度も身体を辱められていた。一歩間違えばドロシーもああなっていた。
それ以外の旅人がどうなったのかは分からない。
二人が西へ続く山道へ戻ったとき。
頭上の枝が、大きく揺れた。
黒い翼を持つ猿が、木の上からドロシーを見下ろしている。
「あれ……!」
ドロシーは顔を上げた。
「ネッサローズの翼猿!」
オスカーが銀刃を投げる。
翼猿は枝を蹴り、空へ舞い上がった。
刃は僅かに届かない。
「チッ。逃がした」
翼猿は甲高い声を上げ、東の空へ飛び去っていく。
「あっちも私を探してるのね」
「この世界最強の魔女の城をぶっ壊したんだろう?」
「カペルの門番ピエロがそこに私が転送したのが悪いわよ!」
ドロシーは憤慨する。
「……そこでゼピュロスブルームを失くしちゃったの。箒は必ず取り返す」
「ああ。だが今は追うな。あいつは仲間のところへ戻る」
オスカーはドロシーの帽子を深く被せ直した。
「俺たちがカペルを追ってる間に、東の大魔女様は俺らを追ってるわけか」
「人気者はつらいわね」
「違いない」
オスカーは楽しげに笑い、先へ歩き出した。
「ほら、行くぞ。暗くなる前に旧関所までの山道へ入る」
「命令しないで」
「じゃあ置いてくぞ、小娘」
「だから誰が小娘よ!」
言い返しながら、ドロシーはその背中を追った。
異なる二つの勢力が、同じ旅路の上で動き始めている。
そしてドロシーはまだ知らなかった。
翼猿の報告を受けたネッサローズが、強力な魔法使いを追っ手として放ったことを。