海に来ていた。
寄せては返す波の音、良く晴れた青空、遠く広がる水平線、これらはとてもさわやかな気分にさせる。
されど海特有の匂いは生臭く、湿度が高くて蒸し暑い。屋外レジャー特有の生々しい体験と言えるだろう。
今日の目的は当然ながら海水浴ではない。その欲求は先日の水遊びで解消してもらっただろうことにして、今回は海釣りのために来ていた。
魚は川でも確保できるが、いかんせん小さく食べ応えがない。それに毎回同じ食材の確保方法だと、献立のレパートリーも同じようなものになってしまう。そういった理由で、たまには違う魚を確保しようと思ったのだ。
食事の多様性なんてものを気にできる程度には、俺たちの生活は安定していた。将来の不安もあまりなく、まあなんだかんだいって生きていけるだろうと思えるくらいには環境が整ってきたからだ。
「ボク、釣りって初めて。先生はやったことあるの?」
「あるけど、友達付き合いで2,3回くらいだから、そんなに経験はないよ」
もっとも、そんなに複雑な釣り方をするつもりはなかった。釣り竿に餌をつけて防波堤から垂らす。ただそれだけだ。
「本気で食料確保するなら釣り竿を何本も置いておくとか、複雑な仕掛けを使うとかいろいろあるけど、今回は遊びみたいなものだからね」
「じゃあボクにもできそうだね」
「ただ糸を垂らすだけでいいからな」
地面に敷いたレジャーシートの上に二人並んで座る。一本ずつ釣竿を持って、のんびりと魚がかかるのを待っていた。
「本気で海のお魚を確保するなら、網とかの漁になるのかな」
「確かに確保できるだろうけど、魚は保存のきくものでもないからね。二人でそんなに食べきれないよ」
「保存食にすればどうかな。ほら、干物とか」
「そうだね。後々は保存食のことも考えないといけないね。干物のほかには燻製とか漬物とか、缶詰……は閉じた缶が用意できないけど、ビン詰めなら綺麗なビンが見つかればできたりするかな」
考えるべきことを、頭の中にメモしていく。干物は湿度の高い夏にやることではないだろう。もし魚が大量に釣れたとしたら、燻製が一番の候補に挙がるだろうか。
「ビン詰めって、ビンの中に食べ物を入れたら保存がきくようになるの?」
「そこまで単純じゃないね。最初にビンを加熱して殺菌したりするし」
「ビンを加熱?もしかしてビンを炙るの?」
「いや、炙らないよ。ビンを炙っても何にもならないじゃないか」
「ビンを炙ったら【炙りビン】になるよ!」
「……【炙りビン】って、何?」
そのとき、俺の手の中の竿が震えた。糸が何度も引っ張られて、竿の先がしなっている。
「お、かかった」
「ホント!?」
釣り竿のリールをくるくると回しながら糸を回収すると、その先には40cmほどの魚がくっついていた。
「すごい!釣りって本当に釣れるんだ!川のお魚より大きいね」
「海と川じゃ、住む場所の広さ自体が全然違うからな」
魚の口から針を抜いて、用意していたバケツの中に入れる。これで最低でも、釣果ゼロということにはならなさそうだ。
「次はボクの方にかかってほしいな。コツって何かある?」
「釣り方が単純すぎるから特にないよ。ただ無心で待つしかないね」
「無心……こう、気配を消す、とか?」
「そんなこと、現実じゃできなくないか?」
「ボクはよくやってたよ!授業中に当てられないように気配を消してた!」
「言っておくが、教師相手には全く効いてないからね、それ」
再び海の中に糸をたらして待ち始める。できるだけ涼しい時間に釣りをしようと思って午前の早い時間にここまで来たが、夏の日差しは凶悪で、じりじりと俺たちの体を焼いていた。
「暑いねー」
「暑いなー」
「上、一枚抜いじゃダメ?」
桜羽さんが衣服の裾を軽くつまむ。怪我を防ぐために、今日は長そでを一枚上に羽織ってもらっていた。
「長ズボンはちゃんと履いてるからさ、上半身くらい半そででもいいんじゃないかな。消毒液とかも用意してるんでしょう?」
「それはそうだけど、万が一があるし……」
「でもこのままだと熱中症になっちゃうよ。そっちの方が怖くないかな」
その言葉には一理あった。塩と砂糖を溶かした経口補水液は用意しているものの、だから絶対安全と過信するわけにもいかない。
「分かったよ。ただ気を付けて行動してくれ。絶対走ったりしないで、転ばないように気をつけてな?」
「大丈夫。注意してれば転んだりしないから」
そう言って彼女は上の衣服を脱ぎ、薄手のシャツ一枚になった。服をはだける瞬間に、衣類の中にこもった少女の熱気が、ふわりとこちらの体にかかる。
「やっぱり涼しいよ!先生も脱いだら?」
明るく微笑む桜羽さんが、ニコニコと俺に語り掛けてくる。肌に浮かぶ汗の一滴一滴が、日の光を反射して彼女自身を輝かせていた。
(こうしてみると本当に可愛い子だよな)
この『可愛い』は子供やペットに向けたものではない。完全に異性の女の子に向けた『可愛い』だ。
彼女が異性であると分からせられてしまってからはもうダメだった。桜羽さんのことが可愛くて可愛くて仕方ない。華奢な手足、甘い声、たまにしてしまう失敗ですら、愛嬌だと思えてしまう。
特に笑顔がやばい。彼女に笑いかけられるだけで心が跳ね、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。口からちらりと見える八重歯が、彼女の無邪気さを強調していた。
(ただ、最近なぜかあの八重歯が肉食獣の犬歯に見えることがあるんだよな。同じものではあるんだろうけど)
「脱がないの?」
「あ、ああ、そうだね。俺も脱ぐよ」
言われるままに俺も長袖を脱いで、再び釣竿を構えなおした。
「最低でもあと一匹釣らないとね。このままじゃ数がたらないよ」
「なに、まだ始まったばかりだろう。焦ることはないよ」
薄着の少女と二人並んで、夏の日差しの中釣りを楽しんでいる。
(なんというか、学生時代の青春って感じだよな)
もちろん俺たちの間には歳の差がある。俺はもう学生ではなくいい年をした大人だ。
そんな俺が女の子と青春などとと、その子に対して異性として魅力を感じているなどと、世間からしたら気持ち悪いことだと思われるだろう。
(でも、心の中で思うだけだから。行動に移さなければ、桜羽さんを傷つけないし……)
彼女のことを性的な眼で見ないというラインを、動かしてしまった自覚はある。だが、もともと無理な目標設定だったのではないだろうか。可愛い女の子と長い間一緒に生活してて、邪な心を抱かない男がいるだろうか。
「来た!」
桜羽さんが声を上げる。今度は彼女の方に魚がかかったらしい。リールを巻き上げて吊り上げると俺が釣ったのと同じ種類の魚が釣れていた。
「すごいじゃん。俺が釣った魚より大きいよ?」
「そうかな?じゃあ食べる時はこっちを先生にあげるね?」
「そうか、なら交換だね。ありがとう桜羽さん」
そうして魚から針を外そうとしている彼女の方を見ていると、あることに気付いてしまった。
桜羽さんのブラジャーが、透けている。
この真夏に長袖を着ていたからだろう。彼女はたくさんの汗をかいていて、白いシャツが少女の肌に密着していた。その薄い布を通して、水色の下着がうっすらと見えている。
(これは確かに、青春の一幕ではあるのだろうが……)
男子高校生が恋人でも何でもないクラスメイトの透けブラを見て「ラッキー!」とか思う。なるほど体験談としてよく聞く話ではある。だがそれは子供だから許されることでしかない。
大人の俺が少女の下着をじろじろと見る。それは完全に良くない行為だ。俺は彼女を守る存在として今すぐ目を離さなければない。「ラッキー」とか、ましてや「得した」とか断じて思ってはいけないと、十分わかっているのに、
それでも、その水色から目が離せない。
「あれ?針ってなかなか取れないね」
「そうだね、返しがついてるから……」
ブラジャーのひもは肩を回って少女の胸へとたどり着き、その丸みを支えていた。肌の見える範囲としてはこの間の水着と変わらないのに、それが本来隠されたものであるという事実が俺を興奮させている。
そう、あの日、彼女の肌を堂々と見てしまった日がきっかけだった。それ以来度々彼女の肌を盗み見てしまう、そんなことが多くなっている。自分の中の我慢が、効かなくなっている。
それは一度覗き見を経験してしまったからだろう。どんなことも一度目は心理的抵抗が大きいが、その一度をやってしまえば次からは躊躇いが軽くなっていく。
「どうしようもないなら、糸を切って針を貫通させれば取れるよ?」
「でも、また針をつけなおすのも面倒だし、もう少し頑張ってみるよ」
(バレないから大丈夫だ……いや、倫理的にそういう問題じゃ……でもこんな機会もうないかもしれないし……)
バレなかったという成功体験が、次も大丈夫だという安易な期待を抱かせる。その時見た彼女の肌が忘れられずに、次も見たいと思わせる。バレなければ彼女を傷つけないという言い訳が、頭の中で木霊する。
「そもそも、魚自体がぬめぬめしてて握りづらいのも原因だよね。うまく固定できないし」
桜羽さんの首筋を一滴の汗が流れる、その動きを目で追っていく。それは徐々に落ちていって、少女のシャツにぶつかって服の中には入らなかった。
だけど俺の視線は止まらない。気分だけは、シャツの中にまでも入りこんでいた。俺の視覚がブラジャーのふちをなぞる。ふくらみの上へと昇り、その頂点はどのあたりなのかと探してしまう。
「取れた!」
桜羽さんが顔を上げてこちらの方を見る。とっさのことで視線を逸らすことができなかった俺の顔をだ。
彼女は一瞬だけ不思議そうな顔をした後、俺の視線を追って自分の胸元を見た。
「はわわ!」
さっと顔を赤くして腕を上げて胸を隠した。自分の下着が透けていることに気付いてしまったのだろう。
(まずい!完全に気付かれた!!)
顔が青くなる。彼女に不快な思いをさせただろう。もしかしたら嫌われたかもしれない。今までの信頼関係にひびが入って、一緒に暮らせなくなるかもしれない。
「す、すまない!その――」
「い、いいよ!えっと、男の人だもんね!?」
桜羽さんから出てきたのは、許しの言葉だった。あまりに想定外でつい言葉を失ってしまう。
「男の人が、その、ついそういうの見ちゃうの知ってるから、仕方ないし、隠せなかったボクが悪いよ」
「そんなことないよ、ここは俺が本当は我慢するべきで……」
「でも、我慢できなかったんだよね?先生が真面目な人だってボク知ってるから、その先生が我慢できなかったなら、それはもう仕方ないんじゃないかな」
俺を真面目だと言ってくれる桜羽さんに申し訳なくなる。何せ盗み見ているのは今回だけではないのだ。彼女が知らないだけで、俺はそんなに立派な人間ではない。
「こういうのは女の子が気を付けないとだし……先生は悪くないよ」
そう言って俺を許してくれるのは、きっと桜羽さんの優しさなのだろう。
でも本当のことを言えば、いっそ怒ってほしかった。嫌がってほしかった。決して許してほしくなどなかった。
許されてしまったという成功体験のせいで、『次も許されるかもしれない』という甘い期待が、心の中に住み着いてしまう。
「先に車の中に戻ってていいよ、釣りの続きは、俺がやっておくから」
「そんな、先生だけ働かせてボクだけエアコンのきいた場所にいるなんてできないよ」
「じゃあ、さっきの長袖着ておくかい?」
「それは暑いし、もう、今日は仕方ないよ!先生も、あまりこっちを見ないでね?」
(あまり?あまりって何?少しならいいってことか?)
桜羽さんと二人並んで糸を垂らす。頭の中で桜羽さんの中を都合よく解釈しそうになる自分を必死でいさめる。
その後も何度か、彼女のブラジャーへと視線が向いた。二回目の指摘がなかったのは、今度こそ気付かれなかったからだろう。
俺はそう、信じることにした。