神経衰弱が終わったときには21時半を少しだけ回っていた。まだ時間はあるけれどもう少し遊ぶのには足りないような、そんな微妙な時間だ。
「切りがいいし、今日はこれくらいにしようか」
先生がそう言って立ち上がろうとする。なんだかもう少し一緒にいたくなって、急いで声をかけた。
「でもまだ時間があるよ?何かお話でもしようよ」
「話?……うーん、何か話題あるかな」
「考えてて、ボクは何か飲み物持ってくるから。あ、何か面白い話をしてくれるといいな」
無茶なわがままを言うと彼は「面白い話って……」と悩んだ表情をしていた。
正直なところ、話の内容自体は何でもよかった。ただボクのために困ってほしかっただけで。
その間に懐中電灯持って廊下に出て、冷蔵庫のある調理場に向かう。家ではなく旅館であるこの場所は、ただ飲み物を取りに行くだけでもそれなりの距離を歩く必要があった。
ひなびた木造の旅館、という雰囲気を意図的に演出しているこの建物の中で、懐中電灯の明かりだけで暗い廊下を歩くのは少しだけ不気味な感じがする。それでも先生のこと考えるだけで楽しくなって、怖さなんて全く感じなかった。
(さっきの先生。本当に、すごくすごくカッコ悪かったな)
どうにかボクの服の中を見れないかと必死になっているさまは、なんだかとても情けなく、みっともなく、そして何より、可愛かった。
神経衰弱でボクが勝てたことなんて一度もなかったのに、今日は簡単に勝ててしまった。
(ボクがボタンを一つ外しただけで、先生はあんなに弱くなっちゃうんだ。ボクに負けちゃうんだ)
最近はもう、先生から我慢しようという意思もあまり感じられない。バレないようにはしているけれどただそれだけで、むしろバレないのであればもっと見たいと思ってる気がする。
先生の理性は飴玉のようだ。指でつまめば固いのに、舌で優しく転がしてあげると口の中で甘く、甘く、溶けていく。
最初のころはボクの太ももやスパッツから目をそらそうとしていたのに、そんな気持ちはもう消えてなくなってしまったのだろう。手に平で弄ぶと先生の心がボクの望むままに変容していくのが、なんだかとても嬉しかった。
(この感情は、なんだろう)
冷蔵庫から500mlのペットボトルを二つ取り出す。有限の資源であるこれは、一度口をつけたら飲み切らないとあまりにももったいないものだ。多分30分では飲み切れなくて、一緒にいる時間がだらだらと引き延ばされることになる。
(本当に、この感情はなんなんだろう)
先生のことを安心できる人だと思った。信頼できる、頼れる人だと。でも最近は、もうそれだけでは物足りない。
こっちを見てほしい、気にかけてほしい、一緒にいたい、この手から逃がしたくない。
温かい気持ちはあるのにそれだけではない。とても甘く、そして昏いドロドロとした感情が、胸の奥に溜まっている。
(この感情に、名前を付けるなら)
休憩室に戻りドアを開けると、椅子に座っている先生と眼があった。ただその姿を見ただけで、顔が笑みを浮かべてしまう。
「ただいま。お話は何か思いついた?」
「思いついてないが……何か大喜利みたいなテーマが欲しいな」
「テーマか……。なにがいいかな」
弾みだしそうになる脚を抑えながら、平常心を装って先生に近づく。飲み物を渡すためだけど、何かその後も近くに座る理由を作れないだろうか。
(この感情は)
考え事をしていたせいだろう。足を引っ張られる感覚とともに視界が急に傾いた。その直後、テーブルの上に置いてあるランプのコンセントに、足を引っかけたのだと気づく。
体が傾いてバランスを崩す。しまった、と思ったときにはもう遅くて――
「桜羽さんっ!」
とんっと、顔に軽い衝撃、気づけば先生が目の前にいて、抱き留められていた。
「足元にコードがみえた時点でやらかすと思った。立ち上がる準備しててよかったよ」
男の人の腕が背中に回っていて、体中が密着している。見上げると心配そうな顔をしている先生がいた。
思えば、どれだけ理性を溶かしても、この表情だけは減っていない気がした。いつもボクのことを心配していて、気遣ってくれていて、ボクのために何ができるかを考えていて、ボクのためだけに生きてくれている人。
(この感情は)
「好き」
言葉が漏れる。全く意識しないままに、自然と零れ落ちていた。
先生が一瞬驚いた顔をした後、「えーっと……」とどこか中途半端なことを呟いた。
(ボク……、ボク、何言ってるの!?)
「あ、いや、今のは違くて、えっと!!」
慌てて先生から離れる。体中が一気に暑くなる。きっと顔も、今までにないくらいに赤くなっているだろう。
「違くて!いや、違くないんだけど!その……あの……おやすみ!!」
自分の分のペットボトルを持って、急いで部屋を飛び出した。懐中電灯の明かりを頼りに、小走りで自分の部屋へと向かう。
(そうだったんだ、ボク、そうだったんだ……!)
心がざわめいている。感情はぐちゃぐちゃだ。なのにその感情が何なのか、もうはっきりとわかってしまった。
《ロマンチックな魔法だね。恋をしているかどうかが分かるなんて……自分ですらわからないことがあるものなのに》
そんな、レイアちゃんに言われた言葉を思い出す。本当に、まったくもってその通りだった。ボクは分かっていなかった。
自室について扉を閉める。先生すらも入ってこないプライベート空間について、ようやく少しだけ落ち着けた。その場一度深呼吸して、その認識を絞り出した。
「ボク……恋をしていたんだ……」
考えてみれば当たり前の話だった。好きでもない男の人相手に、あんな誘惑を仕掛けたりするわけがない。気を引きたかったのも、ボクを見てほしかったのも、全部、先生のことが好きだったからだ。
体の熱を冷まそうと思って、持ってきた水の蓋を開ける。喉を通る冷たさが、ほんの少しだけ冷静さを取り戻させてくれた。
(先生は、ボクのことをどう思ってるんだろう)
ボクのことを性的な眼で見ていることは明らかだ。それと同時に、とても大切にしてくれていると思う。それが傲慢ではないと確信できるくらいには、いろいろなことをしてもらった。
(告白したら、オーケーもらえるのかな。そしたら付き合ったり、そしてキスしたり……!?)
「ふふっ!ふふふっ!」
顔がまた熱くなる。想像しただけで恥ずかしいのに全然嫌じゃなかった、むしろ今すぐしてもいい。妄想だけで心がまたぐちゃぐちゃに乱れて平静を失った瞬間に、
手の中で、ぐしゃりという音がした
「あ……」
ボクの握力でペットボトルが握りつぶされていた。過剰な圧力で噴出した水が部屋に降り注ぎ、びちゃびちゃという音を立てて床を濡らす。
『怪力』の魔法の暴走だ。感情の盛り上がりとともに、つい発動させてしまったのだろう。
潰れたペットボトルが言っている。ボクの魔法だと。ボクが魔女であると。ボクが、人類を滅ぼしたのだと。
「ボク、なに浮かれてるんだろう」
皆を殺しておいて自分は幸せになろうだなんて、殺された側からすればふざけるなと言いたくなることだろう。
そもそも、先生を一人きりにしたのも、先生の友人や関わりのある人を殺したのも、日々の生活のためにいろいろしなければいけないのも、全てはボクのせいだ。
そしてボクは、そんな先生を自分のために頑張らせている。
「最低だ、ボク」
窓を開けると夏の蒸し暑い空気が流れ込んできた。部屋を見つめて少し念じると、それだけで濡れた床から液体が浮かび上がる。水を窓から外に捨てて、ボクはもう一度窓を閉めた。
『液体操作』の魔法。ボク自身が絵と言うものに強い思い入れがないからだろうか。あるいは魔女見習のようなものではなく、魔女として魔法を使っているからだろうか。ノアちゃんよりももっといろいろなことがこの魔法でできた。
例えば、川の水から汚れた部分だけ取り出して、飲める清潔な水にすることもできるだろう。
本当は、先生が毎日頑張って水のペットボトルを集める必要はないのだ。
他の魔法も強力になった。『怪力』の魔法があれば先生以上に力仕事ができる。『浮遊』の魔法があれば物資を集めるのに車なんて必要ない。冬になったら暖房のためにガソリンの消費量が増えるだろうけど、『発火』の魔法があれば節約することができるだろう。
だけれど言えない、言えるわけがない。
(ボクが人類を滅ぼした魔女だってバレたら、先生に嫌われちゃう……!)
先生を孤独にした張本人がボクなのに、今も力を隠したままで、先生に苦労をさせ続けている。
人類を滅ぼしたのがユキちゃんに操られた結果だったとしても、今本気を出していないのはボク自身の意思だ。ただ保身のためだけに、ずっと先生を働かせ続けている。
自己嫌悪で泣きたくなる。ボクは最低の人間だ。先生と釣り合うわけがない。
だから、先生にはもっと汚れてもらわないといけない。
まだまだ、先生の罪が足りない。もっとボクに悪いことをしてほしい。もっと情けなくなって、もっとみっともなくなって、もっとカッコ悪くなって、もっともっともっともっともっと。
罪に塗れて、罪に溺れて、ボクの元まで堕ちてきて欲しい。
でもきっとそれでも足りない。人類を滅亡させたボクの罪とはまだまだ釣り合うはずがない。
だから先生のことを黒く塗りつぶして、醜くして、汚くして、そのうえで、
「先生に尽くす存在としてなら、ボクが側にいることは許されるかなぁ……」
泣く資格なんてないのに、ほんの少しだけ、涙がこぼれた。
エマちゃんは基本的に光側の存在だけど、エマメルエンドを見るにとても綺麗に闇落ちする才能も持っていると思うんです。