すがすがしい朝だった。心の内はとても穏やかで、精神があらゆる悩みや煩悩から解放されているのを感じる。
きっと今の俺ならば全ての生命の幸福を心の底から祈れるだろう。そんな優しい気持ちが胸の奥からあふれている。
理由は単純だ。賢者タイムだからである。
俺も反省したのだ。何かにつけて反応してしまうのはもう明らかにまずいと。性欲の塊かと。
その都度エマに気を使わせるのも申し訳ないし、俺自身もすごく情けない気持ちになるのだ。
その対策はごく単純。頻繁に発散しておけばいい。エマと付き合っていくならば、これはもはや必須事項とも言えた。
エマは無自覚なその圧倒的可憐さでもって、無防備に俺の近くにきて危ういスキンシップを繰り返してくる。無意識に男心をくすぐっても気づかない純真無垢な存在だ。
(これがエマの本性だ。その手には乗らない)
朝と夜、一日二回のハッピータイムによって、今後不用意に反応することはないだろう。これで今後も彼女の前では、立派な大人として振る舞えるに違いない。
そんなことを考えていると、コンコンとドアがノックされる。扉を開けると、当然ながらそこにはエマが立っていた。
「おはようエマ。どうかしたのかい?」
「おはよう、先生。なんだか今日は普段より先生が起きてくるのが遅いから、大丈夫かなって、心配で」
「ああ、ちょっとだけ寝坊しちゃってね」
「そうなんだ」
俺の言った理由に納得した後、彼女は俺の部屋を覗き込んできた。少しだけ身を引いて、彼女から見えやすい位置に移動する。
「先生の部屋って、初めて見るかも」
「そう言えばそうだね。俺は君の部屋には、最初に入ったけど」
二人の部屋を決めた後、俺は自室の掃除だけで用意を終わらせた。
だがエマは家具や飾りつけなどを自分好みに変えたがったので、その搬入などを手伝ったのだ。
エマが興味深げに部屋の中に入ってくる。必要最低限のものしか置いていない、殺風景な部屋を見回していた。
「何の面白みもない部屋だろ?」
「そんなことないよ、先生の匂いがする」
「え゛……そ、そうか」
匂い、と言われて一瞬バレたかと焦るものの、そんなわけではないだろう。そもそもエマが精液の匂いなど知っているはずがない。
彼女は部屋の中を歩き回っては、家具や壁、小物なんかをペタペタと触って回っていた。特に意味のないだろうその行為は、まるでマーキングのようにも見える。
そのまま部屋の奥まで歩いて行って、俺のベッドのその一部――先ほどまで俺がハッピータイムを過ごしていた場所――に手を触れた時だった。
「あっ……」
ぱっと彼女が手を離した。その雰囲気は、顔を赤くして、どこか焦っているようにも見える。理由として考えられることは……
「えっと、もしかして汗で湿ってたりしたか?」
「そ、そんなんじゃないよ!ホントなんでもないから!気にしないで!」
そう言うとエマは再びベットの上に手を触れた。その周囲のあちこちに触れては「へえ」とか「大きい……」とか「な、なるほど」とか呟いている。
一体何がなるほどなのだろう。ベッドの感触でも気に入ったのだろうか。
■
「良かった、たくさん無事に残ってるよ!」
エマが歓声を上げる。そこには大量の保存食が、食い荒らされることもなく残っていた。
俺たちが今いるのは、昨日諦めた保存食の生産工場だ。今回は特にトラブルもなく、無事にここまでたどり着くことができた。
保存食と言うのはその目的から言って密閉性が高いからだろうか、動物たちに手を出されることもなかったようだ。
「特にお湯で戻せる米があるのは助かるな」
「自分達じゃもう作れないもんね」
本当にありがたい。本当にありがたいのだが逆に問題もある。あまりにも、量が多すぎた。
「この量、軽トラにはとてもじゃないけど乗り切らないよな」
「もっと大きいトラックに載せて運ぶ?」
「俺、大型車は運転したこともないどころか免許も持ってないからなあ。この間事故起こしたばかりだし、ちょっと怖いな」
最悪、道路をふさぐ形で動かせなくなったら他の車すら道が使えなくなってしまう。
「何十回も往復するには、ここはなかなかに距離が遠いからな」
「だったら、軽トラに山積みに、大量に乗せるしかないんじゃないかな。途中で荷物が落ちないように、ゆっくり走ることにして」
「それしかないか……」
途中できつい坂道もないし、やってやれないこともないだろう。最悪道に多少落とそうが、誰に迷惑かけることもないのだ。
「それなら、荷物を固定するための道具が欲しいね。一回帰って準備してきた方がいいかな」
「それもいいけど、その前にこの建物を探してみないか?荷物の運搬も大量にしていたんだろうし、それを固定するための道具も、どこかにあると思うんだ」
「そっか。専用のひもとかあるかもしれないね」
大きな倉庫の広い空間の端にはいくつか扉がついている。梱包用資材があるとしたらそこだろうか。
そう思いいくつか順番に確認していく。ある場所はトイレで、ある場所は更衣室で、ある場所はパソコンが数台置いてある部屋だった。
そうしてしばらくの間、部屋を巡った後のことだった。
「ここならあるんじゃないかな?」
エマが声を上げる。小さな物置と言ったところだろうか。いや、先ほどまで倉庫がすごい広さだっただけで、ここもかなり広いのだが。
そこにはガムテープや緩衝材や、そう言ったものがいくつも収められている。明り取りの窓から差し込む日光が、武骨な室内を照らしていた。
一緒に壁際の棚を見て回ると、紐類がまとめられている棚があった。太いものや細いもの等いろいろ種類がある。多分、荷物を固定するためのものではあると思うのだが。
「先生、どれを使えばいいか分かる?」
「流石に専門じゃないからね……単純な紐ってわけでもないみたいだし、もういっそ大量のガムテープで段ボール同士を無理やり固定した方がいいかもしれない」
「でもせっかく紐もあるんだし、せっかくだから持っていこうよ。何かに使えるかもしれないし」
「何かに、使えるかなあ」
「分からないけどそう言うこともあるよ。ほら、何に使うか分からない証拠品が、役に立ったりもするし!」
推理ゲームの感想みたいなことを言いながら、紐に対して腕を伸ばす。ひときわ長いそれを引っ張るも、途中で止まってしまっていた。
「どこかに引っかかってるみたいだな」
「そうみたい……とりあえず引っ張ったら、何とかなったりしないかな」
エマが何度か、ひもを引っ張っては緩めてを繰り返す。少しずつ長くなってくるあたり、抜けてきてはいるようだ、何度かの挑戦の後紐が一気に抜けて、エマが数歩後ろへとたたらを踏んだ。
その瞬間。ドスン、バサッ、と言ったものの崩れる音が棚からなりだした。
「わわっ!」
「なっ!?」
慌てて後ろを振り返ると、彼女の引っ張った紐に引かれて、他のひもが飛び出して来たり、絡まっていた別のものが倒れたりと嫌なピタゴラスイッチを発生させていた。
音の連鎖が隣の棚までつながる様子を、エマとともに戦々恐々と見守る。いくつかの荷物が棚から落ちてきて……しばらくして、ようやく音が止んだ。
「…………」
「…………」
二人、茫然と顔を見合わせる。
「びっくりしたね……」
「びっくりしたな……」
二人同時に発した同じ言葉に、ついお互い笑いあってしまった。
「今度から、紐を無理やり引っ張るのはやめておくね」
「そうだね。それじゃあ行こうか」
そう言ってエマの方へと歩き出した、次の瞬間だった。
「先生!上!」
「え……?」
彼女の声が聞こえた次の瞬間、後ろから何かが降ってきた。突然襲い来る衝撃に背を押され、エマの方へと倒れこんでしまう。そして俺の体に押され、エマもまた後ろへと体が傾いていく。
(まずっ……!)
とっさに彼女へと手を伸ばす。背中と、何よりも後頭部に手を添えた。
近づいてくる地面に強い衝撃を覚悟した瞬間――なぜか体がふわりと浮遊するような感覚を覚え――思ってたよりは軽い衝撃とともにどさりと地面へと倒れこんだ。
「エ、エマ……怪我は……?」
「ボクは無いけど……えっと……」
「そ、そうか、良かった……」
先ほどの不思議な感覚。おそらく体の一部が瞬間的に紐に支えられたのだろうか。よく分からないがそれはいい。今は正直それどころではなかった。
上から落ちてきた紐が俺の背にのしかかって手足に絡みついている。そんな動けない状態の中で、俺は、
エマの胸に、顔を埋めてしまっていた。
今回の話もいろいろ悩みました。
そう簡単に上から物は落ちてこないなとか、それで前に倒れるかとか、二人の位置関係をよく考えるとそうはならんやろって。
結果として真理に気付きました。ラッキースケベに現実的な物理現象を持ち込んじゃだめだね!
なっとるやろがいで押し切るのが大切だ!