誰いない廃病院。それ自体はホラーでよくある舞台だろう。けれど人類が滅びた後の世界では全てがそのような雰囲気であり、ボクも先生も慣れたものだ。なれはてが暴れた時にできたのであろう瓦礫や割れたガラスの破片に気を付けつつ、二人並んで奥へと向かう。
近くにある大きな病院であり、かつ産婦人科が存在するここに来た目的は、医薬品に医学書、そして医療道具だ。ボクが妊娠したとしたときに先生が取り上げられるように、準備を進めていくという話だった。
ボクは気が早いと思ったのだけれど、医師免許の取得に必要な時間から考えると今から間に合うかも不安だと言っていた。先生は最近医術の勉強も進めていて、自分のミスがボクの命に関わるから手を抜けないと漏らしていた。
正直なところ、先生に手を出させようとしていた時もボクはそこまで思い至らなかった。先生を罪で汚すことばかり考えていて、妊娠するかもしれないということが全く思考に浮かばなかった。
現実が、見えていなかったのだろう。
そこがボクと先生の、子供と大人の違いなのだと思う。地に足を付けて、現実を見て、目的のためにどうするかを考える。先生は、いつもしっかりしていた。
「天井が崩れたのか……。エマ、歩きにくくなってるから、気をつけてな」
「うん。分かったよ」
差し出された手を取って、その頼もしい手に導かれるままに歩みを進める。
なんだか最近、凄く楽しかった。
先生に悪いことをさせて、罪悪感を抱かせることには失敗してしまったけれど、それでいいとすら思えた。
きっと今まで、ボクは不安だったのだろう。先生と釣り合わないから嫌われるんじゃないか、離れていくんじゃないか、一人にされてしまうんじゃないかと。
でもなんだか先生がとても優しいから、きっと大丈夫だと思うことができた。安心することができたのだ。
だから、後の問題は一つだけ。
「このあたりの薬は持って行った方がいいかな。ほらエマ、この薬とか結構凄いやつみたいだから、俺がお腹を壊しても大丈夫だよ」
たどり着いた一室で先生と一緒に棚の中を漁っていると、先生がそう言って軽く笑いながら、薬の束を見せてくれた。きっとボクを安心させるためなんだろうけれど、ボクが向き合わなければいけないのはそこではない。
ボクが魔法を使えばもっと生活が楽になるのに、先生に言うことができないというその罪だ。
先生はきっと、自分の罪と向き合った。未成年に手を出してしまった事実を受け止めて、ボクを守り責任をとることを決意して、これは悪いことではないと胸を張って前を向いたのだ。
ボクにも同じことができるだろうか。ユキちゃんに操られた結果だからボクは悪くないと、胸を張って前を向くことが。
そうすることが、自分が楽になるための身勝手な行動に思えてしまう。でもきっと先生も、自分の判断が性欲のせいじゃないかって迷ったんじゃないかと思う。それを理解したうえでそれでもと、ボクが幸せならと決意してくれたんだ。
ならボクも、同じように覚悟を決めなければならないだろう。先生のことを思うのならば。
(先生に、全部話そう)
様々な物資をリュックに詰めながら、無言のままに思いを固める。大丈夫だ。先生ならきっと分かってくれる。ユキちゃんに操られて人類を滅ぼしたというボクが悪いのか、悪くないのか、冷静な判断をしてくれる。
だから先生にボクは悪くないと言ってもらえれば、その時にようやく、ボクもボク自身を許すことができると思った。
「いろいろなものが手に入ったね。ボクにはよく分からないお薬も結構あるけれど」
「そのあたりは俺も軽く調べただけだから、実際に使うときは書籍を読み直して、用法容量に注意しないといけないな」
今晩、どう話を切り出そうか。そんなことを考えつつ受付へと戻ってきた。リュックの中はもう一杯だから、一度トラックへと戻って降ろさないといけない。
「ねぇ先生。欲しいものがどこにあるかは分かったから、次はリュックじゃなくて台車の方がいいんじゃないかな」
「道が平たんだったらそれでよかったんだけど、途中に瓦礫でボロボロになっている場所があったからね。あそこを台車が通るかどうか……」
「なら迂回路を探してみる?他のルートなら台車が通れるかもしれないよ」
「そうだね、案内板は……」
そう言って先生が周囲を見渡す。その瞬間。突然だった。
「あ……あ……あれ……」
先生が、突然固まって喉の奥からか細い声を漏らす。その声を疑問に思い先生の視線を追ってみる。
受付の前に並んだ椅子の上に、アニメのシールが張られた水色のランドセルが置いてあった。
「まさか……まさか……っ!」
彼が突然、弾かれたように走り出した。ランドセルを手に取って開けて、中に書かれている名前を確認する。
「間違いない!これは!」
「せ、先生!?どうし――」
「どこだ!?どこにいる!?」
いつも冷静で、穏やかな先生らしくない取り乱し方だった。急いであたりを見渡して、近くの壁が大きく崩れていることに気付く。
先生はその瓦礫の山に飛びつくと、手が傷つくこともためらわないままに素手で瓦礫をよけ始めた。
「ねえ先生!何があったの!?」
「待って!ちょっと待っててくれ!すぐだから!」
こちらのことを見ないままに、ボクに向けているかもわからない言葉を吐いている。なんだか痛々しくて見ていられなくて、ボクも先生の隣でがれきの除去を手伝った。
先生に持ち上げられなさそうな大きさのものを怪力の魔法でどけても、先生は少しも違和感を持たなかった。ボク自身も素手だから、手に細かな傷がついていく。
だというのに先生が、あの先生が、ボクが傷ついていることに気付きもしない。
豹変した先生が一心不乱に動いた結果、どうにか地面を見ることができた。先生の手は血だらけになっていて痛いだろうに、彼が気にするのは瓦礫の中から出てきたものだ。
そこには小さな、子供の頭蓋骨が転がっていた。
「ああ……」
両手を伸ばし、ボクが小学生だったころにしてくれたような、優しい手つきでそれを持ち上げる。そしてそのまま壊れ物を扱うように、柔らかく抱きしめていた。
「ごめんな、高尾さん。先生遅くなったけど、ようやく君を見つけることができたよ」
知らない名前だった。
気付けば、先生が泣いていた。彼が泣くのを始めてみた。
ボクが知らない子を、ボクの知らない表情で、ボクが知らない理由で抱きしめている。その光景を前に、胸の奥がざわめいて、不安な気持ちが溜まっていく。
「ねえ先生……その子は、誰?」
「あ、ああ。この子は高尾さんって言って、俺が最後に……5月まで担任だった生徒の一人だよ」
先生が自身の上の服を一枚脱ぐ。その上に頭蓋骨とそれ以外の周囲に散らばってる骨を並べて、これ以上砕けないように丁寧に包み込んだ。
「ごめんなエマ。今日の探索はここまでにしたいんだ。ちょっと、行かなきゃいけないところができた」
「行かなきゃいけないって、どこに?」
「ああ、それは……」
骨を包んだ上着を持って、ランドセルも抱えて立ち上がり、先生が言う。
「この子を学校に……みんなのところに、連れて行ってあげたいんだ」
この幸福が終わる。そんな予感がした。