「先生にちょっと相談があるんだけど」
「ん?なんだい?」
朝食と朝の仕事を終えたあと、桜羽さんに声をかけられた。雰囲気からして、相談と言ってもそんなにもいものではなさそうだ。
「ボクに農業を任せてくれるって言ってくれてから、ずっと何を栽培しようか考えてたんだ。それでね、そろそろ収穫に時間がかかるものも植えてみようと思うんだ」
「確かに、今まで育ててきたのは早く食卓に乗せられるように、収穫までの期間が短いものばかりだったからな」
「けれど先生は5年後10年後も、自給自足できることを考えてるでしょ?なら農業の方も、そろそろそう言った長期的視点を持たないといけないと思うんだ」
「おお、桜羽さんは偉いね。それで何育てるかは決まったのかい?」
「えっとね、理想を言えばジャガイモが一番いいと思うんだ。ほら、今ボクたちが自給自足できるものの中に、炭水化物がないでしょ?」
今も食卓に炭水化物自体は並んでいる。しかしそれは全て確保した保存食を徐々に消費しているものであって、自力て確保できているものではない。
摂取カロリーの面を考えると、生活のためには炭水化物は必須であると言えるだろう。
「米は、無理か……」
「残念だけどね。水田の維持と管理ができる気がしないし、トラクターなしで栽培するのも大変だよ。しかも収穫した後も、脱穀とか精米とか、やらなきゃいけないことがたくさんあるから」
同じ理由で小麦も無理だろう。あれも大規模生産が前提のところがあるし、収穫した後に製粉やらなにやらしないといけない。
「そこでジャガイモか。うん、いいね、すごくいい」
「ボクもそう思ったんだけど、ただ最初の一個、植えるべきジャガイモをどこで手に入れればいいかなって思って」
店頭に並んでいたジャガイモは全て動物たちに食べられてしまっている。地面に埋まっている収穫前のものなら、残っているかもしれないが……
「ここ、別にジャガイモの名産地ってわけでもないしな。個人規模で育てている農家もあるかもしれないけど、場所が分からないよなあ」
「インターネットがあればよかったんだけどね」
地図記号を見れば畑の位置は分かるが、何の畑かまでかは分からない。さらにいえばジャガイモかどうかを確認するためには掘り返す必要がある。手間を考えれば、農家から確保するのは難しそうだった。
「とはいえ全く可能性がないわけではないよ。少し考えてみようか」
■
机の上に大きい地図を広げて、桜羽さんと向かい合う。アナログの地図が今ではとても重要なものになっていた。
「そもそも、本来なら保管されていたジャガイモが全て食べられてしまうはずはないんだ。簡単に言えば、鉄の扉が閉まっている倉庫やバックヤードなら、動物は入ってこれないからね」
「でも、今はドアや壁がボロボロになってたり、穴が開いてたりしてそこから動物が入ってきちゃってる」
「あの日、たくさんの化物が暴れたせいだね」
人類滅亡の日、人間たちは次々と化物になっていった。つまり倉庫があるところには人がいて、人がいるところには化物がいたのだ。密閉性は保たれていなかった。
「でも、逆に言えば運良く残ってる倉庫もあると思うんだ。そこにさらに運よくジャガイモが保管されている可能性もある」
「なるほど!それで、無事な倉庫の場所は?」
「それが分からないんだよねぇ。だから、ひたすらに倉庫を回っていくしかないかな」
つまりガチャである。運よく正解を引き当てるまで開け続けるしかない。
街中には店のバックヤードを含めて倉庫が多く、短時間で多くの個所を回れるが、人口密度と同じく化物の量が多かった。倉庫が無事である確率が低い。
郊外はまばらにしか期待できる倉庫はないが、その分人も少ない。一つあたりの確率は高いと言えるだろう。
どこに行くか、どう動くかを考えるために、まずは地図上の期待できる場所に付箋を貼っていく。
■
作業を始めてからしばらくした後、ふと桜羽さんが立ち上がった。
「ボク、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「ああ」
そう言って彼女が席を立った後も、地図を眺め続ける。めぼしいところに検討はつけた。後はルートを決めるだけだ。
(まあ、一度ですべてを回る必要もない。一日目は街中に行って、二日目は郊外に行けばいいか)
そう考えているうちに、桜羽さんが戻ってきたのだろう。後ろのドアが開く音がした。
(街中なら狙うのは大規模倉庫よりも各店舗かな。今までみたいに物資回収に時間かけないで、ダメだったらすぐに次に行って……)
「先生、どこ行くか決まった?」
桜羽さんの声がして、背中全体温かい感触に包まれた。
「ん?え、あ、まあな……」
(桜羽さん?距離、距離が近くないか?)
少女に、後ろから抱き着かれている。それ自体はよく見る光景だしされたこともある。子供たちから、じゃれあいとしてだ。
しかし女子高生との距離感として、これはどうなんだろうか。
いや、彼女にとって俺は小学校の先生だ。そのころの気分で接してくれているのかもしれない。
(つまりこれは、桜羽さんの無邪気さの発露……!!変なことを考えてしまうのは、俺の邪心が悪いのだ……!!)
「無事な倉庫があったら、そこにあるのはきっとジャガイモだけじゃないよね?例えば他の、さつまいもとかも植えれたらいいな」
「うん、そうだね、うんそうだ」
邪心を鎮めようとただひたすらに思うものの、どうしても落ち着くことができない。何せさっきから、二つのふくらみが俺の背に当たっているのだ。
夏でありお互い薄着である。俺はシャツ一枚であり、桜羽さんはシャツと、多分ブラジャーはつけているのではないだろうか。そんな布三枚越し程度では桜羽さんの感触を隠しきることはできず、桜羽さんが身じろぎするたびに微かに形を変えている。
「あ!先生、この地図記号って果樹園だよね?」
「う、うん、よく知ってるね」
「小学校で先生に教えてもらったからね、ちゃんと勉強覚えてたんだよ」
「おー、偉い偉い」
「ここにまだ果物残ってたりしないかな。リンゴとか残ってたら嬉しいな!」
(俺はさっきから背中のリンゴの方が気になってるんだが!?)
桜羽さんは朗らかに笑っている。きっと俺の考えていることなど気づいていないだろう。彼女のこの手のことに関する意識は、まだまだ幼いままだ。
だからこそ、これは俺の意識の問題だ。しょせんは子供がじゃれついてきてるだけ。ただの純粋なスキンシップ。今は目の前に地図に集中しなければ。
(そもそも、リンゴはさすがに言いすぎだしな。この慎ましやかさじゃ――)
「あ!ここにも果樹園あるよ!」
テーブルの奥の方の地図を指さすため、桜羽さんが身を乗り出す。背中の球体が、より強く押し当てられた。
(もしかしたら、リンゴだったかもしれない)
普段の桜羽さんの姿を思い出す。が、彼女の胸などまじまじ観察したことがなく、どのくらいの大きさだったかがわからない。少なくとも目を引く大きさではなかったのだけは確かだ。
(やはりリンゴではない……いや、でもこれはリンゴか?桜羽さんのリンゴはリンゴだったのか?リンゴじゃない可能性もあるんじゃないか?)
「あ、ごめんね先生」
「おう、な、なにが?」
距離が近いことに気付いたのかと思ったが、桜羽さんが続けるのは別の言葉だった。
「耳元で大きな声出したらうるさかったよね。もうちょっと静かにするね?」
桜羽さんは今俺の背中に寄りかかっていて、肩に顎を乗せている。彼女の口元は俺の耳の近くにあって、確かに声は大きかった。もっとも、こちらはそれどころじゃなかったが。
「それで、どうする?」
桜羽さんの声が、一気に小さくなる。内緒の話をするような囁き声が、俺の耳をくすぐる。
「どうせなら、果樹園も一緒に回りたいな」
少女の吐息が耳の中に入り込む。暖かな空気が脳の奥まで染み込んでいくような錯覚がある。
「どんな順番で回る?」
「ああ、うん、順番、順番な、えっと……」
背中に当たる柔らかさと桜羽さんの体温。耳にかかる空気とその温もり。何か返事しなければと思うのにそう言ったものばかりが思考を占領して――
「あっ!」
桜羽さんが声を上げて、俺の背中からぱっと離れた。二人の間に朝の空気が流れ込んできて、俺の頭を一気に冷やす。
(なにやってんだ、俺は……!?)
霞がかかっていたような思考が一気にクリアになる。 後ろを振り向くと、桜羽さんはいつもの無垢な笑顔で、ニコニコとこちらを見つめていた。
「そんなにすぐ決められないよね、急かすようなこと言っちゃってごめんね?」
「そう、だね。うん時間がかかるかな」
「じゃあボクは旅館の掃除でもしてるね?ルートが決まったら声をかけてほしいな」
「ああ、任せて。できるだけ早く決めておくから」
くるりと回って、軽やかに掃除に向かう桜羽さん。俺はその姿を見送った後、先ほどの感触を忘れようと目の前の地図に集中した。
エマちゃんのリンゴがリンゴなのかについては、各々の解釈により諸説あるとは思いますが、俺はきっとリンゴであると固く信じています。