セリスの手首を掴んだまま、メムノンが走り出す。
最初は大股に歩き始め、やがて小走り、そしていつしか先程とは打って変わった速さとなった。
「ちょっ、ちょっとどこへ行くの?!」
手首をがっちりと固定されたまま
メムノンに引っ張られる形のセリスの声に、
メムノンはセリスの方を振り向くことなく
無言のまま走っていく。
セリスもそれ以上問いかけることなく、
ただ黙ってメムノンに引っ張られるまま、その後に従った。
メムノンとセリスの2つの影が砂浜の上を駆け抜けていく。
砂を踏みつけた際の独特の足跡、
打ち寄せる波の音。
いつしか辺りにはゆっくりと夜の帳が下り始め、
薄暗くなっていく空に夜の帷が降りつつある。
気づけば街の中心部からは相当離れてしまったことを、
セリスは振り向き様に悟った。
セリスの視界には漁師たちが使うボートや、
猟の道具類、そして待機場所になるであろう幾つかの
小屋の輪郭が映る。
恐らくここがニケアの漁師達が船を停泊させたり
漁の準備をする一角であろうかと思いながらも、
セリスはメムノンがいつ、どこで自分を離してくれるのか、
どこに向かおうとしているのかというのをまだ分からずにいた。
幸いなことに彼らが走る周囲に2人のほかに人影はなく、沖合にも猟をしている漁師の船の姿もない。
これでもフィガロ王国王妃という公式の立場があるセリスとしては、今の自分の置かれた状況をメムノン以外の人間に晒されることに様々な意味での抵抗感を感じており、その点は逆にホッとしてはいた。
ただ突然のメムノンの行動に対して、
セリス自身何故このような形で彼が走り始めたのか真意を掴みかねていた。
「貴方っっ・・・・私をこれ以上どこに」
流石に息が上がってきたセリスが声を上げて
再々度問いかけた瞬間、
彼女の身体はあっという間に足元の砂に背中を押しつけられる形で押し倒されていた。
ほんの一瞬の所作により両肩を掴まれ仰向けのまま
メムノンと向かい合う体勢になったが、
押し倒されたときに足元が砂であったことから砂の柔らかさしか感じなかった。
セリスの視界にはこちらを見下ろしてくる。やや頬を上気させ息も少し荒くなったメムノンの顔と真っすぐな視線があった。
そこは漁師が使用する支度小屋や大小漁船が点在する
砂浜の一角。
そうした建物や船体のお陰で2人の姿は周囲から死角に
なっている。
「・・・・・誤解しないでくれ」
数秒の沈黙の後、呻くような声色でメムノンが言葉を絞り出す。
「本当は、こんなことをするつもりはなかったんだ・・・・・・だが、エドガーが、呼ばれてもいないのに、忘れかけていたのに、バルシネの前に現れ、2人で同じ場所にいると、そういうことを、考えただけでも、昔、俺が味わった、悔しさが蘇ってきて・・・・・」
泣いているのか笑っているのか顔を歪ませながら
一言一言ゆっくりと区切るように吐き出すメムノンの独白。
そんな彼の顔を真正面から受け止めつつ、セリスは無言の内に
聞いている。
本来お忍びとはいえ王妃に対する乱暴は公的に
罪に問われるだろうし、セリスの能力と技そして腰に結わえている護身用のレイピアを駆使すれば、
現在のメムノンの腕力程度は難なく突破できる。
だが今のセリスの脳裏にそのような選択肢が浮かんでくることはなかった。
「それで、あの店を離れて、いたのに・・・あんたがいきなり現れたから・・・・・」
そう言ってメムノンは言葉を切る。
「・・・・・ただあんたが現れたことで、その・・・・・たまらなくなって。
・・・・・バルシネを奪った上に、こんな美人の、王妃までいるというのに・・・・・そう考えると、気持ちが抑えられなくなって、それでこうして」
彼の言葉と表情の変化、そして絞るような言葉の節々に彼の溢れ出てくる熱情を感じつつ、
セリスは彼が今どのような気持ちでいるか、そして何を望んでいるかを悟った。
それはメムノンの立場に立てば、誰でも感じ得られるであろう”嫉妬“という感情の起伏であり、
セリスにとっても自分とメムノンは互いの連れ合い同士が知らぬ間に繋がりを持っているということで、同じ境遇に置かれた者同士であるという現実にも行き着いた。
そんなセリスにとって、
眼前のメムノンの行動に対して抗おうとか咎めようとかの気持ちには最後までならなかった。