「そういえば、マスターって大学生時代にバンド組んでいたらしいじゃないですか。よろしければですが、当時の歌とか聞いてみたいで「んぶっ!?」…って、どうしましたマスター!?」
「げほっ、ごほっ…。い、いえ、ちょっと気管に入っただけですから、心配しないでください…ごほっ」
「そ、そうですか…」
昼食が終わってリビングで寛ぎながらPCに向かって作業をしていたゆかりにモカがそんな質問を尋ねると、ゆかりは驚いたように口から飲んでいたコーヒーを吹き出すのを堪えて代わりに盛大にむせ返った。それに今度はモカが驚いてゆかりを労るように言葉を投げかければ、ゆかりはモカを安心させようと変わらずむせながらも言葉を返す。
「…それで。バンドのこと、いつ誰に聞いたんですか?私、モカちゃんには大学生時代のこと話した覚えなんてなかったんですけど…」
「えっと、六花ちゃんから。正確には、六花ちゃんがマキさんから聞いたのを教えてもらった、って感じです。六花ちゃんとマキさんが音合わせしてる時に『大学生の頃からやってたからそれなりに出来るけど、ゆかりのバンドの方が人気あったから』って言ってたって。しかも、マスターもボーカルやってたらしいじゃないですか。今でもそんなに聞く機会ないですけれど、昔のマスターの歌声とか聞いてみたいです」
そう、申し訳なさと期待を同居させた視線をモカから向けられたゆかりだったが、当人は気まずそうに視線を逸らして苦笑しながら口を開いた。
「あー…。すみません、モカちゃん。あの頃からもう十年…は経ってないですけど、かなり時間も経って、PCとかも全然新しいのにしちゃってますからもうデータとか残ってないんですよね…。それに、あの頃は今と比べても全然粗削りで恥ずかしい出来だってのもあるからあんまり聞いてほしくないかなぁって思ったり…。と、いうわけです。ごめんなさいねモカちゃん」
「あ、い、いえ…。マスターが聞いてほしくないのなら、私が聞き出そうとするのもおかしいと思いますので…。こちらこそ、無理にお願いしてすみません…」
「そんな畏まらなくてもいいですよ。それより、モカちゃん。今度の曲についてなんですが、今度は梅雨をイメージした少し季節先取りのしっとりした感じのにしようと思うのですが…」
「そうですか。ちょっと聞いてみてもいいですか?」
「ふふ、勿論。はい、こっちのイヤホンお貸ししますね」
「それじゃ、失礼します…。あ、今回のもいい感じですね。切ない感じで…」
そう、ゆかりにとって過去の話はそこで終わる筈だった。しかし、モカの心の中にはどうしてもゆかりの過去の歌声や歌を聞いてみたいという思いが残留したままで、その思いは日に日に強まることになった。
***
「その前に、なんですが…。私が今通ってる会社について、話したことありましたっけ?」
「あ、は、はい…。マスターのお父様の会社で、とても大きなとこなんですよね?」
「はい、そうです。…それで、私の父なんですが、後継ぎとか関係なしに子供全員を会社の中に引き込みたかったみたいで、私達子供を結構強引に入社までこぎつけようとしたんですね」
「そ、そうだったんですか…」
「で、高校大学時代の私はそれに真っ向から反抗したんですね。“私の未来は私が決める”って言って、音楽の道に進もうとして父親と喧嘩になったんです。でも、大学の入学費とか手札に握られてて私は碌な抵抗も出来ずに、それでも何とか父を説得しようとして。それで、父に『大学時代に芽が出なかったら入社してもらう』っていうのを条件に学費を出してもらって、それからは私はどうにかがむしゃらに頑張ってました」
「…それで、あんなに細くて倒れそうになってなんですか?」
「…まぁ、そうですね。バイトに音楽活動にってかなり無理してた時代でしたから…。それで、私の書く歌詞とか声を気に入ってくれる同学年の人達と“Moon Rabbit”を結成して頑張ってました。いつかは、メジャーデビューとかしてやるんだって…」
そうぽつぽつと言葉を続けるゆかりの腕に次第に力が籠る。腕を回されていたモカの背に力が加えられ、抱き寄せられる形になった。
「でも、やっぱりそううまくはいかないもので…。積極的に対バンとか参加したり、自分達だけでもライブ開いたりしたんですけれど、あんまり伸びなくて…。結局は、解散の少し前にインディーズで一枚二枚出しただけで終わっちゃいました。そして、父はそれを認めてはくれませんでした」
「…そうだったんですか。あの、世界に絶望したような暗い歌もその心境で…?」
「ふふ、はい…。もう、私の想いを込めようとすればするほど暗い歌になっちゃって…。でも、当時の私は『これが今の私の歌だ』なんて意地張っちゃって…。それで、父を説得しようとして他のバンドメンバーにも手伝ってもらおうとしたりもしたんです。まだまだこれからだって伝えたくて…。…でも、」
「…でも?」
「他の子は、もうその時には潮時というか、終わってもいいかって考えてたみたいで…。就活あるからバンドはもう来れないとか、言われて…。それで、自然消滅みたいに、なって…。私も、それで心折れちゃって…!あんなに、皆で一緒に音楽、頑張ろうって言ってたのに…!すぐに投げ出されちゃって…!」
「…っ!…マスター、大変、だったんですね…。辛かったんですね…。…今は、泣いていいですから…。私が、側にいますから…」
それから、思い出してしまった辛い過去に涙を流すゆかりの背をぽんぽんと叩きながら、モカは自分に覆い被さるように預けられた重さを少しの間支えてやった。
***
「ぐず…っ。ご、ごめんなさい…。私、あの頃の話だけは苦手で…」
「いいんですよ、マスター。…そもそも、きっかけを考えたら私から聞きだしたようなものですし」
「…それで、私は音楽の道を諦めて、黙って会社勤めの日々に飛び込んだわけです。暫くは、音楽のことも忘れようとしてもう仕事一筋で生きてきました。…でも、それから二年か三年かくらい経って、動画サイトでたまたま音楽を聴いたんです。SynthesizerVというソフトのとある子の歌でした。最初はもう、びっくりしました。まるで人間そのもので…。今の音楽ソフトはこんな風に歌ってくれるんだなって。…それで、音楽への欲求がもう一度芽生えてきて…。見様見真似でDTMを触って、それで少し覚悟を決めて購入したんです…。それが、貴方だったんですよ?モカちゃん」
「…そう、だったんですね」
「ふふ…。だから、モカちゃんのお陰なんですよ?私が音楽に戻れたのは。私がもう一度歌詞を書けるようになったのは。…あの頃より、ずっと前向きに音楽と触れあえるようになったのは。…ありがとうね、モカちゃん」
「わ、私は何も…!たまたま、私を使ってたすごいシンセPさんの歌聞いたってだけで、私自身は何もしてないじゃないですか…!?」
「それ、でもです。きっかけをくれたのは、モカちゃんの歌声なのは変わりないんですから。同型ってだけかもしれませんが、モカちゃんは自分の歌にもっと自信持ってください」
「は、はい…。分かりました…」
そう言って幾らか落ち着いたゆかりはモカからその手を離した。解放されたモカは僅かに名残惜しそうな表情を浮かべて、すぐに恥ずかしくなって顔を背けた。
「よし、それじゃあご飯にしましょうか。泣き付かれて、お腹空いちゃいました」
「あ、はい…。…あ、あの、マスター?」
顔を背けた代わりに、部屋を後にしようとするゆかりの袖をモカはきゅっと掴んだ。
「ん?なんですか?」
「そ、その…。蒸し返すようで、本当に恐縮なんですけれど…。マスターって、あの頃の歌のデータとか…、本当は残してますよね…?」
「…どうして、そう思うんです?」
「その…、マスターって色々ありますけれど、大切なことについてはどこまでもまめな性格ですから…。今の話を聞いて思ったんですけれど…、マスターはあの頃の記憶を辛いものとは思っていても、捨てちゃいたいとは思っていなくてむしろ大切に思っているように感じたので、多分残しているんだろうなって…」
「…本当に、モカちゃんは私のことをよく見てますね。…えぇ、残してます。聞かれたくなくて、思い出したくなくて誤魔化していましたけれど…」
「やっぱり…。…それで、もしよければ、マスターが辛くなければ、なんですけれど…。私に歌わせてはくれませんか?」
そこまで言われて、ゆかりはぐっと表情を強張らせた。思わず睨んでしまいそうになるのを堪えてモカの方に視線を送る。しかし、モカの真剣な眼差しに逆にゆかりの方が怯んでしまいそうになった。
「我ながら、とんでもないことを言ってるなぁとは思います。…でも、マスターが作った大切なら、私は何でも歌ってみたいんです。それで、マスターがあの頃の辛さを少しでも乗り越えられればもっと嬉しいとも思っています。どうか、私に…。貴方が、信じてくれた私の声に、貴方の大切を任せてみてはくれませんか?」
普段のおどおどした様子など微塵もない、歌っている時のような凛とした力強い声と視線に、思わずゆかりは息を呑んだ。あぁ、どうしてこの子はこんなにも私に尽くしてくれるのだろう。私の辛さを押し流してくれるのだろう。もう一度流れそうになる涙を堪えてゆかりは、
「…そこまで言ってくれるなら、お願いしてもいいですか?」
自身に仕える歌姫の申し出を、丁重に受け入れた。
***
「…で。モカちゃんに歌ってもらって嬉しくなって投稿したら、想像以上に反響が来て恥ずかしくて困ってるって?」
「…はい。なんか、当時の曲の方が評価されてる気がして、どうなんだろうなぁって思っちゃって…」
「いいじゃないですか、マスター!あの頃の大切を分かってくれる人がこんなにいるってことなんですから!」
「なんで今日のモカちゃんはそんなに元気なんですか…?」
ゆかりがモカの申し出を受け入れてそれから数日のうちに再び曲を構築して歌ってもらって。現在とはまるで違う、あの頃の自分の辛さや苦しさを代弁してくれるようなモカの歌に、涙腺が緩みそうになるのをどうにか堪えて思いのままに動画をアップロードした。『昔の曲を少し恥ずかしいですがモカちゃんに歌ってもらいました』と。するとどうだろう、まるで今までと違う曲調や歌詞の傾向であるにも関わらず『今までと全然違うけれどいい』『これは伸びる』などの暖かい声を貰って、久しぶりのランキング入りを果たした。あの頃の曲が今になって評価されているような気がして、嬉しさと気恥ずかしさが同時に来てゆかりは少々気持ちの整理が出来ずに困ってしまっていた。
「まぁ、いいんじゃねえの?どっちみち、あの頃上手くいかなかっただけでお前を評価してくれる人がそんだけいるってのは素直に誇るべきだろ?そうじゃなきゃ、評価してくれる人らも浮かばれないってもんだ」
「それは…、そうなんですが…」
「あ、マスター!見てください!」
喫茶店のカウンターで項垂れるゆかりとそれを窘めるマキの会話に、スマートフォンで件の動画を見ていたモカが横入る。
「な、なんですかモカちゃん。とりあえず、落ち着いて…」
「は、はい。それより!このコメント見てください!ほら、これとこれ!」
「どれどれ?私にも見せてよ」
そうして全画面表示にされた画面の中で、二つのコメントが停止された画面に表示される。
『これってムンラビの曲だよな?てことは、これUさんか。懐かしすぎ』
『ムンラビ大好きだったわ、今でもたまにCD引っ張り出して聞いてる』
「…ほら、マスター?ちゃんと、あの頃を大切にしてくれてる人はいるんですよ?だから、自信持って…、ってマスター…!?」
「おいおい、感極まったか?こんなとこで泣くなよ…。ほら、タオル」
「す…、すみません…。なんか、急にどっと来て…」
流れたコメントを見て、途端にゆかりは涙を流した。あぁ、確かにあの頃は上手くいかなくて、心も折れた。だけれど、大切なものは確かに残っていたんだと、漸く理解できた気がした。
「ぐ、うぅ…。ま、マキさん…。モカちゃん…」
「は、はい?」
「どした?」
「わたし…っ、音楽やめなくて…、やり直して、やり直せて…。本当に、よかったです…!」
「…はい。はい…!」
「…あぁ。よかったな、ゆかり」
迷いに迷って一度は手放した兎の歌を、大切に思って信じていた人がいた。それが、今のゆかりの全てで。そんな涙を流す彼女を、彼女の歌姫と親友がただ静かに祝福していた。