深夜のカルデアは静かだった。
食堂の照明はほとんど落とされている。だが厨房の一角だけは、まだ橙色の灯りが残っていた。
換気扇の低い音、鍋の中で小さく揺れるスープ、包丁がまな板と奏でる一定のリズム──その全部が、妙に落ち着く。
「眠れないのか」
振り返りもせず、エミヤが言った。白いシャツの袖をまくり、明日の仕込みをしている。いつもの頼りある背中だ。
立香は入口で少し迷ってから、小さく笑った。
「……まあ、ちょっと」
「座っていたまえ………今、何か作る」
ぶっきらぼうな言い方なのに、不思議と拒絶感はない。
立香はカウンター席へ腰を下ろした。深夜の厨房は、昼間とは別の場所みたいだった。
騒がしさも、人の気配もない。ただ火の音だけが、静かに空間を温めている。
エミヤはそれ以上何も聞かなかった。代わりに、温め直したスープを一杯、立香の前へ置く。
「飲め。少しは落ち着く」
湯気が立ち上る。優しい匂いだった。
立香はスプーンを手に取る。けれど一口飲んでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
「……エミヤってさ」
「ん?」
「『初めて』のことって、あとから変に重くなること………ある?」
包丁の音が止まった。ほんの一瞬だけ、厨房が静まり返る。エミヤはすぐには振り返らなかった。
「……何があった」
問い詰める声ではない。ただ、確認するような静かな声音。
その優しさが逆に辛くて、立香は視線を落とした。
──脳裏に浮かぶ
──青い髪
──愉快そうに細められた瞳
──耳元へ落とされた甘い囁き
──触れられるたびに、逃げ道を奪われていく感覚
──メルトリリス
彼女の姿を思い出しただけで、熱がぶり返す。
「嫌だったわけじゃないんだ」
掠れた声で言う。
「……ああ」
「むしろ、ちゃんと好きだったと思う。でも……」
言葉が詰まる。
何が引っかかっているのか、自分でも上手くわからない。
嬉しかった、幸せだった。
あんな風に誰かに求められたのは初めてだった………
──なのに、思い返すたび胸の奥が妙に苦しくなる。
エミヤは続きを急かさなかった。
鍋の火を止め、ゆっくりとこちらを見る。
「嬉しかったのに、後悔してる気がするのか」
核心を突かれて、立香は黙り込む。そんな立香にエミヤは小さく息を吐いた。
「別に間違いだったとは言わん」
「……」
「だが、“初めて”というのは、後から妙に意味を持つものだ」
静かな声だった。
経験者の言葉──と立香は思った。
「特に、君みたいに真面目な者はな」
立香は苦笑する。
「笑えないって……」
「だろうな」
エミヤは肩をすくめた。
「だが、相手を嫌っていないなら、それは後悔とは少し違う」
「違う?」
「君は、多分──」
──その時だった
「そんなに、お辛かったのですか?」
鈴を転がすような声が、厨房入口から響いた。
立香の肩が跳ねる。
そこに立っていたのは、清姫だった。
淡い寝間着姿、淡い青緑の髪は湯上がりなのか、少しだけ湿っている。
柔らかく微笑んでいるのに、その瞳だけが妙に熱かった。
「き、清姫……?」
「はい、旦那様」
ことり、と厨房へ踏み込んでくる。
静かな足音なのに、なぜか逃げ場が狭まっていく気がした。
「お湯をいただき眠れずに探しておりましたら……そんなお話をしていらしたのですねぇ」
優しい声──責める響きはない。
それなのに、立香の喉が妙に渇く。
エミヤは、ほんのわずかに眉を寄せた。
視線が立香と清姫の間を行き来する。空気が変わったことを理解した顔だった。
「……私は片付けをしている」
「え?」
「見なかったことにしてやる、という意味だ」
あまりにも鮮やかな撤退だった。
立香が助けを求めるように視線を向けても、エミヤはもう鍋を洗い始めている。
完全に巻き込まれたくない姿勢だった。
こと、と小さな音。
清姫が、向かいではなく隣へ腰を下ろした音だった。
──近い
湯上がりの熱と、甘い香の匂いがふわりと届く。
「旦那様」
──優しい声
けれど立香は、なぜか本能的な危機感を覚えた。
「……聞いてたの?」
「少しだけ」
清姫はにこりと笑う。
「ですが安心いたしました」
「安心?」
「無理やりではなかったのでしょう?」
──真っ直ぐな問い
立香は言葉を失う。否定できなかった。
すると清姫は、ほっとしたように胸へ手を当てる。
「でしたら良かった」
本当に安心している顔だった。だからこそ、次の言葉が怖い。
「ですが……」
細い指先が、立香の袖をそっと摘む。
「そんな顔で、その方との時間を語らないでくださいませ」
心臓が跳ねた。
清姫は怒鳴らない。
責め立てもしない。
──ただ静かに、逃げ道を塞いでくる。
「嬉しかったのでしょう?」
「……それは」
「気持ち良かったのでしょう?」
問いが重なるたび、距離が縮まる。
立香は反射的に視線を逸らした。
──すると清姫は、小さく笑った。
「嫉妬しております」
──さらりと言う。
まるで“今日は少し寒いですね”とでも言うように。
「わたくし、ずっと旦那様を見ておりましたから」
「清姫……」
「ですから、わかるのです」
今度は袖ではなく、手首へ触れられる。
──熱い
──体温ではない
触れられた場所だけが、妙に熱を持つ。
「旦那様は、“初めてを失った”ことではなく……」
清姫はそっと顔を寄せる。耳元へ落ちる吐息が甘い。
「その後も、心を奪われていることに困っているのでしょう?」
──図星だった
立香が息を呑むと、清姫は満足そうに目を細める。
「でしたら」
絡め取るように、指が重なる。
「今夜は、わたくしが上書きして差し上げます」
『逃げられない』
──そう思ったのに
──不思議と、嫌ではなかった
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