(あの音……!)
クリスマス。平日であるのも重なって遥かに混雑している夕方、駅の構内を移動してると聴こえてきた懐かしい音の運び方に引き寄せられた彼女は人だかりに駆け寄り、壁になってる聴衆のあいだを「すみません。通してください」と言って縫うように進み、最前列の後ろから顔を覗かせた。
演奏は終了。真っ白なピアノの前に座って聴衆から拍手を受ける青年の姿を見て、目を大きく見開いた。
髪型はツーブロックだったのがベリーショートに変わったが、二十歳になってもトレードマークの赤髪はそのまま。演奏は最後の辺りしか聴けなかったが、忘れることはない、彼の音だった。
音楽科に通っていた男友達、
「忍くん?」
「!」
椅子から立ち上がって聴衆に頭を下げていた赤髪の彼は、前に出てきたチサカの顔を見て、目を丸くした。
ぽかんと薄開きになった口から発せられた言葉は。
「誰?あんた」
「!!」
チサカは固まり、恥ずかしさから赤面した。壁を作るみたいに胸の高さまで両手を上げる。
「すみませんっ。友達にそっくりだったから、つい。ナンパじゃないですよっ?」
慌てて正直に話す彼女に、彼は意地悪く、ふっと笑った。
「なぁんてな。冗談だよ」
「!」
偶然の再会を、彼もまた心から喜んでいた。
「ただいま、チサカ」
「…………」
彼女は手を下ろし、満面の笑みを浮かべた。
「おかえり。忍くん」
まだ残っていた聴衆の一部が「良かったな!」「運命の再会おめでとう!」「メリークリスマス!」などなど、祝福の言葉をかけたり拍手して盛り上げる。
忍とチサカは顔を見合わせ、照れ臭そうに笑んだ。
*
二人はビルのなかに入ってる喫茶店へ行き、お茶をすることにした。一人一泊二万円はするホテルのような上品さ漂う廊下に、窓の外に広がる景色がそこそこ良い、オフィスとしても使えそうなシンプルな内装の個室。利用できる時間は四十分までという縛りはあるが、大声でも出さない限り、声は漏れない。
二人を部屋に案内した女性店員はトレーに乗せてある物を、窓際のカウンターテーブルの上に置いていく。
水が入った透明のグラス、温かいおしぼり、二人が最初にロビーで注文した冷菓……。
「室内の電気は、ご自由に調節してください。
新たに商品をご注文くださる場合や何かご不明な点などございましたら、スマホのアプリからお願いします」
説明を受けた忍は口元に小さな笑みを浮かべ、「わかりました」と返事。
店員は軽く、だが丁寧に一礼し、「では、ごゆっくりどうぞ」と言って退室した。
「それじゃ、晩飯前の前菜といくか」
「うん」
二人は椅子に座り、スプーンを持つ。
チサカは苺サンデー。爽やかで何処か異国感のあるターコイズブルーが目を惹く、陶器のデザートカップに盛られている。
忍はチョコレートパフェ。遊び心のあるお洒落な盛り付けと逆三角形のカクテルグラスが大人の雰囲気を醸し出しているのだが、チサカの目には年齢とミスマッチしてるように映らない。彼の実家について知ってるからだ。
「やっぱ、クリスマス限定品は無かったな」
「今日ばかりは仕方ないよ」
二人ともクリスマス限定のデザートを注文したかったが、既に完売していた。
忍はパフェに刺さってるストローのような棒状の焼き菓子を抜き、チサカの顔を指差すように先端を向け、悪戯っ子みたいな笑みを浮かべる。
「おまえ、ほんと苺大好きだよな」
「私の部屋を見たら、引いちゃうかもね」
「変わらなくて、逸そ嬉しいかも」
忍は落ちない程度の量の生クリームを掬い上げるように、手に持ってる菓子の先端に付けた。
「口、開けてみ?」
彼女の表情に、恥ずかしさと戸惑いが混じる。
忍は、淡いピンク色のリップを塗った唇が開くと菓子を咥えさせ、かりっという噛んだときの音が立つと、差し出していた手を自分のほうへ戻した。
チサカは左手で口を覆い、かりかりと噛み砕く。
「美味しい」
「飲み物なら間接キスだったけど、食い物ならそうもならねぇな」
「今頃?」
高校生のとき、忍が留学する前の年に一度だけ唇を重ねたことがある。寒いクリスマスの夜、親しい友だちが集まった部屋のなか、皆が眠ってるあいだに。誰かが起きるかもしれない場所で。
当時、チサカにはほかに好きな人が居た。忍がどんなに足掻いても到底敵わない、何があっても駆け付けてくれる頼り甲斐のある歳上の男。包容力、経済的支援、諸々に差がありすぎた。
忍は失恋を受け入れて前に進むためにチサカを説得。飛行機が墜落したり戦争が起きて帰国できなかったら悔いが残るという冗談にならない憶測を並べて、唇を重ねることを許可して貰った。
「昔話だろ?」
チサカは、彼の中身が変わっていない気がしたのは最初だけで、それも勘違いだったように思えた。
「忍くん、変わったね」
「良い思い出になっただけさ」
何もかも諦めて終わらせた口振り。
「忍くんの思い出って……、家族のことも含めて、全部過去になったの?」
「!」
彼はパフェスプーンを持つ手をぴくっと反応させて制止する。それまで余裕を感じさせていた表情は無くなり、真面目な顔をして唇を真一文字にした。
「お店に行ったらピアノ無くなってて、おば様にどうしたんですか?って尋ねたの。そしたら、飾りにするよりはスペース作ったほうがいいんじゃないかって、忍くんのお兄さんが……」
忍は気怠げに行儀悪く、利き手である右手で頬杖をつき、高校生ときにはしなかった成人らしい小さな笑みを浮かべて、チサカの顔を見た。
「だと思ったぜ」
「気付いてたの?」
「察しているから、個室のある店に行こうって誘ったんだろ?」
「うん」
「有難うな。気を遣わせて」
「事情、聞いてもいい?」
「辛気臭い話になるぜ?」
「いいよ」
「……。取り敢えず、パフェ完食してからでいいか?」
「うん」