「実家に帰れないなら、何処に泊まってるの?」
「タケルと同じアパート。俺が帰国する前に、朝倉先生に準備して貰った」
「行動が早いね」
「仕事は取り敢えず先生のお店で働かせて貰ったり、追々、楽団の試験を受けてみようかなーとは思ってる」
同じ高校に通っていた同性の友人と、中学生の頃に才能を見出して推薦書を書いてくれたピアノの先生。二人とは、ずっと連絡を取り合っている。
忍は椅子を押して元の位置に戻し、出入り口のドアへ向かって歩き出した。
チサカは二歩分あけて後ろを付いていく。
「今夜は空いてるの?」
「明日の夕方までなら」
「……。忍くん、お茶に誘ったの私からで今頃だけど」
ドアの前で立ち止まってノブを握りかけた忍の上着をチサカは右手で摘み、後ろからくいっと引っ張って此方に注意を向けさせる。
「恋人は居るの?」
「居そうに見える?」
「うん」
彼は苦笑いを浮かべた。上着を摘んでいる手が離れてから、彼女のほうへと前身を向ける。
「おまえ、男たらしになったんかよ」
「私、そういうのお世辞で言わない」
「有難うな」
忍は社交辞令と思い、右から左へ聞き流すことにした。次いで、左手首に付けてる腕時計を見て、まだ時間が余っているのを確認。揶揄い込めた意地悪い笑みを浮かべて尋ねる。
「そっちこそ、彼氏が居るなり結婚なりしたのか?」
人によっては、モラハラやセクハラだと受け止めかねない質問だと、彼はわかっている。
「居たら、個室でお茶しようなんて誘わない」
「下心あるって?」
「…………。…………うちも防音」
「……」
高校生のとき、言葉がツンツンしがちだった彼女の口から出た大人の誘惑。俄かに信じられない忍は溜め息を吐き、呆れた風な笑みを浮かべて躱そうとする。
「異性にあんまり下品なこと言いたくないけど、男に困ってんのか?」
「愛想に欠けるって言われた」
「そいつ、高校時代の俺みたいに、おまえの笑った顔を引き出すのが下手なんだろ」
「…………」
チサカの頬が、微かに赤らむ。
「…………忍くんの、好きにしていいよ?」
「いやいやいや、ヤケクソに聴こえる」
「これから、嘘か証明してもいい」
「〜〜〜〜ッ…………」。忍はどうしたものかと頭を悩ませ、無い前髪を右手でかき上げようとしてやめた。
「実家絡みの件で慰めてくれるにしても、変な気の遣い方すんなよ」
「じゃあ、私が女として自信持てるように慰めてって言ったらいいの?」
「……」
何がそこまで彼女をそうさせるのか。酔っ払っているわけではない。
忍にしてみれば、片想いの成就ではあるが、こうも都合良く夢みたいなことが起きると疑いたくなる。ひょっとして、義兄が差し向けたのではないかと。
(参ったな)
すんなり信じていいのか困る。ボクサーパンツに包まれている男の象徴が膨らみを増さないのも、疑いから来ている。
(もし、此奴が俺を騙してるとしても、別に損するわけじゃねぇけど)
まぁいいかと、忍はチサカと退室後、ビル内に入ってるコンビニに寄って買い物を済ませてからエレベーターを使って一緒に一階まで降りていき、タクシーに乗った。
後部座席の右側に座ってるチサカが運転手に目的地を伝えてから、運転の邪魔にならないよう、小声で尋ねる。
「晩飯、何か食いたい物ある?」
「急に言われても」
「冷蔵庫に材料あれば、何か作るけど?」
「お客様にそんなことさせるわけには……。?」
忍はスマホを取り出してメモを開き、文章を打ってチサカに見せる。
【えっちしたあと、作る体力残ってると思ってるのか?】
羞恥心を刺激された彼女は、手のひらが汗を掻くのを感じた。スマホをポケットに引っ込めた彼は挑発じみた意地悪い笑みを浮かべる。
「えぇっと…………。外食にする?」
「俺の調理の腕、信じてないだろ」
チサカは、ふふっと笑った。
窓の外の流れる景色を見ながら緊張をほぐすための話題を考え、思いついたところで忍のほうに顔を向ける。
「このあいだね、タケルくんの公演に行ってきた」
「福祉施設のイベントにも出てるんだってな。
「観客としてこっそり行ったから、直接、顔は見てないの」
「近々ほかの奴も誘って食事するか」
「うん。杏里には、私から声かけておく」
「忙しそうなら、そのときはそのときってことで」
「だね」
*.°
「スリッパ、此処に置くね」
借りてる部屋に彼を招き入れたチサカはシューズボックスを開けると、男女が兼用で使える無難なスリッパを取り出して玄関マットの上に置いた。
(ユニか)
一方、部屋主である当人のスリッパは苺柄。
「どうかした?」
「色柄や派手さは抑えてるけど、乙女趣味なの変わってないな」
「これでもかなり卒業したほうなの」
「襟とポケットに苺の刺繍が入った、薄ピンク色のカーディガンとか?」
「小学生時代は遡りすぎ」
彼女は後ろを振り返り、ドアに近付いて鍵をかけた。その際、自然に体同士が触れたのを機に彼と視線を交わし、顔を寄せ合って唇を重ね、瞼を閉じる。
シューズボックスの上に置いてある、アロマの液体が入った瓶に挿さってるスティックから漂う鼻に優しい香りのなかで、夢現のような甘い気分に浸りながら回顧するのは、高校一年生のとき、クリスマスの夜に一度だけ触れたあのやわらかさ。年月の作用からか、今夜も気持ちいいと、二人は感じている。
唇の感触を確認する触れ合うだけの軽い口付けを自分から終えた彼は、興味本位で尋ねた。
「俺以外とキスしたことある?」
「うん。忍くんのほうが慣れてる感じあるね」
「まぁ、カノジョ居たから」
一人目はフランスの音大に通う、同い年のピアニスト。彼女のほうから猛アタックしてきた。顔はチサカにそっくりだが性格は明るめで、音楽のことになると競争心は強め。胸と尻は向こうのほうが大きかったなどとは、口が裂けても言えない。
二人目は、近所のパン屋で働いてる三歳上の店員。菓子パンの甘い香りがするブラッドオレンジの髪色に、リゾートの海を連想させるターコイズブルーの瞳。クラシックとは無縁の温かい日常を与えてくれた。
責任転嫁するのは駄目だとわかってはいるが、彼女たちにフラれる原因を作ったのは、忍の記憶のなかに棲んでいる過去のチサカだ。
「長続きしなかったんだ?」
(誰のせいだよ)
忍はフランスに滞在中、作曲に励む時間を、度々設けていた。
シングルサイズのベッドを軋ませたあとは罫線を引いてあるだけの紙に音符を書き込み、実際に演奏して曲を美しく調えていく。最初に聴かせるのは熱を交わした相手だが、一番聴いてほしい人物はいつも一人だった。
忍は上着越しに、大きくもなければ小さくもない胸の膨らみに優しく触れ、表情を蕩けさせる。
「チサカは?」
「ん……。体に触られるのがどうしても嫌で、相手の人、突き飛ばした」
過去に彼氏が居たことについて、忍は気にしなかった。
「今夜も、おまえがもう無理、つまんないって感じたときは、やめたいってブレーキ踏めよ?」
付き合った彼女たちからは、体の相性が悪かったとは言われなかった。だが、チサカと合うかは別だと思い、前以て自分を下げておく。
「返事」
忍はチサカの両胸の先端を探り当て、上着の布ごと摘んで弱めに引っ張った。
「ッ……。うん」
「良い子」
「んッ」
胸の先端から指が離れた瞬間、チサカはぴくっと体を反応させた。
「処女喪失、何処でしたい?」
「……このまま、廊下でもいいよ?」
「俺は反対」
「ぇっ」
拒否られると思っていなかったチサカは、彼の顔を見上げた。
「フローリングは、かたくて痛いんだぞ?」
「そうなの?」
「そう。ベッドが無難」
チサカは、自分が如何に性の交わりについて知識が少ないかを理解した。
初心者らしい反応に忍は調子を崩されそうになったが、面倒臭いという意味ではない。可愛いと思った。
忍はチサカの両肩に手を置いて、体を優しく離す。
「第一、此処じゃ寒いだろ」
「暖房つける。上がって」
「失礼しまーす」
川嶋家の内情を知られていなければ。
偶然の再会などしなければ。
もっと単純に喜べたのに。
もっと大事にできたのにーー。
忍の心はまだ何処か、冷静だった。